下落合の目白通り沿いには、大正末に「目白工学校」という理系の専門学校が存在したらしい。「らしい」のまま断定的に書けないのは、目白工学校の実態がまったく把握できないからだ。いくら地元の資料や地図類を参照しても、「目白工学校」というネームは発見できない。同校の電話番号は「牛込一五一八番」なのだが、この電話は下落合437番地に開校していた目白中学校Click!の番号とまったく同一なのだ。
目白工学校の生徒募集は、1926年(大正15)2月11日の東京朝日新聞に掲載されている。募集要項によれば、「予科約二百名募集」で「本科建築高等科各百名募集」の、つごう約400名の生徒を集める予定だった。試験日のスケジュールはなく、「三月十五日始業」と書かれているので、応募すれば誰でも無試験で入学できたらしい。問い合わせ先は、「牛込一五一八番」となっている。
この募集広告の右隣りには、同じ枠内に目白中学校Click!の募集広告が掲載されていて、「一年約二百名」を募集しており、試験日は「三月三十日」と指定している。また、2年生と3年生の補欠生徒も「若干名」募集しており、試験日は「三月廿七、八日」としている。そして、問い合わせの電話は、共通で「牛込一五一八番」だ。(冒頭写真) この電話番号は、電話が普及しはじめた明治末から一貫して、目白中学校Click!の事務局に通じる連絡先だったはずだ。これはいったい、どういうことだろうか?
たとえば、目白中学校が明治期に出稿した、早い時期の生徒募集広告を参照してみよう。1909年(明治42)3月20日の、東京朝日新聞に掲載された広告だ。
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私立 目白中学校 生徒募集
第一学年(尋常小学卒業者は無試験) 〇願の者は寄宿を許す
東京府豊多摩郡落合村目白停車場附近 〇電話番町一五一八番
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いまだ明治期なので牛込電話局が存在せず、電話は少し離れた番町局扱いになっているが、電話番号は当初より「一五一八番」だった。つまり、大正末には存在したとみられる目白工学校は、目白中学校とまったく同一の場所にあり、同じ事務局を共有していた、つまり学校業務を共有していた……と考えざるをえないのだ。
1926年(大正15)2月11日の東京朝日新聞に掲載された、目白工学校の生徒募集広告では応募者が集まらなかったのか、同年3月11日に再び同紙上に募集広告を出している。ただし、目白中学校はすでに応募者数を満たしたのか、募集広告を出稿していない。以下、目白工学校の募集広告全文を引用してみよう。
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目白工学校
予科約二百名募集/本科建築高等科/各百名募集/三月十五日始業
◎東京市外目白駅上 ◎電話牛込一五一八番
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始業式を3月15日にひかえ、3月11日になっても生徒が集まらずに、焦って募集を繰り返していた様子がうかがわれる。
1926年(大正15)春という時期は、目白中学校が下落合から上練馬村高松2305番地Click!へ移転する直前であり、山手線沿いの至便な立地から、交通が不便で通いにくいキャンパスへ変わるという計画は、同年に目白中学校へ入学した生徒たちも承知していただろう。その高いネームバリューから、なんとか生徒の定員は確保できたようだが、応募者数は大きく落ちこんでいた可能性が高い。
目白中学校の経営陣は、上練馬村への移転とともに生徒数が漸減するのを予想し、大正末に新たな専門学校として目白工学校を創立しているのではないだろうか。そして、減った生徒数を目白工学校の生徒数で埋め、目白中学校の校舎を同校と新たに設置を予定している目白工学校とで、共有利用しようとしたのではなかったか。
なぜなら、1926年(大正15)の初夏に地鎮祭が行われた上練馬村高松のキャンパスには、校舎を新たに建設するのではなく、下落合にあった目白中学校の校舎を、そのまま移築して使用する計画だったからだ。目白中学校の生徒が減れば、校舎は空き教室だらけになってしまうので、新たに目白工学校を立ち上げて生徒数を補い、従来と同様に安定した経営をつづけようとしていた……、そんな経営者の思惑が透けて見えそうだ。
1926年(大正15)秋に上練馬村高松2305番地へ移転した直後、1927年(昭和2)3月26日の東京朝日新聞に掲載された目白中学校の募集広告を引用しよう。
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目白中学校 生徒募集
◎第一学年 (四月六日入学試験) 試験科目 (国語、算数)
◎第二、第三学年補欠若干名 (三月廿八、廿九日入学試験)
府下/上練馬村高松/武蔵野線中村橋下車八丁
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明治期から生徒募集広告ではおなじみだった、「一五一八番」の電話番号が記されていない。このあと、目白中学校は人気が急落し、生徒数が減りつづけることになる。そして、1934年(昭和9)にはついに全学年で生徒数65名にまで落ちこんでしまった。
大正末に生徒を募集していた目白工学校だが、目白中学校が上練馬村高松へと移転した1926年(大正15)の秋以降、パッタリとその校名を見かけなくなってしまう。翌1927年(昭和2)に、新聞紙上に現れた募集広告は上掲のように目白中学校のみで、目白工学校の募集広告は見かけない。おそらく、目白中学校の経営陣の思惑が外れ、生徒がほとんど集まらなかったのではないだろうか。
うがった見方をすれば、新たに創立した目白工学校は、「目白」で生徒をできるだけ募集して人数をそろえ、当初は下落合の校舎で授業を行いつつ、半年後には上練馬村へ移転したあとも「目白工学校」を名のりたかったのではないだろうか。しかし、応募してくるはずの生徒たちは、目前に迫る目白中学校の練馬移転を知っていたため、入学希望者がほとんどなかったように思われるのだ。
◆写真上:1926年(大正15)2月11日発行の東京朝日新聞に掲載された、目白中学校と目白工学校の同時募集広告で、電話番号が共用な点に留意したい。
◆写真中上:上は、目白通りに面した下落合437番地の目白中学校。中は、1909年(明治42)3月24日発行の東京朝日新聞に掲載された目白中学校の募集広告。下は、目白中学校の跡地から目白通りを眺めた現状で正面は目白聖公会。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)3月11日発行の同紙に掲載された目白工学校の生徒募集広告。中は、1926年(大正15)の夏に行われた上練馬村高松キャンパスの地鎮祭。下は、上練馬へ移転後の目白中学校と東京同文書院Click!の正門と本館。
◆写真下:上は、上練馬村高松2305番地へ移転後の目白中学校正門。中は、近隣から見た上練馬高松キャンパスの遠景。下は、上練馬へ移転したあと1927年(昭和2)3月26日発行の東京朝日新聞に掲載された目白中学校の生徒募集広告。