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佐伯祐三と佐野繁次郎の「大阪人」談義。

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船場(北船場)1929.jpg

 1928年(昭和3)に発刊された「三田文学」11月号に、佐野繁次郎による『佐伯祐三を憶ふ』と題された追悼文が掲載されている。この文章は、朝日晃により1979~1980年(昭和54~55)にかけて編集された、近代画家研究資料『佐伯祐三』(全3巻)にも収録されておらず、2007年(平成19)に神奈川県立近代美術館で開催された「パリのエスプリ 佐伯祐三と佐野繁次郎」展の図録に、初めて再録されたものだ。
 フランスでの佐伯祐三Click!の死を知った佐野繁次郎が、間をおかずに書いたとみられる文章だが、つづく佐伯の娘・彌智子Click!の死を知らないところをみると、8月16日の死去の知らせがとどいた直後、ほどなく書いた追悼文なのだろう。ちなみに、佐伯祐三の子どもを娘ではなく「一人つ子の坊ちやん」と書いているのは、1926年(大正15)9月の「アサヒグラフ」に二科賞を受賞した佐伯一家の写真Click!が掲載されたとき、記者が誤って彌智子のことを「令息」と書いてしまったため、同誌の愛読者だった佐野繁次郎は誤認したままだったとみられる。
 佐伯祐三と、2歳年下の佐野繁次郎は少年時代からの友人で、船場の佐野の実家が中津の光徳寺Click!とつき合いがあったため、佐野は佐伯に誘われて赤松麟作Click!の画塾へと通っている。佐野はすぐに画塾を辞めてしまい、一時期のふたりは疎遠になっていたようだが、東京へ出てきてからふたりの親しい交遊は復活している。
 佐野繁次郎は、『佐伯祐三を憶ふ』の中で文節を分けるように小見出しをつけ「佐伯は根気の強い男だつた」、「佐伯は執念強い男だつた」、「佐伯は生一本な男だつた」、「佐伯は絵ばかりの男だつた」、「佐伯は情の厚いたちの男だつた」……というように、それぞれのエピソードを紹介するような構成で綴っている。中でも、これら佐伯についての評価を、大阪人の「最もいゝものだけを持つたもの」「大阪人の意力」ととらえ、ふたりで語った「大阪人」談義を書きとめている。
 大正期から昭和初期にかけて、自身のアイデンティティでもあるふたりの「大阪人」像(大阪人に対するイメージ)が語られている、とてもめずらしい資料だろう。先の「パリのエスプリ 佐伯祐三と佐野繁次郎」展図録から、少し引用してみよう。
  
 「大阪人」のよくな(ママ:い)とこ、――それは僕同様、佐伯自身も認めてゐた。が、僕等はよくその非大阪人の常識になつてゐる大阪人の悪評について、一緒に語つたものだ。/――こんなことは勿論、語る対象の頗る漠然としたものだ。例へば、一人々々としてみれば、東京人のうちにも強欲な人がある如く、大阪人のうちにも案外、無欲なぐうたらべえもゐるし、又、現在の諸国から入り込んだ人が大部分である都会では、どの程度、どの範囲を以つて、大阪人、東京人と定めることはあたまで容易に出来得ることではない。だから、厳格に言ひ出したら、一寸仕末のつかないことだけど…。/が。――船場の中の家が、今の様に軒のないやうな形にならない――軒の深い、暗い格子があつて、隣近所がみんなしもた屋でも暖簾をつつてゐた、――夕方になると瓦斯燈屋が三弾程の脚立を持つて、軒並の軒燈に石油を差し火を点じに来た――あの頃の大阪なら、そして少なくとも、三代船場に住んでゐる家なら――どこかに、悪い意味でもいゝ意味でもの大阪を慥かに持つてゐたのである。
  
 わたしは、当時の「船場」がどのような街だったのかは、せいぜい江戸東京人で同郷だった谷崎潤一郎Click!描くところの、『細雪』ほどの知識しか持ちあわせていないのだけれど、日本橋と同様に古くからの文化や習慣をもっていた城下町であることは想像がつく。それが、『細雪』にみられるように崩壊しはじめたのが、谷崎や佐野が生きていた昭和初期なのだろう。ちなみに、古い時代の日本橋の崩壊は、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!が端緒だった。
 だが、日本橋のコミュニティ崩壊=江戸東京らしさの崩壊とはならないように、船場の崩壊=大阪の崩壊とはならないのではないだろうか? 佐伯と佐野は、そう規定しているようなのだが、日本橋が江戸東京のごく一部であるように、船場も大阪の一部にすぎないだろう。江戸東京には、日本橋以外にも神田や京橋、芝、麹町、下谷、麻布、本所、深川、牛込、四谷、小石川、本郷、浅草……と、江戸からの城下町だけでも独特な文化をもった、およそ20以上の地域や街があるように、大阪にも船場に限らず他の地域があったはずだ。そこでは、船場とは異なる文化や習慣が古くから根づき、受け継がれていたはずであり、そこで話される大阪方言もまた異なっていたのではないか。
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佐伯祐三・彌智子.jpg

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パリのエスプリ図録.jpg
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佐野繁次郎.jpg

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佐野繁次郎瀧野川アトリエ.jpg

 たとえば、京都の市街地(洛中Click!+外周市街域)は、ほぼ東京の港区(旧・芝区+麻布区+赤坂区)と同じぐらいのサイズだが、京都市街地においてすべてのエリアで同一の京都方言が話され、均一の文化が共有されている……とは思えない。港区は、東京23区の中では相対的に中ぐらいよりもやや小さめなサイズの区だが、そこで古くから話されてきた東京方言が同一でないのと同様だ。そこでは、エリアによって武家由来の乃手Click!方言と町人の(城)下町方言Click!、そして職人や漁師など独特な方言や生活言語ほどのちがいがあったはずだ。だから、「船場人=大阪人の象徴」とする佐伯と佐野の規定には、どこか「ちがうのではないかな?」という疑問が湧いてしまう。
 ふたりの大阪人規定には、わたしのついていけない側面もある。たとえば、「親戚に一寸百円取かえても利息はちやんと取つた」と書かれているが、親戚にカネを貸して利子まで巻き上げるのは、こちらの感覚では異様だ。親戚同士は、困ったときに助けあうお互いさまの関係であり、債権者と債務者の関係とは無縁のものだ……というのが、わたしが育った環境の感覚だ。
 「お金を儲けるといふことが男の仕事だつた」という規定は、こちらでもある側面ではまったくそのとおりなのだが、「儲ける」ではなく食えるほどには「稼ぐ」と表現したほうが、こちらの感覚に近いだろうか。また、「稼ぐ」のは別に「男」とは限らないのも、大阪とこちらとでは大きな文化のちがいかもしれない。江戸の昔から、マネジメントにおける意思決定の中核にいたのは、「お上さん」「女房」あるいは「奥方」たる女性のケースが多く(これは町人に限らず、幕府の御家人や小旗本の家庭でも見られた現象だ)、ことさら「男」が……という規定は、いまだ関西に残る「東女(あずまおんな)」Click!という言葉が象徴的なように、大阪よりもかなり弱いように思える。
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船場警察署1912.jpg

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船場(心斎橋筋)1929.jpg

 さて、佐伯祐三がフランスから帰国した1926年(大正15)の春、400点以上の滞仏作品を持ち帰っているのを、佐伯から直接聞いた佐野繁次郎が証言している。同追悼文より、「佐伯は絵ばかりの男だつた」から引用してみよう。
  
 描く日は一日六枚も七枚も描いてゐたやうだつた。/そして、その絵の上でも、佐伯は、これと見当をつけると生一本に、根気で、何処迄も執念強く押すといふいき方をしてゐるやうだつた。――佐伯が、あの決して強くない體でであれだけの仕事をしたのは、全くこれに他ならないと僕は思つてゐる。/――仏蘭西から帰つて来た時、夫人の実家である、土橋の像家屋さんで、三年彼地へ行つてゐた間に描いた絵が「大体四百枚、まだちよつとある」と聞いた時も、僕はつくづくさう思つた。
  
 第1次滞仏からもどった佐伯と、佐野繁次郎は土橋の池田象牙店Click!で再会していたのがわかる。関東大震災の直後に日本を発っているため、下落合のアトリエや母家は被害を受けたままの状態で、修理中だった可能性がある。アトリエの屋根に、通常の瓦ではなく軽い布瓦(石綿瓦)Click!を葺いたのも、この時期のことなのかもしれない。
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佐野繁次郎装丁「お嬢さん放浪記」1958.jpg
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佐野繁次郎「画家の肖像(死んだ画家)」1964.jpg

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佐野繁次郎(戦後).jpg

 佐野の文章を読み返すと、「根気の強い男」「執念強い男」「生一本な男」「絵ばかりの男」だった佐伯祐三が、1926年(大正15)の真夏Click!から取り組みはじめ、「現代の文化式のものを画く」と小島善太郎Click!に宣言してスタートした連作「下落合風景」Click!を、わずか50数点(「制作メモ」Click!にタイトルはあるが、該当する作品が現存しないものを含めると60点余)で止めてしまったとはとても思えない性格が浮かび上がってくる。戦災で焼けてさえいなければ、必ずどこかに人知れず同作は埋もれているはずだ。

◆写真上:1929年(昭和4)に撮影された北船場界隈と、土佐堀川に架かる難波橋。
◆写真中上は、1926年(大正15)ごろ撮影の佐伯祐三と彌智子。中左は、「パリのエスプリ 佐伯祐三と佐野繁次郎」展(神奈川県立美術館/2007年)の図録表紙。中右は、大阪は船場(墨問屋「古梅園」)出身の典型的な“ぼんぼん”で貧乏知らずだった佐野繁次郎。は、東京の瀧野川に建っていた佐野繁次郎アトリエ(設計・大石七分)。
◆写真中下は、1912年(明治45)に撮影された船場警察署(右端)と船場界隈。は、1929年(昭和4)に撮影された心斎橋筋の船場界隈。
◆写真下上左は、1958年(昭和33)に佐野繁次郎が装丁した犬養道子『お嬢さん放浪記』。上右は、1964年(昭和39)に制作(加筆)された佐野繁次郎『画家の肖像(死んだ画家)』。は、「銀座百点」の表紙を描いていたころの佐野繁次郎。

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