わたしが少し前に書いた、「ほとんど人が歩いていない鎌倉」Click!を読まれた方から、もっと古くてめずらしい写真があるよ……と、明治初期からのめずらしい写真類が掲載された、非売品の貴重な地元資料をお送りいただいた。1983年(昭和58)に、かまくら春秋社から鎌倉市内のみで出版され、古くからの鎌倉人とゆかりの関係者のみに配られたとみられる『鎌倉の海』だ。
1882年(明治15)に、大磯Click!で日本初の海水浴場Click!が開かれてからわずか2年後、1884年(明治17)には鎌倉・由比ヶ浜Click!の海水浴場がオープンしている。大磯の海水浴場は、徳川幕府の御殿医で明治以降は日本初の西洋医となった松本順(松本良順)Click!が開設したのに対し、鎌倉の由比ヶ浜(通称・中央海水浴場)は、文部省医務局長(初代)だった長與専斉が開設し、3年後には結核患者の保養所「海浜院」(サナトリウム)を設置した。しかし、鎌倉の市街化とともに結核のサナトリウムは移転し、1916年(大正5)になると跡地には海浜ホテルがオープンすることになる。
長與専斉資料の『松香遺稿』より、由比ヶ浜にサナトリウムを開設するにあたり書かれた「鎌倉海浜院創立趣意書」の文章から引用してみよう。
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抑鎌倉ノ地タルヤ東北山ヲ周ラシ、西南海ヲ控ヘ、暑寒共ニ平和ニシテ冽寒酷暑ノ苦ヲ知ラス。浴泳ニ由比ケ浜ノ浅沙アリ。運動ニ松林ノ鬱蒼タルアリ。八幡ヲ拝シ、観音ニ詣テ、近キハ建長寺円覚寺ノ観アリ。遠クハ江ノ島金沢ノ勝アリ。魚ヲ釣リ貝ヲ拾ヒ漁網ヲ挙ケ小舟ヲ盪カス等。優游嬉戯三週モ一日ノ如ク、曽テ無聊鬱屈ヲ訴フル余暇ナキナリ。
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1889年(明治22)に横須賀線が開通すると、別荘を建設して避寒避暑に訪れたり、旅館に逗留して保養がてら海水浴を楽しんだりする人々が増えはじめた。夏目漱石Click!や吉井勇Click!たちが、避暑避寒に訪れたのもこのころのことだ。
1910年(明治43)に江ノ電が鎌倉市街まで乗り入れ鎌倉駅ができると、別荘街や市街地が由比ヶ浜から長谷、稲村ヶ崎Click!、そして七里ヶ浜Click!方面まで拡大しはじめ、別荘族や海水浴客でにぎわうようになる。当時の江ノ電は、現在の鎌倉駅西口が終点(起点)ではなく、鎌倉駅東側の表参道(現・若宮大路)の道路際、一ノ鳥居と二ノ鳥居の間にホームが設置されていた。大正中期は、江ノ電沿いに別荘や旅館が建ち並び、あとは畑の中に昔ながらの農家が点在するような風情だった。
当時は間貸しの別荘もあったようで、年間200円で借りれば夏冬は避暑(海水浴)避寒に春はハイキング、秋は紅葉めぐりと1年を通じて鎌倉を楽しめたようだが、部屋代の設定がおかしい。間貸し別荘を、9月から翌年の6月まで借りると10ヶ月で100円だが、7・8月のたった2ヶ月借りただけでも100円だった。それだけ、夏場は海水浴の人気が高かったのだろう。ときに、陸軍幼年学校が水泳の訓練Click!をしに材木座の光明寺に滞在し、明治女学院が極楽寺Click!の成就院に滞在して避暑合宿をしている。避寒避暑の別荘地としての鎌倉は、大磯と同様に関東大震災Click!以降も変わらなかった。
ところが、昭和初期になると市街地を走る乗合自動車(バス)の運行ネットワークが発達しはじめ、住宅を建てて東京へと通勤する住民たちが増えはじめる。いまほど大きな車体でないとはいえ、バスを舗装されていない山道の奥まで運行するには、高度で独特な運転スキルがドライバーに求められたようだ。
鎌倉は戦時中、おもに戦闘機の機銃掃射だけの被害で済み、街並みはほぼそのままのかたちで戦後を迎えている。だが、大きめな別荘はGHQが接収して利用し、由比ヶ浜などのビーチでは米兵たちがコーラ壜を割る遊びをして、海水浴場を整備してきた地元民を嘆かせている。また、発火しやすい暖炉の注意を呼びかけていたにもかかわらず、米兵たちの失火から由比ヶ浜の象徴ともいうべき、巨大な海浜ホテルが全焼してしまった。
大正期の鎌倉について、中村菊三『大正初期の由比ヶ浜』から引用してみよう。
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ある朝。私は六時頃、独りで防風を採りに、例の砂山のかげに出かけた。海は波もなく、爽やかに澄んでいた。岸辺には、わかめを拾う人と散歩の人しか見えなかった。その時、一人の外国婦人が水浴を終えて上って来た。あと見たその婦人の海水着である。/それは海水着というよりは、寧ろツウ・ピースであった。短い袖のある上衣は、赤い横縞で、腰のあたりには細かい襞があった。丈は膝の所まであったので、下衣は見えなかったが、均整のとれた長い両足には、足首までピッタリした、黒い薄い靴下のようなものをはいていた。初めて見る西洋の女子海水着である。(中略) この女性は、大正九年に日本に亡命した白系ロシア人で、バレーリーナのエリアナ・パブロワであった。
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「防風」とは、生薬の一種であり食用のハマボウフウのことで、相模湾沿いの砂浜ではめずらしくない野草だ。ロシア革命から亡命したエリアナ・パブロアClick!が鎌倉でバレエを教えていたのは、以前、堤康次郎Click!の新宿園・白鳥座Click!での舞台と、アンナ・パブロワに絡めてこちらでご紹介していた。
大正初期の水着は、和製のツーピース水着と呼ばれるもので、上半身は白い襦袢のようなものを着て、下半身はステテコのようなものを履き、麦わら帽子を深くかぶったまま波打ち際で遊んだり泳いだりするのが流行っていた。いまから見ると、まるでサザエかアワビを獲る海女のような格好だが、海女のコスチューム自体が大正期の女性水着を変わらずに踏襲しているのだ。女性の水着姿は、ハイカラな別荘が建ち並んだ材木座海岸あたりからはじまり、坂の下海岸から由比ヶ浜へと拡がったらしい。ちなみに、男子の水着は戦前まで、一貫してほとんど褌(ふんどし)のままだった。
大正も中期以降になると、今日のワンピース水着に近いものが出はじめ、身体にピッタリとフィットして半分も身体を露出する、黒いモガ水着が大流行していく。でも、鎌倉が地元の住民たちは、海水浴の客たちが引き上げたあと、特に夜間には“お楽しみ”が待っていたようだ。水着などつけず、全裸で泳ぐ海水浴だ。
そんな様子を、胡桃沢耕史『鎌倉ではすべてが美しい』から引用してみよう。胡桃沢は、まだ真っ暗な未明の由比ヶ浜へ女友だちと繰り出している。
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まだ暗いうちだが、二人だけでいると、何か感情が激してくる。/「泳ごうよ」/「水着持ってきてないわ」/「いいじゃないか。真っ裸で」(中略) 「いいわ、泳ぐわ」/浜辺に下着まで脱ぎ捨て海へ入って行く。臍のあたりまで入ると、安心して向い合う。どちらともなく抱き合って唇を重ね、もつれ合って波の中へ体をひたした。/これも由比ヶ浜が、まだ透き通るほどきれいだったころの話である。こうして何人かの、美しい娘さんと、かなり深いつき合いになることができた。軽井沢や、ディスコがまだ、ガール・ハンターの場所として登場してこない前の、唯一のデート場所だった。
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幼児のころならともかく、さすがに裸で由比ヶ浜の海を泳いだ経験はないが、20代のころ日本海の某島では真っ裸で泳いだことがある。
なにかとロマンチックかつ華やかで、大磯と同様に明治期から別荘族や海水浴客を集めた鎌倉の由比ヶ浜だが、詩人・田村隆一が「耳をすませば、相模の潮騒い。そして中世のおびただしい死者の声がきこえてくる」と書いたように、砂浜の下には膨大な死者たちが埋葬されていた。それは、人骨に刀傷のある鎌倉幕府軍Click!と新田義貞軍Click!の戦死者をはじめ、鎌倉時代に疫病や飢饉で死んだ住民たちが、大きな円形の穴を掘って由比ヶ浜の随所に埋葬されていたからだ。おそらく、数千人規模の死者が、由比ヶ浜から坂ノ下、あるいは材木座海岸にかけて埋葬されているのではないだろうか。
1933年(昭和8)ごろ、長谷に住んでいたある人物が、舟大工へ由比ヶ浜の波に乗れる特製の板を初めてオーダーした。「フロート」と名づけられた波乗りボードは、またたく間に鎌倉海岸の全域へ普及していく。昭和初期にはじまった日本初のフロート波乗り、戦後の用語でいえばサーフィンなのだが、それはまた、機会があれば、別の物語……。
◆写真上:そろそろひと雨きそうな、由比ヶ浜から眺めた午後の稲村ヶ崎。
◆写真中上:上は、いずれも明治期に制作された楊洲周延の浮世絵で、『鎌倉の海』(かまくら春秋社)のカバーにもなっている『七里ヶ浜』(上)と『於相州鎌倉長谷割烹旅館三橋與八楼上望由井濱海水浴』(下)。中は、明治10年ごろの表参道(若宮大路)に建つ由比ヶ浜も近い一ノ鳥居。明治末には、撮影者の背後に江ノ電・鎌倉駅が開業する。下は、同じく明治10年代に七里ヶ浜から撮影された小動(こゆるぎ)岬と江ノ島。
◆写真中下:上から下へ、明治20年代の由比ヶ浜から眺めた坂ノ下と稲村ヶ崎、同年代の材木座村で中央の建物は光明寺、明治30年代の材木座海岸で、麦わら帽の女性たちは海女ではなく別荘に滞在中のお嬢様たち。江ノ電が走る1907年(明治40)撮影の七里ヶ浜から眺めた小動岬と江ノ島、および富士山が美しい七里ヶ浜の現状。
◆写真下:上から下へ、大正の最初期に飯島崎から撮影された稲村ヶ崎と江ノ島で、いまだ遊歩道路(ユーホー道路=国道134号線)Click!がV字型に掘削されていない稲村ヶ崎が新鮮な景色だ。大正初期の稲村ヶ崎と現状、大正期のアッペル支配人時代に撮影された海浜ホテル、1921年(大正10)撮影の材木座海岸に連なる別荘街で右端は光明寺。