雑司ヶ谷24番地に住んでいた秋田雨雀Click!は、落合地域に関連する人物たちのエピソードには頻繁に顔をのぞかせている。古くはエスペランティストという側面から、下落合370番地にアトリエをかまえた竹久夢二Click!や、中村彝Click!のアトリエへモデルとして通ったエロシェンコClick!などとともに、全国を講演してまわっていた。
また、上落合189番地に住んだ俳優の佐々木孝丸Click!は、秋田雨雀としじゅう会えるようにと、わざわざ雑司ヶ谷鬼子母神の近くに転居していた時代がある。同じ演劇がらみでは、上落合186番地の村山知義Click!とのつながりで、上落合502番地に設立された国際文化研究所へもやってきていた。さらに、上落合850番地(のち842番地)に住んでいた作家の尾崎翠Click!とも接点があり、また上落合469番地(のち476番地)にいた神近市子Click!とも、かなり親しく交流していた。
秋田雨雀は、青森県から東京へやってくると東京専門学校(のち早稲田大学)の英文科へ入学し、小石川早竹町に住んだあと、1904年(明治37)には早稲田鶴巻町の下宿「松葉館」へと移った。この松葉館の主人が、武者小路実篤Click!の叔父であったことから、新体詩や社会主義に興味をおぼえはじめたようだ。翌1905年(明治38)には、早くも雑司ヶ谷24番地の山田方に下宿し、同年に隣接する24番地にある隣家・前田やす邸の2階へ転居。そして翌年、前田家の娘・きぬと結婚している。以降、雨雀は太平洋戦争がはじまるまで雑司ヶ谷の同所に住みつづけた。ちょうど、雑司ヶ谷鬼子母神Click!のほぼ門前、北東側に隣接した住宅街の路地奥にある2階建ての家だった。
雨雀は、早稲田大学英文科を卒業したあと、島村抱月Click!に師事して「早稲田文学」に処女作『同性の恋』を発表し、新進小説家として注目を集めはじめた。また、戯曲集『埋もれた春』を発表して、演劇の脚本家としてもスタートしている。雨雀が島村抱月と松井須磨子が創立した、芸術座の幹事をつとめていたのは有名なエピソードだ。ところが、演劇の面白さが雨雀をとらえてしまい、劇団にのめりこむあまり書斎で作品を創作する機会が急減し、「私の創作力を減殺」(『雨雀自伝』)していくことになった。
雨雀は娘が生まれると、娘の情操教育のためにと童話を創作するようになる。また、娘を小学校へは入学させず、みずから「自由教育」を企画してカリキュラムを作成し、自分以外の講師も依頼していたようだ。雨雀の根底にあったのは、「日本の封建主義的倫理教育に対する疑い」で、文部省教育からは完全に切り離されたカリキュラムとなった。社会学、生物学、地理学、英語、エスペラント語、文学、音楽、演劇などの授業が行われ、情操教育が主体の教育法だった。このあたり、ヴァイオリニストの巌本真理を輩出した巌本家Click!の教育法に近似している。
文学や演劇、童話の各分野を問わず、雑司ヶ谷24番地の秋田雨雀邸は、ちょうど牛込早稲田南町(現・早稲田南町)の漱石山房Click!のように、多くの仲間が集い青年たちが出会う、ハブのような役割を果たすことになる。
「雑司ヶ谷巡り」と呼ばれた当時の様子を、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』から引用してみよう。
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明治末期から大正にかけての鬼子母神の森は、実にうっそうとして樹木の中に家が点在するというほどで、雨雀の部屋も樹木におおわれて昼でも電灯を点していた。玄関から暗い階段を二階にあがると、そこが書斎となっていた。そこにはいつも「執筆中」の貼紙が貼られていたが、人声が絶えなかった。客が訪ねていっても「執筆中」の札に物を言わせることのないのは、本人自身やはり客好きで淋しがりやであったからだ。/当時雑司が谷には、藤森成吉、平林初之輔、小川未明、前田河広一郎、白鳥省吾らが住んでいた。この頃「雑司が谷めぐり」ということばがあって、インテリ―失業者たちが雑司が谷に行けば誰かに会えるし、事によると一椀一杯にあずかれるかも知れないし、あわよくば電車賃位は何とかなるというところから、「雑司が谷めぐり」が始まったという。秋田雨雀といえば雑司が谷でも鬼子母神の杜に住む主と言われたもので「雑司が谷めぐり」の本尊と見られていた。
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秋田雨雀自身も、雑司ヶ谷をあちこち散歩していたようで、「ハイゼの原」Click!にはよく姿を見せていたらしい。また、鬼子母神境内にある駄菓子屋「上川口屋」は常連だったらしく、そこの老婆(現在の店主の先々代だろう)とはかなり親しかったようだ。
ちなみに、わたしも上川口屋さんの常連のひとりで、子どもが小さいころから鬼子母神の境内へ散歩に出かけると必ず立ち寄っていた。現在も必ずフラフラと立ち寄り、ラムネか粉ラムネ(粉末ジュース?)を買っては、家族にナイショで楽しんでいる。こういうところ、子どものころの習慣(クセ)はなかなか抜けないものだ。いまの店主は、確か戦後に同店へ嫁いできたお嫁さんだったと思う。乃手では、駄菓子屋さんへの出入りが禁止されていた家庭が多いせいか、この話をすると「まあ……」などとあきれ顔をされることが非常に多い。うちの連れ合いも、同店で子どもたちに駄菓子を買い与えると、「ダメですよ、添加物や着色料が心配だから」と眉をひそめていた。
ハイゼの原と駄菓子屋で目撃された雨雀の姿を、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』から少し長いが引用してみよう。
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或る日のこと。母の郷里である青森県の三戸から祖母が上京してきた折、土産に持ってきてくれた「ごませんべい」を何枚かふところにして、私はふらりと「ハイゼの原」まで出かけて行った。もう夕方近くだったせいもあり、そこには子供達の姿は一人もいなかった。私は草原の斜面に腰を下ろして、はるか右手の方に見える鬼子母神を眺めていた。/するといつの間にか私の直ぐ左横に、一人の男の人が立っているのを発見した。鳥打帽子を冠りステッキを突いたその人を見た時、私は最初異人さんではないか――と思った程だった。体は決して大きな方ではなかったが色の白い童顔の人で、茶色のコール天のズボンをはき、今にして思えばルバシカだと分るが、当時としては見たこともない、黒色のビロード風のだぶだぶの上衣をつけ、腰の辺りを紐で強くしばった面白いものを着た人だった。その人は私にぽつりと言った。「夕やけが、きれいだね」(中略) 「珍らしい物を持っているね。ごませんべでしょう。小父さんにも少しくれる?」/と言った。私は無言でうなずき一枚とり出して渡した。(中略) それからしばらくして、鬼子母神のお会式が近づき、見世物の小屋がけなどを見に出かけた時、境内の売店の前で、私はいつぞやの「ハイゼの原」の小父さんにバッタリと出会った。同じような恰好をしていたので、私はすぐに気付いたが、その人は売店の小母さん(鬼子母神の項で書いた老婆のこと)と、何か親し気に話合っていたが、私の姿をみると手まねきして、/「この間は、ごませんべをありがとう。とてもおいしかったよ」と礼を言い、売店の小母さんからキャラメルの小箱を買って私に与えた。
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このあと、著者はキャラメルの小箱を家に持ち帰ったが、知らない人からモノをもらったということで父親にひどく叱られたらしい。ところが、三戸のごませんべいと「小父さん」とのいきさつの話をすると、父親は「雨雀さんだ」といって叱るのをやめた。相手の素性が知れたからではなく、父親は秋田雨雀とは同郷のよしみで親しかったからだ。
文中で、上川口屋の店主を「老婆」と書いているが、このエピソードがあった当時はまだ若い「小母さん」、つまり昭和初期に店番をしていた現店主の先々代だった。著者が同書を執筆する際、つまり1977年(昭和52)の少し以前にはすでに老婆となっており、おそらく娘とふたりで店先に出ていたのではないだろうか。
「稲荷社の鳥居のかたわらに佇むように建ち残っている茶店というか、鳩の餌などを売る店が、往時のままで残されていて、またそこで店番をしている老婆も昔のままの婆(当時は小母さんであった)でいてくれたのは、何といってもなつかしかった」と書いているが、著者の取材に対し上川口屋の「小母さん」は、秋田雨雀のことを克明に記憶していた。それほど雨雀は、この駄菓子屋が気に入って頻繁に通ってきていたのだろう。
◆写真上:江戸の創業から240年近い、鬼子母神境内で健在の駄菓子屋・上川口屋さん。
◆写真中上:上は、講演旅行の記念写真からエロシェンコの左が秋田雨雀で、その手前が竹久夢二。下左は、秋田雨雀『同性の恋』が掲載された1907年(明治40)発行の「早稲田文学」6月号。下右は、縞柄のルバシカ姿の秋田雨雀。
◆写真中下:上は、1933年(昭和8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道。中・下は、現在の鬼子母神本堂とザクロの絵馬が架かる本堂内部の様子。
◆写真下:上は、1933年(昭和8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の境内にある大イチョウ。中は、1977年(昭和52)ごろに撮影された上川口屋の店先。下は、秋も深まるとイチョウの落ち葉が目立つ鬼子母神境内の現状。