ハスが開花するとき、「ポン」ないしは「ポッ」という音がすると信じていた人たちが数多くいたようだ。下落合の大賀一郎Click!は、植物学者の牧野富太郎Click!らとともに、大マジメでハスの「開花音論争」あるいは「開花音批判」を行なっている。
いちばん最初に、「ハスの開花は無音である」と主張したのは植物学者の三宅驥一だったが、ほとんど周囲からは信じてはもらえなかった。今日から見ると、呆れてびっくりするような事実だが、戦前まではハスが開花する際には、「ポン」ないしは「ポッ」と音がすると、多くの人々に信じられていたらしい。戦後になり、改めて大賀一郎がハスの無音開花を発表すると、「開花音論争」にまで発展している。
そもそも、ハスの花が開くとき音がすると記された文献は、大賀一郎によれば室町期以前には資料がなく、もっとも古いもので江戸中期の俳諧書だったらしい。
暁に 音して匂う はちすかな 潮十子
管弦にて 開くものかは 蓮の花 河輩
明治以降では、正岡子規Click!や石川啄木もハスの開花音を詠った作品を残している。
ハスの開花が無音であることを証明するため、大賀一郎Click!は1935年(昭和10)から上野不忍池で、戦争による中断をはさみながら、毎年欠かさず観蓮会を開催している。早くから開花の無音無声を主張していた三宅驥一も、同会へ参加している。観蓮会は、前夜から不忍池畔の料亭「揚出し」へ参加者が集合し、ハスをテーマとする研究発表や議論が行なわれた。大賀一郎は当初、参加者を50人ほどと見積もっていたが実際には150人が参加したため、料亭側では食事や飲み物の手配がたいへんだったようだ。
当時の様子を、1999年(平成11)に日本図書センターから刊行された、『大賀一郎―ハスと共に六十年―』(人間の記録第106巻)から引用してみよう。
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この夜の会が終わった後、百人ばかりは、夏枯れで客のない上野駅前の名倉屋旅館に招かれ、わずかなチップで徹夜の清談、翌早朝五時を期し不忍池畔を逍遥して弁天島の東岸に佇んだ。そしてまさに開かんとする蓮花の前に聴き耳二百を立てたあとで、報道陣に対してハスの開花の無音無声の衆議を発表したところが、誠に、実に、天下の大問題となり、国の内外が喧々囂々、投書が東西各新聞の社会欄をにぎわした。この後、年と共に騒ぎは漸次に下火となり、世は無音無声に傾くようになったが、このおかげで私の観蓮会は世間にみとめられ、翌年は弁天堂、その翌年は……と爾来今日に至るまで、よく二十七年間連綿として休むことなくつづき、いつしか東京都の年中行事の一に…(以下略)
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不忍池の観賞会が有名になるにつれ、会は弁天堂の池に面した大書院で開かれるのが恒例となった。開花期ばかりでなく、春には根分け会、夏には例会や観賞会、秋には敗荷会とハスをテーマにさまざまな会合や研究会が開かれたようだ。
戦時中は弁天堂が空襲で焼かれ、不忍池が干上がって食糧増産のための水田化されたのにともない、2年ほど中断されたが、大賀は下落合からの疎開先である府中で、小規模ながら観賞会を継続している。戦後は、不忍池のボート乗り場や水上音楽堂、水上動物園などを会場にして観賞会はつづけられた。
昨夏、大賀一郎が庭で育てていた古代ハスを観賞しに、府中の郷土の森公園に出かけてきた。府中本町駅からかなり歩くため、公園に着いたのは昼近くになり、古代ハスの花は閉じてしまったかと心配したが、なんとか開花する花々を観賞することができた。
ハスは、たいがい4日間ほど咲きつづけて花弁を落とすが、未明(午前2~3時ごろ)から花弁が少しずつ動きはじめ、あたりが明るくなってきた午前4~5時ごろにかけて花弁が開きはじめる。そして、午前6~7時にはすでに満開になるが、開花する間、もちろん音はまったくしない。午前中には満開状態がつづき、昼が近づくにつれて花弁が閉じはじめ、正午ごろには完全に閉じてもとの蕾の状態にもどる。
この開花の手順が、少しずつ時間を前倒しにして4日間つづき、4日めには真夜中に開花して未明にすでに満開となり、昼すぎからは花弁を落として散花する。したがって、ハスの観賞は早朝がもっとも美しいのだが、わたしは朝寝坊なので昼近くの古代ハスしか眺めることができなかった。つづけて、大賀一郎の同書より引用してみよう。
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もちろん花によって個性があるが、大体どの品種でも同じようで、音があるとすれば、第一日と第二日の花の開く四時か五時頃であるが、外側から一枚ずつ、一分間に一センチ位の静かな速さで咲く花びらに音などあるはずがない。/ハスの花は、このような音の有る無よりも、花そのものの清楚を賞すべきである。朝霧のしたたるところに、涼しい夏時最大の紅蓮と白蓮の咲ける姿は、何人のこころをも、うばいとらずにはおるまい。実に古来彩連観蓮が文人墨客の間に盛行したことは、和漢の数多の文献に見られる。
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また、大賀一郎はハス(蓮花)の下に太いレンコン(蓮根)があるとする誤謬も批判している。当時の理科の教科書には、レンコンが太ければ太いほど水面には大きなハスの花が咲く……というような記述(図版?)があったようなのだが、ハスの花とレンコンは時期的にもぜんぜん別物で、まったく連動していないと講演やシンポジウムで否定してまわった。
確かに、レンコンは初冬から春先にかけての蔬菜であって、ハスの花が開く初夏から初秋にかけては流通しない。ハスが開花している間、その地下茎は白くて細いものが横に伸びているだけだ。ややあきらめ気味の口調だが、同書から再び引用しよう。
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わが国のほとんど誰もが、冬型の太くて短かいレンコンの節から、夏型の美しいレンゲと大きな葉が出ていると思っているのである。/そこでいっておくが、決して太いレンコンからは、花や葉は出ない。(中略) 芽は左右に地下茎となって横に横に延びて分岐し、そこに生ずる多くの節々から、葉が立ち、六、七月になるとその立葉の後ろに接して花芽が立ち、それから一ヵ月ばかりすると花が咲くのであるから、花や葉の下には細い白い長い地下茎があって、太いレンコンはない。(中略) 私はすでに二十年前に、世の伝説を排してハスに開花音はないといいきったが、今日になってもまだ、広い世界の中で、日本人という国民だけに、ハスの開花音があると信じられている。実におかしな事であるが、悲しくも日本人は、かかる珍妙な特質を持っているのである。
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理学博士(自然科学者)がとらえた植生あるいは分析的なハスは、大賀一郎の主張する説明が全的に正しいのだろうが、情緒的かつ文学的な一部の「日本人」には、どうしても夏の早朝に美しく咲くハスの開花音は、ぜひあってほしいところなのだろう。
現在では、不忍池の観蓮会のほか、古代ハスの発見元である千葉市の千葉公園や、鎌倉は鶴岡八幡宮の源平池Click!、岡山市の後楽園、そして大賀一郎の疎開先である府中などでも、毎年、ハスが開花する夏になると観蓮会が開かれている。ただし、鎌倉の観蓮会は鶴岡八幡の境内にあった神奈川県立近代美術館で開催されていたが、同館の閉鎖とともに少し前から古代ハスも咲いている、材木座の光明寺Click!へと移動しているようだ。
◆写真上:府中市郷土の森公園の池に咲く、大賀一郎が栽培していた古代ハスの群生。
◆写真中:郷土の森公園の古代ハスと、池の端に設置された大賀一郎像。
◆写真下:上は、府中市の多摩川沿いに展開する古墳群から発掘された副葬品の鉄刀。下の2振りの鉄刀は芯まで錆が達していないようで、刀の研ぎ師に依頼すれば腐食していない折り返し鍛錬Click!の目白(鋼)地肌が観察できそうだ。中は、初頭から春先まで出まわるレンコン。下は、鎌倉鶴岡八幡宮の源平池。