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西片町Click!を歩いていると、「椎の木広場」(現・西片公園)の近くに気になるアトリエ建築がある。接道の北西側を向いて、大きな採光窓を備えた洋風のアトリエだ。いつかの記事でもご紹介したように、東京美術学校Click!へ新たに設置された建築科の第1期生として卒業している、建築家・金澤庸治のアトリエだ。
外観からはは、アトリエのみが洋風のデザインで、残りの住宅はすべて和建築のように見える。だが、平面図を入手したので細かく参照してみると、洋間はアトリエだけでなく1階の応接室(8畳大)と食堂(6畳大)、それに広い納戸(8畳大)が板の間のようで、2階は洋居間(8畳大)に物置(4畳半大)、調度室(3畳大)が板の間だったようだ。
また、和室は思いのほか多く1階は8畳が2間に6畳が3間、3畳の女中部屋に2畳の衣装室が付属している。2階は、床(とこ)のある10畳の客間がひとつに、6畳の次の間がつづいている。さらに、1階には浴室がふたつにトイレがふたつ、化粧室がひとつ付属している。接道から眺めた建物の雰囲気からすると、かなりコンパクトな住宅のように見えるが、南東に向かってかなりの奥行きがあり、総建坪は約100坪ほどにのぼる。
1階の居間×3室と2階の客間×2室を、真南に向けようと角度をつけて設計している。つまり、1階と2階のこの一画だけ屋根の大棟が東西を向き、家全体の軸は南東から北西に向いているのが面白い。そのため、納戸や奥の部屋へと向かう廊下が斜めに設置されていて、廊下を折れる確度が直角ではない。このような建て方の家を、わたしは落合地域とその周辺域で見たことがなく、できるだけ陽光を部屋へと採りこんで明るい家にしようという、金澤庸治ならではの工夫なのだろう。
住宅内に洋風の生活様式を取り入れながら、どちらかといえば和建築にこだわった設計や意匠をしているように見える。木造2階建てで、「洋風一部和風」と記録さているが、「和風一部洋風」が正しい表現だろう。外壁は下見板張りおよびラス張りで、内部の壁は漆喰と砂壁、屋根は三州引掛け桟瓦という仕様だ。この平面図は、1930年(昭和5)8月に清水組の施工で金澤邸が竣工した直後のもので、1935年(昭和10)に土木建築資料新聞社から出版された、清水組『住宅建築図集』に収録されている。
そこには、竣工直後の同邸の写真が内部の写真とともに掲載されているが、現在、西片町で目にすることができる実際の建物とほとんど差異がないのに驚く。おそらく、1982年(昭和57)に金澤庸治が死去したあとも、ていねいにメンテナンスが繰り返され使われつづけてきたのだろう。
金澤庸治は、東京美術学校を卒業すると1926年(大正15)から同校で長く教師をつとめ、同時に建築家として多彩な作品を残している。恩師の岡田信一郎とともに手がけたコラボ作品も、各地に数多く存在しているようだ。東京藝術大学(旧・東京美術学校)のある藝大通り(都道452号線)を歩くと、周囲には洋風建築が多い中で、ひときわ目につく和風建築がある。金澤庸治が設計し、1935年(昭和10)に竣工した東京藝大美術館の正木記念館だ。隣り(北西側)には、同記念館へ接するように師の岡田信一郎が設計した洋風の東京藝大陳列館が並んでいる。コンクリート造りだが、明らかに日本の江戸期に造られた城郭を思わせるようなデザインで、内部は日本美術の展示に使われている。
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金澤邸を施工した清水組の住宅作品について、もう少し当時の様子を見てみよう。ちょうど1930年(昭和5)8月に、金澤邸とほぼシンクロするように同規模の総建坪約100坪となる2階建て住宅を、同じく「東京市内」で手がけている。具体的な建設場所は不明だが、H氏邸と名づけられた家は、建築家の渡辺静が設計した外観は西洋館の和洋折衷住宅だ。竣工がまったく同時期であり、ひょっとすると同じ西方町内なのかもしれないが、金澤邸と比較すると面白いので少し余談めくがご紹介したい。
H氏邸は、非常にオーソドックスな造りをしていて、洋間と日本間が混在する、外観も含めて今日の住宅につながるような仕様をしている。清水組の建設作業員にしてみれば、おそらく金澤邸よりもH氏邸のほうが造りやすかったのではないだろうか。木造2階建てで見た目は洋風、外壁は色モルタルラフ仕上げとされているが、モノクロ写真なのでカラーはわからない。
1階は10室あるが、そのうち居間×2部屋と隠居部屋(老人室)、女中部屋、書生部屋の5部屋が和室だ。2階は客間と次の間が和室で、残りは洋間の造りになっている。部屋のかたちで設置されている「ベランダ―」(1・2階)も含めると、和室と洋室が半々ぐらいだろうか。浴室は1階にひとつだが、トイレは1階に2ヶ所、2階に1ヶ所の計3ヶ所が配置されている。大きめな応接室や書斎、ポーチが接道を向いて建てられている住宅(H氏邸は南向き)は、落合地域などでもよく見られた仕様だ。
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当時の住宅建設の様子について、清水組の社長・清水釘吉が『住宅建築図集』の中に記している。同書の「序」から、少し引用してみよう。
▼
住宅建設は今が過渡期であります。欧米の建築を其儘模倣して満足出来ず、従来の和風建築の儘にても亦満足の出来ない立場であります。彼我生活状態の相違は、急激なる変化を許しませぬが故に、近時、住宅改良の諸問題が論議実行されつゝある時代であります。(中略) 住宅は、我日本人の今日に取つて或は洋風が便利であり、或は和風が便利であります。従而現代は和洋折衷式が、最も一般社会から取扱はれて居ります。蓋し、自然の趨勢であらうと思ひます。即ち、住宅は其時代の真実を語つて居るものでありまして、一国の文化国民教養の程度は住宅に拠つて察知する事を得るものであります。
▲
明治期からつづく和と洋の折衷・融合について、ハウスメーカーとして試行錯誤を繰り返していた様子がうかがい知れる。
さて、1935年(昭和10)に出版された清水組の『住宅建築図集』は、明治末から1934年(昭和9)12月末までに竣工した、清水組の住宅や別荘を中心とした仕事を写真と図面でまとめたものだ。その中には、落合地域とその周辺域に建てられた住宅も含まれている。ただし、すべての住宅が施工主の頭文字をとり、アルファベットの1文字表記で邸名が記載されているので、住民の名前や住宅が建設された位置を特定するのは容易でない。
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こちらでも以前、下落合の近衛町Click!に建てられていた昭和期の長瀬邸Click!と近衛邸Click!の2棟を清水組の仕事としてご紹介しているが、おそらく落合地域で手がけた仕事は、これだけにとどまらないだろう。新たに同書で近くの住宅が特定できたら、またこちらで取り上げたいと思っている。
◆写真上:1930年(昭和5)8月に撮影された、西片町に竣工直後の金澤庸治邸。
◆写真中上:上は、金澤邸竣工時の平面図。中は、同邸2階の床のある10畳サイズの客間。下は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる西片町の金澤庸治邸。
◆写真中下:椎の木広場(現・西片公園)の近くにある、金澤邸の現状。
◆写真下:上左は、金澤庸治が設計した東京藝術大学の正木記念館。上右は、金澤庸治の師である岡田信一郎が設計した隣接する東京藝大美術館の陳列館。中・下は、金澤邸とまったく同時期の1930年(昭和5)8月に竣工したH氏邸とその平面図。
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西片町Click!を歩いていると、「椎の木広場」(現・西片公園)の近くに気になるアトリエ建築がある。接道の北西側を向いて、大きな採光窓を備えた洋風のアトリエだ。いつかの記事でもご紹介したように、東京美術学校Click!へ新たに設置された建築科の第1期生として卒業している、建築家・金澤庸治のアトリエだ。
外観からはは、アトリエのみが洋風のデザインで、残りの住宅はすべて和建築のように見える。だが、平面図を入手したので細かく参照してみると、洋間はアトリエだけでなく1階の応接室(8畳大)と食堂(6畳大)、それに広い納戸(8畳大)が板の間のようで、2階は洋居間(8畳大)に物置(4畳半大)、調度室(3畳大)が板の間だったようだ。
また、和室は思いのほか多く1階は8畳が2間に6畳が3間、3畳の女中部屋に2畳の衣装室が付属している。2階は、床(とこ)のある10畳の客間がひとつに、6畳の次の間がつづいている。さらに、1階には浴室がふたつにトイレがふたつ、化粧室がひとつ付属している。接道から眺めた建物の雰囲気からすると、かなりコンパクトな住宅のように見えるが、南東に向かってかなりの奥行きがあり、総建坪は約100坪ほどにのぼる。
1階の居間×3室と2階の客間×2室を、真南に向けようと角度をつけて設計している。つまり、1階と2階のこの一画だけ屋根の大棟が東西を向き、家全体の軸は南東から北西に向いているのが面白い。そのため、納戸や奥の部屋へと向かう廊下が斜めに設置されていて、廊下を折れる確度が直角ではない。このような建て方の家を、わたしは落合地域とその周辺域で見たことがなく、できるだけ陽光を部屋へと採りこんで明るい家にしようという、金澤庸治ならではの工夫なのだろう。
住宅内に洋風の生活様式を取り入れながら、どちらかといえば和建築にこだわった設計や意匠をしているように見える。木造2階建てで、「洋風一部和風」と記録さているが、「和風一部洋風」が正しい表現だろう。外壁は下見板張りおよびラス張りで、内部の壁は漆喰と砂壁、屋根は三州引掛け桟瓦という仕様だ。この平面図は、1930年(昭和5)8月に清水組の施工で金澤邸が竣工した直後のもので、1935年(昭和10)に土木建築資料新聞社から出版された、清水組『住宅建築図集』に収録されている。
そこには、竣工直後の同邸の写真が内部の写真とともに掲載されているが、現在、西片町で目にすることができる実際の建物とほとんど差異がないのに驚く。おそらく、1982年(昭和57)に金澤庸治が死去したあとも、ていねいにメンテナンスが繰り返され使われつづけてきたのだろう。
金澤庸治は、東京美術学校を卒業すると1926年(大正15)から同校で長く教師をつとめ、同時に建築家として多彩な作品を残している。恩師の岡田信一郎とともに手がけたコラボ作品も、各地に数多く存在しているようだ。東京藝術大学(旧・東京美術学校)のある藝大通り(都道452号線)を歩くと、周囲には洋風建築が多い中で、ひときわ目につく和風建築がある。金澤庸治が設計し、1935年(昭和10)に竣工した東京藝大美術館の正木記念館だ。隣り(北西側)には、同記念館へ接するように師の岡田信一郎が設計した洋風の東京藝大陳列館が並んでいる。コンクリート造りだが、明らかに日本の江戸期に造られた城郭を思わせるようなデザインで、内部は日本美術の展示に使われている。
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金澤邸を施工した清水組の住宅作品について、もう少し当時の様子を見てみよう。ちょうど1930年(昭和5)8月に、金澤邸とほぼシンクロするように同規模の総建坪約100坪となる2階建て住宅を、同じく「東京市内」で手がけている。具体的な建設場所は不明だが、H氏邸と名づけられた家は、建築家の渡辺静が設計した外観は西洋館の和洋折衷住宅だ。竣工がまったく同時期であり、ひょっとすると同じ西方町内なのかもしれないが、金澤邸と比較すると面白いので少し余談めくがご紹介したい。
H氏邸は、非常にオーソドックスな造りをしていて、洋間と日本間が混在する、外観も含めて今日の住宅につながるような仕様をしている。清水組の建設作業員にしてみれば、おそらく金澤邸よりもH氏邸のほうが造りやすかったのではないだろうか。木造2階建てで見た目は洋風、外壁は色モルタルラフ仕上げとされているが、モノクロ写真なのでカラーはわからない。
1階は10室あるが、そのうち居間×2部屋と隠居部屋(老人室)、女中部屋、書生部屋の5部屋が和室だ。2階は客間と次の間が和室で、残りは洋間の造りになっている。部屋のかたちで設置されている「ベランダ―」(1・2階)も含めると、和室と洋室が半々ぐらいだろうか。浴室は1階にひとつだが、トイレは1階に2ヶ所、2階に1ヶ所の計3ヶ所が配置されている。大きめな応接室や書斎、ポーチが接道を向いて建てられている住宅(H氏邸は南向き)は、落合地域などでもよく見られた仕様だ。
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当時の住宅建設の様子について、清水組の社長・清水釘吉が『住宅建築図集』の中に記している。同書の「序」から、少し引用してみよう。
▼
住宅建設は今が過渡期であります。欧米の建築を其儘模倣して満足出来ず、従来の和風建築の儘にても亦満足の出来ない立場であります。彼我生活状態の相違は、急激なる変化を許しませぬが故に、近時、住宅改良の諸問題が論議実行されつゝある時代であります。(中略) 住宅は、我日本人の今日に取つて或は洋風が便利であり、或は和風が便利であります。従而現代は和洋折衷式が、最も一般社会から取扱はれて居ります。蓋し、自然の趨勢であらうと思ひます。即ち、住宅は其時代の真実を語つて居るものでありまして、一国の文化国民教養の程度は住宅に拠つて察知する事を得るものであります。
▲
明治期からつづく和と洋の折衷・融合について、ハウスメーカーとして試行錯誤を繰り返していた様子がうかがい知れる。
さて、1935年(昭和10)に出版された清水組の『住宅建築図集』は、明治末から1934年(昭和9)12月末までに竣工した、清水組の住宅や別荘を中心とした仕事を写真と図面でまとめたものだ。その中には、落合地域とその周辺域に建てられた住宅も含まれている。ただし、すべての住宅が施工主の頭文字をとり、アルファベットの1文字表記で邸名が記載されているので、住民の名前や住宅が建設された位置を特定するのは容易でない。
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こちらでも以前、下落合の近衛町Click!に建てられていた昭和期の長瀬邸Click!と近衛邸Click!の2棟を清水組の仕事としてご紹介しているが、おそらく落合地域で手がけた仕事は、これだけにとどまらないだろう。新たに同書で近くの住宅が特定できたら、またこちらで取り上げたいと思っている。
◆写真上:1930年(昭和5)8月に撮影された、西片町に竣工直後の金澤庸治邸。
◆写真中上:上は、金澤邸竣工時の平面図。中は、同邸2階の床のある10畳サイズの客間。下は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる西片町の金澤庸治邸。
◆写真中下:椎の木広場(現・西片公園)の近くにある、金澤邸の現状。
◆写真下:上左は、金澤庸治が設計した東京藝術大学の正木記念館。上右は、金澤庸治の師である岡田信一郎が設計した隣接する東京藝大美術館の陳列館。中・下は、金澤邸とまったく同時期の1930年(昭和5)8月に竣工したH氏邸とその平面図。