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1936年(昭和11)3月1日、東京では4日前に降った大雪があちこちの日陰に残っていた。前日の2月29日(同年はうるう年)までつづいた陸軍皇道派Click!のクーデター、いわゆる二二六事件Click!はあらかた終息していたが、東京の街角にはあわただし気な落ち着かない暗い空気が、そのまま居座ったように残っていた。この日、本郷の菊富士ホテルClick!に男がひとり転居してきている。坂口安吾だ。
帝大生だった友人の記憶によれば、坂口安吾は大八車Click!かリヤカーに布団や本、着るものなどを積んで菊富士ホテルの前につけた。そして、めずらしく空き室になっていた50番室、つまり屋上の「塔ノ部屋」と呼ばれた眺めのいいペントハウスもどきの、実は同ホテルではもっとも貧弱な部屋に、友人に手伝ってもらいながら荷物を運びあげている。この塔ノ部屋について、近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(講談社)から引用してみよう。
▼
塔の部屋は正式には五十番と呼ばれていた。大正三年建築された新館三階の、さらに上に聳える物見の部屋で、特別狭い階段を上っていく。これを西側の台から遠く眺めると、地下も含め四階建の本館上に塔のようにそびえて見えるところから、塔の部屋といつか呼びならわされてきた。/この部屋は、南と東に大小とりまぜて四つの西洋窓があり、三畳ほどの広さの板の間につづいて、およそ四畳ほどの押し入れがついているという、変った構造だった。その板の間には粗末なじゅうたんがしいてあり、鉄製ベッドと机と椅子が置かれてあり、もうそれだけで部屋はいっぱいになってしまっていた。五尺七寸の身長を持つ安吾には、ずいぶんきゅうくつな広さであっただろう。
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坂口安吾が菊富士ホテルへやってくる5年前、1931年(昭和6)の秋、下落合1470番地の第三文化村Click!に建っていた目白会館Click!に住む矢田津世子Click!は、時事新報社(のち中外商業新報社に転職)の記者をしていた和田日出吉とつき合いはじめている。兄の矢田不二郎に反抗するため、彼女はわざと既婚の和田とこれみよがしに交際していたようだ。翌1932年(昭和7)になると、転勤先だった名古屋から兄・不二郎と母親が東京へもどり、3人は下落合4丁目1986番地(現・中井2丁目)に家を借りて転居している。同年8月、25歳の矢田津世子Click!は2つ年上の坂口安吾と初めて知り合った。
坂口安吾は、ひと目で彼女を気に入りアプローチをしたようだが、和田日出吉との交際を知ると少なからず落胆している。それでも、ふたりは同人誌などの会合で出会うと、盛んに文学について語り合い、急速に親しくなっていった。翌1933年(昭和8)に矢田津世子が戸塚署の特高Click!に逮捕され、10日間の留置Click!のあと身体を壊して自宅にもどると、坂口安吾は下落合へ見舞いに訪れている。
実はこのふたり、矢田家の親戚が新潟で鉄工所を経営しており、地元の政治家の家柄だった坂口家とは親密に交際していた関係で、両家から結婚が前提の交際を強く奨められていた……という経緯もあったりする。恋する坂口安吾が苦しんだのは、矢田津世子が和田日出吉との不倫をやめないことと、特高からマークされていることだったようだ。また、和田が妻と別れ矢田津世子と結婚しようとすると、かんじんの津世子自身が妻との離婚を許さないという、和田との関係には複雑な想いもからんでいたらしい。このころ、安吾は母親から矢田津世子について問われると、「結婚はもう止めた」と答えている。
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さらに、苦しむ坂口安吾のもとには、彼女についての悪評が文学仲間を通じて伝わってきた。下落合の作家仲間や訪れた新聞・雑誌記者たちに、あることないこと矢田津世子の悪評を流していたのは、このサイトをお読みの方ならすぐに察しがつくだろう。鎮痛剤ミグレニンの中毒になり、兄に連れられ鳥取に帰郷した上落合842番地の尾崎翠Click!を、さっそく死んだことにして「殺して」まわり、東京の出版社から鳥取へ原稿依頼がいかないようにしたのと同一人物、もちろん林芙美子Click!だ。自分より優れているとみた、特に「女流作家」について悪評のもとを“ウラ取り”でたどっていくと、たいがいいき着く先の林芙美子は、もはや病的で気味が悪い。
林芙美子は、矢田津世子から読んでみてくれと渡された作品を、押し入れの中に隠してそのまま「行方不明」Click!にするなど、さんざん嫌がらせを繰り返しているが、このときは彼女を「妾の子」で、新聞記者の和田日出吉と不倫しているのは文壇に「原稿を売りこむため」だとふれまわっていたらしい。もちろん、「妾の子」は真っ赤なウソで、のちの証言から津世子は和田へ「原稿を売りこ」んだこともなかった。そもそも和田は、社会派ないしは経済畑の記者であり、文学界とはほとんど縁もコネもなかった。
さまざまな経緯のあと、矢田津世子をいったんはあきらめた坂口安吾だが、菊富士ホテルへとやってくる少し前から、彼女との文通は再開していた。50番室こと塔ノ部屋へ引っ越した1936年(昭和11)3月1日の当日、安吾はさっそく彼女に手紙を書いている。
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御手紙ありがとうございました。矢口にいて始め二日は何も知りませんでしたが、東京へでてみて物情騒然たる革命派騒ぎに呆れました。今日、左記へ転居しました。/本郷菊坂町八二/菊富士ホテル(電話小石川六九〇三)/僕の部屋は塔の上です。兪々屋根裏におさまった自分に、いささか苦笑を感じています。/まだ道順をよくわきまえませんので、どういう風に御案内していいか分りませんが、本郷三丁目からは近いところで、女子美術学校から一町と離れていないようです。どうぞ遊びにいらして下さい。お待ちしています。/仕事完全にできません。でも今日から改めてやりなおしの心算なんです。/御身体大切に。立派なお仕事をして下さい。
津世子様 安吾より
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矢田津世子Click!は、すでに名を広く知られた高名な「女流作家」であり、この年は代表作となる『神楽坂』(人民文庫および改造社/1936年)の連作を執筆している最中で、押しも押されもせぬ文壇の位置にいた。坂口安吾は、同人誌『桜』の時代から彼女とともに歩みはじめたはずだったが、文学的な嗜好やめざす方向性のちがいはともあれ、この時点で彼は矢田津世子の遠い背中を見ている感覚だったろう。
手紙に「どうぞ遊びにいらして下さい。お待ちしています。」と社交辞令的に書いたら、矢田津世子は下落合からほんとうに菊富士ホテルの坂口が「時計塔」と書く塔ノ部屋へ遊びにきたので、彼は驚愕しただろう。1998年(平成10)に筑摩書房から出版された「坂口安吾全集」第6巻所収の、『三十歳』から引用してみよう。
▼
なぜなら、私は矢田津世子に再会した一週ほどの後には、二人のツナガリはその激しい愛情を打ち開けあったというだけで、それ以上どうすることもできないらしいということを感じはじめていたからであった。(中略) 私は時計塔の殺風景な三畳に、非常に部屋に不似合いに坐っている常識的で根は良妻型の有名な女流作家を見て見ぬようにヒソヒソと見すくめている。(中略) この女流作家の凡庸な良識が最も怖れているのは、私の貧困、私の無能力ということなのだ。殺風景なこの時計塔と、そこに猿のように住む私の現実を怖れているのだ。/彼女は私の才能をあるいは信じているかも知れぬ。又、宿命的な何かによって、狂気にちかい恋心をたしかに私にいだいているかも知れない。/然し、彼女をひきとめている力がある。彼女の真実の眼も心も、私のすむこの現実に定着して、それが実際の評価の規準となっている。
▲
なんだか妙に見透かしたような文章だが、ずいぶん時代がたってしまってからの、総括的な安吾の文章であることに留意しなければならないだろう。『三十歳』には、事実誤認や年月の誤りなどの誤記憶があちこちにみられる。
ちなみに1936年(昭和11)という年は、のちに大岡昇平Click!が書くことになる『花影』のモデルとなった坂本睦子を、小林秀雄に長谷川泰子を奪われて傷心の中原中也Click!と坂口安吾が“恋の鞘当て”ののち愛人にしていたか、あるいは彼女と別れた直後だったかの、きわどい微妙な時期にあたる。安吾と別れた坂本睦子は、今度は小林秀雄から求婚されることになるが、もうドロドロでぐちゃぐちゃの、わけがわからない文学畑の人々の経緯は、書く気にはなれないので、他所の物語……。
同年6月17日、坂口安吾は矢田津世子と本郷3丁目のレストランでフランス料理を食べ、塔ノ部屋に誘ってたった一度だけのキスをした。そして同日の夜に、絶縁の手紙を矢田津世子へ送りつけている。以来、1944年(昭和19)3月に津世子が37歳で死去するまで、ふたりは二度と逢わなかった。
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和田日出吉との関係について、矢田津世子の友人のひとりは、「和田さんとはずいぶん長い交際だった。津世子さんは悩んでいたようすだったが、親しい仲でも、自分の恋愛については一言も語らないのが津世子さん流だった」(近藤富枝『花蔭の人』/1978年)と証言している。和田日出吉はその後、妻と離婚して独身となったが、矢田津世子が下落合で死去したことであきらめがついたのか、1944年(昭和19)に20も年下だった26歳の従妹と再婚している。従妹は松竹で女優をしており、戦後に下落合を舞台にした『お茶漬の味』Click!(監督・小津安二郎/1952年)に主演する木暮実千代Click!だった。
◆写真上:菊富士ホテル跡(正面)の西側にある、長泉寺境内のバッケ(崖地)Click!。
◆写真中上:上は、菊富士ホテル跡の現状。中は、菊富士ホテル新館の東側壁面。下は、岡田三郎助Click!が主宰していた女子美術学校跡の現状。
◆写真中下:上は、矢田津世子(左)と2歳年上の坂口安吾(右)。中は、1935年(昭和10)作成の「火保図」にみる菊富士ホテル。ここでも「火保図」は、建物の形状を誤採取している。下は、1940年(昭和15)の空中写真にみる菊富士ホテル。
◆写真下:上は、菊富士ホテル新館南側のバッケで塔ノ部屋(50番室)はこの真上にあった。中は、同ホテルの西側に隣接する長泉寺の山門。下は、宮沢賢治や樋口一葉の旧居跡のある菊坂沿いの谷間から南の丘へと上がるバッケ階段。
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1936年(昭和11)3月1日、東京では4日前に降った大雪があちこちの日陰に残っていた。前日の2月29日(同年はうるう年)までつづいた陸軍皇道派Click!のクーデター、いわゆる二二六事件Click!はあらかた終息していたが、東京の街角にはあわただし気な落ち着かない暗い空気が、そのまま居座ったように残っていた。この日、本郷の菊富士ホテルClick!に男がひとり転居してきている。坂口安吾だ。
帝大生だった友人の記憶によれば、坂口安吾は大八車Click!かリヤカーに布団や本、着るものなどを積んで菊富士ホテルの前につけた。そして、めずらしく空き室になっていた50番室、つまり屋上の「塔ノ部屋」と呼ばれた眺めのいいペントハウスもどきの、実は同ホテルではもっとも貧弱な部屋に、友人に手伝ってもらいながら荷物を運びあげている。この塔ノ部屋について、近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(講談社)から引用してみよう。
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塔の部屋は正式には五十番と呼ばれていた。大正三年建築された新館三階の、さらに上に聳える物見の部屋で、特別狭い階段を上っていく。これを西側の台から遠く眺めると、地下も含め四階建の本館上に塔のようにそびえて見えるところから、塔の部屋といつか呼びならわされてきた。/この部屋は、南と東に大小とりまぜて四つの西洋窓があり、三畳ほどの広さの板の間につづいて、およそ四畳ほどの押し入れがついているという、変った構造だった。その板の間には粗末なじゅうたんがしいてあり、鉄製ベッドと机と椅子が置かれてあり、もうそれだけで部屋はいっぱいになってしまっていた。五尺七寸の身長を持つ安吾には、ずいぶんきゅうくつな広さであっただろう。
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坂口安吾が菊富士ホテルへやってくる5年前、1931年(昭和6)の秋、下落合1470番地の第三文化村Click!に建っていた目白会館Click!に住む矢田津世子Click!は、時事新報社(のち中外商業新報社に転職)の記者をしていた和田日出吉とつき合いはじめている。兄の矢田不二郎に反抗するため、彼女はわざと既婚の和田とこれみよがしに交際していたようだ。翌1932年(昭和7)になると、転勤先だった名古屋から兄・不二郎と母親が東京へもどり、3人は下落合4丁目1986番地(現・中井2丁目)に家を借りて転居している。同年8月、25歳の矢田津世子Click!は2つ年上の坂口安吾と初めて知り合った。
坂口安吾は、ひと目で彼女を気に入りアプローチをしたようだが、和田日出吉との交際を知ると少なからず落胆している。それでも、ふたりは同人誌などの会合で出会うと、盛んに文学について語り合い、急速に親しくなっていった。翌1933年(昭和8)に矢田津世子が戸塚署の特高Click!に逮捕され、10日間の留置Click!のあと身体を壊して自宅にもどると、坂口安吾は下落合へ見舞いに訪れている。
実はこのふたり、矢田家の親戚が新潟で鉄工所を経営しており、地元の政治家の家柄だった坂口家とは親密に交際していた関係で、両家から結婚が前提の交際を強く奨められていた……という経緯もあったりする。恋する坂口安吾が苦しんだのは、矢田津世子が和田日出吉との不倫をやめないことと、特高からマークされていることだったようだ。また、和田が妻と別れ矢田津世子と結婚しようとすると、かんじんの津世子自身が妻との離婚を許さないという、和田との関係には複雑な想いもからんでいたらしい。このころ、安吾は母親から矢田津世子について問われると、「結婚はもう止めた」と答えている。
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林芙美子は、矢田津世子から読んでみてくれと渡された作品を、押し入れの中に隠してそのまま「行方不明」Click!にするなど、さんざん嫌がらせを繰り返しているが、このときは彼女を「妾の子」で、新聞記者の和田日出吉と不倫しているのは文壇に「原稿を売りこむため」だとふれまわっていたらしい。もちろん、「妾の子」は真っ赤なウソで、のちの証言から津世子は和田へ「原稿を売りこ」んだこともなかった。そもそも和田は、社会派ないしは経済畑の記者であり、文学界とはほとんど縁もコネもなかった。
さまざまな経緯のあと、矢田津世子をいったんはあきらめた坂口安吾だが、菊富士ホテルへとやってくる少し前から、彼女との文通は再開していた。50番室こと塔ノ部屋へ引っ越した1936年(昭和11)3月1日の当日、安吾はさっそく彼女に手紙を書いている。
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御手紙ありがとうございました。矢口にいて始め二日は何も知りませんでしたが、東京へでてみて物情騒然たる革命派騒ぎに呆れました。今日、左記へ転居しました。/本郷菊坂町八二/菊富士ホテル(電話小石川六九〇三)/僕の部屋は塔の上です。兪々屋根裏におさまった自分に、いささか苦笑を感じています。/まだ道順をよくわきまえませんので、どういう風に御案内していいか分りませんが、本郷三丁目からは近いところで、女子美術学校から一町と離れていないようです。どうぞ遊びにいらして下さい。お待ちしています。/仕事完全にできません。でも今日から改めてやりなおしの心算なんです。/御身体大切に。立派なお仕事をして下さい。
津世子様 安吾より
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矢田津世子Click!は、すでに名を広く知られた高名な「女流作家」であり、この年は代表作となる『神楽坂』(人民文庫および改造社/1936年)の連作を執筆している最中で、押しも押されもせぬ文壇の位置にいた。坂口安吾は、同人誌『桜』の時代から彼女とともに歩みはじめたはずだったが、文学的な嗜好やめざす方向性のちがいはともあれ、この時点で彼は矢田津世子の遠い背中を見ている感覚だったろう。
手紙に「どうぞ遊びにいらして下さい。お待ちしています。」と社交辞令的に書いたら、矢田津世子は下落合からほんとうに菊富士ホテルの坂口が「時計塔」と書く塔ノ部屋へ遊びにきたので、彼は驚愕しただろう。1998年(平成10)に筑摩書房から出版された「坂口安吾全集」第6巻所収の、『三十歳』から引用してみよう。
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なぜなら、私は矢田津世子に再会した一週ほどの後には、二人のツナガリはその激しい愛情を打ち開けあったというだけで、それ以上どうすることもできないらしいということを感じはじめていたからであった。(中略) 私は時計塔の殺風景な三畳に、非常に部屋に不似合いに坐っている常識的で根は良妻型の有名な女流作家を見て見ぬようにヒソヒソと見すくめている。(中略) この女流作家の凡庸な良識が最も怖れているのは、私の貧困、私の無能力ということなのだ。殺風景なこの時計塔と、そこに猿のように住む私の現実を怖れているのだ。/彼女は私の才能をあるいは信じているかも知れぬ。又、宿命的な何かによって、狂気にちかい恋心をたしかに私にいだいているかも知れない。/然し、彼女をひきとめている力がある。彼女の真実の眼も心も、私のすむこの現実に定着して、それが実際の評価の規準となっている。
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なんだか妙に見透かしたような文章だが、ずいぶん時代がたってしまってからの、総括的な安吾の文章であることに留意しなければならないだろう。『三十歳』には、事実誤認や年月の誤りなどの誤記憶があちこちにみられる。
ちなみに1936年(昭和11)という年は、のちに大岡昇平Click!が書くことになる『花影』のモデルとなった坂本睦子を、小林秀雄に長谷川泰子を奪われて傷心の中原中也Click!と坂口安吾が“恋の鞘当て”ののち愛人にしていたか、あるいは彼女と別れた直後だったかの、きわどい微妙な時期にあたる。安吾と別れた坂本睦子は、今度は小林秀雄から求婚されることになるが、もうドロドロでぐちゃぐちゃの、わけがわからない文学畑の人々の経緯は、書く気にはなれないので、他所の物語……。
同年6月17日、坂口安吾は矢田津世子と本郷3丁目のレストランでフランス料理を食べ、塔ノ部屋に誘ってたった一度だけのキスをした。そして同日の夜に、絶縁の手紙を矢田津世子へ送りつけている。以来、1944年(昭和19)3月に津世子が37歳で死去するまで、ふたりは二度と逢わなかった。
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◆写真上:菊富士ホテル跡(正面)の西側にある、長泉寺境内のバッケ(崖地)Click!。
◆写真中上:上は、菊富士ホテル跡の現状。中は、菊富士ホテル新館の東側壁面。下は、岡田三郎助Click!が主宰していた女子美術学校跡の現状。
◆写真中下:上は、矢田津世子(左)と2歳年上の坂口安吾(右)。中は、1935年(昭和10)作成の「火保図」にみる菊富士ホテル。ここでも「火保図」は、建物の形状を誤採取している。下は、1940年(昭和15)の空中写真にみる菊富士ホテル。
◆写真下:上は、菊富士ホテル新館南側のバッケで塔ノ部屋(50番室)はこの真上にあった。中は、同ホテルの西側に隣接する長泉寺の山門。下は、宮沢賢治や樋口一葉の旧居跡のある菊坂沿いの谷間から南の丘へと上がるバッケ階段。