約100年ほど前、1920年(大正9)の正月は、前々年から世界中で猛威をふるっていた「スペイン風邪」(インフルエンザ・パンデミック)の脅威が、相変わらずつづいている不安な年明けだった。世界で約5億人が罹患し、その5分の1にあたる約1億人が死亡したとされる、人類史上でも最悪のパンデミック重度指数5のインフルエンザ禍だ。
東京でも、同様に一家全滅やオフィス・工場閉鎖のニュースが、新聞紙上で連日報道されるような状況だった。1920年(大正9)1月12日(月)に東京で発行された各紙にも、悲惨な事件が社会面にいくつか掲載されている。たとえば下落合の南側、淀橋町角筈ではこんな出来事が起きていた。同日に発行された読売新聞の紙面から、少し引用してみよう。
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感冒で一家殆ど全滅/父母兄弟が五人死んで一子残る
流行性感冒の猖獗は云ふも更であるが茲に此感冒に依つて一家殆ど全滅の悲惨に遭つた事実が現れた 府下淀橋角筈六五二電気局運転手内山忠助(三九)は妻すみ(三六)の間に長男忠策(一七)桓爾(七つ)宗雄(四つ)平陸(一つ)の四人の子があつたが此度の感冒に罹つて先長男忠策が五日午前二時死亡し、続いて妻すみが同日午後死亡し当歳の平陸又一昨十日午前六時死亡し続いて忠助は同日午前十一時相次いで倒れ今四歳の宗雄一人も病床にあると云ふ始末で親近の者数名に電気局から二名の局員が出向いて世話をして居たが悲惨目も当られぬ有様である
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この内山家のような家庭ケースが、東京に限らず伝染病が流行しやすい日本の都市部ではあちこちで見られた。当時はウィルスによる伝染病の医学的な概念がなく、伝染性の強い「感冒」=風邪と考えられていた。日本では1,500万人が罹患し、約40万人が死亡している。
同記事が掲載された、1月12日(月)の東京朝日新聞および読売新聞の社会面には、落合地域とその周辺域で起きた事件や関連する出来事が、くしくも集中的に報道されている。冒頭の写真は下落合の南、戸塚から大久保に隣接して展開していた戸山ヶ原Click!の正月風景で、1月11日(日)に行われた凧揚げ大会をする「少年団」を撮影したものだ。
東京朝日新聞に掲載されている写真だが、画像が粗くておおよそ場所を特定できない。おそらく、山手線の西側に拡がる大正期には「着弾地」と呼ばれた戸山ヶ原Click!で、しじゅう子どもたちが入りこんでいたエリアClick!だろう。いまだ、陸軍科学研究所Click!も陸軍技術本部Click!も板橋から移転してきていない。
下落合310番地の相馬邸Click!に建立されていた、太素神社Click!(妙見社)の神楽殿が不審火で炎上したのも、同日の新聞各紙で報道されている出来事だ。この事件については、すでに以前の記事で詳細をご紹介Click!している。この事件で、神楽殿の床下にいたとみられるひとりのホームレスが焼死したため、のちに同社が事件による穢れを祓うためか、相馬邸の敷地内で移築されている可能性についても触れた。
また、同じ紙面には徳川義親Click!が、代々尾張徳川家で所蔵してきた美術品を1ヶ所に集め、名古屋に徳川美術館を起ち上げる構想・計画を発表した様子も掲載されている。そのインタビューの一部を、同日の東京朝日新聞から引用してみよう。
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義親侯が家宝の陳列館を設立
新しく名古屋に侯自身の科学的研究から保存法の苦心を語る
熊狩りに名高い徳川義親侯は御先祖代々倉庫の裡に秘むる数多の美術品をば今度旧藩地名古屋大曾根の本邸に移しそこに五六十万円をかけて新な一大美術館を建設して一般の為めに公開する筈である、侯はその家宝公開の話に熱心な態度で語る『尤もこれ迄も年に一度位は名古屋の本邸では書画なり刀剣なり漆器織物杯部分的に陳列して一般に見せた、一寸の間の事とて折角見ようと思ふ人にも物足りない心持で帰した気の毒を屡々感じて居たのが一つ大きく永久的に公開して見せたいと考へた動機である、建築家とも相談中でまだほんの私の腹案が出来上つたばかり、何時頃着工するか一向定めて居らぬ、陳列しようといふのは全部一万点もあらうが矢張り刀剣が多く彼是八百口もあらう、世の中にたゞ二三口といはれる銘の入つた正宗や不動正宗もある、また有名なあの南泉和尚が禅問答の中に猫を叩き斬つたといふその南泉正宗もあるかと見ると昔使った鉈のやうな物の果まで研究者の材料だけはあらう(後略)
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徳川義親がインタビューで答えているように、尾張徳川家は特に刀剣類のコレクションが充実している。中でも包丁正宗Click!は、目白の細川家永青文庫に収蔵されている包丁正宗(武州奥平松平家伝来)とともに、国宝に指定されている名物だ。
さて、実際に徳川美術館がオープンしたのは、徳川義親の発表から1931年(昭和6)に尾張徳川黎明会が設立され、約15年が経過した1935年(昭和10)になってからのことだ。インタビューの当時、徳川義親は麻布の邸に住んでおり、目白通りをはさんで下落合の北に接した目白町の戸田邸Click!跡には、いまだ転居してきていない。徳川美術館が実現したのは、徳川邸Click!が目白町4丁目41番地に移転したあとのことだった。
同日の東京朝日新聞には、興味深い記事もみられる。東京の川は下水のようであり、住宅は火災に弱い薪のようなものだから、なんとかしなければならないという東京市会議員の声を紹介している。そして、安心安全な都市的施設を整備するには、どれぐらいの予算が必要かを算出した「東京市大改造」計画を公表した。だが、どんぶり勘定で算出したずさんで法外な予算額に対し、当時の田尻稲次郎市長は「百年の大計を実行難とは受取れぬ」と、1世紀を費やしても取り組むべき課題として前向きな姿勢を示している。
このとき、もし新たな「東京市大改造」計画に少しでも着手していれば、3年後に襲った関東大震災Click!の惨禍は多少でも低減できていたのかもしれない。だが、同計画はほとんどすべてが画餅のままで、1923年(大正12)9月1日を迎えることになる。1920年(大正9)から約100年が経過した現代も、東京市(東京15区→旧・大東京35区Click!→現・東京23区)は、当時とは比較にならないほどの課題やリスクを、相変わらず抱えつづけている。
東京朝日新聞と読売新聞に掲載された、同一のニュースを比較すると面白い。東京朝日がストイックでクールな表現なのに対し、読売はまるで現代の週刊誌のように煽情的でセンセーショナルな表現が目立つ。相馬邸の神楽殿炎上にしても、「焼跡より疑問の死體/下落合の火事で」(東京朝日)とあっさりなのにに対し、「相馬子爵邸内から黒焦の死體現る/昨夜邸内の神楽殿炎上/最初の発見者は宮本運転手」(読売)と、なにやら江戸川乱歩Click!か横溝正史Click!の世界で起きた事件のようになってしまうのだ。
◆写真上:1920年(大正9)1月11日(日)に、戸山ヶ原で行われた少年団の凧揚げ大会。
◆写真中上:上は、1920年(大正9)1月12日(月)の読売新聞に掲載されたインフルエンザ・パンデミック(スペイン風邪)の悲惨な記事。中は、下落合の相馬邸神楽殿の炎上事件を伝える同日の東京朝日新聞。下は、相馬邸の神楽殿炎上事件を伝える同日の読売新聞。
◆写真中下:上は、下落合の相馬邸内に建立された太素神社(妙見社)。相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵の『相馬家邸宅写真帖』より。中は、同日の東京朝日新聞に掲載された徳川義親インタビューによる徳川美術館の建設構想。下は、徳川美術館収蔵の名物包丁正宗(上)と目白台の細川家永青文庫収蔵の名物包丁正宗(下)。
◆写真下:上は、細川家の宝物を保存する永青文庫。中は、同日の東京朝日新聞掲載の「東京市大改造」記事。下は、凧揚げ大会が開かれた戸山ヶ原(山手線西側)の現状。