中村彝Click!が、下落合464番地へアトリエを建設する以前、地上駅だった目白停車場Click!の改札を抜け、豊坂を上りきったあたりの右手に、熊岡美彦がアトリエを建てて住んでいる。当時の住所でいうと、落合村下落合443番地ないしは高田村金久保沢1127番地あたりの村境だ。
おそらく、洋風なアトリエ建築の意匠はしていただろうが、1917年(大正6)に初めて中村彝を訪ねた鈴木良三Click!はこのアトリエを見落とし、あとになってから気づいている。熊谷美彦は、1913年(大正2)に東京美術学校を卒業しているから、落合地域にアトリエを建てたのは画家としてスタートしたばかりのころ、盛んに文展へ作品を出品していた20代の時期だった。
1889年(明治22)に茨城県の水戸で生まれた熊岡は、大きな料亭を経営していた裕福な実家の出で、おそらく目白駅直近のアトリエも実家の十分な援助で建設しているのだろう。同じ茨城出身の中村彝とは当時、どの程度交遊があったのかは不明だが、少なくとも中村彝が下落合にアトリエを建設する1916年(大正5)以前から、熊岡美彦は豊坂上の一画にアトリエを建てて住んでいたらしい。このあと、熊岡は巣鴨に転居し、やがて高田馬場へ大きなアトリエと絵画研究所を建設している。
その様子を、1999年(平成11)に木耳社から出版された、梶山公平Click!・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』から引用してみよう。
▼
目白駅の裏手のダラダラ坂道を登って右側に熊岡美彦さんのアトリエがあったらしいが、大正六(一九一七)年に初めて私が目白駅に下車して叔父さんに連れられて中村彝さんを訪問したころはもう熊岡さんは巣鴨の方へ引っ越してしまっていたのではないかと思うのだが、或いはまだここで制作して居られたのかも知れない。その頃はまだ画壇のことなど何も知らなかったので、熊岡さんの名も、作品も、どこの人かも関心がなかったのだ。
▲
熊岡美彦は美校を出たあと、少しして満谷国四郎Click!や牧野虎雄Click!と親しく交流していたようだが、大正初期にはふたりとも、落合地域へいまだ転居してきてはいない。目白駅前(西側)の丘上、まばらに点在する家々の間で、洋風だったとみられる熊岡美彦アトリエは、ポツンと周囲から目立っていただろうか。あるいは濃い緑の樹間に隠れ、ひっそりとしたたたずまいだったろうか。
1916年(大正5)に、中村彝が屋根にベルギーの瓦を用いてアトリエを建てたとき、その意匠は近隣からかなり目立ったようだ。アトリエの南側には、細い道の桜並木越しに林泉園Click!の谷戸が口を開け、木々が繁っていたために見通しは悪かったかもしれないが、北側の目白通り側からは一吉元結製造工場Click!や目白福音教会Click!の建物の間に、朱色の屋根や大きな採光窓がよく見えただろう。この朱色の屋根は、陸軍所沢飛行場から飛来する航空機からもよく見えたらしい。
そう証言するのは、鈴木誠Click!のご子息である建築家・鈴木正治様Click!だ。1988年(昭和63)に発行された、『常陽藝文』6月号から引用してみよう。
▼
(中村彝アトリエは)洋館といっても本式のものではなく、建築材料も悪い。しかし、ふつうの大工ではとても出来ないものです。当時の絵かきの収入では専門の建築科には頼めないはずだから、私が思うには、たぶん専門家の卵の学生に頼み、それと大工の裁量で造った建物じゃないでしょうか。部分的には専門的なところが見られますからね。当時、所沢の飛行場から飛んでくる陸軍の飛行機が飛行の目標にしたといわれる屋根の赤瓦はベルギーから取り寄せたものです。赤というよりオレンジ色の瓦です。一方、壁は日本の伝統的な土壁で、上に、しっくいに薄墨の色つけしたものを塗っています。(カッコ内引用者註)
▲
この文中で、所沢飛行場から陸軍の航空機が飛来した「当時」とは、はたして大正期のいつごろの話だろうか。
1911年(明治44)、所沢並木に陸軍所沢飛行場が完成すると、さっそく徳川好敏Click!がフランス製のアンリ・ファルマン機で所沢の空を飛んでいる。翌年、徳川好敏は所沢飛行場から「会式二号機」と呼ばれた国産機で、日本初飛行Click!を実現した代々木練兵場まで飛行し「帝都訪問飛行」を成功させた。そして、1916年(大正5)には所沢に陸軍飛行大隊が設置され、1920年(大正9)には所沢陸軍飛行学校が設立されている。
このような経緯をたどると、下落合上空に飛来した陸軍機は「帝都訪問」の目印として、山手線の目白駅と、その手前にある中村彝アトリエの鮮やかな朱色をした屋根を目標にした可能性がある。高い高度を飛べなかった当時の陸軍機は、目標が見えはじめると機首を真南へと向け、代々木練兵場Click!の仮設飛行場を眼下にとらえただろうか。所沢と代々木の連絡便として、また飛行大隊の設置後は隊員の訓練飛行として、さらに飛行学校の設立後は学生たちの実技飛行で、「帝都訪問」は繰り返し行われたのだろう。
先日、陸軍所沢飛行場跡(現・所沢航空記念公園)を訪ねてみた。園内にある所沢航空発祥記念館に立ち寄ったのだが、そもそも同館には開設時から学芸員が不在なのか、残念ながら旧・陸軍所沢飛行場に関する紀要などの詳細な資料類は存在しなかった。また、日本における航空機(技術)の発達史的な展示は充実しているのだけれど、なぜか第二次世界大戦前後の展示がほとんど省かれていて、「帝都防衛」のために迎撃戦闘機が配備された経緯も、また1944年(昭和19)から敗戦までつづいて空襲の記録も展示されていない。
ミュージアムショップには、かっこいい戦闘機や旅客機などのプラモデルとおもちゃ、航空関連のグッズばかりで、かんじんの資料類がほとんどまったくない。空に夢をふくらませる、子ども相手の記念館ならそれでいいのかもしれないが、少なくとも所沢飛行場の詳細な史的資料ぐらいは制作して、備えておくべきではないだろうか。
大正初期、中村彝アトリエが建設される少し前、所沢飛行場から「帝都訪問飛行」を行っていたパイロットたちは、なにを目標にしていたのだろうか。目白駅前の丘上に建っていた、熊岡美彦アトリエの屋根色は不明だけれど、住宅もまばらな樹間に見える西洋館は目白停車場とともに目立っていただろうか? それとも、低空とはいえ太陽の光を受けて輝く、1898年(明治31)に竣工した淀橋浄水場Click!や旧・神田上水などを、代々木練兵場の仮設滑走路へと向かう空路の目標にしていたのだろうか。
◆写真上:現在は公園となっている、1911年(明治44)に開設された陸軍所沢飛行場跡。
◆写真中上:上は、地上駅だった目白駅前から下落合の丘上へと通う豊坂。中は、坂の途中に安置された金久保沢の弁天社(市来嶋社)。下は、復元された中村彝アトリエの屋根。実際は、もう少しオレンジがかった朱色の瓦だったと思われる。
◆写真中下:上は、所沢飛行場の上空を飛ぶ徳川好敏のアンリ・ファルマン機。中は、複葉機の操縦席で撮影された所沢飛行場の徳川好敏。下は、いくつかに分解された飛行機を運ぶ所沢飛行場の牛列。滑走路上で、飛行直前に組み立てられていた。
◆写真下:上は、偵察機などに詰まれた九六式航空写真機。ここの記事で取り上げている1936年(昭和11)の空中写真は、このカメラで撮影されたとみられる。中は、陸軍所沢飛行場の観測所や格納庫。右奥に見えているのは、陸軍航空技術学校と思われる。下は、1946年(昭和21)3月撮影の米軍に接収された所沢飛行場。建物も破壊されているが、滑走路のあちこちには爆弾のクレーターを埋めた痕跡が写っている。