松本竣介Click!の画面を観ていると、その視点が空中を自由自在に浮遊して、風景作品ではあちらこちらへ飛びまわっているのがわかる。盛岡から生まれ故郷の東京へもどったころ、1927~1932年(昭和2~7/15~20歳)ごろまでの作品は、イーゼルをすえた位置からの、あるいはスケッチブックを手にして立っていた(座っていた)位置からの視点で、モチーフの風景が静的に写しとられている。モディリアーニやルオーの影響が濃いといわれる、1935年(昭和10)前後に描かれた風景作品も同様だ。
ところが、1936年(昭和11)ごろからその画面が、表現方法や色彩とともにガラリと変化を見せる。この年は、2月に松本禎子Click!と結婚して下落合4丁目2091番地(現・中井2丁目)に自宅&アトリエをかまえ、10月からは「綜合工房」Click!と名づけたアトリエから、翌年の12月までつづく月刊誌「雑記帳」Click!を創刊している。この時期の作品は、いわゆる「蒼い」風景が多く描かれた東京の「郊外」シリーズが中心だ。下落合の目白崖線に連なる樹木や草原、地面などを独特なブルーグリーンの色彩で全面的に染め上げ、ほんの数年前の画面とはまったく趣きを異にしている。
そして、キャンパスに向かう画家の視点は、実際にイーゼルをすえた位置(あるいはスケッチブックを手にした位置)よりは、やや高めに感じる画面が多くなっている。すなわち、視点のみが松本竣介の身体を離れて空中にフワリと浮きあがり、モチーフとなる風景の前を浮遊しながら、斜めフカンから見下ろした視点、ときには完全に鳥瞰視点のような表現が増えていくのだ。「郊外」シリーズや「街(都会)」シリーズなどに見られる、これらの表現法を「シャガールみたいだ」といってしまえばそれまでだけれど、丘が連なり谷間があちこちに口を開ける、緑が濃くて起伏が多い落合地域で暮らしはじめたからこそ、獲得できた視点のようにも思える。
たとえば、1937年(昭和12)8月に描かれた『郊外』Click!は、上落合側の北向き斜面の坂を上がって、中井駅近くにある妙正寺川沿いの落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の校舎(デフォルメされている)を見下ろしながら描いたと思われる作品だ。校舎の背景には下落合の丘陵と、その緑が濃い南斜面に散在するモダンな家々(実際のリアルな住宅ではない)が描かれている。
だが、宮本百合子Click!の旧居跡(上落合2丁目740番地)がある上落合の北向き斜面の坂上から、落合第二小学校(現・落五小)を見下ろしたとしても、ここまで高度があるようには見えない。実際の高さよりも、画家の目はさらに上昇しているように感じるのだ。ただし、現在ではこの高さの視点に近い位置(東側)から、現・落合第五小学校を見下ろすことができる。戦後、妙正寺川が流れる谷間に山手通り(環六)の高架が竣工し、その上から眺めた風景が『郊外』の視点と同じぐらいの高さになっている。
わたしは、起伏に富んだ落合地域ならではの地形や風景の影響から、斜めフカンや鳥瞰に近い松本竣介の眼差しやインスピレーションが生まれ、空中を自在に浮遊する新たな表現法を獲得したのではないかと想像していたが、それは幼少時代からの原風景によって形成されたと分析する面白い資料を見つけた。松本竣介は、幼少時代を岩手県の花巻と盛岡ですごしている。1986年(昭和61)に用美社から出版された、村上善男『盛岡風景誌』から引用してみよう。
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竣介にとってもう一つ大事な風景は、実は「山王山」という存在です。盛岡の東の方向にある小さな丘です。市営球場があります。小杉山ですね。そして、はるかに中津川、雫石川、北上川の合流点が見えます。/山王山のてっぺんにあった「測候所」(現・「盛岡地方気象台」)のすぐ下に竣介は移ります。なぜかというと、それは父親の銀行の社宅でした。竣介のお父さんは、花巻時代リンゴからお酒を造る商売だった。その仕事をやめて、盛岡では銀行をつくることになった。(中略) 竣介は盛岡中学まで歩いて通ったわけです。そこで、山王山のてっぺんから盛岡の町を見たときの<俯瞰の風景>というのが、竣介に決定的な視角上の影響を与えたのではないかと、私は想像するのです。/後年の代表作の「街」をはじめ、大作を一点ずつ、あたってみる。<山王山の俯瞰の景>の応用。もしかしたらそうじゃないかと、仮説を立てて作品に向きあったのです。
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当時、松本竣介の通学路には、煉瓦工場や消防署、知事公舎、白百合女学校などモダンで特徴的な建築や塔が建っていたらしく、それらの建物が少年に強い印象を残したのは想像に難くない。1931年(昭和6)に盛岡で制作された『丘の風景』には、頂上に測候所の白い建物が描かれている。もし、松本竣介の内部に丘上から盛岡の街中へと下る、原体験としてのフカン気味な風景が深く刻まれていたとすれば、アトリエを出て下落合の坂道を下るごとに、それを重ねて想い浮かべていたのだろうか。
でも、下落合の坂から見下ろす眺望は大久保から新宿方面にかけての街並みであり、盛岡のそれとはかなり異なる印象だったろう。さらに、上掲の“村上仮説”を前提とすれば、松本は結婚してアトリエを建てる際、なぜ下落合の丘を選んでいるのか?……というテーマにもつながりそうだ。下落合のアビラ村Click!(芸術村)には、多くの画家たちが暮らしアトリエも多かったからという理由とは別に、丘上から眺める原体験としての<俯瞰の風景>に惹かれたから……とも解釈することができる。
さて、松本竣介は1938年(昭和13)9月の第25回二科展へ、『街』と『落合風景』の2作を出品している。だが、この『落合風景』がどの画面に相当するのかが、現在では不明となっているそうだ。ブルーグリーンの色彩が特徴的な、現存する「郊外」シリーズのいずれかの1作とみられるが、どの作品かが特定できないらしい。いったいどれが『落合風景』とタイトルされた作品なのか、ブルーグリーンで彩られた「郊外」シリーズを観ていると、場所が特定されていない画面はみんな怪しく見えてくる。
先述した1937年(昭和12)8月の『郊外』は、同年の第24回二科展へ出品されているので、翌1938年(昭和13)1月の『枯木のある風景』と『郊外』のいずれかが相当するのかもしれない。そのほかにも、下落合の丘や斜面を描いたとみられる画面は、1940年(昭和15)ごろの作品まで目にすることができる。
松本竣介の風景画は、地形から建物、樹木にいたるまでデフォルメやコラージュが奔放にほどこされているので、佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズClick!のように、「この風景はあそこだ」と明確に規定することができない。先述の『郊外』(1937年8月)は、かろうじて落合第二尋常小学校を上落合側の斜面から描いたものだと類推できるが、もうひとつ、1940年(昭和15)制作の『青の風景』も、「あそこかな?」と推定することができるめずらしい作品だ。丘上にコンクリート造りらしいビル状の建物が見えるのは、19歳のときに盛岡で描いた『丘の風景』(1931年ごろ)の盛岡測候所と同様だ。
9年後の『青の風景』に描かれた建物は、ビルの屋上に突起と煙突らしいフォルムが描かれている。当時、下落合の丘上に建てられたビル状の建物で、この形状に合致するのは青柳ヶ原Click!の斜面に建設された国際聖母病院Click!のフィンデル本館Click!だろうか。屋上に突き出ているのは、避雷針がついたチャペルの鐘楼と焼却炉の煙突のように見える。手前に下ってくる坂道は、頼りなげな補助45号線(聖母坂)であり、ほどなく妙正寺川に架かる落合橋をわたることになる。もっとも、実際の地形や道筋、建物の姿はまったくこのようではないし、山王山にあった盛岡測候所のほうが似ているといわれれば「はい、さようですね」なのだが、構成を重ねたイメージとして風景をとらえるとするならば、上落合側から聖母坂を眺めた当時の情景のようにも見えてくる。
だが、『青の風景』の画面もまた、画家の視点は2階家の屋根ほどもありそうだ。画家がスケッチしている位置は、聖母坂下だとすれば妙正寺川と旧・神田上水(現・神田川)が落ち合う低地Click!であり、このような高い位置からの画角は得られなかったはずだ。空中を自在に浮遊し、風景をイメージで写しとる松本竣介の視点は、1942年(昭和17)の『立てる像』Click!のように、ときに地面スレスレにまで降下することさえある。
◆写真上:1937年(昭和12)ごろ、下落合2091番地の自邸前庭で撮られた松本竣介。
◆写真中上:上は、1937年(昭和12)の第24回二科展へ出品された松本竣介『郊外』。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる『郊外』の描画ポイント。下は、上落合側の北向き斜面から眺めた現在の落合第五小学校。
◆写真中下:上は、戦前に撮影された盛岡市の山王山にあった岩手県営盛岡測候所絵はがき。中は、1938年(昭和13)1月制作の松本竣介『枯木のある風景』。下は、同時期に制作された松本竣介『郊外』。いずれかが『落合風景』とタイトルされ第25回二科展に出品された作品だと思われるが、わたしは後者の『郊外』のような気がする。
◆写真下:上は、1931年(昭和6)ごろに盛岡市の山王山を描いたとみられる松本竣介『丘の風景』で山頂に見えるのは県営盛岡測候所。中は、1940年(昭和15)制作の松本竣介『青の風景』。下は、戦後すぐのころの国際聖母病院。