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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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続・ほとんど人が歩いていない鎌倉。

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極楽寺坂切通し19650330.jpg
 以前、1955年(昭和30)ごろに撮影された、鎌倉の街Click!の写真をご紹介したことがあった。それは、わたしが子どものころに歩いた静かなたたずまいを見せる鎌倉と、大差ない風情でとても懐かしかったので、つい記事を書いてしまった。先ごろ、引っ越し作業をしていたら、わたしが小学校の低学年のころに出かけた鎌倉の写真類……、というか子どものころのアルバムが大量に出てきたので、すべてを参照している時間はないものの、少し鎌倉関連の写真を見つくろってご紹介したい。
 大量に出てきたアルバムをざっと概観すると、東京都内を除いて近隣地域のみに限れば神奈川県Click!内の撮影が圧倒的に多い。横浜をはじめ鎌倉、平塚、大磯、二宮、小田原、横須賀などの市街地や、箱根、足柄、大山、丹沢Click!、三浦半島などの山々だ。この中で、鎌倉の占める割合は相対的に大きい。以前にも書いたけれど、親父の仕事の都合Click!で平塚に住んでいたときは、毎週か隔週の週末には鎌倉あるいは三浦半島へ出かけていた時期がある。北鎌倉に、母方の親戚が住んでいたせいもあったのだろう。家のすぐ近く、海岸線を走るユーホー道路Click!(遊歩道路=国道134号線)から神奈中バス(神奈川中央交通)に乗れば、当時のユーホー道路はクルマがガラ空きだったので30分前後でスムーズに鎌倉へ到着することができた。
 撮影された時期の多くは、以前ご紹介した写真類の約10年後、1965年(昭和40)の少し前あたりの休日のタイムスタンプが多いが、いずれの写真にもほとんど人が写っていないのが、今日から見れば不思議な光景だ。まるで時空がズレた、北村薫が描く無人のパラレルワールドへ迷いこんでしまったかのように、いまでは国内外を問わず観光客でごったがえしている長谷寺の、閑散としている様子がとらえられている。さすがに、修学旅行の観光バスが立ち寄る、高徳院(鎌倉大仏)も近い有名スポットなので、道路は舗装されているが、門をくぐる数人の観光客しか見られない。
 長谷寺の北側にある光則寺は、未舗装の坂を上らなければならないし、当時は観光スポット化もしてなかったので、まずはよほどの神社仏閣ヲタクでない限り誰も訪れなかった。同様に、長谷寺の南から歩いていく極楽寺坂切通しも、小学生のわたしと母親のふたりが歩くだけで、人の姿がまったくない。(冒頭写真) 舗装されて間もないのだろう、切通し坂の路面がアスファルトではなくコンクリートで、新しい感じがする。向こうから、懐かしい幌つきのオート三輪がブルブルと、頼りないエンジン音を響かせながらやってくるのが見える。小動(こゆるぎ)岬の腰越漁港に上がった相模湾の魚を、鎌倉市街の料理屋へ運ぶ魚屋のオート三輪だろうか。
 途中の権五郎社(御霊社)Click!にも誰もいなければ、目的地の極楽寺も人っ子ひとりいない。わたしが登って住職に叱られた、極楽寺境内にあるサルスベリClick!の写真がようやく出てきたので、アルバム発見の記念に掲載しておきたい。小学生がつい登りたい誘惑にかられる、ちょうどいい背丈と枝ぶりをしていたのがおわかりいただけるだろう。
長谷寺19650330.jpg
光則寺19650330.jpg
権五郎社19650330.jpg
極楽寺サルスベリ19650330.jpg
 目を鎌倉市街の北側、鎌倉アルプス(天園ハイキングコース)や覚園寺のほうへ向けてみると、現在は住宅で埋めつくされてしまった、山々へ切れこむ大小の谷(やつ)に拓かれた水田や畑で遊ぶ、小学校低学年のわたしが写っている。なにやら水田から走って逃げているので、ヤマカガシにでも追いかけられているのかもしれない。また、住宅街の広めな道路を撮影した写真もあるが、茅葺き屋根の家があちこちに残り、もちろん道路は舗装されていない。風が強い日に鎌倉を歩くと、海からの砂と土ぼこりとで、髪や洋服がザラザラになったのを憶えている。路上には人影が見えるが、もちろん近所に住む大人や子どもたちで観光客ではない。たまに挨拶したり道を訊ねたりすると、軽いハイキングのようないでたち(今日でいうなら街歩きの装い)をしたわたしたちを見て、「あなたたち、こんなところで何してるの?」という怪訝な顔をされた。広めな道路は、覚園寺から南へ少し歩いた、源頼朝の墓Click!がある近くだろうか。
 覚園寺も百八やぐらClick!も、もちろん誰もいないし路面も舗装されていない。このあたりは水田も多く、特に百八やぐらのある山の斜面一帯はマムシの巣だったので、地元の人以外はめったに入りこまなかった。もっとも、いまでも十王岩から大平山、そして瑞泉寺のある二階堂ヶ谷(やつ)まで抜ける鎌倉アルプス越え(天園ハイキングコース)は、ふつうの観光客はなかなか訪れない縦走コースだが、先日歩いていたら中国の山ガールたちに出会った。なんだかわからないが、中国の若い女子たち向けのサイトで、あまり人に出会わない美しい鎌倉の天園ハイキングコースが紹介されているのかもしれない。同ハイキングコースは起伏が激しく絶壁(ほぼ垂直登攀のザイル場)もあり、距離もけっこうあるので市街地でヒールをはいて暮らしている女子にはきつく、山ガールに最適なコースだろう。アジアやヨーロッパを問わず、このごろ海外から訪日する観光客は、非常にマニアックなスポットを楽しんでいてビックリすることがある。
 また、アルバムの中でも面白い写真は、鎌倉の隣りにある江ノ島で1964年(昭和39)10月11日(日曜日)、つまり東京オリンピック開会式の翌日に撮影された、江ノ島ヨットハーバーとその周辺の情景だ。そこには、同大会のディンギーレースに出場予定の日本チームが、艇への最後のメンテナンスに余念のない様子がとらえられている。そのほか、竣工して間もないクラブハウスや、ヨットハーバーのあちこちの情景が撮影されているが、家族の写真がメインなので割愛したい。この日は、江ノ島水族館にも立ち寄っており、イルカのショーを見学しているが、日曜日だというのに観客がまばらでガラガラだ。
天園ハイキングコース19640425.jpg
覚園寺19640425.jpg
谷の水田.jpg
藁葺き屋根19640330.jpg
片瀬海岸19641011.jpg
 わたしは、この日のことをよく憶えている。前日に新宿の国立競技場で、東京オリンピック1964の開会式が開催されたから印象深いのではない。その開会式を見られずに、母親にひどく怒られたからだ。10月1日の昼すぎ、わたしは海岸の松林で友だちと遊んでいて、クロマツの枝を右目の瞳に突き刺した。一瞬で視界が白濁し、風景が濃霧でおおわれたようになった。急いで家にもどって母親に報告すると、さっそく眼科医に連れていかれたのだが、その日の午後3時ごろから予定されていた、東京オリンピックの開会式をゆっくりTVで観ようと楽しみにしていた彼女から、こっぴどく叱られた。開会式の様子は、眼科医の待合室に置かれた小さな赤いTVの中継画面で観るハメになり、母親のため息が止まらなかったのを憶えている。「だから男の子は、いつもなにするかわからないからイヤなのよ」と、わたしの右目よりも開会式が大事な母親Click!だった。w
 つまり、その翌日の日曜日に、オリンピックの会場のひとつである江ノ島ヨットハーバーへ遊びに出かけているので、クラブハウスも江ノ島水族館のイルカショーも、相模湾に浮かんだ船からの風景も、江ノ島弁天の社(やしろ)や洞窟も、お土産に買った大きなサザエも、右目にできた瞳の傷のために、みんな白く濁って見えていたから印象深いのだ。眼科医は、目を洗ったあと消毒用の目薬を出してくれただけで、特に眼帯をする必要もないでしょう……と、お気楽な様子でいっていたけれど、このあと1週間ぐらいは風景に霧がかかったような視界だった。
 アルバムを眺めていると、当時の鎌倉のほこりっぽい空気感や潮風の匂い、夏なら無数のセミの鳴き声や案外けわしい山々の細い尾根道、波乗りClick!(サーフィンとはいわない)のお兄ちゃんお姉ちゃんたち、随所に口を開ける“やぐら”Click!やとぐろを巻くマムシたちなど、さまざまな思い出が一気に押し寄せてくる。「そういえば、長さが4m近くもあるアオダイショウの抜け殻が発見されたのも、天園ハイキングコースの終点・瑞泉寺の裏山にある貝吹き地蔵あたりだったな」……などと、時間を忘れ思い出にひたっていると1日がアッという間にすぎてしまうので、きょうはこれぐらいに。
 北鎌倉の写真も大量に出てきたが、こちらはさらに輪をかけて人が誰も歩いていない。北鎌倉の駅から、建長寺とは逆方向に歩いて10分ほどのところに、戦前から母方の祖父の妹が住んでいたので、幼稚園に通うころから何度かその家に立ち寄った憶えがあるけれど、いまとなっては住所の記憶もおぼろげでハッキリしない。それらしい住宅の写真もアルバムに貼られているが、いまでは街並みがさま変わりしているので、いくらGoogleのストリートビューで探してもわからなくなってしまった。
日本チーム19641011.jpg
江ノ島ヨットハーバー19641011.jpg
江ノ島YHクラブハウス19641011.jpg
江の水19641011.jpg
 確か母方の親戚の家は、『海街diary』(監督・是枝裕和Click!/2015年)のロケが行われた古民家「北鎌倉アガサッホ」のある、小袋谷川の小橋をわたった光照寺の伽藍が見える台山のあたり、古い映画では『麦秋』(監督・小津安二郎Click!/1951年)の最初のころ、北鎌倉駅を出た横須賀線が大船方面へ向けて走る遠景シーンをとらえた、手前にカメラのすえられている山の斜面あたりだったと思うのだが……。その家からは、横須賀線や北鎌倉駅をはさみ円覚寺のある山が見えていたのを憶えている。もし時間ができれば、今度はひっそりと静まり返った、北鎌倉の写真類をチョイスし改めてご紹介したい。

◆写真上:1965年(昭和40)3月30日の極楽寺坂切通し。歩いているのは小学生のわたしと母親だけで、向こうから幌をつけた懐かしいオート三輪がやってくる。ちょうど、『稲村ジェーン』Click!(監督・桑田佳祐/1990年)の鎌倉とシンクロする時代だ。
◆写真中上からへ、山門をくぐる数人の観光客しかいない長谷寺と無人の光則寺。やはり誰もいない権五郎社(御霊社)と極楽寺境内のサルスベリ(左手)。
◆写真中下からへ、1964年(昭和39)4月25日撮影の天園ハイキングコースから眺めたビルのほとんど見えない鎌倉市街。参道も舗装されておらず、誰もいない茅葺き屋根の覚園寺。鎌倉の山々に入りこんだ谷(やつ)で、おそらくヤマカガシの“襲撃”から逃げているわたしだが、いまでは住宅街の下になってしまった。おそらく源頼朝の墓近くで、茅葺き住宅の残る未舗装の道路を歩いているのは地元の親子。片瀬海岸の遊覧船か江ノ島ヨットハーバーのクルーザーに乗り、海上から眺めた藤沢の片瀬海岸。右手には江ノ島大橋が見え、その向こうに見える山は鎌倉と藤沢の境にある片瀬山の瀧口寺。
◆写真下からへ、1964年(昭和39)10月11日撮影の数日後にひかえた東京オリンピック1964で行われる、ディンギーレースの準備に余念がない日本チームの選手とスタッフ。同日撮影の江ノ島ヨットハーバーと、東京オリンピック開会式の翌日なので観光客が多いクラブハウス。観客があまりいない、江ノ島水族館のイルカショー。これらの風景を、前日に瞳を傷つけたわたしは半分“霧中”の視界で見ていた。

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