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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(6)

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曾宮一念「落合ニテ」1922.jpg
 曾宮一念Click!が、下落合623番地にアトリエClick!をかまえてから1年後、1922年(大正11)に描いた『落合ニテ』と題するスケッチが残っている。明らかに冬季の情景で、光線は画家の正面やや右手の上から射しているようで、描かれた家々の主棟の向きからすると、正面やや右手が南の方角とみられる。
 手前には、太い樹木の伐り株だろうか、まるでオブジェのような面白い形の幹元が残り、葉を落とした木々が手前に、そして前方の林に繁っているのが見える。画面奥に描かれた林の下には、小さな谷間でもあるのか、その南向き斜面には平屋建てとみられる家屋の屋根が描かれているようだ。谷間の北側、つまり丘上に建つ手前の2棟の住宅は、南側にテラスを向けて冬でも暖かそうな造りをしている。
 画面右手の建物は、大正中期に東京郊外へ建てられた、“和”とも“洋”ともつかない意匠をしているが、左手の建物は明らかに洋館だ。しかも、東側に尖がり屋根の母家をもち、西側には台所があるらしい付属する下屋が確認できる。その手前の生け垣が枯れた柵には、勝手口とみられる入口らしい切れ目が見えている。南側に谷間があり、その北側に建てられているこのような意匠の建物は、下落合にお住いの方ならたちどころにピンとくるだろう。しかも、スケッチ『落合ニテ』を描いている画家は、この建物の住民とは親しくしょっちゅう出入りしていた。
 左手の洋館は、まずまちがいなく中村彝アトリエClick!だろう。そして、右手の建物は1920年(大正9)の年内、あるいは翌1921年(大正10)の早い時期に竣工している福田家別荘だ。福田別邸を建築中の音が、中村彝のアトリエまで響いてうるさかったのだろう、1920年(大正9)8月19日付け洲崎義郎Click!あての手紙で、彝は少しグチをこぼしている。同書簡を、1926年(大正15)出版の『藝術の無限感』(岩波書店)から引用してみよう。
  
 昨日は久しぶりで突然岡田先生が遊びに来ました。そして今度は僕の近処へ越して来るから、是非今一度坐つて体力をつけよと忠告されました。やさしい「をぢさん」でも見る様な、なつかしさを感じました。兎角の噂もありますが人間は確に温く、聡明ないゝ人です。これから近くへいらつしやる様になつたら時々会つて、色々為めになる話でもきかうかと思つて居ります。/僕の「おとなり」では今猛烈な大フシンをして居ります。松岡映丘(?)がそこへ越してくるのだ相です。非常に乱筆で読めないかも知れません。御判読して下さい。
  
 文中の「岡田先生」とは、このあとすぐに下落合350番地(のち下落合356番地)へ転居してくる、静坐会Click!を主宰していた岡田虎二郎Click!のことだ。また、日本画家の「松岡映丘(?)」がアトリエを建て、下落合に転居してくるというウワサ話が書きとめられているけれど、そのような事実はなく、彝アトリエ西側の広い敷地に建てられていたのは福田家の別邸だ。
 また、落合遊園地Click!(のち林泉園Click!)の谷間南向き斜面に建てられ、屋根だけが見えている平屋の住宅は、のちに東邦電力Click!が開発する林泉園住宅とは関係のない敷地に位置する邸だと思われる。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では、彝アトリエ前の位置から東側(右側)にかなりズレた位置に敷地の四角囲みのみが描かれているが、名前は採取漏れ、あるいは表札が出てなかったのか記載されていない。昭和に入ると、この住宅は下落合450番地の古島邸(古嶌邸)となるので、とりあえず1922年(大正11)の画面に描かれた住宅も、仮に「古島邸」と呼ぶことにする。
中村彝アトリエテラス1921.jpg
中村彝アトリエ事情明細図1926.jpg
中村彝アトリエ北西側.JPG
 古島邸は、中村彝アトリエと同様に関東大震災Click!の震動で少なからず被害を受けたのか、1924年(大正13)には住宅の位置をやや東に移動して、2階家に建て替えられているとみられる。それは、同年5月27日に彝アトリエの庭で催された園遊会で、南側の桜並木や林泉園のほうを向いて撮影された記念写真の左上に、2階家の屋根とみられる形状(建築中?)が、樹間を透かして見えるからだ。彝アトリエも含め、この一帯の住宅は空襲による延焼をまぬがれているので、戦後の空中写真でも彝アトリエの前、林泉園の斜面に建てられた古島邸を確認することができる。
 曾宮一念は、中村彝アトリエの西北側から、右手に竣工して間もない福田家の別邸を、左手の樹間には赤い尖がり屋根をもつ中村彝アトリエを、そして画面中央の奥には落合遊園地(のち林泉園)の谷戸に下がって見える、彝アトリエから道をはさんで真ん前にあたる古島邸(大正期の震災前)を描いていると思われる。画面の左枠外には、彝が何度か繰り返し描いた一吉元結工場Click!の干し場が拡がり、曾宮が振り返れば背後には目白福音教会Click!メーヤー館(宣教師館)Click!が見えていただろう。
 『落合ニテ』が描かれた1922年(大正11)の夏ごろ、曾宮一念は鶴田吾郎Click!たちとともに新潟県柏崎にいる彝のパトロンのひとり、洲崎義郎のもとを訪ねている。当時のリアルタイムで書かれた、中村彝から洲崎義郎あての1922年(大正11)9月10日(?)付けの手紙を、『藝術の無限感』よりつづけて引用してみよう。
  
 鶴田君や、曾宮君や、金平君の兄さん達が上つて大分賑かだつた相ですね。御上京は何時頃になりますか。上野の二科には曾宮君が一枚と清水君が一枚出して居ます。曾宮君のは僕の画室で見た時には確かにいゝ絵だつたのですが、何故か展覧会場では見劣りがすると言ひます。僕にはそんな筈がないと思はれるのですが、一つ君の鑑定をきゝ度いと思ひます。
  
 同年秋の第9回二科展で、曾宮一念が入選したのは『さびしき日』だった。また、「清水君」とは清水多嘉示Click!のことで、同展には『風景』が入選している。
中村彝園遊会19240527.jpg
中村彝アトリエ火保図1938.jpg
曾宮一念「落合ニテ」1922 構成.jpg
中村彝アトリエ空中1947.jpg
 曾宮一念が中村彝と知りあい、東京美術学校を卒業して池袋の成蹊中学校Click!の美術教師をしていた時期、1916~17年(大正5~6)ごろに制作した、『戸山ヶ原風景』と題する作品も残っている。一面に広大な草原が拡がり、遠景に比較的密な森林が描かれ、手前にはポツンと1本の目立つ樹木が描かれている。
 当時の戸山ヶ原Click!は、山手線をはさみ東側には、いまだ露天のままの大久保射撃場Click!をはじめ、近衛騎兵連隊の兵舎Click!軍医学校Click!戸山学校Click!衛戍病院Click!など数多くの陸軍施設Click!が建てられていて、明治末とは異なりこれほど“抜け”のいい草原は残されていなかった。だが、当時は「着弾地」と表現された西側の戸山ヶ原は、ほとんどなにも建設されてはおらず、曾宮の『戸山ヶ原風景』のような風情のままだったろう。そして、周囲を森林に囲まれた草原の真ん中には、「一本松」と呼ばれた特徴的なクロマツが生えていた。
 曾宮一念は、射撃訓練が行われていない安全な日を選び、山手線の西側に拡がる戸山ヶ原に出かけ、「一本松」を画面に入れて『戸山ヶ原風景』を描いているように思われる。晩秋ないしは初冬のような風情を感じる画面だが、空がどんよりと曇っているせいか太陽の位置がわかりにくい。手前には、「一本松」へと通じる逆S字型の“けもの道”ならぬ散歩者が歩く“人の道”が描かれ、遠景の森林は地形が下へ落ちこんでいるのか、樹木の上部が描かれているような感じがする。
 「一本松」へと通じる小路は、東側にある山手線の高田馬場駅南に位置する諏訪ガードClick!からも、また小滝橋のある西側からも通っていたとみられ、また地形も東西どちらを見ても急激に落ちこんでいるので断定はできないが、曾宮一念は山手線側から戸山ヶ原へと入りこみ、建物や煙突が見えない西側を向いて描いているのではないだろうか。画面の右端には、戸山ヶ原に接する北側に建立されていた天祖社境内の、神木(=大ケヤキ)とみられる葉を落とした大きな枯れ木が描かれているように見える。
曾宮一念「戸山ヶ原風景」1916-17.jpg
陸軍士官学校地図1917.jpg
どんたくの会(第2次).jpg
 この「一本松」のある戸山ヶ原の風景は、3~4年後の1920年(大正9)ごろ、当時は戸塚町(現・高田馬場4丁目界隈)に下宿していたとみられる佐伯祐三Click!『戸山ヶ原風景』Click!として制作し、またそれから18年後の1938年(昭和13)の“記憶画”として、濱田煕Click!が『天祖社の境内から一本松を望む』を描いている。

◆写真上:1922年(大正11)の冬季に描かれた、曾宮一念のスケッチ『落合ニテ』。
◆写真中上は、1921年(大正10)に中村彝アトリエのテラスで撮影された曾宮一念(後列右からふたりめ)。前列左端が中村彝で、右へ中原信Click!(中原悌二郎夫人)と中原悌二郎Click!は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる中村彝アトリエとその周辺。は、中村彝アトリエを北西側から見た様子。
◆写真中下は、彝が死去する半年前の1924年(大正13)5月27日にアトリエの前庭で行われた園遊会の記念写真(部分)。写真の左背後に、古島邸(震災~)とみられる2階家の屋根らしいかたちが見えている。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる中村彝アトリエとその周辺。中下は、『落合ニテ』に描かれているモチーフ。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる『落合ニテ』の描画ポイント。
◆写真下は、1916~17年(大正5~6)ごろ制作の曾宮一念『戸山ヶ原風景』。は、1917年(大正6)作成の陸軍士官学校の演習地図「戸山ヶ原」(現・西戸山)。は、1931年(昭和6)ごろ画塾「第2次どんたくの会」Click!で撮影された曾宮一念(右)。

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