ファイルを整理していたら、ようやく振り子坂Click!沿いに建つ家々を写した、横長の鮮明なパノラマ写真が出てきたのでご紹介したい。このブログをスタートして1年めの2005年(平成17)当時から、どこかのストレージへ保存をしたまま行方不明になっていた画像データだ。当初、この写真は改正道路(山手通り)工事Click!にからめてご紹介したが、その後、どこに整理・保存したものか「行方不明」になっていた。確か、下落合1736番地の熊倉医院が新宿区へ寄贈し、いまは新宿歴史博物館Click!が収蔵している写真の1枚だったように記憶している。
また、写真の左手にとらえられたモダンハウスの佐久間邸Click!をモチーフに描いた、宮下琢郎『落合風景』Click!(1931年)でも振り子坂界隈を取り上げているが、同記事を書いたころには今回ご紹介する鮮明な写真がすでに行方不明になっていた。その後、同坂沿いに実家(ないしは私邸)Click!があったとみられる、山口淑子(李香蘭)Click!の記事でも探したが見つからず、最近では振り子坂沿いに建っていた武者小路実篤Click!の家を特定する記事でも、記事中に挿入したかったのだが行方不明のままだった。画像ファイルにわかりやすいネームをふらなかったわたしが悪いのだが、同画像はバックアップ用の外付けHDDの1台にまぎれて保存されていた。
このパノラマ写真は、振り子坂や山手坂に沿って建つ住宅の様子や、手前の道路に改正道路(山手通り=環六)建設用の部材がすでに運びこまれていることから、1935年(昭和10)をすぎたころに同坂界隈をとらえたものだろう。ただし、山手坂上の尾根道に古くて大きな宇田川邸がいまだ建っているので、1938年(昭和13)よりも前の撮影ではないかと思われる。また、連続写真といっても厳密なものではなく、おそらく手持ちのカメラでやや移動して撮影しているのだろう、家々の角度や接続部分が多少ズレており、また写真をつないだ箇所の風景が少なからず途切れていたりする。
さて、画面の左から右へ住宅の間を横切っているのが振り子坂であり、丘上に近い坂沿いの斜面に見えている住宅群は、目白文化村Click!の第二文化村に建てられた南端の家々だ。また、大きな排水溝ないしは下水管とみられるコンクリートの“土管”が置かれた道が、山手通りの工事で消滅してしまう、当時としては敷設されて間もない三間道路だ。この三間道路は、左手の振り子坂に合流しており、坂を下れば中ノ道Click!(下ノ道=現・中井通り)へと抜けることができた。撮影者は、当時は改正道路の工事計画が明らかとなり、森が伐採されて赤土がむき出しになった急斜面(下落合1737~1738番地界隈)に上り、北東から南西の方角にかけシャッターを連続して3回切っている。
では、写真にとらえられた家々を順に特定してみよう。数年前まで、写真にとらえられた家々のうち3邸までが現存していたが、第二文化村の嶺田邸が解体されてしまったので、現在でも見ることができるのは2邸のみとなっている。まず、手前の土管が置かれた三間道路に面し、画面の中央にとらえられている西洋館が、撮影者の住まいである熊倉医院だ。その右手に見えている、洗濯物を干した日本家屋が安平邸だが、旧・安平邸はやや増改築されているものの、いまもそのまま同所に建っている。
熊倉医院と安平邸の間に、チラリと平屋の屋根だけ見えているのが、振り子坂沿いに建つ栗田邸(熊倉医院の北西隣り)だろう。また、安平邸の屋根上に、主棟の狭いフィニアルの載った屋根の西洋館が、第二文化村の嶺田邸。そのまま坂上に向かって、右並びに見えているのが同じく調所邸だ。嶺田邸はつい先年まで、大谷石のみごとな築垣とともに現存していたが解体されて敷地が細分化され、いまでは8棟の住宅が建っている。また、熊倉医院の屋根上で、2段に重ねた瓦屋根の上半分が見えているのが、振り子坂をはさんだ斜向かいの安東邸Click!だ。そのまま坂上へたどると、山口邸(淀橋区長の山口重知邸)とひときわ大きな星野邸Click!(戦後は東條邸)がつづいている。以上が、坂上に向かって建つ第二文化村の住宅群だ。
熊倉医院を中心に山手坂が通う斜面にとらえられた、そのほかの住宅群を見ていこう。まず、熊倉医院の屋根上に少しだけ見えている安東邸の左(南)隣り、同医院の左手にとらえられた切妻の端に、平屋の屋根の一部がわずかに写っているが、これが下落合1731番地の旧・武者小路実篤邸の可能性が高い。また、安東邸の屋根にかかり、その左手に見えているひときわ大きな西洋館は上田邸だ。また、安東邸の右手に見えている、少し離れた尾根上の位置に建つ2階建ての日本家屋は宇田川邸だと思われる。同邸は、1938年(昭和13)作成の「火保図」では、すでに敷地が更地になっていて存在しないので、おそらく同写真の撮影後ほどなく解体されたとみられる。
熊倉医院の庭には、往診用に使用したのだろう、クルマの車庫とみられる小さな建物が付属しているが、その向こう側に見えているひときわモダンな建築が佐久間邸だ。この邸をモチーフに、宮下琢郎が『落合風景』を仕上げ1931年(昭和6)1月に発表しているのは、すでに過去の記事でも書いたとおりだ。モダンハウス佐久間邸の裏に見えている、大きな日本家屋が山路邸、その上に見えている2棟の住宅は、山手坂を上りきった尾根上の下落合1986番地に建っていた住宅だ。この2棟の住宅のうち、どちらか一方が旧・矢田津世子邸Click!(1939年まで居住)ということになる。
写真が少し途切れてしまっているが、山路邸の右上に見えている大きな西洋館の屋根が赤尾邸だ。赤尾邸は、この写真に写っている邸の中ではもっとも規模が大きく、右手(北側)には和館も付属していたと思われる。赤尾邸の右手(北側)には、屋根が3つ重なって見えるが、いちばん手前の2階家は尾根道の手前の斜面に建つ佐藤邸だ。その佐藤邸の屋根に、ほとんど重なってわずかに見えている屋根が、尾根道をはさんだ向かい側の橋谷邸。そして、これら2棟の屋根からかなり離れた位置にかぶさるように見えている大きな屋根は、蘭塔坂(二ノ坂)Click!の上に建っていた大日本獅子吼会本堂の大屋根だ。そして、手前の佐藤邸の右(北)並びに見える平屋の屋根が高津邸、その右(北)隣りが先述のオシャレな西洋館の上田邸……ということになる。
さて、ここに写る住宅街は、振り子坂の最上部に建っていた第二文化村の星野邸と杉坂邸を除き、空襲の被害をまぬがれているので、戦後もほぼこのままの姿で建っていた。わたしの学生時代には、山手通りを南へ下り中井駅まで歩くと、写真とあまり変わらない住宅街の風情だったような気がする。だが、戦後の山手通りの開通とともに静寂な環境は失われ、1970年代後半はかなり排ガスの臭いがきつかったのを憶えている。
撮影者と思われる、下落合1731番地に住んでいた熊倉医院の医学博士・熊倉進は、『落合町誌』(1932年)によれば内科の専門医だったようだ。つい最近まで、自邸の位置を変えて開業していたような記憶があるが、現在の医院跡は駐車場になっている。
◆写真上:振り子坂沿いの住宅群をとらえたパノラマ写真の、熊倉医院(手前)と上田邸(奥)のアップ。熊倉医院の切妻に隠れて、わずかに見えている平屋の屋根の一部が、下落合1731番地に建っていた旧・武者小路実篤邸の可能性が高い。
◆写真中上:上は、振り子坂沿いに建っていた住宅写真の全体像と坂道の位置関係。中は、写真右手(坂上)の住宅街。下は、写真左手の住宅街に写る家々。
◆写真中下:上は、1935年(昭和10)すぎに撮影されたとみられるパノラマ写真(上)と同じ場所の現状(下)。中は、1938年(昭和13)の「火保図」(左手が北)にみる同所と撮影画角。すでに山手坂上の尾根道沿いに建っていた大きな宇田川邸が解体され更地になっている。下は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同所と撮影画角。
◆写真下:上は、振り子坂沿いに建っていた独特のフィニアルが印象的な嶺田邸(2012年撮影)。中は、昔とあまり変わらないたたずまいを見せる安東邸。日本橋出身のおばあちゃんは、お元気だろうか? 下は、何度か増改築を繰り返したとみられるが基本的に外観があまり変わらない日本家屋の旧・安平邸。