リヒャルト・ハイゼが、東京高等商業学校(のち東京商科大学Click!:現・一橋大学)のドイツ語教師として来日したのは、1902年(明治35)8月のことだった。同年の3月に、前任のドイツ語教師が死去したため、後任の募集が行われハイゼが応募したという経緯だ。前任のドイツ語教師はイタリア人で、ドイツ語のほかスペイン語やイタリア語も教えていたため、おそらく発音が怪しかったのだろう、ドイツ語の授業は本格的なドイツ人教師に……という学校当局の意向で、改めて募集がドイツで行われたとみられる。
ハイゼは、1869年(明治2)にキールで生まれているが、父親はキール大学教師で同時にプロテスタント教会の牧師、母親は地元では有名だった名門の学閥の家柄出身で、キールでは少なからず裕福な家庭だった。ハイゼは、おカネ持ちの子どもがみなそうであったように9年制のギムナジウムへ入学し、エリートコースを歩きはじめているが、途中で挫折や意思の変遷などにより紆余曲折したあげく、化学を専攻するためにキール大学へ入学する。だが、途中で「病気」のために退学し、東プロイセンやポーランドで農業に従事しながら身体を鍛えていたようだ。
少年から青年にかけてのハイゼの経歴は、2012年(平成24)に中央公論新社から出版された瀬野文教『リヒャルト・ハイゼ物語―白虎隊の丘に眠る或るドイツ人の半生―』に詳しいので、ぜひ参照していただきたいのだが、ハイゼの“屈折”は、当時のドイツが置かれた複雑な政治状況ともからみ合い、さまざまな思想や意思が彼の青春時代には反映されていると思われる。
来日したハイゼは当初、江戸期からの外国人居留地だった築地に住んでいる。明治に入ってからも、築地は欧米人の独特なコロニーを形成しており、そのエキゾチックな街並みに惹かれて多くの画家たちが通っているのは、以前にご紹介Click!したとおりだ。ハイゼは、東京高等商業学校でドイツ語教師として勤めはじめたが、その後、学習院、慶應義塾大学などでもドイツ語を教え、北里柴三郎の伝染病研究所ではドイツ語による医学ドキュメントの作成などに従事している。
ハイゼが、学習院で教鞭をとるようになり、1908年(明治41)に学習院が四谷尾張町から高田村金久保沢・稲荷一帯(現・目白1丁目)に移転Click!してきたのとほぼ同じころ、小石川老松町59番地(カール・フローレンツ邸で仮住まい?)へ一時的に住み、さらに高田村雑司ヶ谷572番地へ自邸を建設して転居している。これが、いわゆる「雑司ヶ谷異人館」Click!の由来であり、ハイゼが日本を去りドイツへ帰国したあと、そして死去したあとも、71年間にわたって雑司ヶ谷とその周辺に住む多くの人々の目を惹きつづけてきた。同邸が解体されたのは、ハイゼの死去から39年後の1979年(昭和54)のことだった。
瀬野文教『リヒャルト・ハイゼ物語』から、雑司ヶ谷でのハイゼを引用してみよう。
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ハイゼは、学習院が目白に移転した一九〇八年(明治四十一年)ころから一九二四年(大正十三年)に帰国するまで雑司ヶ谷(鬼子母神、雑司ヶ谷霊園のそば)に住んだが、外出するたびに近所の子供たちに付きまとわれたようだ。その界隈の古老たちの話では、子供のころハイゼがやってくるとみんなして「あっ、ハイゼだ、ハイゼだ」といっては面白がって取り巻いたという。大正末の話であり、ハイゼが日本を離れる少し前のことである。古老の話では「ハイゼは結婚していなかった」という。“二号さん” “愛人”を“異人館”とよばれる屋敷に連れ込んでは、取り替え引っ替えしていたが、近所の大鳥神社の縁日には気前よく寄付をしたそうだ。ハイゼは日本を去る二年前の一九二二年(大正十一年)、ドイツ・ハンブルグ郊外に家を建て、妻と四人の子供たちを先に帰して住まわせ、自分は一人日本に残り雑司ヶ谷の家に住んだ。
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このとき、ドイツへ先に帰国していた4人の子どもたちを抱えるヨシ夫人も、ハイゼとは箱根の温泉静養地で知り合ったとみられる日本女性だった。
東京高等商科学校や学習院では、さまざまな人物たちとの人脈が形成されている。ハイゼが学習院に勤務していたころの院長には、怪談の講演Click!で生徒たちの親から顰蹙Click!をかい、白樺派の学生たちからは前時代的と嘲笑されていた、こちらでもおなじみの乃木希典Click!もいる。ハイゼの教え子には、左右田喜一郎をはじめ、来栖三郎、印南博吉、久武雅夫、武者小路公共、そして昭和天皇などがいた。
また、ハイゼが感銘を受け、終生にわたり尊敬しつづけた人物に北里柴三郎がいる。北里は、ドイツに留学して医学を学び、日本の医学を一気に世界レベルまで押し上げ、さらに伝染病に関しては世界をリードするまで研究を深化させた人物だ。北里は、ヨーロッパの学会で発表する論文の草稿や、著作の原稿などの校正をハイゼにまかせるようになっていたので、そこには相当の信頼関係が築かれていたのだろう。
北里の伝染病研究所は、ドイツの師であるコッホの研究所とフランスのパストゥール研究所と並び、医学界の世界三大研究所と呼ばれるようになるまで成長した。ところが、面目を丸つぶれにされた東京帝国大学の医学部では、政府に陰湿な策謀や根まわしを繰り返し、北里の伝染病研究所を東京帝大医学部の下部組織にしてしまい、北里柴三郎を即座に辞任へ追いこんでいる。このあたり、東京帝大医学部における島峰徹Click!(歯科医学)への、欝々たる執拗なイヤガラセとよく似た体質であり経緯だ。こうして、北里は「国家もはやたのむに足らず」と宣言し、単独で私立の北里研究所を設立することになる。その後、今日へとつながる北里大学や北里病院へと発展するのは周知のとおりだ。
日本でのこのように多種多様な人脈が形成される中、ハイゼは旧・会津藩出身で東京帝大の総長だった山川健次郎から、会津戊辰戦争や少年たちで組織された白虎隊に関する悲劇のエピソードを知ることになった。ハイゼは、知人の宣教師アーサー・ロイドに奨められ、会津の白虎隊の少年たちが眠る飯盛山を訪れている。彼が薩長政府の「御雇外国人」でありながら、薩長史観に影響されずほとんど染まらなかったのは、急速に西洋化する日本の状況を非常に残念がっていたからだけではない。
彼の会津や白虎隊に寄せる思いは、単に古き良き時代の日本への憧憬や、「忠」や「義」を尊重する「武士道」への単純なあこがれとは異なり、かなり複雑なイデオロギーの上に成立していたようだ。それは、限界を迎えていた西洋思想、あるいは西洋のシステムに対するアンチテーゼを模索しつづけ、そのヒントを東洋の当時は“新興国”だった日本に見いだしたかのような趣きがある。
ハイゼは、東京高等商科学校の同僚で経済学を教えていた自由主義的な福田徳三とは、終生親しい関係をつづけている。同書より、再び引用してみよう。
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ハイゼはプロイセン式教育でゲルマン魂を日本の青年に叩き込み、武士道と日本人の忠誠心に心酔した人であり、西洋かぶれした日本人を何よりも残念がり、キリスト教を捨てて神道に宗旨替えした奇妙な外人であった。福田徳三も洋行して西洋の学問にひたりながらも、西洋のものの考え方には飽きたらず、資本主義と社会主義を克服したかなたに人類の明日を見ようとする、かなり奇妙な日本人であった。(中略) ハイゼと福田が妙に意気投合したのは、おそらく“反西洋”、“脱西洋”というところで気持ちが通じあったためだ。ところが白虎隊の丘に骨を埋めたハイゼを、単なる武士道の心酔者、封建制の遺物たるハラキリ・セップクの礼賛者、プロイセン仕込みの軍国主義者とのみ短絡的に解釈し、その一方で福田を近代経済学のパイオニア、デモクラシーの鼓吹者、ヨーロッパ・リベラリズムの伝道者=西洋思想の宣伝マンとしてこれまた短絡視すると、二人が終生変わらぬ親友であったことが理解できなくなってしまう。現代人の思考範囲の恐るべき狭さに、筆者は愛想が尽きているのでここでくどくど説明するつもりはないが、両者とも西洋を突き抜けたところに何かを見たいと思っていたのだろう。
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福田徳三は、昭和期に入ると西洋のデモクラシーを信奉する自由主義者=「国賊」として弾圧されたが、ハイゼは日本の「武士道」を理解したドイツ人として歓迎されている。だが、ふたりが見すえていたのは、そのような社会的な状況に左右されるご都合主義的な解釈の、さらにその先にあるモノだったのではないだろうか。
ハイゼは1937年(昭和12)11月に再び来日し、雑司ヶ谷のハイゼの原Click!にたたずんで人手にわたったかつての自邸=雑司ヶ谷異人館をしばらく眺めている。そのあと会津若松に向かい、白虎隊の墓がある飯盛山を再訪して東山温泉に泊まり、当時の市長や町の人々から大歓迎を受けたようだ。
1940年(昭和15)4月23日、中国大陸を旅行中のハイゼは肝臓病で倒れ北京で死去している。遺骨はヨシ夫人と息子のエーリッヒ・カメイチロウ・ハイゼ、娘のゾフィ・ハイゼの手で日本に運ばれ、かねての遺言により会津の白虎隊が眠る飯盛山へ葬られた。
◆写真上:ハイゼ邸=雑司ヶ谷異人館跡で、現在は南池袋第二公園になっている。
◆写真中上:上は、1955~56年(昭和30~31)ごろに撮影された旧・ハイゼ邸。(提供:正木隆様) 下は、その“異人館”で撮影されたリヒャルト・ハイゼ夫妻と子供たち。
◆写真中下:上左は、2012年(平成24)に出版された瀬野文教『リヒャルト・ハイゼ物語』(中央公論新社)。上右は、日本に着任したころのハイゼ。中は、結婚前に日光で撮影されたハイゼとヨシ夫人。下は、ハイゼも祭事には寄進した雑司ヶ谷の大鳥社。
◆写真下:上は、前列左の北里柴三郎と並ぶハイゼ。中左は、日本の近代経済学の祖といわれた福田徳三。中右は、会津の飯盛山に眠るリヒャルト・ハイゼの墓。ニベアクリームが供えてあるが、息子のエーリッヒ・ハイゼがドイツのニベアと日本の花王Click!との合弁会社を興したためであり、隣りのエーリッヒの墓と父リヒャルトの墓をとりちがえたものか。下は、ハイゼ邸=異人館跡のあたりから望む“ハイゼの原”跡の現状。