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松本竣介の「世界」とコンフォーミズム。

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松本竣介アトリエ.JPG
 この11月24日で、拙ブログは15年目を迎えました。これまで、のべ1,623万人の皆さまにお読みいただき、またさまざな方々より貴重な情報や資料をお寄せいただき、ほんとうにありがとうございました。改めて、心よりお礼申し上げます。
  
 2003年(平成15)に響文社から出版された柴橋伴夫『青のフーガ難波田龍起』には、目白中学校Click!について1909年(明治42)に創立された「当時は、細川護立の屋敷の内にあった」と書かれているが、同年の地図を参照しても創立当初から、落合村下落合437番地に「文」の記号とともに同中学校が採取されている。おそらく、目白中学校の計画中に文部省へ登録した学校法人としての登記所在地が、小石川区高田老松町63~65番地とされていたのだろう。
 同書では、洋画家・難波田龍起Click!が目白中学校の美術教師・清水七太郎Click!に絵を習った様子が書かれているが、難波田の父である難波田憲欽もまた、同校で木下利玄や金田一京助Click!らとともに教師をしていた。難波田憲欽は習字を教えたり、舎監をつとめたりしていたようだが、もちろん清水七太郎Click!とも親しかったろう。ひょっとすると、清水家と難波田家は家族ぐるみのつき合いをしていたのかもしれない。なぜなら、難波田龍起が目白中学校を卒業したあとも、清水七太郎と交流をつづけていたニュアンスが、松本竣介Click!が発行していた「雑記帳」Click!の誌上でも感じとれるからだ。
 1937年(昭和12)に下落合4丁目2096番地(松本竣介アトリエClick!)の綜合工房Click!から発行された、本号が終刊号となる「雑記帳」12月号には、清水七太郎が『大正初期の洋画界』、難波田龍起が『文化序説』という文章を寄せている。おそらく、古い時代の東京美術学校Click!と当時の画壇の様子を知悉していた清水七太郎に、難波田が声をかけて執筆を依頼しているのだろう。難波田は、清水七太郎を松本竣介ないしは禎子夫人に紹介しているのかもしれない。同号には小熊秀雄Click!をはじめ、高村光太郎Click!三岸節子Click!福澤一郎Click!佐伯米子Click!など多彩な顔ぶれが文や絵を寄せ、翻訳ものではO.ヘンリーとC.マンスフィールドの短編が紹介されている。
 ちょうど同号が編集されている1937年(昭和12)秋の綜合工房、すなわち松本竣介アトリエへ特高Click!の刑事が訪れている。おそらく、同年7月に勃発した日中戦争を意識して書いているのだろう、「雑記帳」9月号に「動くこの生活の中に、どのやうに非合理的なものが強行されようとも、又驚くべき欺瞞が眼の前で演ぜられようとも、知らぬ顔をしてゐる、いや感じない修練こそ伝統的処生(ママ:世)の秘法であつた。底の抜けた謙譲さはかうして作られたのであらう」(1937年8月記)と、遠まわしながら反戦を感じさせる批判的な文章を書いたのがひっかかったのかもしれない。なにやら、現在の政治や社会状況でも通用しそうな文章だが、お茶を出して気をもむ禎子夫人をよそに、しばらく松本竣介と筆談を交わしたあと、特高の刑事はそのまま引きあげていった。
 松本竣介が、1930年代から40年代にかけて急激に進む日本のファッショ化や、戦時中の軍国主義に抗した文章として取りあげられるのは、前述の「雑記帳」9月号に掲載された『真剣な喜劇』と、日米開戦が目前に迫った1941年(昭和16)、即日発禁処分となった石川達三Click!の『生きてゐる兵隊』(1938年)をもじった、「みづゑ」4月号に寄せている『生きてゐる画家』が挙げられる。だが、当時の政府当局や軍部をより痛烈に批判する文章は、実質的な終刊号となった「雑記帳」12月号に掲載された、松本竣介『コンフオルミズム』ではないだろうか。
柴橋伴夫「青のフーガ難波田龍起」2003.jpg 雑記帳193709.jpg
清水七太郎1922.jpg 難波田龍起1932.jpg
 『コンフオルミズム』は、同年の「雑記帳」10月号にアンドレ・ジイドについて触れた、エッセイ『孤独』のつづきのような体裁をとってはいるが、松本はジイド『ソヴェト紀行』の評論を装いつつ、ファシズムあるいは軍国主義への流れが一気に加速する、日本人のコンフォーミズム(画一主義・順応主義)について徹底した批判を繰り広げているように、どうしても読めてしまうのだ。
 小松清・訳のジイド『ソヴェト紀行』(岩波書店)では、その取材で「自然に生ひ立つて行く」革命後の民衆の「体温」に接することができず、「冷ややかな政治の感触」のみを感じて嫌悪や怒りをおぼえた……という箇所をクローズアップしている。1937年(昭和12)の「雑記帳」12月号(松本竣介は続刊のつもりだったが結果的には終刊号)より、松本竣介『コンフオルミズム』の出だしから引用してみよう。
  
 ジイドのこの怒りを頑な心に託けたり、ジイドのソヴエトに対する認識の誤りから来た幻滅の怒りといふものがあるとすれば、それは彼の想ひとは大きな距離に立つてゐる人だ。何故なば、旅行記はジイドがソヴエトだけに書き送つたものと解すべきではない。凡ての人々に尋ねてゐる感懐ではないか。/*/この旅行記を終りまで赤面せずに読み了へ〇(欠字:る)ことの出来る政治家が【世界】に一人でもゐるかを考へて見るがいゝ。----赤面しない人は大勢あるだらう、それは判読できぬものと、人々の幸福をわれわれとはれ(ママ)はるかに違つて考へてゐる人である。----/*/封建的な美徳への非難は、画一や、順応の中に含まれる欺瞞への厭悪であつて、単なる古いものに対する新しいものゝ態度ではない。正しい判断の自由が一般の人々の所有になつて、正しさの意義が広まり、人々の生活には入つて来たことを意味してゐる。/それはそだてゝゆくもので、妨げることは現代に於ける最大の悪徳であると思ふのだ。(カッコ内および【 】引用者註)
  
 革命から約20年がたった1936年(昭和11)、ジイドが訪れたソ連はレーニンの歿後12年、スターリンによる「大粛清」のまっ最中であり、その独裁的な政治体制と個人崇拝、いわゆるスターリニズムClick!(スターリン主義)の傾向が顕著になりつつあっただろう。
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雑記帳193712.jpg みづゑ194104.jpg
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 「冷ややかな政治の感触」は、単なる旅行者だったジイドにも強く感じとれるほどであり、政敵を次々と抹殺していった独裁者スターリンを頂点とする官僚主義的なヒエラルキーと恐怖政治が、すでに強固で揺るぎないものになりつつあった。この官僚・テクノクラートらによる独裁的な全体主義は、その後、組織の腐敗や事業の停滞の温床となり、ジイドが夢みた国家とはかけ離れた姿となり果てて、革命から74年で崩壊を迎えることになる。『ソヴェト紀行』を書いてから、わずか55年後にソ連という連邦国家が崩壊・滅亡するとは、ジイド自身も考えてもみなかったろう。
 つづけて、松本竣介の『コンフオルミズム』から引用してみよう。
  
 人々の生活は多くの宗教を持つてゐる、倫理もあつた、人情の如何なものであるかもよく感じてゐる。それらは美しいものを齎してくれた。だが巧みな策謀の前には神の自尊まで高められるとともに、奴隷以下の境遇をさへ与へられる弱点をもつくつた。/かうした中に、人々とひろく共感するものゝ生れ出ることは望めない。/*/コンフオルミズムが心からの協同を意味されるためには一切のものがわれわれと共にある時をつくらなければならない。/理知性は今ごく尠かな人々のそのうちにだけしか保たれてゐない。【世界】が理性をもつこと、これが僕の願ひだ。(【 】引用者註)
  
 ふたつの引用文の中で、「世界に一人でもゐるか」と「世界が理性をもつこと」の「世界」を【 】でくくってみた。この【世界】をあえて【日本】と読みかえてみると、当時の日本の政治や社会状況にピタリと重なることに気づく方も多いはずだ。
 1937年(昭和12)は、第1次近衛文麿Click!内閣が「国民精神総動員運動」を発動した年であり、松本竣介がこの文章を書いていた同年秋には、議会で「八紘一宇」「挙国一致」「堅忍持久」の3つのスローガンClick!が叫ばれていた。国策のために、国民が進んで犠牲になる「滅私奉公」思想のもと、戦争遂行へ無理やり協力させようとする強制的な策動だった。そこには、「心からの協同を意味」するコンフォーミズムなど存在せず、国策や戦争に反対する人々は思想や宗教を問わず、「アカ」のレッテルを貼りつけて続々と監獄へ送りこみ、非協力的な人間は「非国民」として恫喝し抑圧・疎外する、「奴隷以下の境遇をさへ与へられる弱点」が現実のものになっていく。
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 このときから、大日本帝国は坂道を転げ落ちるようにファッショ化と軍国主義化を深め、わずか8年後の1945年(昭和20)に破滅、自ら「亡国」状況を招来することになった。松本竣介は、【世界】と書いて国家主体をボカしているが、ジイドに絡め一般論的な論旨に仮託しつつ、もっとも書きたかったのは【日本】という文字ではなかっただろうか。

◆写真上:下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の、松本竣介アトリエ跡の現状。
◆写真中上上左は、2003年(平成15)に出版された柴橋伴夫『青のフーガ難波田龍起』(響文社)。上右は、松本竣介が主宰する綜合工房から1937年(昭和12)に刊行された「雑記帳」9月号。下左は、1922年(大正11)に目白中学校で撮影された美術教師・清水七太郎。下右は、1932年(昭和7)に撮影された難波田龍起。
◆写真中下は、1937年(昭和12)の「雑記帳」12月号に掲載された松本竣介のエッセイ『コンフオルミズム』の挿画。中左は、『コンフオルミズム』が掲載された1937年(昭和12)の「雑記帳」12月号。中右は、松本竣介の『生きてゐる画家』が掲載された1941年(昭和16)発行の「みづゑ」4月号。
◆写真下は、同じく松本竣介『コンフオルミズム』の挿画。は、アトリエに置かれた書棚の前で1940年(昭和15)に撮影された松本竣介。

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