1926年(大正15)から1930年(昭和5)まで、5回にわたって毎年開催された1930年協会展Click!には、落合地域とその周辺域の風景画がたくさん出品されている。1926年(大正15)5月15日~24日に開かれた第1回展(室内社)は、5人の画家たちClick!による滞欧作の風景画がほとんどだが、日本の風景作品としては、小島善太郎Click!の連作『四ツ谷見附』(冬)(夏)(曇)Click!や『相模川』などが目立っている。いまだ、東京郊外の風景に、画家たちがそれほど画因をおぼえなかったころだ。
だが、1927年(昭和2)6月17日~30日に開かれた第2回展(上野公園内日本美術協会)では、佐伯祐三Click!を筆頭に数多くの東京郊外風景が出品されている。このとき、佐伯祐三が出品した作品の画面は判明しており、真冬の八島さんの前通りClick!を描いた『風景』Click!、妙正寺川の橋ごしに川沿いの小さな住宅群を描いた『風景』Click!、八島邸Click!の赤い屋根と門を描いた『落合村風景』=『門』Click!、前年の晩夏には完成に近い画面を確認(二科受賞の記者会見Click!)できる、曾宮一念アトリエClick!の前につづくコンクリート塀を描いた『落合村風景』=『セメントの坪(ヘイ)』Click!、そして八島さんの前通りを北から描いた『落合村風景』Click!の計5点だ。
ちなみに、佐伯祐三は作品に「落合村」とタイトルしているが、これは彼が渡仏前まで馴染んでいた呼称で、1924年(大正13)の町制施行により3年前から落合町になっていた。また、佐伯の出品作リストには『落合村風景』に「A」と「B」の区別があるが、それがどの画面のことを指しているのかはいまだ規定できていない。
さて、同じ第2回展には、笠原吉太郎Click!の『青い屋根』と『大学構内』、『練馬風景』、『上州風景』が出品されている。この中で、『青い屋根』が落合風景の可能性がありそうだ。笠原が、いまだ『下落合風景』の連作Click!にかかる前のようで、このあと佐伯祐三と同様に下落合に拡がるあちこちの風景を描いていくことになる。ちなみに、『大学構内』は早稲田大学か立教大学のキャンパスだろうか。
同展には、伊倉晋が『下落合風景』と『千駄谷風景』、『横浜近郊風景』の3点を出品している。この『下落合風景』がどのような画面だったかは、まったくわからない。伊藤晋は、1930年協会の会員である佐伯の影響を受け、下落合を訪れては描いていたのかもしれない。また、井上長三郎は『初夏板橋風景』を出品している。そろそろ東京近郊の風景を描くブームが、画家たちの間で起きはじめていたのがうかがえる。
1928年(昭和3)2月11日~26日に開かれた第3回展(上野公園内日本美術協会)では、東京近郊の風景作品が急増している。特に落合地域の作品が多く、丸太喜八の『落合風景』や藤田嘉一郎の『下落合風景』、宮崎節の『文化村風景』、佐久間周宇の『落合風景』と『落合の工場』、田中修の『山の手風景』などが挙げられる。いずれも実際の画面は不明だが、宮崎節の『文化村風景』は目白文化村Click!のいずれかの場所を、佐久間周宇の『落合の工場』は目白崖線の麓、旧・神田上水か妙正寺川の沿岸で操業していた、いずれかの工場を描いていると想定できる。
藤田嘉一郎は『水辺風景』や『神田風景』、『高円寺裏』を同時に出品しているが、『水辺風景』は落合地域のいずれかの川沿いの風景かもしれない。また、戸田秀男は『庭』と『学習院寄宿舎の一部』、『道(冬)』を出品しているが、これらも落合風景の可能性が高い。特に『学習院寄宿舎の一部』は、同年に竣工間近な近衛町Click!の学習院昭和寮Click!の一部を描いたのではなかろうか。さらに、鷲山宇一は『街景』と『角の食料品店』を出品したが、佐伯の風景画をコピーしていると展覧会評で批判されているので、これらも目白通り沿いの下落合風景を描いたものかもしれない。
このように、第3回展では明らかに佐伯の連作『下落合風景』Click!を意識した、あるいは追随した画面が急増しており、画家たちの間には「落合の風景を描けば入選できる」というような、妙なブームないしはジンクスがあったのかもしれない。同展には、南風原朝光が『長崎町風景』を、竹原千男が『曇日の池袋』を出品するなど、郊外に目を向ける画家たちが増えているのがわかる。
1929年(昭和4)1月15日~30日に開催された第4回展(東京府美術館)では、佐伯祐三の死去とともに作品が特別展示されている。ただし、第2次渡仏作ばかりで下落合の風景は見えない。同展では、前年に多かった落合の風景画は出品されておらず、東京近郊の風景作品が多かった。
たとえば、井上長三郎は『樹立』と『金井窪風景』を出品しているが、おそらく双方とも板橋風景だろう。竹原千男は『長崎村』と『佃島風景』を、黒田祐治は『立教大学附近』を、南風原朝光は『哲学堂附近』を出品しており、落合地域に接した北側や西側の風景画が目立っている。竹原千男は長崎に住んでいたのか、1926年(大正15)に町制へ移行した長崎町を、佐伯の「落合村」と同様に従来から呼びなれた「長崎村」とタイトルしているのかもしれない。
最後の1930年協会展となった、1930年(昭和5)1月17日~31日開催の第5回展(東京府美術館)には、林武Click!が『文化村風景』と『落合風景』を出品している。この『文化村風景』が、1926年(大正15)に制作された『文化村風景』Click!と同一の画面かはハッキリしないが、同展には林武の作品を41点も展示しているので、おそらく過去に描いた作品も展示されていると思われる。また、『落合風景』の画面もわからないが、妙正寺川沿いの下落合に建つ東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔を、上落合側から描いた『下落合風景(仮)』Click!と同じ画面の可能性がある。
同展には、樋口加六の『落合風景』と外山五郎が描く『落合風景』も出品されているが、いずれもどのような画面だったかが不明だ。また、渡辺幸恵の『高田の馬場風景』や南風原朝光の『中野風景』と、落合の周辺風景も相変わらず画家たちのモチーフに選ばれている。ちなみに、南風原朝光は2年連続で中野地域の風景を画因にしているので、この時期は中野町ないしは野方町あたりに住んでいたのだろう。また、渡辺幸恵の『高田の馬場風景』は、幕府の練兵場だった高田馬場(たかたのばば)跡が残る早稲田通り沿いの住宅街を描いたものか、山手線の高田馬場(たかだのばば)駅Click!周辺の風景をモチーフにしたものかは不明だ。
さて、1930年協会展に出品された、佐伯祐三をはじめとする画家たちの「下落合風景」あるいは「落合風景」は、ほんの一部の作品にすぎない。つまり、同展に入選した作品のタイトルのみが、今日まで伝わっているということだ。たとえば、下落合679番地にアトリエをかまえていた上掲の笠原吉太郎Click!は、このあと佐伯に劣らず数多くの連作「下落合風景」Click!を描いていくし、1930年協会とは接点のない画家たち、たとえば下落合623番地にアトリエを建てて住んだ曾宮一念Click!をはじめ、下落合584番地の二瓶等Click!や、下落合1385番地に住んでいた帝展の松下春雄Click!もまた、数多くの「下落合風景」作品Click!を残している。さらに、フランスから帰国した昭和初期の清水多嘉示Click!は、渡仏前に引きつづき「下落合風景」の連作Click!を残していると思われる。
早くから落合地域の風景を描いていた画家たち、たとえば中村彝Click!や曾宮一念Click!、小島善太郎Click!、鬼頭鍋三郎Click!、里見勝蔵Click!、清水多嘉示Click!など一部の作品を例外とすれば、やはり「落合風景」ブームに火を点けたのは1930年協会展であり、中でも佐伯祐三の影響がとりわけ大きいのだろう。
◆写真上:東京府美術館の前で、1930年(昭和5)1月に撮影された1930年協会第5回展の記念写真。メンバーはさま変わりしており前列右から中山巍、鈴木千久馬、伊原卯三郎、後列右から川口軌外、宮坂勝、林武、中野和高、小島善太郎。すでに佐伯祐三は2年前に死去し、里見勝蔵は前年に退会、前田寛治は病床で回復不能の重体だった。また、木下孝則と木下義謙、野口彌太郎は渡欧中で不在だ。
◆写真中上:上は、1926~27年(大正15~昭和2)ごろに制作された井上長三郎『風景(下板橋)』。井上は昭和初期に、板橋風景の連作を出品している。中は、1929年(昭和4)制作の伊藤研之『黄色い建物』。下は、1929年(昭和4)に描かれた小野幸吉『駅頭』。
◆写真中下:上は、第5回展の『落合風景』かもしれない林武『下落合風景(仮)』。中は、1929年(昭和4)制作の靉光『屋根の見える風景』。下は、1929年(昭和4)制作の中村節也『石置場風景』。郊外には、宅地造成用の石置き場が随所に見られただろう。
◆写真下:上は、1927年(昭和2)に描かれた小島善太郎『戸山ヶ原』。中は、1924年(大正13)の渡仏中に描かれた前田寛治『メーデー』。下左は、1928年(昭和3)の渡仏中に描かれた福沢一郎『風景(人間嫌い)』。下右は、1994年(平成6)に青梅市立美術館で開催された「昭和洋画の先達たち―1930年協会回顧―」展図録。同図録には、5回にわたる1930年協会展で展示された作品の詳細が参照できる。