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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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雑司ヶ谷で結婚した正宗得三郎。

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正宗得三郎「河港」1911.jpg
 二科会の「重鎮」といわれた正宗得三郎Click!が、若いころ高田村雑司ヶ谷で暮していたことが判明した。ちょうど日本画家になるのをやめ、東京美術学校Click!の西洋画科を卒業したあと、1909年(明治42)に初めて文展へ入選したころのことだ。しかも、雑司ヶ谷で寄宿していた先は、のちに高田町の町長をつとめることになる海老澤了之介Click!の新婚家庭だった。
 正宗得三郎というと落合地域の南西、豊多摩郡大久保町西大久保207番地に住み、大久保文学倶楽部に所属して南薫三Click!藤田嗣治Click!三宅克己Click!小寺健吉Click!、中澤弘光らとともに大久保で洋画展覧会を開催していたのは、こちらでもすでにご紹介している。また、曾宮一念Click!とも交流があったらしく、彼のエッセイには何度か訪問先として登場していた。
 正宗得三郎が海老澤家に寄宿していたのは、1909~1910年(明治42~43)ごろのわずか2年間のことで、このあと彼は結婚式を故郷で挙げるために1910年(明治43)の秋、岡山県和気郡伊里村へと帰省し、再び上京すると同年11月には妻とともに西大久保207番地の借家へ落ち着いている。
 正宗得三郎が海老澤家に寄宿していたとき、海老澤夫妻には子どもが生まれたばかりで、後藤徳次郎邸の門前に拡がる芝庭に、老母の隠居家つづきの2階家を建ててもらって住んでいた。明治末の地番でいうと高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原730番地、大正末には高田町雑司ヶ谷御堂杉733番地、1932年(昭和7)からは豊島区雑司ヶ谷5丁目732番地(現・南池袋3丁目)となる区画だ。当時の様子を、1954年(昭和29)に出版された、海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 かうした生活のさなかに、どうした事からか、二科会の元老正宗得三郎君が、私の所に暫時止宿して居た事があつた。同君は未だ独身時代で、今の様な名声も無く、純情朴訥な画家でありながら一切が無造作で、まことに愛すべき人柄であつた。彼が、ブラブラして居ると、手を離しかねる仕事をしている妻が「正宗さん、赤ん坊を抱いてちやうだいよ」と言ふ、ぶつきら棒な正宗君は「僕は赤ん坊嫌ひです」と一応言ふものゝ、再度の要請で、しぶしぶ両手を不器用に赤ん坊の方へ差し出す、妻がその上に乗せてやると、そのまゝの姿勢で前の芝生を一周する。両腕に赤ん坊を捧げて居る様な恰好であるから、直ぐくたびれてしまつて「奥さん、くたびれました」と誠に困つた様な顔つきで言ふが、その時も矢つ張り、前と同じ姿勢なのであつた。どうも正宗君は赤ん坊の抱き方を知らなかつたやうだ。この場面や、困却した彼の顔を回想すると、自づ(ママ)と微苦笑せざるを得ない。しかし彼も、間もなく私の中二階で、千代子さんと言ふ新妻をめとることとなり、又しても赤ん坊を抱かなければならない羽目とはなつた。
  
 故郷岡山での結婚式とは別に、正宗得三郎・千代子夫妻の東京での結婚披露宴は、海老澤家の中2階で行われたのがわかる。

海老澤家1909.jpg
雑司ヶ谷中原730番地1910頃.jpg
海老澤邸1910.jpg
 明治末から大正初期にかけ、海老澤家を含む雑司ヶ谷の後藤徳次郎の屋敷は、樹齢400年ほどのケヤキやスギの森に囲まれており、山手線の池袋停車場Click!まで田畑や林が拡がるような情景だった。武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)はいまだ敷設されておらず、池袋停車場で降りた観光客たちが雑司ヶ谷鬼子母神Click!とまちがえて、後藤屋敷を訪れるような風情だった。後藤屋敷の前に拡がる芝庭だけで数百坪はあったというから、おそらく後藤徳次郎の屋敷地はゆうに1,000坪を超えていたのだろう。屋敷の北東にかけて、ようやく市街地が形成されるような時代だった。
 さて、ここで少し横道にそれるが、後藤徳次郎邸=海老澤了之介邸周辺の字名が、少なくとも明治末まで「中原」と呼ばれていた点に留意したい。本記事に掲載した1/10,000地形図でも「中原」の字名が収録されているが、この字名は大正期(高田町が誕生した1920年ごろか)には「御堂杉」に変わり、「中原」という字名は池袋駅の西側、西巣鴨町大字池袋の立教大学周辺で存続していく地名となる。
 そこで、佐伯祐三Click!「踏切」Click!に描かれた看板に見える「中原工〇」Click!は、立教大学周辺の(字)中原ではなく山手線の東側、すなわち後藤徳次郎の屋敷があった周辺の(字)中原で、早い時期から操業していた工場である可能性があることだ。以前、同様の記事を書いたときは、山手線の西側の(字)中原界隈を探索していたが、新たな事実が判明したので山手線の東側一帯(現・南池袋界隈)にも注意を向けてみたい。この課題について、新たな事実が判明したらさっそくご報告したいと考えている。
 1910年(明治43)11月、正宗得三郎が西大久保へ落ち着くと、海老澤了之介Click!は盛んに彼の仕事を支援したり、面倒をみたりしていたようだ。正宗得三郎から海老澤了之介にあてた手紙が現存しているので、つづけて引用してみよう。
正宗得三郎(卒制)1907.jpg 正宗得三郎(晩年).jpg
海老澤邸1926.jpg
正宗得三郎「白浜の波」1938頃.jpg
  
 先日は態々御出下されしも、不在にて失礼致し候、本日洋服店へ参り、インバネスの表地は貴兄と御同様に致し候、裏地はシユスに致し、代価十五円にて注文候、尚オーバー十七円にて注文候、油絵御周旋有難く候、肖像は、一度御本人に面会の上写真拝借致し候方都合宜敷、又似る点に於ても、写真の方宜敷く、色は、一度会えば大抵解り申し候、右の都合故、貴兄の御都合宜敷時、御一報下されゝば、小生は何日にても参る可く候、尚静物は何かの二十号なれば、御送付致し置きても宜敷候、代価は、額縁つき、五十円か六十円なれば結構に候、一時払ひでなくも、ニ三度にても宜敷く候、これより小さきもの、要求に候はば、至急、写生致すべく、右御聞かせ下され度く候/二伸 実業の日本社の御方、住所御通知合せて御願ひ申上げ候、本日実は千代子差上げ申す筈の所、少々用事出来、右手紙にて御尋ね申上げ候
   明治四十三年十一月十六日      府下西大久保二百七  正宗得三郎
  
 インバネスClick!やオーバーを注文しているところをみると、海老澤が馴染みの洋服店を正宗に紹介してあげたのだろう。このとき描かれた肖像画は、大蔵省醸造試験所の所長だった『桜井鉄太郎像』のことであり、静物画を欲しがっている「実業の日本社の御方」とは、海老澤了之介が早稲田大学文学部で同窓だった、のちに児童文学者となる滝沢永二(滝沢素水)のことだ。
 このあと、ほどなく正宗得三郎は官製の文展(文部省美術展覧会)に飽きたらず、1913年(大正2)には二科の創設運動へ参加し、翌1914年(大正3)には二科会を結成することになる。そして、同年4月に日本を発つと、第1次世界大戦が勃発するまでの丸2年間、ヨーロッパで遊学生活を送ることになる。
海老澤邸1936.jpg
海老澤邸19450517.jpg
海老澤邸跡.jpg
 正宗得三郎は、大正末から昭和初期にかけ成城学園で美術教師をつとめ、アトリエを上落合に南接する中野区住吉町(現・東中野4丁目)にかまえていた。地下鉄東西線・落合駅の南側で、華洲園住宅地Click!の西側にあたる区画だ。だが、1945年(昭和20)の二度にわたる山手空襲Click!でアトリエは焼け、保管されていた絵画作品をすべて失っている。

◆写真上:1911年(明治44)に、西大久保の新婚時代に描かれた正宗得三郎『河港』。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる後藤徳次郎屋敷。は、海老澤了之介が描く1910年(明治43)ごろの後藤徳次郎邸。深い森に囲まれており、手前の芝庭には海老澤邸が描かれている。は、海老澤了之介邸の拡大。
◆写真中下上左は、正宗得三郎が描いた東京美術学校の卒制『自画像』。上右は、晩年の正宗得三郎。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる後藤徳次郎邸。は、1938年(昭和13)ごろ制作の正宗得三郎『白浜の波』。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる海老澤了之介邸(旧・後藤徳次郎邸)。は、第1次山手空襲後の1945年(昭和20)5月17日にF13偵察機から撮影された海老澤邸の焼跡(?)。は、昔日の面影が皆無な海老澤邸(旧・後藤邸)跡。

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