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1926年(大正15)4月の初めごろ、佐伯祐三Click!はフランスから大阪の光徳寺を経由して下落合のアトリエにもどると、ほどなく当時は田端で農民文芸研究会の拠点となっていた椎名其二Click!を訪ねているとみられる。アナキストでありフランスの文化や文芸を研究していた椎名其二は、佐伯とはウマが合ったらしく第1次渡仏前からふたりは親しく交流していた。椎名の周囲に目を光らせていた特高Click!は、この交際から佐伯をマークしはじめた可能性が高いことは以前にも書いたとおりだ。
椎名を訪ねた際、おそらく佐伯は田端駅周辺の風情に惹かれたのだろう、1926年(大正15)の春から秋にかけ何度かスケッチに訪れているようだ。明確なタイムスタンプが残るものに、同年9月15日の『電車』と9月16日の『田端駅』が「制作メモ」Click!に記録されている。このうち、チョコレート色をした山手線の車両Click!を描いたとみられる『電車』は戦災で焼失しているが、記載された『田端駅』が現存する『田端駅附近』×2作のうち、どちらの画面をさすのかは不明だ。現存する田端駅付近の作品×3点は、いずれも広大な田端操車場かその近くを描いていると思われ、連なる電柱や信号機、信号手小屋などにおもしろい画因をおぼえたのかもしれない。
ただし、田端作品ではないかといわれるようになった『休息(鉄道工夫)』のみが、ほかの作品とは異質な存在だ。当初、同作は工夫たちの様子からパリのプロレタリアを数多く描いた、前田寛治Click!の影響を受けた第1次滞仏作品で、1925年(大正14)作とみられていた。ところが、佐伯アトリエを訪ねた勝本英治に、佐伯は「仕事を終えての帰り途に鉄道工夫の溜り場を覗いたところ、こんな情景に出会った」(生誕100年記念佐伯祐三展)と、1927年(昭和2)3月に語っていることが前世紀末に判明している。
藤本英治は、アトリエにあった作品の中で描かれて間もないとみられる『休息(鉄道工夫)』が気に入り、その場で手に入れているが、画面をよく観察すると工夫たちの作業着もフランスのものとは異り、日本の作業着のような気配であり、同作はパリの労働者や周囲の風情を似せて、田端の鉄道員を描いた1926~1927年(大正15~昭和2)の国内作ととらえられるようになった。佐伯の多くの画集や図録では、同作を1925年(大正14)の作としている記述が多いので、ちょっと留意が必要だろう。
昭和期に入ると、長谷川利行Click!が田端駅周辺に出没して車庫や変電所、操車場などの風景を描いているが、佐伯が田端の椎名其二を訪ねた大正の終わりごろ、周辺には「春陽会」を結成した山本鼎Click!や小杉未醒、倉田白羊Click!、森田恒友Click!などの画家たちが集って住んでいた。また、芥川龍之介Click!の肖像画やデスマスクを描いた小穴隆一、すでに結婚をして谷中初音町15番地に転居してしまったが、のちに下落合へアトリエをかまえる太平洋画会の満谷国四郎Click!なども一時住んでいる。
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佐伯が何度か通い、田端駅界隈の風景をスケッチしていた周辺には、多くの文学関係者が住んでいた。田端608番地の室生犀星Click!を中心に、同人誌「驢馬」を刊行していたまわりには中野重治Click!をはじめ、窪川鶴次郎Click!、堀辰雄Click!、西沢隆二、宮木喜久雄などが参集し、彼らの近くにはカフェ「紅緑」につとめる佐多稲子(田島いね子)Click!の姿もあった。大正末、「驢馬」が先鋭化していくとともに、室生犀星はいつ特高に逮捕されてもかまわないよう、常にヒゲを剃るのは夕方にし、洗面道具を包みに入れ風呂場にまとめておいたというエピソードは有名だ。これらの詩人や作家たちの何人かは、こののち落合地域やその周辺域へと転居してくることになる。
なお、室生犀星の一家が1928年(昭和3)、12年間住みなれた田端から馬込文士村Click!と呼ばれた大森谷中1077番地へと転居する際に、大森地域の貸家を探して室生家に紹介したのは、萩原朔太郎の妻・稲子だったことが判明している。その3年後、萩原稲子Click!は下落合の妙正寺川に架かる寺斉橋北詰めに喫茶店「ワゴン」Click!を開店し、落合地域に住む多くの画家や作家たちの拠りどころとなった。
また、下落合の「植物園」で『虚無への供物』Click!を執筆することになる中井英夫Click!も、一時期、芥川龍之介邸の南200m余のところに住んでいた。さらに、1927年(昭和2)7月24日未明、田端435番地で服毒自殺をとげた芥川龍之介Click!の枕もとへ駆けつけたうちのひとり、歌人であり文学者の土屋文明も、佐伯が田端駅周辺を描いていたとみられる前後、1926年(大正15)の夏に田端から下落合へ転居してきている。だから、芥川邸へ駆けつけたのは田端の旧邸からではなく、下落合の新邸からだったとみられる。しかし、拙サイトで土屋文明は、清水多嘉示Click!がらみの諏訪高等女学校Click!での教員として記念写真に登場したのみで、下落合のどこに住んでいたのかは不明だ。
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さて、昭和初期に日本橋矢ノ倉町から田端へと転居して育った、当時の風情をよく知る近藤富枝Click!は、1975年(昭和50)に講談社から出版された『田端文士村』の中で、1964年(昭和39)出版の窪川鶴次郎の『東京の散歩道―明治・大正のおもかげ―』(社会思想社)を引用しつつ、次のように書いている。
▼
「(前略)沼地の右がはには、高台通り面して玉突屋と入り口を並べて更科そばと旅館(著者注 松が枝)があつて、それらが汽車の煙でくろずんだ横つ腹を沼の上に見せてゐた。そして左がはには駅からのぼつてきて高台通りへ出るところに沼の上にかかつているやうな格好で白十字の喫茶店があつた」/当時のようすがありありと目にうかぶ描写である。ただし白十字は白亜堂の間違いで、この店は全く崖の上にのり出すような形で建ち、ボックスに坐れば佐伯祐三や長谷川利行の好んで書(ママ)いた田端駅構内の、いくらかうらわびしい、何ごとかを語りかけてくるような、底に懐かしさを秘めた風景が木の間ごしにながめられた。そして例の鉄道の枕木をそのまま使った黒い長々と続く柵は、もうそれだけでここが田端以外のどこでもないことを語っていた。そして、この白亜堂の床は、歩けばぎしぎしと揺れそうな危うさがあった。
▲
喫茶店「白亜堂」は大正期からつづく店なので、貧乏な長谷川利行はともかく、画道具を抱えた佐伯祐三は立ち寄っているのかもしれない。
芥川龍之介が、近くに住む洋画家・小穴隆一に大正末ごろ「金沢人に気を許すな」と囁いたのは、どのような意味合いからだったのだろうか。近藤富枝Click!は同書の中で、「詩人から芥川のジャンルである小説を侵そうとしていた」室生犀星のことではないかと推測しているが、はたしてそうだろうか。室生犀星もそうだが、同人誌「驢馬」を刊行していた中野重治や窪川鶴次郎も石川出身の「金沢人」だった。彼らは昭和期に入ると、上落合を中心にしたプロレタリア文学界の中心的な存在になっていく。予感にすぐれた芥川龍之介は、目前に迫った文学界の激動=プロ文学の席巻を、どこかで敏感に感じとっていたのではないか?……と考えるのは、はたしてうがちすぎだろうか。
佐伯祐三は、「田端風景」を何枚描いたのかは不明だが、現在画集や図録などで確認できるのは4作品だ。この中で、『電車』と『田端駅附近』×2点のどちらかが「下落合風景」シリーズClick!の制作を本格化する直前、1926年(大正15)9月中旬に描かれているのかもしれないが、『休息(鉄道工夫)』は明らかに季節がちがう。工夫たちは長袖の作業着をシャツに重ね着しており、佐伯が帰国した1926年(大正15)の春か、藤本英治が証言するように1927年(昭和2)の冬から春にかけてということになりそうだ。
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それらの作品からは、どこからともなく石炭の匂いが漂ってきそうな、近藤富枝も書いているが「うらわびしい」けれど、どこか懐かしい雰囲気がそこはかとなく漂ってくる。枕木をそのまま流用した黒い柵からは、クレオソートClick!の刺激臭が鼻をつきそうだ。
◆写真上:田端駅前の跨線橋である、新田端大橋の上から眺めた田端操車場。
◆写真中上:上から順に、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『シグナル』、同『田端駅附近』A、同『田端駅附近』B。AとBどちらかの作品が、1926年(大正15)9月16日に制作された画面だと思われる。下は、新田端大橋から撮影した山手線(左)と京浜東北線の軌道(中央)、そして東北・山形・秋田新幹線の高架(右)。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)9月15日の制作とみられる佐伯祐三『電車』(戦災で焼失)。中は、第1次滞仏作と思われていた佐伯祐三『休息(鉄道工夫)』だが、新資料の発見により1926~1927年(大正15~昭和2)に制作された田端関連の1作とみられるようになった。下は、西側からホームを見下した田端駅。
◆写真下:上は、1915年(大正4)制作の曾宮一念『田端駅にて』(上)と1928年(昭和3)制作の長谷川利行『汽缶車庫』(下)。中は、1923年(大正12)撮影の田端駅。駅舎の向こう側に、長谷川利行の「汽缶車庫」に似た建物が見えているが別の建物だろう。下は、現存する大井町操車場の旧・大井町変電所。
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1926年(大正15)4月の初めごろ、佐伯祐三Click!はフランスから大阪の光徳寺を経由して下落合のアトリエにもどると、ほどなく当時は田端で農民文芸研究会の拠点となっていた椎名其二Click!を訪ねているとみられる。アナキストでありフランスの文化や文芸を研究していた椎名其二は、佐伯とはウマが合ったらしく第1次渡仏前からふたりは親しく交流していた。椎名の周囲に目を光らせていた特高Click!は、この交際から佐伯をマークしはじめた可能性が高いことは以前にも書いたとおりだ。
椎名を訪ねた際、おそらく佐伯は田端駅周辺の風情に惹かれたのだろう、1926年(大正15)の春から秋にかけ何度かスケッチに訪れているようだ。明確なタイムスタンプが残るものに、同年9月15日の『電車』と9月16日の『田端駅』が「制作メモ」Click!に記録されている。このうち、チョコレート色をした山手線の車両Click!を描いたとみられる『電車』は戦災で焼失しているが、記載された『田端駅』が現存する『田端駅附近』×2作のうち、どちらの画面をさすのかは不明だ。現存する田端駅付近の作品×3点は、いずれも広大な田端操車場かその近くを描いていると思われ、連なる電柱や信号機、信号手小屋などにおもしろい画因をおぼえたのかもしれない。
ただし、田端作品ではないかといわれるようになった『休息(鉄道工夫)』のみが、ほかの作品とは異質な存在だ。当初、同作は工夫たちの様子からパリのプロレタリアを数多く描いた、前田寛治Click!の影響を受けた第1次滞仏作品で、1925年(大正14)作とみられていた。ところが、佐伯アトリエを訪ねた勝本英治に、佐伯は「仕事を終えての帰り途に鉄道工夫の溜り場を覗いたところ、こんな情景に出会った」(生誕100年記念佐伯祐三展)と、1927年(昭和2)3月に語っていることが前世紀末に判明している。
藤本英治は、アトリエにあった作品の中で描かれて間もないとみられる『休息(鉄道工夫)』が気に入り、その場で手に入れているが、画面をよく観察すると工夫たちの作業着もフランスのものとは異り、日本の作業着のような気配であり、同作はパリの労働者や周囲の風情を似せて、田端の鉄道員を描いた1926~1927年(大正15~昭和2)の国内作ととらえられるようになった。佐伯の多くの画集や図録では、同作を1925年(大正14)の作としている記述が多いので、ちょっと留意が必要だろう。
昭和期に入ると、長谷川利行Click!が田端駅周辺に出没して車庫や変電所、操車場などの風景を描いているが、佐伯が田端の椎名其二を訪ねた大正の終わりごろ、周辺には「春陽会」を結成した山本鼎Click!や小杉未醒、倉田白羊Click!、森田恒友Click!などの画家たちが集って住んでいた。また、芥川龍之介Click!の肖像画やデスマスクを描いた小穴隆一、すでに結婚をして谷中初音町15番地に転居してしまったが、のちに下落合へアトリエをかまえる太平洋画会の満谷国四郎Click!なども一時住んでいる。
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佐伯が何度か通い、田端駅界隈の風景をスケッチしていた周辺には、多くの文学関係者が住んでいた。田端608番地の室生犀星Click!を中心に、同人誌「驢馬」を刊行していたまわりには中野重治Click!をはじめ、窪川鶴次郎Click!、堀辰雄Click!、西沢隆二、宮木喜久雄などが参集し、彼らの近くにはカフェ「紅緑」につとめる佐多稲子(田島いね子)Click!の姿もあった。大正末、「驢馬」が先鋭化していくとともに、室生犀星はいつ特高に逮捕されてもかまわないよう、常にヒゲを剃るのは夕方にし、洗面道具を包みに入れ風呂場にまとめておいたというエピソードは有名だ。これらの詩人や作家たちの何人かは、こののち落合地域やその周辺域へと転居してくることになる。
なお、室生犀星の一家が1928年(昭和3)、12年間住みなれた田端から馬込文士村Click!と呼ばれた大森谷中1077番地へと転居する際に、大森地域の貸家を探して室生家に紹介したのは、萩原朔太郎の妻・稲子だったことが判明している。その3年後、萩原稲子Click!は下落合の妙正寺川に架かる寺斉橋北詰めに喫茶店「ワゴン」Click!を開店し、落合地域に住む多くの画家や作家たちの拠りどころとなった。
また、下落合の「植物園」で『虚無への供物』Click!を執筆することになる中井英夫Click!も、一時期、芥川龍之介邸の南200m余のところに住んでいた。さらに、1927年(昭和2)7月24日未明、田端435番地で服毒自殺をとげた芥川龍之介Click!の枕もとへ駆けつけたうちのひとり、歌人であり文学者の土屋文明も、佐伯が田端駅周辺を描いていたとみられる前後、1926年(大正15)の夏に田端から下落合へ転居してきている。だから、芥川邸へ駆けつけたのは田端の旧邸からではなく、下落合の新邸からだったとみられる。しかし、拙サイトで土屋文明は、清水多嘉示Click!がらみの諏訪高等女学校Click!での教員として記念写真に登場したのみで、下落合のどこに住んでいたのかは不明だ。
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さて、昭和初期に日本橋矢ノ倉町から田端へと転居して育った、当時の風情をよく知る近藤富枝Click!は、1975年(昭和50)に講談社から出版された『田端文士村』の中で、1964年(昭和39)出版の窪川鶴次郎の『東京の散歩道―明治・大正のおもかげ―』(社会思想社)を引用しつつ、次のように書いている。
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「(前略)沼地の右がはには、高台通り面して玉突屋と入り口を並べて更科そばと旅館(著者注 松が枝)があつて、それらが汽車の煙でくろずんだ横つ腹を沼の上に見せてゐた。そして左がはには駅からのぼつてきて高台通りへ出るところに沼の上にかかつているやうな格好で白十字の喫茶店があつた」/当時のようすがありありと目にうかぶ描写である。ただし白十字は白亜堂の間違いで、この店は全く崖の上にのり出すような形で建ち、ボックスに坐れば佐伯祐三や長谷川利行の好んで書(ママ)いた田端駅構内の、いくらかうらわびしい、何ごとかを語りかけてくるような、底に懐かしさを秘めた風景が木の間ごしにながめられた。そして例の鉄道の枕木をそのまま使った黒い長々と続く柵は、もうそれだけでここが田端以外のどこでもないことを語っていた。そして、この白亜堂の床は、歩けばぎしぎしと揺れそうな危うさがあった。
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喫茶店「白亜堂」は大正期からつづく店なので、貧乏な長谷川利行はともかく、画道具を抱えた佐伯祐三は立ち寄っているのかもしれない。
芥川龍之介が、近くに住む洋画家・小穴隆一に大正末ごろ「金沢人に気を許すな」と囁いたのは、どのような意味合いからだったのだろうか。近藤富枝Click!は同書の中で、「詩人から芥川のジャンルである小説を侵そうとしていた」室生犀星のことではないかと推測しているが、はたしてそうだろうか。室生犀星もそうだが、同人誌「驢馬」を刊行していた中野重治や窪川鶴次郎も石川出身の「金沢人」だった。彼らは昭和期に入ると、上落合を中心にしたプロレタリア文学界の中心的な存在になっていく。予感にすぐれた芥川龍之介は、目前に迫った文学界の激動=プロ文学の席巻を、どこかで敏感に感じとっていたのではないか?……と考えるのは、はたしてうがちすぎだろうか。
佐伯祐三は、「田端風景」を何枚描いたのかは不明だが、現在画集や図録などで確認できるのは4作品だ。この中で、『電車』と『田端駅附近』×2点のどちらかが「下落合風景」シリーズClick!の制作を本格化する直前、1926年(大正15)9月中旬に描かれているのかもしれないが、『休息(鉄道工夫)』は明らかに季節がちがう。工夫たちは長袖の作業着をシャツに重ね着しており、佐伯が帰国した1926年(大正15)の春か、藤本英治が証言するように1927年(昭和2)の冬から春にかけてということになりそうだ。
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それらの作品からは、どこからともなく石炭の匂いが漂ってきそうな、近藤富枝も書いているが「うらわびしい」けれど、どこか懐かしい雰囲気がそこはかとなく漂ってくる。枕木をそのまま流用した黒い柵からは、クレオソートClick!の刺激臭が鼻をつきそうだ。
◆写真上:田端駅前の跨線橋である、新田端大橋の上から眺めた田端操車場。
◆写真中上:上から順に、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『シグナル』、同『田端駅附近』A、同『田端駅附近』B。AとBどちらかの作品が、1926年(大正15)9月16日に制作された画面だと思われる。下は、新田端大橋から撮影した山手線(左)と京浜東北線の軌道(中央)、そして東北・山形・秋田新幹線の高架(右)。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)9月15日の制作とみられる佐伯祐三『電車』(戦災で焼失)。中は、第1次滞仏作と思われていた佐伯祐三『休息(鉄道工夫)』だが、新資料の発見により1926~1927年(大正15~昭和2)に制作された田端関連の1作とみられるようになった。下は、西側からホームを見下した田端駅。
◆写真下:上は、1915年(大正4)制作の曾宮一念『田端駅にて』(上)と1928年(昭和3)制作の長谷川利行『汽缶車庫』(下)。中は、1923年(大正12)撮影の田端駅。駅舎の向こう側に、長谷川利行の「汽缶車庫」に似た建物が見えているが別の建物だろう。下は、現存する大井町操車場の旧・大井町変電所。