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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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鈴木良三から清水多嘉示へ1928年。

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鈴木良三宅跡.JPG
 少し前に、パリの清水多嘉示Click!にあてた中村彝Click!の代筆による手紙Click!をご紹介したが、そのとき筆跡の比較用に青山敏子様Click!からお送りいただいた、鈴木良三Click!の手紙を掲載している。きょうは、1928年(昭和3)1月25日に書かれた、下落合に住んだ美術家たちも多く登場する、その手紙の内容について書いてみたい。なお、鈴木良三は手紙を書いた当時、落合地域の西隣りにあたる野方町江古田931番地に住んでいた。
 鈴木良三は、中村彝が死去すると丸3年間、下落合で中村彝画室倶楽部Click!の運営を手がけ、1926年(大正15)に岩波書店から彝の遺稿集『芸術の無限感』が出版され、茨城に彝の墓石が完成すると、虚脱状態に陥ってしまったようだ。医師の活動もやめ、帝展に落選して意気消沈しているとき、「洋行していらっしゃい」という妻の言葉に励まされてパリ行きを決意している。
 洋行費を捻出するために、彼は当初、佐伯祐三Click!と同様に画会を計画して資金を集めようとするが、郷里の水戸にいる知人から旧・水戸藩・徳川國順(侯)などのパトロン人脈を紹介され、毎月200円ずつのパリ滞在費を支援してもらえることになった。当時、パリをめざした洋画家の中では、彼は非常に幸運なケースだろう。1928年(昭和3)3月末、日本郵船の「白山丸」で日本を出港し、パリへ着いたのは5月の初めだった。船中では、1930年協会の木下孝則Click!や水彩画家の中西利雄、女優の長岡輝子らといっしょになった。すなわち、清水多嘉示は同年5月16日に帰国しているので、鈴木良三とはすれちがいだったことがわかる。
 清水多嘉示は、鈴木良三の手紙を落手したあとすぐに返事を書き、ほどなくパリを出発したのだろう。鈴木の手紙は、パリでの生活費に関する問い合わせだった。
  
 清水多嘉示様
 もう何年か前からあなたにお便りして、あなたからも巴里のお話でもお聞きしたいと思ひながら、つい怠けてゐました。もう随分おなれになつたことゝ思ひます。定めし、よい御勉強がお出来になつたことであらうとお察しゝてゐます。/あなたに最後にお逢いしたのは大正八年ごろの夏、平磯の海岸で、中村彝さんの療養中でしたね。あれか(ママ)此方彝さんの周囲も随分変りましたけれども、お話すれば長いことになりますが、彝さんの施設もゝう三年以上になります。氏の周囲にあつた友達やお弟子達によつて其の整理が恰度三年かゝつたわけです。/今では遠山五郎君も、曾宮一念君も、同じやうな病気で寝てゐます。中村画室倶楽部といふ名によつて旧友達が結ばれてゐましたが、その間に遺作展や、画集、遺稿集等の出版、墓碑の建設、などを完了していよいよ全部整理がつきましたので、俱楽部も愈々解散することになりました。私などもその整理委員になつてゐましたが、遺物の整理などに当つて随分淋しい気持で、涙新たなるものがありました。委しいことはお会ひした時にお話しいたしませう。
  
 文中の「彝さんの施設」というのが、中村彝の死後、酒井億尋の援助で運営されていた中村彝画室倶楽部(鈴木良三の著作によっては中村彝アトリエ保存会)のことだ。同俱楽部が、1928年(昭和3)の初旬に解散していることがわかる。そして、翌1929年(昭和4)4月より、佐伯祐三アトリエで留守番をしていた鈴木誠Click!一家が、彝アトリエを購入して住みはじめている。
鈴木良三たち1922.jpg
大久保作次郎送別会1927.jpg
 1928年(昭和3)は、下落合623番地の曾宮一念が体調を崩し、夏になると八ヶ岳にある富士見高原療養所Click!で療養することになる。そして、新聞に掲載された佐伯祐三の遺作展Click!を滞欧作展と勘ちがいし、しばらくはその死を知らないままでいた。また、彝アトリエの常連のひとりだった遠山五郎Click!は、鈴木良三の手紙から数週間後の同年2月に病没している。
  
 今度の整理で解散となれば愈々私等も思ひ残すところが無くなりますから、私も、どうにかして巴里の方へ乗り出したいと、目下その準備中です。森田亀之助氏や大久保作次郎氏に会つてあなたのお噂さなどお聞きして憧れの情念を禁じかたきものがあります。で、この夏には大てい出かけられさうですが、それ迄に研一君や、あなたなども帰国なさるやうなことのないやうに願つてゐます。私はシベリヤを通つていきたいと思ひますが、それこそ西も東も分らないのですから何分、巴里着の上はよろしくお願ひしたいと思ひます。巴里着の上は出来るだけ切りつめた生活をせねばなりませんが、一体生活費はどの位あつたら足りるでせう。日本にゐて聞くのは大てい苦労なしの落ついた生活をして来た人達ばかりで、自炊生活のギリギリといふ経験をして来た人に逢ひませんので、本当の豫猶のない安価な生活の程度を知ることが出来ません。もし、あなたの知つて居らるゝ方で、そんな生活をして居らるゝ方がありますか、ありましたら、どの位の程度でやつてゐるかお知らせ下さいませんか。
  
 下落合630番地の森田亀之助Click!や、下落合540番地の大久保作次郎Click!は、清水多嘉示とはパリでいっしょだったが一足先に帰国しているので、鈴木良三はパリの様子を訊きに両人のもとを訪ねたものだろう。ふたりとも、あまりおカネの心配をする必要のない「苦労なしの落ついた生活」をしてきているので参考にならず、パリでの最低限の生活費を教えてほしいと問い合わせている。
 また、「研一君」とは中村研一Click!のことだが、パリのリヨン駅で鈴木良三を出迎えたのは、中村と角野判治郎のふたりだった。ただし、中村研一もほどなく同年中に帰国している。当時、パリの日本人会は薩摩治郎八Click!藤田嗣治Click!を中心とするサロンと、福島繁太郎Click!を中心とするサロンが存在し、互いが競い合っていた。鈴木が渡欧するとき、徳川國順は薩摩と藤田あてに紹介状を書いてくれたが、現地の熊岡美彦Click!などの情報から、彼は薩摩治郎八=藤田嗣治サロンには近づかなかったようだ。
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鈴木良三「大洗の日の出」1979.jpg
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 鈴木良三は、熊岡美彦からファリゲールのアトリエにいる勝間田武夫を紹介されている。勝間田がいたアトリエは、少し前まで清水多嘉示が住んでいた部屋だった。その様子を、1999年(平成11)出版の梶山公平Click!・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社)から引用しよう。
  
 勝間田君のいるアトリエは、以前清水多嘉示君の住んでいたところで安物だろうが天井光線のいい住居兼アトリエで、頑丈なアトリエが一階と二階に五、六坪あったようだ。私の借りた部屋の通りの真向かいの建物の中に鈴木千久馬君がいて、同町内ということで時々私を訪ねてくれ、やがて近所の服部亮英君と勝間田君の四人で、スペイン旅行やイタリア旅行、それにひと冬をカーニュ・シウメールで一軒の庭付きの広い家を借りて楽しい共同生活を送ったこともある仲間となった。
  
 鈴木良三は、フランス語があまり得意でなかったためか、いろいろな要望を清水多嘉示に伝えている。つづけて、手紙から引用してみよう。
  
 尚もし御面倒でなかつたらいろいろ細々した御注意もお知らせ下さいませんか。/それから、もしお願ひすることが失礼でなかつたら、巴里の地図へあなたの簡単な説明でも加へて送つていたゞけたら、こんなうれしいことはありません。フランス語も簡単なものなら読めますからどうかお願ひ出来ないものでせうか。/私は出来るだけ永く行つてゐたいと思うんです。此方で習つた仏語なんて発音が駄目だらうと思ひますから、あなたの御経験のやうにしたいと思つてゐます。/それから私が行くにつきまして、あなたから何か御注文でもありましたらお聞かせ下さい。/どうぞ何分よろしくお願ひします。これで失礼しますが、研一君、熊岡氏、佐伯氏にお会ひでしたらよろしくお伝へ下さい。
     一月廿五日 / 東京市外野方町江古田(エゴタ)九三一 / 鈴木良三
  
 ちゃっかり、メモを添えたわかりやすいパリのガイドマップが欲しいなどと要望しているけれど、清水多嘉示がそれにどこまで応えてあげられたかはさだかでない。清水が鈴木良三の手紙を受けとった時期、5年ぶりの帰国準備に追われている最中だったからだ。パリでのガイダンスは、中村研一たちに任せて帰国しているのかもしれない。
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 さて、文中に登場する「佐伯氏」とは、もちろん下落合661番地の佐伯祐三のことだ。鈴木良三がパリへ到着してから、わずか3ヶ月後に死去することになる。鈴木は上掲の書籍で、こんなことを書いている。「佐伯君については、彼の親友山田新一君が本当のことを詳しく書いているので[『佐伯祐三』]、私の知っているだけを、感じたままをここに記した次第」。あえて「本当のこと」と書いているのは、佐伯の死後、にわかに「親友」になったらしい阪本勝Click!の、怪しげな「証言」類をさしているのにちがいない。

◆写真上:薬王院の森に面していた、下落合800番地の鈴木良三旧居跡(左手)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に撮影された画家たちの記念写真。は、1927年(昭和2)に藤田嗣治サロンで開かれた大久保作次郎送別会の記念写真。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに写生旅行をする曾宮一念(右)と鈴木良三(左)。中は、1979年(昭和54)に制作された鈴木良三『大洗の日の出』。は、1928年1月25日に鈴木良三が清水多嘉示へあてた手紙の前半部。
◆写真下は、1985年(昭和60)に『日の出』を制作する87歳の鈴木良三。は、1990年(平成2)に制作された鈴木良三『そなれ松』。は、同手紙の後半部。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。

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