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先日、BS-TVを観ていたら、目白文化村Click!に建っていたような西洋館が出てきたので、思わず録画してしまった。山田太一の脚本で、1983年(昭和58)に放送された『早春スケッチブック』(フジテレビ)というドラマだった。これもまた、下落合でロケClick!されたものかな?……と一瞬思ったのだが、同年はすでに下落合に住んでいたので、なにかのロケが行われていたとすれば耳に入ってもいいはずだった。
さっそく調べてみると、くだんの西洋館は国立(くにたち)に建っていた東京商科大学(現・一橋大学)の学長・佐野善作邸だった。どうりで、目白文化村の風情と似ているわけだ。下落合の第一文化村から、1925年(大正14)12月に箱根土地本社Click!が社屋を中央生命保険Click!に売却し、移転していった先が「国立(くにたち)大学町」であり、同社は新たな本社屋を国立駅前の広場に面して建設している。つまり、「国立大学町」の開発や佐藤善作邸は、目白文化村と同様に箱根土地の仕事なのだ。
箱根土地は、1924年(大正13)ごろから、下落合に住む地主の姻戚つながりで東大泉に大泉学園都市Click!を、また小平には小平学園都市の開発をはじめていた。しかし、国立大学町と小平学園都市には、東京商科大学(および同大学予科)の誘致に成功しているが、大泉学園への専門学校あるいは大学の誘致は失敗している。ただし、学校の誘致には失敗したものの、戦前まで開発済みだった土地のほぼ6~7割の敷地が売れ、住宅街と呼べるような街並みが形成されていたのは大泉学園だった。
国立の場合は、ちょうど大泉学園ケースの逆で、まず東京商科大学が移転してきて大学町がスタートするのだが、本格的な住宅街の形成は戦後になってからスタートしている。1941~42年(昭和16~17)に撮影された空中写真を見ると、ほとんどがアカマツ林と草原で、おそらく大学関係者の家々がところどころに点在するような風景だった。
関東大震災Click!により主要な校舎が破壊され、東京商科大学が神田一橋から東京郊外への移転を模索していたころの様子を、2004年(平成16)に新潮社から出版された辻井喬(堤清二)『父の肖像』から引用してみよう。ちなみに「次郎」は堤康次郎Click!、「中島」は堤康次郎の右腕でのちに箱根土地の社長になる中島陟(のぼる)のことだ。
▼
大学の建物に入って、次郎は学長室が狭くて薄暗い場所にあるのに驚いた。/佐野善作の最初の質問は、場所は何処か、というのだった。/「まだ決めていません。移転の御意思の有無を伺い、どんな条件の場所が大学から見て好ましいかを知ってから土地を探すつもりです。手持の土地を利用して欲しいというのではありません。しかし、その意志があれば土地は見付けられます」と次郎は断言した。/佐野善作は大きく頷き、副学長と事務長のあいだにも寛いだ空気が生れた。事務長が、場所は今の大学から出来れば電車で四、五十分、乗換えなしで行けるところが望ましい。駅に近ければなお結構だ、と説明し、/「まあ、そうした場所はなかなかないだろうが、広さは最小で二万坪は欲しい。今は四千坪だから、学科を増やすにも、まず場所を決めるのが大変なんだ。国の予算獲得は吾輩が責任を持つ」と佐野善作が事務長の話を引取った。(中略) 電車が国分寺を過ぎて切通しを抜けると中島が言っていたように一面の草原が目に入り、次郎は思わず感歎の声をあげた。彼は多摩湖鉄道の視察に国分寺駅までは何回も来ていたのだが、それから先へ足を伸ばしていなかったのである。
▲
こうして、東京商科大学の移転先は谷保村(現・国立市)に決定した。大学の移転は、1925年(大正14)に文部省の認可が下り、1927年(昭和2)に兼松房治郎(兼松商店)が寄贈した講堂が竣工したのを皮切りに、図書館や大学本部などの建物が次々と建設された。そして、1930年(昭和5)にすべての移転が完了し、翌年には大学移転記念式典が谷保村で挙行された。佐野善作が千駄ヶ谷の自邸から、国立に竣工したばかりの新邸に転居したのは1929年(昭和4)のことだった。
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佐野善作の東京商科大学と、堤康次郎の箱根土地がかわした国立開発をめぐる「覚書」を参照すると面白い。下落合の目白文化村では、土地を売らない地主Click!に対しては強引かつワンマンClick!で威圧的だが、相手が国の大学だとなんでもいいなりになっていたのがわかる。東京商科大学と箱根土地の間では、1925年(大正14)9月9日と同年9月12日の二度にわたる「覚書」の存在が確認されているが、土地でも駅でも道路でも上下水道でも、なんでもお望みのまま無償で提供します…というような、とてもビジネスの交渉とは思えない一方的で卑屈な内容になっている。それほど堤康次郎は、なんとか日本で「国立大学町」を実現したかったのだろう。
同「覚書」には、箱根土地の所在地が「豊多摩郡落合町下落合五七五番地」と記載されている。下落合575番地は、堤康次郎の自宅Click!の住所であり、下落合1340番地に建っていた実際の箱根土地本社の所在地ではない。おそらく、法務局への株式会社登記の所在地欄に、堤は自宅住所を書いているのだろう。堤康次郎が下落合から転居したあと、大正末の下落合575番地の同邸には、堤が経営する駿豆鉄道の取締役だった長坂長が転居してくる。また、堤自身が仕事の都合で転居したあとも、家族は下落合に残って新たな自邸で暮らしていたようだ。
さて、映像に残された佐野邸を観察すると、薄いブルーに塗られた下見板張りの外壁に赤いスレート葺きの屋根、その上には傷みが進んだのか斜めに傾く尖がったフィニアルが載っている。窓枠は白で、ところどころの窓には色ガラスが嵌めこまれている。独特な館のかたちをしており、映像から見る限り敷地に入って右手にある、東向きの門に近い位置から見上げると、大きな切妻の屋根がふたつ直角に組み合わされ、建物全体はおおよそ凹型しているのがわかる。だが、門を入るとすぐにエントランスや玄関ではなく、東棟を左手に見あげながら回廊のような小路をグルリと邸前の道路に沿って西側へ廻りこむと、西棟の下にある玄関へたどり着けるというレイアウトだ。
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建設された当初は、樹木の背も低く陽当たりもよかったのだろう、佐野邸の南側には広い芝庭を含む庭園が拡がっていた。1940年(昭和16)の空中写真を確認すると、同邸を取り巻く屋敷林がそこそこ育っており、住みやすそうな邸になっていたのがわかる。だが、戦後は邸を取り巻く樹木が大きく育ちすぎ、かなり陽当たりを妨げていたのではないかと思われる。1980年代の空中写真を見ると、ときどき樹木を剪定しては陽当たりを確保していたようだが、南の芝庭はほぼ樹々におおわれて全体が日蔭になってしまっている。さらに、佐野邸が最後にとらえられた1992年(平成4)の写真では、赤い屋根まで屋敷林の大樹が覆うようにかぶさっているのが見てとれる。
ドラマ『早春スケッチブック』では、佐野邸の外観ばかりでなく、内部までそのまま撮影に使用しているようで、床鳴りや窓をたたく枝葉や風の音などがそのまま録音されているが、時代をへて焦げ茶色になった柱や階段の手すり、昭和初期の落ち着いた室内の意匠を細かく観察することができる。また先述したけれど、窓のところどころには色ガラスが嵌めこまれ、陽光を少しでも多くとり入れるよう設計された大きな窓や石造りの暖炉など、当時のモダンな雰囲気を醸しだしている。
さっそく、佐野邸跡(現:一橋大学佐野書院)を中心に、「国立大学町」をひとめぐり歩いてきた。ちょうど、箱根土地の河野伝Click!が設計した旧・国立駅を元通りに再建する建設工事が進捗しており、赤い尖がり屋根とドーム状の採光窓には大工が貼りついている最中だった。(冒頭写真) 佐野邸がいつ解体されたのかは不明だが、少なくとも1992年(平成4)の空中写真まではその存在を確認することができる。保存運動まで起きたらしい佐野邸だが、北側の一橋大学キャンパス内にある職員集会所の大きな西洋館と三間道路をはさんで向き合い、美しい風景を見せていたのだろう。
しばらく国立の市街を散策したが、一橋大学の構内にある校舎や講堂、図書館などの近代建築を除けば、戦前の建物らしい住宅は1~2棟(しかも1棟は廃屋)ぐらいしか見つからなかった。下落合の目白文化村や近衛町Click!に残された、大正期の住宅群よりも建築年数が若く、ほとんどの住宅が昭和の前半期に建てられている国立の街並みだが、よほど早くから建て替えが進んでしまったのだろう。中でも、記念館としても残せそうな佐野善作邸の解体は非常に残念だったと、ドラマの邸を内外から見ていて強く感じたしだいだ。
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余談だが、主演している岩下志麻がいい。この女優は、わたしの故郷の隣り街出身で、演じる役柄やプライベートを問わず、江戸東京の(城)下町Click!育ちの典型的な女性を体現しているのだが、そのややキツイ気質と男まさりの性格に加え、少なからず“天然”気味でツンデレな内面とをどう掌握し、うまくコントロールしながら機嫌をそこねず、微笑をたたえた上機嫌のまますごさせてあげられるのかが、下町男のまさに腕の見せどころ……といったモチベーションを、無性にかき立てられるような女性なのだ。
◆写真上:屋根についたドーム状の採光窓が特徴的な、復元が進む中央線の国立駅舎。
◆写真中上:上は、1940年(昭和15)と1941年(昭和16)の空中写真にみる国立大学町。駅前には、箱根土地の新社屋が見えている。中は、国立開発で発行された絵葉書写真(1926年~1931年ごろまで)。駅前広場の檻は、閉園した新宿園Click!で飼われていた鳥たちを収容する「水禽舎」。「水禽舎」を中心に撮影された絵葉書の、右手に見えているビルが新しい箱根土地の本社屋。下落合の本社屋が、まるで東京駅のように前時代的なレンガ造りだったのに対し、国立駅前の新社屋はよりモダンな木造モルタル建築のようだ。下左は、東京商科大学の学長・佐野善作。下右は、1914年(大正3)に内閣が作成した佐野善作を東京高等商科学校(のち東京商科大学)の校長に任命する決定書。
◆写真中下:『早春スケッチブック』(フジテレビ/1983年)で、ロケ現場となった佐野善作邸。門から入り、左手(南側)の建物を見ながら西側の玄関前に立つ。
◆写真下:上から、1940年(昭和15)ごろの佐野善作邸(南が上)、南側斜めフカンから見た1941年(昭和16)の同邸、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同邸、同じくカラーで撮影された1989年(昭和64)と1992年(平成4)の同邸。下は、佐野邸と向かい合わせにある一橋大学職員集会所と、佐野邸の跡地に建てられた同大学の佐野書院。
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先日、BS-TVを観ていたら、目白文化村Click!に建っていたような西洋館が出てきたので、思わず録画してしまった。山田太一の脚本で、1983年(昭和58)に放送された『早春スケッチブック』(フジテレビ)というドラマだった。これもまた、下落合でロケClick!されたものかな?……と一瞬思ったのだが、同年はすでに下落合に住んでいたので、なにかのロケが行われていたとすれば耳に入ってもいいはずだった。
さっそく調べてみると、くだんの西洋館は国立(くにたち)に建っていた東京商科大学(現・一橋大学)の学長・佐野善作邸だった。どうりで、目白文化村の風情と似ているわけだ。下落合の第一文化村から、1925年(大正14)12月に箱根土地本社Click!が社屋を中央生命保険Click!に売却し、移転していった先が「国立(くにたち)大学町」であり、同社は新たな本社屋を国立駅前の広場に面して建設している。つまり、「国立大学町」の開発や佐藤善作邸は、目白文化村と同様に箱根土地の仕事なのだ。
箱根土地は、1924年(大正13)ごろから、下落合に住む地主の姻戚つながりで東大泉に大泉学園都市Click!を、また小平には小平学園都市の開発をはじめていた。しかし、国立大学町と小平学園都市には、東京商科大学(および同大学予科)の誘致に成功しているが、大泉学園への専門学校あるいは大学の誘致は失敗している。ただし、学校の誘致には失敗したものの、戦前まで開発済みだった土地のほぼ6~7割の敷地が売れ、住宅街と呼べるような街並みが形成されていたのは大泉学園だった。
国立の場合は、ちょうど大泉学園ケースの逆で、まず東京商科大学が移転してきて大学町がスタートするのだが、本格的な住宅街の形成は戦後になってからスタートしている。1941~42年(昭和16~17)に撮影された空中写真を見ると、ほとんどがアカマツ林と草原で、おそらく大学関係者の家々がところどころに点在するような風景だった。
関東大震災Click!により主要な校舎が破壊され、東京商科大学が神田一橋から東京郊外への移転を模索していたころの様子を、2004年(平成16)に新潮社から出版された辻井喬(堤清二)『父の肖像』から引用してみよう。ちなみに「次郎」は堤康次郎Click!、「中島」は堤康次郎の右腕でのちに箱根土地の社長になる中島陟(のぼる)のことだ。
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大学の建物に入って、次郎は学長室が狭くて薄暗い場所にあるのに驚いた。/佐野善作の最初の質問は、場所は何処か、というのだった。/「まだ決めていません。移転の御意思の有無を伺い、どんな条件の場所が大学から見て好ましいかを知ってから土地を探すつもりです。手持の土地を利用して欲しいというのではありません。しかし、その意志があれば土地は見付けられます」と次郎は断言した。/佐野善作は大きく頷き、副学長と事務長のあいだにも寛いだ空気が生れた。事務長が、場所は今の大学から出来れば電車で四、五十分、乗換えなしで行けるところが望ましい。駅に近ければなお結構だ、と説明し、/「まあ、そうした場所はなかなかないだろうが、広さは最小で二万坪は欲しい。今は四千坪だから、学科を増やすにも、まず場所を決めるのが大変なんだ。国の予算獲得は吾輩が責任を持つ」と佐野善作が事務長の話を引取った。(中略) 電車が国分寺を過ぎて切通しを抜けると中島が言っていたように一面の草原が目に入り、次郎は思わず感歎の声をあげた。彼は多摩湖鉄道の視察に国分寺駅までは何回も来ていたのだが、それから先へ足を伸ばしていなかったのである。
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こうして、東京商科大学の移転先は谷保村(現・国立市)に決定した。大学の移転は、1925年(大正14)に文部省の認可が下り、1927年(昭和2)に兼松房治郎(兼松商店)が寄贈した講堂が竣工したのを皮切りに、図書館や大学本部などの建物が次々と建設された。そして、1930年(昭和5)にすべての移転が完了し、翌年には大学移転記念式典が谷保村で挙行された。佐野善作が千駄ヶ谷の自邸から、国立に竣工したばかりの新邸に転居したのは1929年(昭和4)のことだった。
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佐野善作の東京商科大学と、堤康次郎の箱根土地がかわした国立開発をめぐる「覚書」を参照すると面白い。下落合の目白文化村では、土地を売らない地主Click!に対しては強引かつワンマンClick!で威圧的だが、相手が国の大学だとなんでもいいなりになっていたのがわかる。東京商科大学と箱根土地の間では、1925年(大正14)9月9日と同年9月12日の二度にわたる「覚書」の存在が確認されているが、土地でも駅でも道路でも上下水道でも、なんでもお望みのまま無償で提供します…というような、とてもビジネスの交渉とは思えない一方的で卑屈な内容になっている。それほど堤康次郎は、なんとか日本で「国立大学町」を実現したかったのだろう。
同「覚書」には、箱根土地の所在地が「豊多摩郡落合町下落合五七五番地」と記載されている。下落合575番地は、堤康次郎の自宅Click!の住所であり、下落合1340番地に建っていた実際の箱根土地本社の所在地ではない。おそらく、法務局への株式会社登記の所在地欄に、堤は自宅住所を書いているのだろう。堤康次郎が下落合から転居したあと、大正末の下落合575番地の同邸には、堤が経営する駿豆鉄道の取締役だった長坂長が転居してくる。また、堤自身が仕事の都合で転居したあとも、家族は下落合に残って新たな自邸で暮らしていたようだ。
さて、映像に残された佐野邸を観察すると、薄いブルーに塗られた下見板張りの外壁に赤いスレート葺きの屋根、その上には傷みが進んだのか斜めに傾く尖がったフィニアルが載っている。窓枠は白で、ところどころの窓には色ガラスが嵌めこまれている。独特な館のかたちをしており、映像から見る限り敷地に入って右手にある、東向きの門に近い位置から見上げると、大きな切妻の屋根がふたつ直角に組み合わされ、建物全体はおおよそ凹型しているのがわかる。だが、門を入るとすぐにエントランスや玄関ではなく、東棟を左手に見あげながら回廊のような小路をグルリと邸前の道路に沿って西側へ廻りこむと、西棟の下にある玄関へたどり着けるというレイアウトだ。
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建設された当初は、樹木の背も低く陽当たりもよかったのだろう、佐野邸の南側には広い芝庭を含む庭園が拡がっていた。1940年(昭和16)の空中写真を確認すると、同邸を取り巻く屋敷林がそこそこ育っており、住みやすそうな邸になっていたのがわかる。だが、戦後は邸を取り巻く樹木が大きく育ちすぎ、かなり陽当たりを妨げていたのではないかと思われる。1980年代の空中写真を見ると、ときどき樹木を剪定しては陽当たりを確保していたようだが、南の芝庭はほぼ樹々におおわれて全体が日蔭になってしまっている。さらに、佐野邸が最後にとらえられた1992年(平成4)の写真では、赤い屋根まで屋敷林の大樹が覆うようにかぶさっているのが見てとれる。
ドラマ『早春スケッチブック』では、佐野邸の外観ばかりでなく、内部までそのまま撮影に使用しているようで、床鳴りや窓をたたく枝葉や風の音などがそのまま録音されているが、時代をへて焦げ茶色になった柱や階段の手すり、昭和初期の落ち着いた室内の意匠を細かく観察することができる。また先述したけれど、窓のところどころには色ガラスが嵌めこまれ、陽光を少しでも多くとり入れるよう設計された大きな窓や石造りの暖炉など、当時のモダンな雰囲気を醸しだしている。
さっそく、佐野邸跡(現:一橋大学佐野書院)を中心に、「国立大学町」をひとめぐり歩いてきた。ちょうど、箱根土地の河野伝Click!が設計した旧・国立駅を元通りに再建する建設工事が進捗しており、赤い尖がり屋根とドーム状の採光窓には大工が貼りついている最中だった。(冒頭写真) 佐野邸がいつ解体されたのかは不明だが、少なくとも1992年(平成4)の空中写真まではその存在を確認することができる。保存運動まで起きたらしい佐野邸だが、北側の一橋大学キャンパス内にある職員集会所の大きな西洋館と三間道路をはさんで向き合い、美しい風景を見せていたのだろう。
しばらく国立の市街を散策したが、一橋大学の構内にある校舎や講堂、図書館などの近代建築を除けば、戦前の建物らしい住宅は1~2棟(しかも1棟は廃屋)ぐらいしか見つからなかった。下落合の目白文化村や近衛町Click!に残された、大正期の住宅群よりも建築年数が若く、ほとんどの住宅が昭和の前半期に建てられている国立の街並みだが、よほど早くから建て替えが進んでしまったのだろう。中でも、記念館としても残せそうな佐野善作邸の解体は非常に残念だったと、ドラマの邸を内外から見ていて強く感じたしだいだ。
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余談だが、主演している岩下志麻がいい。この女優は、わたしの故郷の隣り街出身で、演じる役柄やプライベートを問わず、江戸東京の(城)下町Click!育ちの典型的な女性を体現しているのだが、そのややキツイ気質と男まさりの性格に加え、少なからず“天然”気味でツンデレな内面とをどう掌握し、うまくコントロールしながら機嫌をそこねず、微笑をたたえた上機嫌のまますごさせてあげられるのかが、下町男のまさに腕の見せどころ……といったモチベーションを、無性にかき立てられるような女性なのだ。
◆写真上:屋根についたドーム状の採光窓が特徴的な、復元が進む中央線の国立駅舎。
◆写真中上:上は、1940年(昭和15)と1941年(昭和16)の空中写真にみる国立大学町。駅前には、箱根土地の新社屋が見えている。中は、国立開発で発行された絵葉書写真(1926年~1931年ごろまで)。駅前広場の檻は、閉園した新宿園Click!で飼われていた鳥たちを収容する「水禽舎」。「水禽舎」を中心に撮影された絵葉書の、右手に見えているビルが新しい箱根土地の本社屋。下落合の本社屋が、まるで東京駅のように前時代的なレンガ造りだったのに対し、国立駅前の新社屋はよりモダンな木造モルタル建築のようだ。下左は、東京商科大学の学長・佐野善作。下右は、1914年(大正3)に内閣が作成した佐野善作を東京高等商科学校(のち東京商科大学)の校長に任命する決定書。
◆写真中下:『早春スケッチブック』(フジテレビ/1983年)で、ロケ現場となった佐野善作邸。門から入り、左手(南側)の建物を見ながら西側の玄関前に立つ。
◆写真下:上から、1940年(昭和15)ごろの佐野善作邸(南が上)、南側斜めフカンから見た1941年(昭和16)の同邸、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同邸、同じくカラーで撮影された1989年(昭和64)と1992年(平成4)の同邸。下は、佐野邸と向かい合わせにある一橋大学職員集会所と、佐野邸の跡地に建てられた同大学の佐野書院。