大正期から昭和初期にかけ、目白文化村Click!や洗足田園都市Click!に象徴されるような、郊外のモダンな住宅街が形成されるにつれ、西洋館の壁面を飾る洋画が大流行した。でも、自宅の壁面に油絵を飾れるのは「中流」以上の家庭であり、多くの庶民にとっては油彩画は手のとどかない高嶺の花であり、また庶民の借家には大きめな油絵を飾れる書斎や応接室などの壁もなかった。
そこで、新しい美術運動として登場したのが、「創作版画の大衆化」運動だ。そのきっかけをつくったのは、こちらでも『落合風景』(1917年)をご紹介している、「洋風版画会」を起ち上げた織田一麿Click!だ。洋風版画会は1929年(昭和4)に旗揚げしたが、1931年(昭和6)には同会と日本創作版画協会が合同し、さらにフリーの版画家たちを集めた「日本版画協会」が発足している。織田一麿は、1点ものの油絵は高価で一般庶民には買えないので、木版画やエッチング(銅版画)、リトグラフ(石版画)を主体とした相対的に安価な版画美術を、庶民の間へ浸透させようとしている。
織田一麿は、江戸期に庶民のすみずみまで普及していた浮世絵を規範とし、創作版画の普及には次の6つの要素が重要だとして挙げている。1931年(昭和6)に発行された『みづゑ』1月号と2月号から引用してみよう。
(1)大衆美術の版画は、自画自刻で、綺麗でなければならない
(2)画題は日常各人の眼にふれる題材
(3)描法は写実を旨とする事
(4)価格は出来る限り安価
(5)多量生産
(6)異国趣味(エキゾチシズム)とエロチシズム
織田一麿が「創作版画の大衆化」を呼びかけた背景として、当時の時代状況を考えないわけにはいかないだろう。世界大恐慌を境に、未曽有の不況を経験する中で貧富の差がますます拡大し、美術作品の売れいきは大きく減退していた。また、それまで美術家を支援していた多くのパトロンたちも、恐慌の波をまともにかぶって事業が危うくなり、美術界に目を向ける余裕がなくなりつつあった。
換言すれば、織田一麿はそれまで美術家たちが消費先として主なターゲットにしていた、「中流」から上のクラスの購買力へ依存するのをやめ、より幅広く広大なマーケットと販路が見こめる「中流」以下の層も消費者として取りこもう……と提案していることになる。また、そうしなければ美術だけではとても生活できない、深刻な制作環境を迎えていたということもいえるだろうか。
上掲の『みづゑ』に、織田一麿は「創作版画を大衆へ贈る」と題して、日本版画協会の結成にいたる趣旨を書いている。2012年(平成24)に世田谷文学館から出版された、「都市から郊外へ-1930年代の東京」展図録から現代仮名づかいの同文を引用してみよう。
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これは(創作版画の大衆化は)甚だ突然かもしれませんが、別に今急に必要が起ったというのではないのです。ただ見渡すところ、現代には適当と思うような、大衆美術がないという有様ですから、必要を感じるというのです。いま大衆のもっているものはあまりに貧弱で、美術と称するに足りないものだからです。例えば、原色版の絵端書も活動俳優の絵端書、雑誌の口絵、新聞の付録、ペンキの懸額、というような、至って低級な、独立して美術と称呼なし得る体を備えていないもの、片々たる紙切の類しか、我大衆はもっていないものです。(中略)/如何に大衆でも、これでは余りに気の毒すぎます。衆人の中には、日常の生活に心身を過労して、美術鑑賞の余裕をもっていない人もありましょう。しかし、どんなに切迫した生活にでも、其家庭、其居室に一枚の額を懸けて、夕食後に眺める位の時間は、必ずあるにちがいないのです。これに対して、この寸隙を慰める為に、世間は何を彼等に与えているのでしょうか、現在では何も無いと答えなければなりません。/我々としては此際先ず創作版画の一枚を彼等に贈り、彼等の生活に僅かながら色彩を加えたいと希望するのも無理ではないのです。(カッコ内引用者註)
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現代であれば、美術家がこんな傲慢で「大衆」をバカにしたような文章を書いたら、いったい手前(てめえ)はどこの何様だと思ってんだい、どんだけ高いとっからモノをいってんだよう!…と、すぐさま反発を食らうにちがいない。
「我々としては此際先ず創作版画の一枚を彼等に贈り」は、その「彼等」にしてみれば「阪妻Click!のブロマイドのどこがいけないってのさ。おとついおいでな!」の大きなお世話だしw、自らの販路が狭隘化して食うに困ってるのに、あたかも創作版画を安価にめぐんでやる新しい方法論や事業団体を考案中だから恩にきなさい……とでもいいたげな、さもしい根性を見透かされるような傲岸不遜の文章は、当時の「大衆」が目にしてさえも怒りをおぼえたのではなかろうか。
ただし、織田一麿の弁護を少ししてあげるとすれば、当時、多くの美術家は「画壇」や「美術の殿堂」の中へ内的にかたく閉じこもり、一部のおカネ持ちだった美術愛好家だけしか相手にしない、高踏的で芸術至上主義的な状況が前提として存在していた。そのようなよどんだ美術界を版画という手法で打破し、より広範な人々へ美術作品をとどけようとした彼の姿勢は、その「思想」表現のしかたはともあれ、少なくとも評価されてしかるべきだろう。当時の生活に追われる一般庶民が、油絵を手に入れることなど夢のまた夢だったが、彼らの中にも美術ファンは数多く存在していたからだ。
つづけて、織田一麿の「創作版画を大衆へ贈る」から引用してみよう。
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何しろ、我々創作版画に聯るもので、大衆美術運動に共鳴する者は、速かに芸術の殿堂を飛び出して、市民の間へ混じて、大衆美術運動に躍進してもいゝ時季なのです。プロレタリア美術を叫ぶ者も、やはり版画大衆美術運動に参加していゝ性質だと思っています。創作版画改造の急務なのはいうまでもありません。大衆は待っています。我々はこの機をのがさず一気に前進して、徹底しなければなりません。研究に、実行に、甚だ多忙である筈だと思っています。日本創作版画協会創立満十年を過ぎました。版画が芸術というロマンチシズムから、一歩を踏み出す時は正に来たのです。
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プロレタリア美術の分野からは、すぐにも「大衆をなめんじゃないよ」という声が聞こえてきそうだけれど、織田一麿はそれほど創作版画の将来に危機感をおぼえていたらしい。おカネ持ちからは、1点ものではない版画の蒐集は敬遠され、一般庶民からはかなり高価で買ってもらえず、展覧会でも油絵の展示に押されて隅へ隅へと追いやられていた当時の状況が垣間見える。日本版画協会が発足した1931年(昭和6)、大恐慌から満州事変が起きる流れの中で、織田には創作版画消滅の危機と映っていたのだろう。
だが、庶民が創作版画を身近に親しむ余地もなく、世の中の流れは戦争へと急速に傾斜していく。もはや、版画を楽しむ心のゆとりも経済的な余裕もなく、軍国主義のカーキ色一色に染められる時代が、すぐそこまで迫っていた。
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油絵のお情けで、(展覧会の)壁面を僅に占めているのも、あんまりほめたものでもありません。それよりも、版画は版画としての身分に合ったように、職人仕事の昔にかえった方が、生半可な芸術扱いよりも版画の生命が延びます。/一九三一年、今年あたりが好転期(ママ:転機)だと思っています。(カッコ内引用者註)
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織田一麿が想像していたような、一般の庶民が手軽に創作版画を楽しめるようになったのは、戦後もずいぶんたってからのことだ。特に住環境の急激な変化の中で、現代的な住宅やマンションの壁面には、表現が重たすぎて存在感や主張が強すぎる油彩画は似合わず、リトグラフやエッチングなどライトな感覚の版画が好んで取り入れられた。1970年代末から80年代にかけ、バブル景気を背景に全国各地で建設ラッシュがつづき、空前の版画ブームを迎えることになる。
◆写真上:1930年(昭和5)制作の「新宿」シリーズで、織田一麿『新宿すていしよん』。
◆写真中上:上は、1922年(大正11)に制作された織田一麿『東京生活・歌劇』。下は、1928年(昭和3)に制作された同『浅草の夜』。
◆写真中下:上は、1929年(昭和4)に制作された織田一麿『銀座の夜』。下は、昭和初期に制作された同『ニコライ堂』。
◆写真下:上は、1930年(昭和5)に制作された織田一麿『明治神宮参道』。下は、1930年(昭和5)の「新宿」シリーズの1枚で同『新宿(第一図)』。
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織田一麿が夢みた「創作版画の大衆化」。
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