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夏目利政Click!が、東京美術学校の日本画科へ学んだにもかかわらず、洋画の表現にも強く惹かれていたのは、やはり本郷区駒込動坂町109番地の実家2階に下宿していた、長沼智恵子Click!の影響が大きかったようだ。いまだ子どもだったにもかわらず、文展をはじめ多くの展覧会へ入選していた夏目利政は、しばしばその作品を彼女から容赦なく批判Click!された。夏目は、東京美術学校で日本画を学ぶかたわら、白馬会洋画研究所にも通って洋画の技術も身につけている。
夏目利政は、1893年(明治26)に駒込動坂町の実家で生まれた。父親は腕のいい牙彫師Click!・夏目音作で、家庭の内証はかなり豊かだったらしく、江戸期には田安家に仕えた幕臣の家系だった。音作の父親、つまり夏目利政の祖父は彰義隊Click!に参加し、上野の戦争Click!で戦死している。ひょっとすると、夏目音作は銀座の池田象牙店Click!の仕事も引き受けていたのかもしれない。そのような家庭環境で、夏目利政はなに不自由なく育ち、子どものころから画才を発揮した。
書(道)では、1902年(明治35)の9歳のときに展覧会で初入選しているが、絵画では1907年(明治40)の14歳のとき、日本勧業博覧会(東京府)で『畑時能』が、日本絵画展覧会(国画玉成会)で『競』が、そして第1回文展(文部省)で『春』が入選して世間を驚かせている。そのまま、夏目利政は連続して毎年なんらかの展覧会に入選しつづけており、1911年(明治44)の18歳のときには、第5回文展へ六曲一双の屏風絵『隅田川』を出品して再び入選している。
周囲からその才能を認められて褒められ、チヤホヤされながら育ったであろう夏目利政は、長沼智恵子から「子供のくせにしてこんなまとまった絵をかくことはちっとも真実を知らないからで、個性のない、だれでも書(ママ)ける絵だ」と批判され、初めて大きなショックを受けたと思われる。それが、こまっちゃくれた子どもだったとみられる利政を、様式や技法にあまり縛られない洋画の世界へ目を向けさせ、ほどなく白馬会洋画研究所へと通わせるきっかけとなったのだろう。
夏目利政は、11歳のときから梶田半古の画塾に入って日本画を習っている。1917年(大正6)の24歳のときに師の半古が死去すると、2年後の1919年(大正8)に未亡人の和歌夫人と結婚している。しかも、結婚した年の10月には早々に子どもが生まれているので、ひょっとすると「できちゃった」婚の可能性がある。そして、半古の子どもたち5人を引きとり、自分の母と祖母、そして生まれたばかりの実子も含め計10人の一家で、下落合793番地(のち夏目貞良アトリエClick!)へ、ほどなく下落合436番地のアトリエで暮らすことになった。夏目利政が26歳、和歌夫人は12歳年上の38歳になっていた。
駒込動坂町から下落合のアトリエへの転居は、下落合にやってきたあまたの画家たちとは異なり、当時の「画壇」といっさい訣別するための転居だった。夏目利政は、師の日本画家・梶田半古の未亡人と結婚したために、周囲の画家たちから妬みや反感をかい、既存の画会や展覧会での創作・出品活動ができなくなってしまった。しかも、結婚してほどなく子どもが生まれたことも、不道徳だと見とがめられたゆえんかもしれない。当時の日本画の世界は、きわめて閉鎖的な人間関係であり「画壇」だったのだろう。以降、彼は独自で画業をつづけていくことになる。
また、日本画だけでは生活できないため、本来の器用な才能や手先を活用して、下落合におけるアトリエ建築の設計などの仕事もこなしていたようだ。以前、下落合804番地の鶴田吾郎アトリエClick!を設計した事例をご紹介しているが、ほかにも夏目利政が設計したアトリエがありそうだ。また、自身のアトリエだった下落合793番地へ、弟の彫刻家・夏目貞良(帝展無鑑査)を呼び寄せたのをはじめ、下落合に住みたい画家たちの事情通、あるいは面倒見のよいコーディネーターのような役割りもはたしている。
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下落合に先住していた中村彝Click!も、なにかあると最新情報を夏目利政に問い合わせていたらしい様子がうかがえる。1924年(大正13)10月28日、彝が死去する2ヶ月前に芝区三田に住む石若恵美あての手紙から引用してみよう。
▼
先程石若君逝去の報に接しましたが、余り突然で信ずることが出来なかつた為め、夏目君に使を走らせやうやくそのほんたうなのを知つて驚きました。ついこの間来られた時の元気な顔が未だ目に残つてゐるのに、もう再びあの温い様子を見ることが出来ないのかと思ふと泣かずには居られなくなります。
▲
知人の死を確めるため、誰かを近衛町Click!に近い夏目アトリエまで走らせたのだろう。
また、夏目利政は「アビラ村」計画Click!にも積極的に参加していた。1922年(大正11)6月の計画を伝える新聞記事に、アビラ村の発起人として洋画家の満谷国四郎Click!や金山平三Click!らと並び、日本画の夏目利政と彫刻家・夏目貞良の名前を見ることができる。同年6月10日に発行された、読売新聞の記事から引用してみよう。
▼
画家の満谷国四郎氏を名主にして新しい芸術家村が出来る。場所は目白奥の市外下落合小上二千九十二、二千八百六(ママ)、七百八十九の五番地に渡つて約七千坪、住民には昨日まで決定したものに洋画家では前記満谷(国四郎)氏を始め南薫造 金山平三の両画伯、日本画の夏目政利(ママ:利政)氏、彫刻家で北村西望、夏目貞亮(ママ:貞良)の諸氏だが、丁度眼前に開けた落合村の谷の景色が西班牙で有名なアビラの風景其儘といふ所からその名も阿比良村と名付け、満谷画伯を村長様に仰ぐ事に相談一決、目下銀座一丁目の東京土地住宅会社の手で地所を買収整理に従事してゐる。(カッコ内引用者註)
▲
夏目利政は、画壇やメジャーな展覧会とは訣別しているので、彼の絵が好きな個人からのオーダーや広告用の絵画、書籍などの挿画などでなんとか生活していた。だが、1921年(大正10)に第2子が生まれると家族は11人に増え、生活を支えていくのはたいへんだったろう。そこで、下落合に越してきたい画家たちのコーディネーターや、アトリエを建てたい画家の設計、地元の地主が建てる貸家の設計などを引き受けたりして、少しでも家計の足しになるような事業を試みているようだ。
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1923年(大正12)9月に関東大震災Click!が起きると、下落合645番地の借家が傾き住めなくなった鶴田吾郎Click!は、夏目利政に相談して下落合804番地にアトリエを設計してもらっている。下落合800番地のアトリエにいた鈴木良三Click!は、その様子を見ていたのだろう、1999年(平成11)に木耳社から出版された『芸術無限に生きて』から、鶴田吾郎についての思い出を引用してみよう。
▼
(鶴田吾郎は)この年(1923年)夏目利政さんという建築好きの人がいて盛んに貸家を造っていたが、その人の世話で小画室を造られ移った。大震災に遭い長男の徹一君が疫痢で亡くなった。/翌年(1924年12月)は彝さんの死にあい、全力を尽くしてその後始末をするのだった。葬儀のことは勿論、遺作展、遺作集、遺稿集、画(室)保存会、遺品の分配等々。(カッコ内引用者註)
▲
この証言にもチラリと書かれているが、夏目利政がアトリエや貸家の設計を積極的に引き受けていた様子がうかがわれる。だが、もともと育ちがよくて人もよかったらしい芸術家の夏目利政が、ビジネスで十分な収入を得て成功するのはなかなか難しく、またアビラ村の事業計画は東京土地住宅が経営破たんClick!してしまったため、途中で頓挫してしまう不運にもみまわれている。
1925年(大正14)ごろから、夏目利政は「寸土山人」という画号を使いはじめているが、日本画の注文は思うように取れなかったらしい。また、大正末から昭和初期にかけ、油絵にも積極的に取り組みはじめている。1931年(昭和6)には、下落合から和田堀和泉(現・世田谷区和泉)へと転居し、下宿屋を営むかたわらアトリエで地道に制作をつづけた。さらに、アトリエの近くにアパートを建設し、おもにアジアからの留学生を積極的に受け入れて面倒をみている。
夏目利政は、1968年(昭和43)に死去しているが、現在、評価が高い作品は晩年のものが多い。特に洋画の連作『自画像』は、自身の内面を深く見つめて描いたような独自の表現域に達しており、しばらく目が離せず見つめつづけてしまう画面だと思う。
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1957年(昭和32)、64歳の夏目利政は「下落合医院」の襖絵『浮舟』その他を手がけている。下落合からは1931年(昭和6)に転出しているにもかかわらず、彼を憶えていて絵の注文をしてくれる住民がいたことになる。このあたり、夏目利政の人がよく面倒見のいい性格を感じさせるエピソードだ。この「下落合医院」がどこにあったのかは、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図」を参照しているが、いまだ見つけられないでいる。
◆写真上:1919年(大正8)から夏目利政アトリエがあった、下落合436番地の現状。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)ごろに撮影された夏目利政(左)と年上の和歌夫人(右)。下左は、1907年(明治40)の第1回文展に入選した夏目利政『春』、下右は、昭和初期に制作された同『寒山拾得』。このような日本画の画題や構図が、長沼智恵子にはこざかしく思え痛烈に批判する要因となったのだろう。夏目利政と作品の画像は、1997年(平成9)に青梅市立美術館で開催された「夏目利政展」図録より。
◆写真中下:上左は、1919年(大正8)ごろに制作された夏目利政『処女と白鳥』。上右は、1947年(昭和22)制作の同『勿来関』。中は、1942年(昭和17)に撮影された世田谷の自宅庭を散歩する49歳の夏目利政。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる夏目利政アトリエ。
◆写真下:上左は、1952年(昭和27)ごろ制作の夏目利政『吹雪』。上右は、1965年(昭和40)制作の『褐色の自画像』。中は、1967年(昭和42)制作の同『灰色の自画像A』(左)と同『黒の自画像』(右)でいずれも洋画作品。下左は、1941年(昭和16)ごろの夏目利政。下右は、晩年の1963年(昭和38)ごろにアトリエで撮影された夏目利政。
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夏目利政Click!が、東京美術学校の日本画科へ学んだにもかかわらず、洋画の表現にも強く惹かれていたのは、やはり本郷区駒込動坂町109番地の実家2階に下宿していた、長沼智恵子Click!の影響が大きかったようだ。いまだ子どもだったにもかわらず、文展をはじめ多くの展覧会へ入選していた夏目利政は、しばしばその作品を彼女から容赦なく批判Click!された。夏目は、東京美術学校で日本画を学ぶかたわら、白馬会洋画研究所にも通って洋画の技術も身につけている。
夏目利政は、1893年(明治26)に駒込動坂町の実家で生まれた。父親は腕のいい牙彫師Click!・夏目音作で、家庭の内証はかなり豊かだったらしく、江戸期には田安家に仕えた幕臣の家系だった。音作の父親、つまり夏目利政の祖父は彰義隊Click!に参加し、上野の戦争Click!で戦死している。ひょっとすると、夏目音作は銀座の池田象牙店Click!の仕事も引き受けていたのかもしれない。そのような家庭環境で、夏目利政はなに不自由なく育ち、子どものころから画才を発揮した。
書(道)では、1902年(明治35)の9歳のときに展覧会で初入選しているが、絵画では1907年(明治40)の14歳のとき、日本勧業博覧会(東京府)で『畑時能』が、日本絵画展覧会(国画玉成会)で『競』が、そして第1回文展(文部省)で『春』が入選して世間を驚かせている。そのまま、夏目利政は連続して毎年なんらかの展覧会に入選しつづけており、1911年(明治44)の18歳のときには、第5回文展へ六曲一双の屏風絵『隅田川』を出品して再び入選している。
周囲からその才能を認められて褒められ、チヤホヤされながら育ったであろう夏目利政は、長沼智恵子から「子供のくせにしてこんなまとまった絵をかくことはちっとも真実を知らないからで、個性のない、だれでも書(ママ)ける絵だ」と批判され、初めて大きなショックを受けたと思われる。それが、こまっちゃくれた子どもだったとみられる利政を、様式や技法にあまり縛られない洋画の世界へ目を向けさせ、ほどなく白馬会洋画研究所へと通わせるきっかけとなったのだろう。
夏目利政は、11歳のときから梶田半古の画塾に入って日本画を習っている。1917年(大正6)の24歳のときに師の半古が死去すると、2年後の1919年(大正8)に未亡人の和歌夫人と結婚している。しかも、結婚した年の10月には早々に子どもが生まれているので、ひょっとすると「できちゃった」婚の可能性がある。そして、半古の子どもたち5人を引きとり、自分の母と祖母、そして生まれたばかりの実子も含め計10人の一家で、下落合793番地(のち夏目貞良アトリエClick!)へ、ほどなく下落合436番地のアトリエで暮らすことになった。夏目利政が26歳、和歌夫人は12歳年上の38歳になっていた。
駒込動坂町から下落合のアトリエへの転居は、下落合にやってきたあまたの画家たちとは異なり、当時の「画壇」といっさい訣別するための転居だった。夏目利政は、師の日本画家・梶田半古の未亡人と結婚したために、周囲の画家たちから妬みや反感をかい、既存の画会や展覧会での創作・出品活動ができなくなってしまった。しかも、結婚してほどなく子どもが生まれたことも、不道徳だと見とがめられたゆえんかもしれない。当時の日本画の世界は、きわめて閉鎖的な人間関係であり「画壇」だったのだろう。以降、彼は独自で画業をつづけていくことになる。
また、日本画だけでは生活できないため、本来の器用な才能や手先を活用して、下落合におけるアトリエ建築の設計などの仕事もこなしていたようだ。以前、下落合804番地の鶴田吾郎アトリエClick!を設計した事例をご紹介しているが、ほかにも夏目利政が設計したアトリエがありそうだ。また、自身のアトリエだった下落合793番地へ、弟の彫刻家・夏目貞良(帝展無鑑査)を呼び寄せたのをはじめ、下落合に住みたい画家たちの事情通、あるいは面倒見のよいコーディネーターのような役割りもはたしている。
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下落合に先住していた中村彝Click!も、なにかあると最新情報を夏目利政に問い合わせていたらしい様子がうかがえる。1924年(大正13)10月28日、彝が死去する2ヶ月前に芝区三田に住む石若恵美あての手紙から引用してみよう。
▼
先程石若君逝去の報に接しましたが、余り突然で信ずることが出来なかつた為め、夏目君に使を走らせやうやくそのほんたうなのを知つて驚きました。ついこの間来られた時の元気な顔が未だ目に残つてゐるのに、もう再びあの温い様子を見ることが出来ないのかと思ふと泣かずには居られなくなります。
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知人の死を確めるため、誰かを近衛町Click!に近い夏目アトリエまで走らせたのだろう。
また、夏目利政は「アビラ村」計画Click!にも積極的に参加していた。1922年(大正11)6月の計画を伝える新聞記事に、アビラ村の発起人として洋画家の満谷国四郎Click!や金山平三Click!らと並び、日本画の夏目利政と彫刻家・夏目貞良の名前を見ることができる。同年6月10日に発行された、読売新聞の記事から引用してみよう。
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画家の満谷国四郎氏を名主にして新しい芸術家村が出来る。場所は目白奥の市外下落合小上二千九十二、二千八百六(ママ)、七百八十九の五番地に渡つて約七千坪、住民には昨日まで決定したものに洋画家では前記満谷(国四郎)氏を始め南薫造 金山平三の両画伯、日本画の夏目政利(ママ:利政)氏、彫刻家で北村西望、夏目貞亮(ママ:貞良)の諸氏だが、丁度眼前に開けた落合村の谷の景色が西班牙で有名なアビラの風景其儘といふ所からその名も阿比良村と名付け、満谷画伯を村長様に仰ぐ事に相談一決、目下銀座一丁目の東京土地住宅会社の手で地所を買収整理に従事してゐる。(カッコ内引用者註)
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夏目利政は、画壇やメジャーな展覧会とは訣別しているので、彼の絵が好きな個人からのオーダーや広告用の絵画、書籍などの挿画などでなんとか生活していた。だが、1921年(大正10)に第2子が生まれると家族は11人に増え、生活を支えていくのはたいへんだったろう。そこで、下落合に越してきたい画家たちのコーディネーターや、アトリエを建てたい画家の設計、地元の地主が建てる貸家の設計などを引き受けたりして、少しでも家計の足しになるような事業を試みているようだ。
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1923年(大正12)9月に関東大震災Click!が起きると、下落合645番地の借家が傾き住めなくなった鶴田吾郎Click!は、夏目利政に相談して下落合804番地にアトリエを設計してもらっている。下落合800番地のアトリエにいた鈴木良三Click!は、その様子を見ていたのだろう、1999年(平成11)に木耳社から出版された『芸術無限に生きて』から、鶴田吾郎についての思い出を引用してみよう。
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(鶴田吾郎は)この年(1923年)夏目利政さんという建築好きの人がいて盛んに貸家を造っていたが、その人の世話で小画室を造られ移った。大震災に遭い長男の徹一君が疫痢で亡くなった。/翌年(1924年12月)は彝さんの死にあい、全力を尽くしてその後始末をするのだった。葬儀のことは勿論、遺作展、遺作集、遺稿集、画(室)保存会、遺品の分配等々。(カッコ内引用者註)
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この証言にもチラリと書かれているが、夏目利政がアトリエや貸家の設計を積極的に引き受けていた様子がうかがわれる。だが、もともと育ちがよくて人もよかったらしい芸術家の夏目利政が、ビジネスで十分な収入を得て成功するのはなかなか難しく、またアビラ村の事業計画は東京土地住宅が経営破たんClick!してしまったため、途中で頓挫してしまう不運にもみまわれている。
1925年(大正14)ごろから、夏目利政は「寸土山人」という画号を使いはじめているが、日本画の注文は思うように取れなかったらしい。また、大正末から昭和初期にかけ、油絵にも積極的に取り組みはじめている。1931年(昭和6)には、下落合から和田堀和泉(現・世田谷区和泉)へと転居し、下宿屋を営むかたわらアトリエで地道に制作をつづけた。さらに、アトリエの近くにアパートを建設し、おもにアジアからの留学生を積極的に受け入れて面倒をみている。
夏目利政は、1968年(昭和43)に死去しているが、現在、評価が高い作品は晩年のものが多い。特に洋画の連作『自画像』は、自身の内面を深く見つめて描いたような独自の表現域に達しており、しばらく目が離せず見つめつづけてしまう画面だと思う。
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1957年(昭和32)、64歳の夏目利政は「下落合医院」の襖絵『浮舟』その他を手がけている。下落合からは1931年(昭和6)に転出しているにもかかわらず、彼を憶えていて絵の注文をしてくれる住民がいたことになる。このあたり、夏目利政の人がよく面倒見のいい性格を感じさせるエピソードだ。この「下落合医院」がどこにあったのかは、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図」を参照しているが、いまだ見つけられないでいる。
◆写真上:1919年(大正8)から夏目利政アトリエがあった、下落合436番地の現状。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)ごろに撮影された夏目利政(左)と年上の和歌夫人(右)。下左は、1907年(明治40)の第1回文展に入選した夏目利政『春』、下右は、昭和初期に制作された同『寒山拾得』。このような日本画の画題や構図が、長沼智恵子にはこざかしく思え痛烈に批判する要因となったのだろう。夏目利政と作品の画像は、1997年(平成9)に青梅市立美術館で開催された「夏目利政展」図録より。
◆写真中下:上左は、1919年(大正8)ごろに制作された夏目利政『処女と白鳥』。上右は、1947年(昭和22)制作の同『勿来関』。中は、1942年(昭和17)に撮影された世田谷の自宅庭を散歩する49歳の夏目利政。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる夏目利政アトリエ。
◆写真下:上左は、1952年(昭和27)ごろ制作の夏目利政『吹雪』。上右は、1965年(昭和40)制作の『褐色の自画像』。中は、1967年(昭和42)制作の同『灰色の自画像A』(左)と同『黒の自画像』(右)でいずれも洋画作品。下左は、1941年(昭和16)ごろの夏目利政。下右は、晩年の1963年(昭和38)ごろにアトリエで撮影された夏目利政。