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戦時下、戦争画Click!をなかなか描かず軍部に協力的でない画家たちは、統制下におかれた絵の具の配給が満足に受けられず、油彩・水彩を問わず本格的な作品が描けないでいた。逆に戦争画を描く画家には、軍部からふんだんに絵の具や筆、キャンバスなどの画材・画道具がまわされ、画面の制作に困ることはなかった。
戦争画を描かない画家たちは、絵の具がなかなか手に入らないため、雑誌や小説などの挿画をペン・鉛筆・墨などで描きながら、かろうじて糊口をしのぐようなありさまだった。1941年(昭和16)12月の日米開戦以来、さらに配給の厳しさが増すにつれ、秋の展覧会に向けて絵の具の欠乏を食いとめ、公平で効率的な絵の具の分配を実現しようと、1942年(昭和17)5月に上野精養軒で「美術家連盟」が結成されている。同連盟の中心となったのは、戦争画をほとんど描かない木村荘八Click!で、自宅Click!のある杉並区和田本町832番地が美術家連盟の事務局となっている。
美術家連盟の発起委員には、辻永Click!や石井柏亭Click!、有島生馬Click!など40名以上のそうそうたる画家たちが名を連ねていたが、軍部に非協力的な画家たちも少なからず含まれており、上野精養軒の結成集会に呼ばれた大政翼賛会文化部陸海軍報道部の代表は、内心にがにがしく思っていたかもしれない。表面上は、軍部へ協力する作品を描きやすいよう、統制された絵の具を効率よく画家たちへ確実に配給し、より「非常時」にふさわしい作品を制作するための、戦時における画材流通基盤の確立のように謳われたのかもしれないが、制作される作品がすべて軍部の要請する「聖戦貫徹」の画面になる保証は、まったくどこにもなかったからだ。
事実、事務局長を引き受けた木村荘八からして、そもそも春陽会や新文展への出品用に東京の風俗や風景、芝居、静物などの作品しか描こうとはせず、あとは好きな時代小説や風俗帖などの挿画を手がけるだけといったありさまで、絵の具配給の指示・統轄部局である大政翼賛会文化部陸海軍報道部には、ほとんど目に見えての「プロパガンダ・メリット」はなかったように見える。おそらく、木村荘八を含めた美術家連盟のおもな画家たちが、大政翼賛会文化部を巻きこんで絵の具の安定的な入手ルートを確保しさえすれば、あとはモチーフになにを描こうがこちらの勝手だ……とかなんとか相談して、全国の画家たちへ参加を呼びかけたのだろう。
1942年(昭和17)の7月下旬、全国の絵の具小売店あてに、神田小川町にある東京洋画材料商業組合から、次のようなハガキがとどいた。
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面白いのは、業界が業界なだけに「ホワイト」「メーカー」「ルート」など、日米戦がはじまっているにもかかわらず英語を自粛せず、従来どおりに多用している点だ。
確かに、絵の具の専門色名に横文字がつかえなくなれば大混乱をきたし、そもそも画材を扱う業界は成立しえなくなってしまう。油絵の具の「ホワイト」には、メーカーにもよるが7種類前後はあるのが当たり前なので、文面の「ホワイト」がどのホワイトを指しているのかが不明だ。だが、物資不足が深刻化している戦時では、ジンクやチタニウム、シルバー、パーマネント、セラミック……などの別なく、白系統の絵の具をおしなべて「ホワイト」としていたのではないだろうか。
とにかく、秋の展覧会へ向けた作品の制作には、ホワイト系の絵の具が絶対的に不足しており、要望を受けた美術家連盟では急遽、洋画材料商業組合と協議して、ホワイトを優先的に全国の画家たちへ配給するよう手配したものだろう。
このハガキの内容について、1942年(昭和17)発行の「新美術」8月号に掲載されている、美術家連盟事務局の木村荘八『連盟の経過』から引用してみよう。
▼
去る七月二十日付けを以つて左のやうな印刷ハガキが東京洋画材料商業組合から全国の絵具小売店へ送達された。/美術家聯盟の会員を限り臨時にホワイトを売渡す配分約束についての通牒であるが、美術家聯盟加入のものは、同時に左の購入券を受取つた。この購入券は絵具工業組合と材料商業組合及び聯盟の合議で印刷したものを(官製ハガキ)聯盟が一纏めに受取つて事務所から改めて全国の聯盟加入者に一人一通づゝ送つたものである。/一体が油絵本位の話だつたので此の購入券を見ても一言の説明さへも用ゐず、頭から油絵具に限るものとされてゐるが――聯盟会員の需要の関係から見て、それは後に、油絵具ならば一人十号チューブ二本、水彩ならば一人四本、といふことに此の同じ購入券を以つて便法風な取扱ひの出来ることを申合はせた。しかしこれは東京以外には徹底されぬ一部の便法に止どまつたかもしれない。――筆者が今この報告文章を誌すのは八月九日であるが、ホワイト購入券に依ればその現品引渡時期は八月八日以後としてあるから、もうそろそろ引渡しの手続になることだらう。
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配給券=「ホワイト引替券」には、油絵の具を前提として「壱名に付十号チューブ弐本」としたが、水彩画家を考慮し水彩絵の具なら2本ではなく4本だと、急いで追加の告知をしている。でも、「新美術」8月号が店頭に並んだのは8月の中旬なので、油彩以上にホワイトを多用する水彩画家も、油絵の具と同様にチューブ2本と交換してしまったのではないかと危惧している。
また、絵の具の原材料が稀少となり値上がりしているため、絵の具の販売価格についても触れている。戦時のため、絵の具の値段は一時的に「停止価格」(政府の統制により値上げをせず一定価格を維持すること)のまま推移していたが、原材料の高騰で改めてコストに見あった価格を設定したい、業者の要望が強まっていたと思われる。つづけて、木村荘八の『連盟の経過』から引用してみよう。
▼
一方の洋画材料商業組合から各小売店に廻された通牒に依れば、「現品は公定価格発表と同時に」送るといふことになつてゐるけれども、これはまだ暫く時間の要る見込である。予めそれがわかつてゐるので、我々聯盟側は、不取敢この二本の臨時配給は公定価格発表以前であつても、品ものやその取扱上の手順さへ付いたならば成る可く早く現品引渡しの段取りとしてくれ、互ひに責任もあるし又秋を控へて需要の差し迫つてゐることでもあるからと、業者に懇談した。業者も亦首肯したのであつた。/この「公定価格の発表」といふことが外界からは説明されないとわかりにくい事情であらうが、又一つには、抑々それが凡ての「根」であつて、聯盟が受動的に絵具業者や材料商業組合とタイアップの形になつたのも誘因はそこにあれば、また、臨時ホワイト配給の今回の事も動機はそこから起つたと云へる。
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先にも記したように、「新美術」8月号が書店の店頭に並んだのは早くても8月中旬、地方ではさらに遅くなったと思われるのだが、早い美術展は9月に幕を開ける。ホワイトのストックがない画家たちは、作品が完成できずかなり焦っていただろう。だが、このような配給が一般の画家たちまであるうちは、まだマシな状況だった。日本の敗色が強まるにつれ、軍部に協力的でない画家たちには絵の具はおろか画材がほとんど配給されず、闇で超高価なそれらを手に入れざるをえない時代が、すぐそこまで迫っていた。
◆写真上:敗戦時に工場が焼け残り、戦後いち早く絵の具を製造を再開した旧・長崎5丁目15番地のクサカベClick!のホワイト各種。上からチタニウム、ジンク、パーマネント。
◆写真中上:上は、1942年(昭和17)に発行されたホワイトの購入券(配給切符)。下は、美術家連盟の役員だった木村荘八(左)と有島生馬(右)。
◆写真中下:上は、ホワイト配給券と同年の1942年(昭和17)制作の木村荘八『残雪』。下は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!直前に制作された木村荘八『浅草元旦』。浅草が大空襲で壊滅する、2ヶ月前のにぎわいをとらえている。
◆写真下:上は、1943年(昭和18)に制作された木村荘八『大鷲神社祭礼』の習作(下絵)。下は、1943年(昭和18)に制作されたタブローの画面。
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戦時下、戦争画Click!をなかなか描かず軍部に協力的でない画家たちは、統制下におかれた絵の具の配給が満足に受けられず、油彩・水彩を問わず本格的な作品が描けないでいた。逆に戦争画を描く画家には、軍部からふんだんに絵の具や筆、キャンバスなどの画材・画道具がまわされ、画面の制作に困ることはなかった。
戦争画を描かない画家たちは、絵の具がなかなか手に入らないため、雑誌や小説などの挿画をペン・鉛筆・墨などで描きながら、かろうじて糊口をしのぐようなありさまだった。1941年(昭和16)12月の日米開戦以来、さらに配給の厳しさが増すにつれ、秋の展覧会に向けて絵の具の欠乏を食いとめ、公平で効率的な絵の具の分配を実現しようと、1942年(昭和17)5月に上野精養軒で「美術家連盟」が結成されている。同連盟の中心となったのは、戦争画をほとんど描かない木村荘八Click!で、自宅Click!のある杉並区和田本町832番地が美術家連盟の事務局となっている。
美術家連盟の発起委員には、辻永Click!や石井柏亭Click!、有島生馬Click!など40名以上のそうそうたる画家たちが名を連ねていたが、軍部に非協力的な画家たちも少なからず含まれており、上野精養軒の結成集会に呼ばれた大政翼賛会文化部陸海軍報道部の代表は、内心にがにがしく思っていたかもしれない。表面上は、軍部へ協力する作品を描きやすいよう、統制された絵の具を効率よく画家たちへ確実に配給し、より「非常時」にふさわしい作品を制作するための、戦時における画材流通基盤の確立のように謳われたのかもしれないが、制作される作品がすべて軍部の要請する「聖戦貫徹」の画面になる保証は、まったくどこにもなかったからだ。
事実、事務局長を引き受けた木村荘八からして、そもそも春陽会や新文展への出品用に東京の風俗や風景、芝居、静物などの作品しか描こうとはせず、あとは好きな時代小説や風俗帖などの挿画を手がけるだけといったありさまで、絵の具配給の指示・統轄部局である大政翼賛会文化部陸海軍報道部には、ほとんど目に見えての「プロパガンダ・メリット」はなかったように見える。おそらく、木村荘八を含めた美術家連盟のおもな画家たちが、大政翼賛会文化部を巻きこんで絵の具の安定的な入手ルートを確保しさえすれば、あとはモチーフになにを描こうがこちらの勝手だ……とかなんとか相談して、全国の画家たちへ参加を呼びかけたのだろう。
1942年(昭和17)の7月下旬、全国の絵の具小売店あてに、神田小川町にある東京洋画材料商業組合から、次のようなハガキがとどいた。
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確かに、絵の具の専門色名に横文字がつかえなくなれば大混乱をきたし、そもそも画材を扱う業界は成立しえなくなってしまう。油絵の具の「ホワイト」には、メーカーにもよるが7種類前後はあるのが当たり前なので、文面の「ホワイト」がどのホワイトを指しているのかが不明だ。だが、物資不足が深刻化している戦時では、ジンクやチタニウム、シルバー、パーマネント、セラミック……などの別なく、白系統の絵の具をおしなべて「ホワイト」としていたのではないだろうか。
とにかく、秋の展覧会へ向けた作品の制作には、ホワイト系の絵の具が絶対的に不足しており、要望を受けた美術家連盟では急遽、洋画材料商業組合と協議して、ホワイトを優先的に全国の画家たちへ配給するよう手配したものだろう。
このハガキの内容について、1942年(昭和17)発行の「新美術」8月号に掲載されている、美術家連盟事務局の木村荘八『連盟の経過』から引用してみよう。
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去る七月二十日付けを以つて左のやうな印刷ハガキが東京洋画材料商業組合から全国の絵具小売店へ送達された。/美術家聯盟の会員を限り臨時にホワイトを売渡す配分約束についての通牒であるが、美術家聯盟加入のものは、同時に左の購入券を受取つた。この購入券は絵具工業組合と材料商業組合及び聯盟の合議で印刷したものを(官製ハガキ)聯盟が一纏めに受取つて事務所から改めて全国の聯盟加入者に一人一通づゝ送つたものである。/一体が油絵本位の話だつたので此の購入券を見ても一言の説明さへも用ゐず、頭から油絵具に限るものとされてゐるが――聯盟会員の需要の関係から見て、それは後に、油絵具ならば一人十号チューブ二本、水彩ならば一人四本、といふことに此の同じ購入券を以つて便法風な取扱ひの出来ることを申合はせた。しかしこれは東京以外には徹底されぬ一部の便法に止どまつたかもしれない。――筆者が今この報告文章を誌すのは八月九日であるが、ホワイト購入券に依ればその現品引渡時期は八月八日以後としてあるから、もうそろそろ引渡しの手続になることだらう。
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配給券=「ホワイト引替券」には、油絵の具を前提として「壱名に付十号チューブ弐本」としたが、水彩画家を考慮し水彩絵の具なら2本ではなく4本だと、急いで追加の告知をしている。でも、「新美術」8月号が店頭に並んだのは8月の中旬なので、油彩以上にホワイトを多用する水彩画家も、油絵の具と同様にチューブ2本と交換してしまったのではないかと危惧している。
また、絵の具の原材料が稀少となり値上がりしているため、絵の具の販売価格についても触れている。戦時のため、絵の具の値段は一時的に「停止価格」(政府の統制により値上げをせず一定価格を維持すること)のまま推移していたが、原材料の高騰で改めてコストに見あった価格を設定したい、業者の要望が強まっていたと思われる。つづけて、木村荘八の『連盟の経過』から引用してみよう。
▼
一方の洋画材料商業組合から各小売店に廻された通牒に依れば、「現品は公定価格発表と同時に」送るといふことになつてゐるけれども、これはまだ暫く時間の要る見込である。予めそれがわかつてゐるので、我々聯盟側は、不取敢この二本の臨時配給は公定価格発表以前であつても、品ものやその取扱上の手順さへ付いたならば成る可く早く現品引渡しの段取りとしてくれ、互ひに責任もあるし又秋を控へて需要の差し迫つてゐることでもあるからと、業者に懇談した。業者も亦首肯したのであつた。/この「公定価格の発表」といふことが外界からは説明されないとわかりにくい事情であらうが、又一つには、抑々それが凡ての「根」であつて、聯盟が受動的に絵具業者や材料商業組合とタイアップの形になつたのも誘因はそこにあれば、また、臨時ホワイト配給の今回の事も動機はそこから起つたと云へる。
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先にも記したように、「新美術」8月号が書店の店頭に並んだのは早くても8月中旬、地方ではさらに遅くなったと思われるのだが、早い美術展は9月に幕を開ける。ホワイトのストックがない画家たちは、作品が完成できずかなり焦っていただろう。だが、このような配給が一般の画家たちまであるうちは、まだマシな状況だった。日本の敗色が強まるにつれ、軍部に協力的でない画家たちには絵の具はおろか画材がほとんど配給されず、闇で超高価なそれらを手に入れざるをえない時代が、すぐそこまで迫っていた。
◆写真上:敗戦時に工場が焼け残り、戦後いち早く絵の具を製造を再開した旧・長崎5丁目15番地のクサカベClick!のホワイト各種。上からチタニウム、ジンク、パーマネント。
◆写真中上:上は、1942年(昭和17)に発行されたホワイトの購入券(配給切符)。下は、美術家連盟の役員だった木村荘八(左)と有島生馬(右)。
◆写真中下:上は、ホワイト配給券と同年の1942年(昭和17)制作の木村荘八『残雪』。下は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!直前に制作された木村荘八『浅草元旦』。浅草が大空襲で壊滅する、2ヶ月前のにぎわいをとらえている。
◆写真下:上は、1943年(昭和18)に制作された木村荘八『大鷲神社祭礼』の習作(下絵)。下は、1943年(昭和18)に制作されたタブローの画面。