長崎村(町)荒井1721番地(現・目白4丁目)に小さなアトリエをかまえ、のちに下落合(2丁目)604番地(現・下落合4丁目)に転居してくる、牧野虎雄Click!が制作したアトリエ前の庭園シリーズClick!について記事にしたことがある。いわば、牧野虎雄の「長崎風景」シリーズといったところだ。
その庭に描かれた盛り土は、近所の下落合540番地にあった大久保作次郎アトリエClick!にも見られた土盛り、すなわち園芸用の腐葉土でもつくっているのではないか?(それにしては土の山が大きすぎるのだが)……とも書いた記憶がある。牧野虎雄が住んだ、長崎アトリエの庭にうず高く積まれた土は、自然の起伏でも腐葉土の堆積でもないようだ。牧野が自身で庭先に設計した、「花園」のための築山だった可能性が高い。
それが判明したのは、東京都現代美術館に収蔵されている牧野虎雄『花苑』(冒頭写真)の画面を観察できたからだ。彼は、さまざまな草花の種をこの築山一面にまいて、大切に水をやりながら育てていたようだ。それは、いずれ風景画あるいは静物画を描くときのモチーフとして、あらかじめ意識しながらの「花苑」づくりだったのだろう。
この土の山は、牧野アトリエ西側の庭に築かれており、少なくとも1919年(大正8)に制作された『庭』で、すでにその存在を確認することができる。このとき、画面に描かれた築山はいまだ赤土が露出したままであり、牧野が庭園業者に依頼して土を運びこんだばかりのように思える。なぜなら、『庭』が描かれたのは、手前の女性が涼しげな浴衣姿なのでもわかるように、1919年(大正8)の夏季であるにもかかわらず、赤土の上には植物の繁茂が見られないからだ。
赤土(関東ローム)が露出した、この地域の空き地をご存じの方ならおわかりだろうが、1年もたてば雑草が一面に生い茂り、土面が見えなくなるほど雑草が繁殖する。だが、牧野虎雄の『庭』には夏季にもかかわらず、その繁茂がほとんど見られない。これは、アトリエの庭に土が運びこまれ山が築かれてから間もない時期であり、牧野虎雄はできたばかりの築山を『庭』で写生している……と解釈するのが自然だろう。
さて、1919年(大正8)制作の『庭』と、翌1920年(大正9)に描かれた『花苑』とが、なぜ同じ場所の情景だと断定できるのかといえば、そこに描かれた樹木の位置と、幹枝のかたちがまったく同一だからだ。まず、『庭』に描かれたケヤキの若木のような形状の樹木を観察してみよう。左寄り手前には、幹がY字型に分岐した木(樹A)が描かれている。その奥にも、同様にY字型に分岐した木(樹B)が確認でき、その右手(画面のほぼ中央)には比較的まっすぐに幹がのびた木(樹C)が立っている。さらに、画面右手のアトリエに近い位置には、複雑に枝分かれした若木らしい木(樹D)が育ちつつある。
この樹木の配置、つまり木立ちの風情を翌年に描かれた『花苑』に重ねてみると、ぴたりと一致することがわかる。すなわち、Y字型の樹Aのうしろに同じようなかたちをした樹B、樹Bの右横に比較的まっすぐな樹C、そしてアトリエの外壁近くにあたる画面右端に若木の樹Dという構成だ。『庭』に比べ、『花苑』ではY字型の樹Aと樹Bとの重なり具合から、スケッチの視点位置がやや右手(東寄り)にずれているのがわかる。
『花苑』を観察すると、園芸用の多種多様な花の植えられているのがわかる。牧野虎雄は、庭の築山に種子をまきながら、文展・帝展が開かれる直前の夏季に、花々が咲き乱れる庭へイーゼルを持ちだして、その年の出品作を仕上げていたのだろう。花々の種子は、近くに住む大久保作次郎Click!から分けてもらったのかもしれないし、近くの園芸店から手に入れたのかもしれない。
大正中期の当時、少しずつ建ちはじめた住宅地の造園ニーズを見こんで、落合地域とその周辺には植木業や園芸店が開業しはじめていた。長崎や落合のエリアは、いまだ宅地の数はそれほど多くはなかったが、山手線の内側域で市街地(15区時代Click!)にあたる牛込区や小石川区では、住宅が急増して園芸の需要が一気に高まっていた。
たとえば、牧野虎雄が描いた『庭』(1919年)や『花苑』(1920年)と同時期に出版された、1920年(大正9)の『高田村誌』(高田村誌編纂所)には、すでに大きめな造園業者が広告を掲載している。1社は、「高田村目白駅北二丁」のダリヤがメイン商品だった園芸種子の「富春園」であり、もう1社は池袋駅近くにオープンしていたとみられる、所在地が不明な園芸用品や種子の販売業「池袋花園」だ。
また、長崎村の旧家である長崎バス通りの岩崎家Click!では、目白駅や目白通りを走るダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車)に看板を設置するなどの宣伝を繰り広げながら、すでに「岩崎種苗店」Click!を開店していたかもしれない。牧野虎雄は、これら近くに開店していた園芸業者や種苗店から、好きな草花の種子や球根を購入して、庭で栽培していた可能性もありそうだ。
牧野虎雄は、下落合2丁目604番地に建てたアトリエClick!の庭でも、さまざまな花々を育てていたらしく、浅田邸をはさんで2軒西隣りにいた下落合623番地の曾宮一念Click!が、ときどき見学に訪れている。牧野は下落合のアトリエで、庭に咲くケシあるいは花瓶にさしたケシの花や実をよく描いている。曾宮一念アトリエClick!の庭にもケシの花が以前から栽培されており、彼もまたケシを挿画などによく描いていることから、牧野は曾宮から種子をもらって育てていたものだろうか。
牧野虎雄のアトリエにあった築山だが、1921年(大正10)制作の『庭の少女(中庭)』には、いまだこんもりとした地面の盛りあがりがありそうだが、翌1922年(大正11)に描かれた『早春』では、『庭』(1919年)や『花苑』(1920年)に見られる大きな土盛りが消えているように見える。おそらく、1922年(大正11)の春先に、牧野は庭の築山をあらかた崩しているのではないだろうか。
そして、1922年(大正11)の夏に描かれた『園の花』には、やや小さめな“ふくらみ”は確認できるものの、『庭』や『花苑』に見られる大きな築山はすでに消滅しているようだ。庭の景色に飽きたのか、それともアトリエ西側の接道(南北道)工事がはじまり、築山の一部がひっかかって邪魔になったからかもしれない。
◆写真上:1920年(大正9)に、長崎村のアトリエ庭を描いた牧野虎雄『花苑』。
◆写真中上:上は、1919年(大正8)に同じくアトリエ西側の庭を描いた牧野虎雄『庭』。中・下は、両作の画面に描かれた樹木の比較と規定。
◆写真中下:上は、1921年(大正10)制作の牧野虎雄『庭の少女(中庭)』。中は、1922年(大正11)に描かれた同『早春』。すでに築山は崩されたのか、アトリエの西側には見えない。下は、長崎村(町)荒井1721番地にあった牧野虎雄アトリエ跡の現状。
◆写真下:上は、1920年(大正9)出版の『高田村誌』に掲載された園芸店広告。中は、目白通りを走る東環乗合自動車のバックに掲示された「岩崎種苗店」の看板広告。(小川薫様アルバムClick!より) 下は、1922年(大正11)制作の牧野虎雄『園の花』。