前回は、神田や日本橋、京橋、尾張町(銀座)といった(城)下町Click!の中心部の写真をご紹介Click!したので、今回はもう少し範囲を拡げてみよう。同様に、関東大震災Click!の写真ではあまり見たことのない画面をピックアップしてみたい。引用するのは、やはり大阪の関西文藝社が1923年(大正13)9月25日に発行した写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』と、小石川の歴史写真会が同年11月1日に発行したグラフ誌『関東大震大火記念号』の2冊からだ。
まず、震災の被害が比較的少なかったはずの、小石川区大塚仲町にあった歴史写真会Click!が、なぜ編集を終えているにもかかわらず、すぐにグラフ誌を販売できなかったのか、その理由を読者に釈明する“社告”から引用してみよう。同社告は、1923年(大正12)11月1日に博文館印刷所から出版された、『関東大震大火記念号』第2巻の裏表紙に掲載されているものだ。
▼
本誌十月一日発行『関東大震大火記念号第一巻』は社員一同必死の努力を傾倒したる結果、幾多の貴重珍奇なる資料を蒐集することが出来、東京に於て印刷発行せられたる各種災害写真帖中の先駆を為すを得たのでありましたが、果然註文殺到又殺到の盛況を来し未だ製本工場より受渡しを了せざる間に奪ひ合いの有様となり、而も下町方面幾多の工場焼失の為め製本能率に大障碍を来し其の困難到底名状すべからず、常に責任観念の尊重を以て第一義と心得る社員一同は、各位の御註文に対し空しく送本を延滞せしむることに就き日夜腸九回の思ひを続けましたけれども、奈何せん災後日尚浅く諸事一として意の如くならず、殊に輸送機関の大故障は一層此の恨みを深くするに与つて力あるもので遂に彼の如き不結果を招くこととなりました。(以下略)
▲
当時の混乱していた印刷・製本事情や、壊滅した物流(取次配本)ルートの状況がうかがえる。10月1日に第1巻を発行したことになっているが、実際に読者の手もとにわたったのは、おそらく10月も半ばをすぎてからではないだろうか。
自前で印刷・製本工場や配送ルート、自動車(トラック)などをのネットワーク持っていた被害の少ない新聞社や大手出版社は、かなり早めに写真集やグラフ誌を販売できているが、中小の出版社は印刷・製本の手配さえままならず、せっかく印刷・製本が完了して社屋に運びこんでも、今度はそれを書店に配本する手段が見つからないような状況だった。また、通信販売では郵便が壊滅的で深刻なダメージを受けているため、郵便物の行方不明や配達遅延、郵便局員の行方不明が多く発生していた。
郵便を統括する逓信省は、9月5日から預貯金の支払いを再開しているが、郵便業務は混乱をきわめていた。切手やはがき、封筒、便箋などが焼失してしまったため、メモのような紙きれやタバコの箱、布きれ、手拭い、ハンカチ、着物の端ぎれ、手袋などに文面と宛先を書いたものが郵便局に持ちこまれ、そのまま地方へ配達されるか、電報で文面を各地に配信している。特に無料化された災害電報が混雑をきわめ、おもに焼け残った乃手の郵便局前には長蛇の列ができている。
さて、まずは歴史写真会の同誌から巻頭の人着写真を見てみよう。冒頭の写真は、本所の被服廠跡地で撮影されたもので、震災からいくらか日数がたったころのものだ。中央に築かれた山は、大川(隅田川)沿いで遮蔽物がなかった同廠跡地に避難し、大火流Click!に巻きこまれて死亡した38,000人の遺骨の一部で、画面の右手では骨壺に遺灰を収める気の遠くなるような作業が行われている。背後には濃い煙が漂っているので、いまだ遺体を焼却している最中なのだろう。
同誌の2巻は、震災から1ヶ月半が経過したころ編集されているので、被災地の後片づけや避難者・避難地の状況、大杉事件(甘粕事件)Click!などを記録しているが、関西文藝社の写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』は震災直後の避難場所や、大火災をとらえたものが多い。特に、避難者が殺到して身動きがとれなくなった上野駅前や上野公園、浅草公園などを撮影している。
上野のある下谷区では、上野松坂屋付近から出火した火災が北西にある東京帝大方面へと延焼し、本郷3丁目から新谷町、団子坂、白山、日暮里、そして南千住まで拡がって、ほとんどの住宅を焼きつくした。また、浅草方面から避難してきた人々と下谷の避難民が上野駅前に詰めかけ、身動きがとれなくなったところへ延焼が迫り、多くの死者を出している。上野駅前の人々は、火災から逃れようと上野山へ避難し、上野公園から道灌山、谷中墓地まで避難民であふれ返った。上野から谷中までの避難民数は不明だが、少なくとも30~40万人ではないかと推定されている。
関東大震災で家をなくした罹災者は、100万人をゆうに超えるといわれているが、そのうちの8割近くが10日以内に地方へ疎開(帰郷)している。一方、故郷のない江戸期からの住民を中心に2割以上が、市内の大きめな公園や広場、寺社の境内などで避難生活を送ることになった。また、市街地にあった大使館や公使館の外国人たちも、避難者に混じってテントやバラックで生活をする姿もめずらしくなかった。
上野公園から道灌山、谷中墓地の界隈はかろうじて焼け残ったが、浅草公園は一度全焼しているものの、火災が収まると敷地が広かったせいか、周辺の被災者たちが次々ともどってきて避難街を形成している。浅草寺は本堂と五重塔、仁王門を残しほぼ全域が火災により焼失した。ここでも延焼は北側へと広がり、吉原から三ノ輪方面(現・千束界隈)はほぼ全滅している。特に吉原遊郭では、茶屋や妓楼がすべて倒壊または炎上し、塀に囲まれて外へ逃れられない娼妓たちや、吉原遊郭に勤めていた人々千数百名が、焼死または溺死している。その様子を、関西文藝社の同写真集から引用してみよう。
▼
吉原方面は一軒も残らず全部崩壊焼き払はれ全町の娼妓、娼夫、住民は命からがら裏手の公園に辿りついたが火は忽ち公園に及び千数百名は附近の池に飛び込み全部溺死を遂げた、こゝを脱れた数万は何れも市外へ遁げるべく迂回して両国橋を渡り寺島を経て千葉県、茨城県方面へ一進一退見るも哀れの状態で避難した。
▲
文中で「千数百人」としているが、吉原弁天池で溺死した娼妓は500名弱、残りの死者は遊郭内に住んでいた、または勤めていた人々の圧死や焼死も含まれている。
関東大震災では被害が少なかった、おもに乃手のターミナル駅である田端駅や飯田町駅、新宿駅、品川駅、日暮里駅などから次々と避難列車で、実家のある故郷や出身地方へと帰る人々の流れが、何日も途切れることなくつづいた。自身が住んでいた被災地や地域に踏みとどまり、江戸東京の地付きの住民とともに進んで復興へ尽力した人たちは、はたしてどれほどいたのだろうか?
関東大震災では、あらかた震災被害が片づいて落ち着き、復興が進んでから東京へもどってきた人々が圧倒的に多かった。つまり、震災の後片づけや被災地の救援という、いちばんたいへんで負荷の高いやっかいな作業フェーズは丸ごとパスして帰郷し、それが済んでから再び東京地方へとやってきた、「美味しいとこ取り」だけが目的の連中だ。自分たちの故郷が災害にみまわれ、その地で「わたしの故郷は東京地方だからさ、もう帰るね。じゃ、あとはよろしくね」と、さっさと引き上げる東京人がいたとしたら、地元で被災した人々はその姿に、いったいどのような感慨を抱くだろうか?
これは、1945年(昭和20)の東京大空襲Click!直前でも見られた現象だし、特に寺や墓地を守らず、さっさと「本山」に帰郷し、逃亡していった坊主Click!にもからめて書いたことだが、もしも近未来に同様の事態が起きたとしたら、「大江戸(おえど)の恥はかきすて」Click!とばかり尻に帆かけて逃げ出したりせず、ぜひ踏みとどまって街の再興に向け協力・支援をしてほしいものだ。それが、この街で暮らして生活し、さまざまなコミュニティやサービスの恩恵を受けていたことに対する、最低限の礼儀礼節というものだろう。
<つづく>
◆写真上:被服廠跡で焼却をつづける遺体から出た、遺骨の山と骨壺への収納作業。
◆写真中上:『震災情報/SHINSAIJYOHO』(関西文藝社)より。上から下へ、下谷地域と浅草地域から避難民が殺到した上野駅前、消息を訊ねる紙が貼られた西郷像と上野公園、全焼した東京市電の残骸が残る上野広小路、田端駅から地方へもどる避難民たち。
◆写真中下:上から下へ、一度は焼けた浅草公園へ再び避難してきた人々、余燼がくすぶる全滅した浅草六区界隈、震災直後に東京電燈本社(有楽町)から出火した様子、東京府庁・東京市庁(合同庁舎)前に集まった貼り紙を見る被災者たち。
◆写真下:『関東大震大火記念号』(歴史写真会)より。上から下へ、ほぼ壊滅した幕末の疎開地以来のオシャレな西洋館街だった築地、震災直後に出火した丸ノ内界隈、膨大な死者を荼毘にふす被服廠跡、臨時のバラック納骨堂ができた被服廠跡。