子どものころ、親に連れられ観劇のためによく東京各地の劇場をめぐったけれど、もっとも多かったのは歌舞伎座と国立劇場だったろうか。もちろん芝居を観るためだが、ときに国立劇場の小劇場では文楽Click!も観た憶えがある。4代目・吉田文五郎をかろうじて目にしたか、しなかったかのギリギリの時期だ。(もちろん幼児なのでまったく記憶はない) 幼稚園のころから見せられた浄瑠璃で、わたしはすっかりガブ頭Click!にはまってしまったのだ。次いで多かった劇場が、ときどき新派や新国劇、ときに歌舞伎を上演していた、日本橋浜町の明治座Click!や銀座の新橋演舞場だった。
中でも明治座は、東日本橋(日本橋両国)にあった戦前の実家から、南へわずか600mほどのところにある大劇場だったので、親父も子どものころから通いつづけてきた馴染みの舞台だったろう。わたしも、ときどき新派の演目がかかると連れていってもらったけれど、たいがいはつまらない「オトナの事情」を描く舞台に飽きあきして、ひたすら昼寝Click!やまどろみの時間をすごしていた。そりゃそうだろう、新派の舞台を面白く感じる子どもがいたら、そのほうが不思議だ。明治座のある地元、浜町河岸を舞台にした『明治一代女』Click!を、目を輝かせてウキウキしながら観ている子どもがいたとしたら、そのほうがよほど不気味で気持ちが悪い。
わたしが子どものころに見た明治座は、どこかデパートのような雰囲気のある建物だった。あまり装飾もなく、面白みのない四角い建築だったが、どこか練塀を思わせる菱形の格子のような「和」のデザインが、壁面の一部に入っていたような記憶がある。どちらかといえば、明治期に建設された明治座や、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!以降に再建された明治座、そして1945年(昭和20)3月の東京大空襲Click!ののち、戦後に再建された明治座が「洋」のデザインをしていたのに比べ、1957年(昭和32)の火災から何度めかに再建された同座は、新派の芝居が「明治は遠くなりにけり」で、もはや歌舞伎と同様に日本の旧演劇=伝統芸能と感じられる時代になっていたからなのだろうか。
明治座が設立された当時の様子と、その経緯について戦後に復刻された、東陽堂版の『新撰東京名所図会』から引用してみよう。
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旧幕府時代、両国広小路にありて、薦張の芝居なりき。明治五年に及びて、取払を命ぜられしより、同六年四月二十八日、久松町三十七番地へ、劇場建設の許可を得て、喜昇座と称して開場せり。同十二年六月久松座と改め、建築を改良せはゆえ、同年八月二十三日を以て大劇場の部に入る。同十三年火災に類焼し、浜町二丁目に仮小屋を造り、同十六年五月まで興行し、同年十二月二十四日元地へ建築の許可を得たるが、工事中暴風雨の為に吹倒され、十七年十二月落成して千歳座と改称し、翌年一月四日開場式を行う。当時の建物は、間口十八間、奥行二十七間の塗家なりしが、同二十二年、場中より出火して再び焼失し、遂に現今の建物を新築したるなり。その建築中一時日本橋座と改めたる事もありしが、同二十六年十一月落成して、明治座と改称せり。
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この中の「両国広小路」とは、いまの地名や駅名である両国のことではなく、大橋(両国橋)から日本橋側へとつづく、大江戸Click!からの火除け地であり繁華街Click!だった広小路(大通り)のことだ。この記述を見るだけでも、明治座として誕生するまでに数々の災厄に遭遇してきた劇場であるのがわかるが、災難はこれだけにとどまらなかった。
わたしは明治座で、花柳章太郎(没年にかかり微妙)や水谷八重子(初代)Click!、柳永二郎、伊志井寛Click!、菅原謙次、安井昌二、波野久里子などの芝居を確実に観ているはずなのだが、あまり記憶に残っていない。それほど、舞台のBGMで流される清元の細竿を子守歌に(泉鏡花の作品は特にそうだ)、よく熟睡していたからだろう。新派と聞くと、条件反射のように春先の日向ぼっこのような睡魔が襲うのだが、そのあとの“うまいもん”Click!にわたしは釣られて期待し、あまり文句もいわずに付いていったのだろう。
明治期から戦前にかけ、日本橋浜町も含めた大川(隅田川)の両岸、いわゆる「大川端」について書かれたエッセイや小説、戯曲は数が知れないほど多いけれど、その中にも明治座はしばしば登場してくる。本所育ちの芥川龍之介Click!は、大橋(両国橋)Click!の向こう側(東側)のことをたくさん書いているが、明治座について書いていたかは記憶にない。新派の芝居と同様に、読んでいると睡眠導入剤のように睡魔が襲う泉鏡花Click!(わたしはもはや、彼の文章を粋だといって楽しむ世代ではない)も、数多くの作品が同座で上演されている関係から、どこかに詳しく書いているだろう。どちらかといえば、ハイカラで乃手のイメージが強い北原白秋Click!もまた、『大川風景』(1927年)に見られるように若いころは大川端を彷徨して文章を残している。
明治座について、大正期から昭和初期の想い出をつづっている人物に、華族で歌人の吉井勇がいる。吉井勇の明治座体験は、より古い時代の左団次芝居であり新派のハシリといわれた川上音二郎一座の芝居だった。1927年(昭和2)夏に東京日日新聞に掲載された、吉井勇『大川端』から引用してみよう。なお、このエッセイの挿画は、わたしと同じ東日本橋(元・日本橋米沢町→旧・日本橋両国)が出自の木村荘八Click!が担当しており、1976年(昭和51)に講談社から出版された現代仮名づかいの『大東京繁盛記<下町篇>』でも、そのまま彼の絵が踏襲されている。
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明治座というと私には、思い出される二つの芝居がある。一つは川上一座の「オセロ」で、もう一つは左団次一座の「歌舞伎物語」である。「オセロ」がこの劇場に上演せられたのは、私がまだ攻玉社中学に通っていた時分で、私はこれを観るために学校を休んで、金ボタンの七つ付いたジャケツの制服は、近所の芋平という焼芋屋で、預けてあった和服に着換えて、芝から日本橋まで駈けるように、夢中で歩いていったものなのである。田村成義翁の編まれた「続々歌舞伎年代記」で見ると、川上一座が「オセロ」をやったのは、明治三十六年とあるから、私が十八歳の時だけれど、当時は幸いにしてまだ「不良少年」という言葉はなかったらしい。
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おそらく、中学生ぐらいになった親父は家が近いせいもあり、吉井勇と同じようなことをして明治座に通っていた可能性がある。もっとも、親父の世代になると芝居と映画が半々になり、映画のほうは日本橋か浅草まで出ていたようだ。
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考えて見ると「オセロ」や「歌舞伎物語」ばかりでなく、その後の長い年月の間には、私はなお多くの忘れることの出来ない「芝居」がこゝの舞台の上で演ぜられたことを、思い出すことが出来るのである。「鳴神」や「修善寺物語」も忘れられないが、それにはまた違った意味で「婦系図」や「つや物語」に、或寂しい記憶が残っている。そしてそれと同時に私の目に浮んで来るのは、今から二十年ばかり前に見たことのある、石井柏亭君の描いた「東京十二景」という版画の中の一図である。
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吉井勇たちが懐かしがる時代の明治座は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で消滅する。その後に再建された明治座は、親たちの世代が懐かしがる意匠となっていたが、当然、わたしはその姿を知らない。そして、20年余が経過した1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲により明治座は壊滅した。しかも、火災に追われ明治座へ避難していた数百とも千人以上ともいわれる人々は、大火流の熱気で酸素を急速に奪われ、ひとり残らず劇場内で「蒸し焼き」にされて死んだ。ひどい混乱のさなか、ここで命を奪われた被害者の人数さえ、今日にいたるまでまったく不明のままだ。
戦後、近くにあったミツワ石鹸本社Click!の三輪善太郎Click!などが中心となり、1950年(昭和25)に再興された明治座だが、1957年(昭和32)には漏電のために再び焼失している。子どものころに眺めていたのは、再建につぐ再建の4代目・明治座の建築となるのだが、新派の舞台に退屈し劇場の座席で午睡をむさぼっていた時期から、わずか20年ほど前の同じ場所では、空襲から逃げ切れなかった女性や子どもたちの阿鼻叫喚の巷だったとは、当時のわたしはいまだ知るよしもなかった。平和というのはかけがえがなく、尊くていいものだ。
◆写真上:現在の明治座正面で、1893年(明治26)の初代から数えて5代目の建物。
◆写真中上:上は、1900年(明治33)に撮影された祖父母の世代にはお馴染みの初代・明治座。中は、1923年(大正13)撮影の関東大震災で壊滅した明治座。下は、震災後に再建された明治座で親の世代がもっとも親しみを感じていた外観。
◆写真中下:上は、新派でよく演じられた雑司ヶ谷鬼子母神Click!を舞台とする『残菊物語』。菊之助の花柳章太郎にお徳の水谷八重子だが、わたしは菊之助が菅原謙次のバージョンで観ているはずだ。中は、1914年(大正4)に制作された石井柏亭の版画「東京十二景」のうち『芳町』(部分)で、幟の見える矢印の建物が明治座。下は、建物とともにリニューアルされた明治座の稲荷。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる東京大空襲で廃墟となった明治座。中は、1945年(昭和20)に米軍機が撮影した東日本橋から日本橋浜町界隈。下は、東京大空襲で明治座に避難して死亡した大勢の人々を弔う慰霊廟。