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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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劉生が「お父さん」と慕う大和屋7代目。

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岸田劉生「新富座幕合之写生」1923.jpg
 フグ毒にあたって死ぬまで、8代目・坂東三津五郎Click!の年賀状が親父のもとにとどいていた。どこで知り合ったものか、親父とは20歳ほど年が上のはずだが、いまとなっては確かめるすべはない。どこかの料亭で、“うまいもん”Click!好きの寄合仲間だったものか、それとも親父のそのまた親父の代からつづく7代目・坂東三津五郎つながりの贔屓筋あるいは芝居連(中)だったものか、なにも話してはくれなかったのでわからないのが残念だ。7代目(ひちだいめClick!)は京橋の生まれだし、8代目は下谷(現・上野地域)の生まれなので、日本橋の親父とは地域での接点はないはずだ。
 わたしは、7代目は時代がちがうのでまったく知らないが、8代目・坂東三津五郎の芝居は小学生のころ、国立劇場や歌舞伎座の舞台で何度か見ている。どちらの劇場だったか、いまとなってはおぼろげな記憶なのだが、親父に連れられて舞台裏の楽屋を訪れたことがあり、それが8代目・三津五郎の楽屋だったのかもしれない。当時、竣工したばかりの国立劇場の楽屋にしては、なんとなく古びた風情で暖簾が下がる楽屋口の記憶があるので、きっと歌舞伎座のほうだったのだろう。大和屋が京都でフグ中毒死したとき、親父は心底残念な顔をしていた。
 さて、7代目・坂東三津五郎を「お父さん」と呼んで慕っていた画家がいる。同じ京橋区生まれ(7代目は新富町)で、片や銀座で育った岸田劉生Click!だ。劉生が、7代目になついている様子を記録した文章が残っている。下程勇吉が1975年(昭和50)に書いた『岸田劉生と坂東三津五郎』で、証言しているのは8代目・坂東三津五郎だ。ちなみに、同年10月に発行された「絵」No.140掲載の8代目が語った証言は、フグ毒で死ぬ10時間前に下程勇吉が、宿泊先である京都のホテルでインタビューをして録音したものだった。では、8代目・三津五郎の言葉を聞いてみよう。
  
 「かげでは“三津五郎は細い声を出して云々”などと、あれこれいってるくせに、父の前に出ると、きちんと坐って、“お父さん、お父さん”と呼ぶから、そのわけをきくと、“お前とおれは友達で、お互いのお父さんじゃないか”というほどであった。そんなにまでおやじを尊敬してくれるので、びっくりして岸田さんをたずねた。(中略) つまりおやじをほめてくれたので、よろこんで行ったら、いつとなく、“遊びに行こう、遊びに行こう”でまんぺいに行き、夜あかしとなり、それからはただら遊びになってしまって、“岸田さんを放蕩者にしたのは、八十助だ”などといわれたが、もともと教育などというものは、まともな言葉で語るよりも、遊びの間にバカなことをいいながら、ときどきピリッピリッと来るものが本当に人間を生かすのではあるまいか」云々。<正味の人間>の本音をぬきにしたいわゆる教育などナンセンスなのである。
  
 当時は7代目が健在で、8代目は坂東八十助を名のっていた時代だ。八十助が8代目を襲名するのは、戦後の1962年(昭和37)になってからのことだ。
7代目・坂東三津五郎.jpg 8代目・坂東三津五郎.jpg
7代目・坂東三津五郎「義経千本桜」.jpg
「絵」197506.jpg
 岸田劉生は、役者に対してはかなりきびしい眼で眺め、手を抜いたヘタな芝居などすれば、ときに罵倒するような文章も残しているが、こと7代目・坂東三津五郎に対しては讃美者に近い無条件の信頼を寄せ、終始その芸を愛していたようだ。それは、7代目の芸に対する思想が、岸田劉生の芸術に対する意思に深く重なったからだろう。「お客さまを相手にしてやると、自分が下落する」、「生きているお客さまを相手にやっちゃいけません」という、7代目の有名な言葉が残っている。この「現世超越的自覚」主義という点で、7代目と岸田劉生は共通の視座の上に起立していたように見える。
 西洋画の手法で「東洋の美」を追求した劉生だが、長与善郎から奨められたショーペンハウアー(ショーペンハウエル)哲学に傾倒し、彼の東洋哲学的な側面に共鳴したものか、8代目・坂東三津五郎(当時は八十助)は読むよう勧められている。
  
 私もその影響で若い頃、十八、九歳の頃ショーペンハウエルの処世哲学を読みました、分りもしないのに。まあ私にとっては大変な影響力をもった人です。……岸田さんが今生きていてくれたら、本当の友達としてつき合えるし、よろこんでもくれるでしょうが、それと同時に、年中“ばか野郎何をしていやがるんだ、ばか野郎”とやられることでしょう。岸田さんの“ばか”はただの“ばか”ではなくて、“bakka!”なのです。その“バッカッ!”は何ともいえぬ愛情のこもった魅力がありました。
  
岸田劉生「演劇美論」1930刀江書院.jpg 岸田劉生「歌舞伎美論」1948早川書房.jpg
岸田劉生「新古細工銀座通・歌舞伎座附近」1927.jpg
 この劉生の眼差しに似た、ややアイロニカルな視座は、そのままうちの親父ももっていて、特に歌舞伎役者と落語家に対しては、わたしが物心つくころから死ぬまできびしく向けられつづけていた。親父の場合は、「ばか野郎!」ではなく「へたクソ!」だった。この“へた”は、ただの“へた”ではなく、“hetta!”だったので「へったクソ!」と発音されていた。向けられる役者や落語家は、老若・一門にかかわりなく、「歳ばっか食いやがって、へったクソ!」とか、「なにをもたもたモグモグしゃべってんだい、へったクソ!」と、まったく容赦がなかった。
 確かに、親父の世代には役者にしろ落語家にしろ、"名人"と呼ばれる粒ぞろいで優れた才能が目白押しだったので、へたな演技や噺をされたら即座にガマンができなかったのだろう。おそらく、いま生きていたら特に落語界に対しては、「お話んならねえやな、満足に東京弁もしゃべれてねえじゃないか、へったクソ! チヤホヤおだてるばっかで、誰もなんにもいわねえから、こんなへったクソな噺家が平気でまかり通るんだ!」と、罵声に近い言葉を投げつけていたにちがいない。確かに上方落語を「標準語」Click!で演じたら「このドアホッ!」となるのはまちがいないが、江戸落語もまったく同様に東京方言ではなく「標準語」で演じたりしたら、「バッカ野郎!」となるに決まっている。
 さて、坂東八十助(のち8代目・坂東三津五郎)も、劉生には徹底的にコキおろされているひとりだ。つづけて、大和屋の証言から引用してみよう。
  
 劉生が私に、“お前は何になるつもりか”ときいたので、“役者になるつもりだ”と答えると、“ばかをいえ、お前などが役者になれてたまるか、お前みたいな奴が役者になれるはずがねえじゃないか、何より証拠は、お前のおやじが最後の役者なので、外に役者はいねえじゃないか。” “今の歌舞伎は、パイン・アップルや蜜柑が入って、豆は少なくなっている今頃のみつ豆みたいなもので、まぜもののない歌舞伎はお前のおやじでおしまいだ。”
  
 豆が少なくなっている「今頃のみつ豆」という表現は、こういうところ、劉生ならではの洒落たメタファーなのだが、落語をよく聞きこんでいた親父もまた、こういう気のきいた喩えがうまかった。
7代目・坂東三津五郎「お染久松」.jpg
8代目・坂東三津五郎「天衣紛上野初花」1962.jpg
国立劇場.jpg
 坂東八十助(8代目・三津五郎)は、岸田劉生の周囲にいた友人たちが少しずつ距離を置きはじめている中、1929年(昭和4)の暮れに劉生が死去するまで、変わらずに親しくしていたようだ。「処生(ママ)に長けている人は、岸田さんとつき合わなかったでしょう、危険だから。どこへかみつくか分らない岸田さんとつき合うことはためらわれていた、木村荘八などもそうです」。晩年の劉生は孤独というか、やや偏屈にもなっていた。

◆写真上:1923年(大正12)に制作された、岸田劉生『新富座幕合之写生』。
◆写真中上は、7代目・坂東三津五郎()と8代目・坂東三津五郎()。岸田劉生との交流は、8代目が坂東八十助時代のこと。は、忠信(7代目・三津五郎)と静御前(3代目・中村時蔵)の『義経千本桜』(狐忠信鳥居前)。は、1975年(昭和50)発行の「絵」No.140に掲載された下程勇吉『岸田劉生と坂東三津五郎』。
◆写真中下は、岸田劉生が書いた芝居の本で1930年(昭和5)出版の『演劇美論』(刀江書院/)と、1948年(昭和22)に出版された『歌舞伎美論』(早川書房/)。は、1927年(昭和2)に東京日日新聞へ連載された岸田劉生『新古細工銀座通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』より「歌舞伎座附近」。
◆写真下は、三圍土手の場で猿まわし(7代目・三津五郎)に久松(3代目・市川左団次)とお染(7代目・尾上梅幸)の『道行浮塒鷗(みちゆき・うきねのともどり)』(お染久松Click!)。は、松江出雲守屋敷の場で高木小左衛門(8代目・三津五郎)と松江出雲守(2代目・尾上松緑)の『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』(河内山Click!)。は、“校倉”のモアレで昔からカメラマン泣かせの国立劇場正面。

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