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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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陸軍の地下壕が掘られた淀橋浄水場。

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淀橋浄水工場跡.JPG
 これまで、戦時中に東京の市街地が、どのよう組織Click!によって米軍による空襲Click!から「防衛」され、またどのような施策Click!によって空襲の被害を抑えようとしていたかを、落合地域を問わず東京各地の様子をあれこれご紹介してきた。だが、東京市内にあった社会インフラの施設や設備が、どのような方法で守られようとしていたのかには、ほとんど触れてきていない。
 そこで、落合地域も含まれる新宿エリアに明治期から設置されていた、東京の代表的な社会インフラのひとつだった淀橋浄水場Click!の防空対策について検証してみたい。同浄水場で、本格的な「水道防衛」がテーマになったのは、1942年(昭和17)4月18日のB25によるドーリットル隊初空襲Click!からだった。同空襲では、牛込区(現・新宿区の一部)の早稲田中学校のグラウンドにいた生徒が、焼夷弾の直撃を受けて即死Click!している。東京市では、浄水場と水道網をいかに防衛するかが大きな課題となった。そこで、さまざまな「防衛工事」計画が策定されている。
 だが、新宿駅西口に10万坪以上の面積がある淀橋浄水場は隠しようがなく、爆撃機が高高度で飛行してもハッキリと視認Click!できるほど目立つ施設だった。いくら地図から抹消Click!したとしても、偵察機から空中写真を撮られればすぐにバレてしまう。また、施設の構造自体もきわめて脆弱なため、防御を強化するという発想よりも偽装、すなわちカムフラージュを主体とした消極的な「防衛工事」にならざるをえなかった。1944年(昭和19)の暮れまでに、淀橋浄水場では水面の遮蔽(水田偽装)や、場内の工場をはじめとする建物の偽装(壁面迷彩)、煙突など目立つ建築物の解体などが行なわれている。
 これらの施策は、東京市水道局と軍部が淀橋浄水場をめぐる6つの課題について検討する中で、漸次決定されていったものだ。以下、6つの課題を挙げてみよう。
 (1)浄水場と敷地の幾何学的な地形をどのように変更させるか。
 (2)防護に要する膨大な資材と労力が調達可能か。
 (3)短期間に完成する見込みがあるか。
 (4)浄水作業に支障をきたさないか。
 (5)水道水に汚染その他の支障が生じないか。
 (6)風雨雪等に対する耐久性はあるか。
 これらの課題にもとづき、濾池や沈澄池を水田に見立てる工事などが開始されたが、1940年代ともなれば新宿駅の周辺は、すでに商業地の繁華街や住宅街、学校、工場などがびっしりと建ち並ぶ都会化が進んでおり、その中へいかにも不自然な水田が拡がっているようにカムフラージュしても、ほとんどまったく効果がなかった。
 「防衛工事」は、まず濾池×24面(約28,800坪)に偽装網(綿糸製9cm各目)を張り、網目には木くずやシュロの葉などを貼りつけてカムフラージュした。濾池×4面(約27,700坪)には葦簀(よしず)を張り、丸太でそれを支えるようにして偽装している。また、浄水池や敷地内の水路など約60,000坪の施設は、水田や空き地に見せかけて(少なくとも計画者のアタマの中では) 浄水場には見えないように偽装した。広い浄水場内の「防衛工事」には、数百人の学徒が毎日動員されている。
淀橋浄水場新宿駅1941.jpg
淀橋浄水場沈澄池偽装.jpg
淀橋浄水場濾池偽装.jpg
 建物の「防衛工事」としてポンプ所と滅菌室の周囲には、爆撃時の爆風による被害を防ぐために土嚢が積まれた。浄水場から東京市内へ向けた配水幹線の上部には、直撃弾の対策として厚さ1mにもなるコンクリート製の防護遮蔽が取りつけられている。また、高い建造物は目標になりやすいということで、高さ130尺(約39m)のコンクリート煙突は解体され、場内いたるところにカムフラージュ用の樹木が植えられた。さらに、細菌類の投下による謀略戦を想定し、浄水池の通風筒を密閉する機能も追加されている。
 さて、上記のような「防衛工事」が施された淀橋浄水場だが、第2次山手空襲Click!では大きな被害が出ている。米軍はもちろん、新宿駅西口近くにある同浄水場のことは研究済みで知悉していた。1945年(昭和20)5月25日の22時3分に、東部軍管区情報として警戒警報が発令され、つづいて同日22時22分には空襲警報に変わった。約250機のB29が、おもに山手線西部の焼け残り地域を空襲し、M69集束焼夷弾と250キロ爆弾などあわせて148,700発を投下した。翌5月26日の未明にかけ、約2時間30分の空襲により山手線西側の街々は壊滅した。今日の新宿区(四谷区+牛込区+淀橋区)でいえば、この日までに全住宅地や全商工業地の約80%以上が焼け野原となった。
 5月26日の午前1時0分に空襲警報は解除されたが、淀橋浄水場では場内の建物火災は5時すぎまでつづき被害は深刻だった。火災により事務所(本部)1棟、木工所1棟、鍛冶工場1棟、原水ポンプ所3棟、硫酸ばんど注入所1棟の計332坪の建物を焼失した。また、機器設備として電動ポンプ×7基、硫酸ばんど注入設備×全部、自動車×1台を焼失している。これにより、東京市街へ給水する水道は配水量が50%にまで低下した。
 淀橋浄水場の空襲のみに限ってみれば、わずか1時間ほどの空襲で東京市の大部分にわたる水道インフラの、約50%の配水機能が喪失したことになる。水道が完全に断水しなかったのは、幸運とみるか「防衛工事」のおかげとみるかは意見の分かれるところだが、この空襲に先立つ同年3月10日の東京大空襲Click!により、淀橋浄水場系の本郷給水所(現・本郷給水所公苑)と芝給水所(現・港区スポーツセンター+芝給水所公園)が完全に破壊されている事例を考慮すれば、幸運だったといえそうだ。
淀橋浄水場滅菌室土嚢.jpg
淀橋浄水場機関室煙突解体.jpg
淀橋浄水場偽装1944.jpg
 第2次山手空襲のあとに計画された、不可解な証言も残されている。淀橋浄水場の地下にトンネルを掘り、米軍の本土上陸に備えるために極秘の部隊が配置されたという、当時、淀橋浄水場長だった方の証言だ。空襲後、「池の水面や構造物には、偽装、迷彩、防護などが施されていたし、資材や労力の不足で維持管理が行届かず、(浄水場の)機能は半減していた」ような状況で、トンネル掘りを命じられた部隊が配備されている。
 1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)所収の、小林重一『淀橋浄水場の思い出』から引用してみよう。
  
 当時、浄水場には、隊長が大尉の小部隊が駐屯していた。話に依ると、敵軍の本土上陸が予想される。上陸した敵軍は、甲州街道と青梅街道を東京に向かって進撃してくる。これを邀撃するため、浄水場の下に縦横に地下道を掘り、作戦に機動性をもたすようにする。この地下道を造るのが、駐屯部隊の仕事だ、ということであった。/甲州、青梅両街道に面している浄水場が、敵軍邀撃の好個の拠点であることは肯けたが、深い池の多い浄水場の下にトンネルを掘ることは大変な難工事である。隊にはトンネルの専門家はいないらしい。新宿駅西口広場に集積された木材は支保工になるしろものではなかった。土木屋の私には全く狂気の沙汰としか思えなかった。本気で掘る積りなら、専門家によく相談して段取りをしなさいと注意した。/勿論、隊長は掘る気でいた。そして、上官から、おまえらの墓場を掘る積りでしっかりやれ、といわれてきた、ともいっていた。
  
 当時の陸軍は、湘南海岸の中央にあたる平塚海岸に大部隊を上陸させ、馬入川(相模川)沿いに北上して八王子を攻略し、甲州街道や青梅街道を東へ進撃して東京市街地へと侵攻する米軍のコロネット作戦Click!を、その空襲の規模や傾向などから、かなり正確かつリアルに把握していた様子がうかがえる。
 実際にトンネルが掘られたのかどうかは、小林重一の証言には書かれていない。空襲から敗戦まで、いまだ3ヶ月も残す時期のことなので、新宿西口広場に集められた資材を用いて、浄水場内のいずれかの地下にトンネルが掘られていたのかもしれない。また、敗戦から20年後の証言とはいえ、当時の軍事機密に属することなので、あえて証言が控えられている可能性も考えられる。
淀橋浄水場新宿駅1944.jpg
淀橋浄水場空襲19450525.jpg
淀橋浄水場跡1971.jpg
 あるいは、淀橋浄水場の跡地が競売にかけられているまっ最中に書かれた文章なので、地中には陸軍の地下壕が眠っているなどと書けば入札に影響が出ると考え、あえて証言を避けたのかもしれない。だが、トンネルが浄水場のどこかに掘られていたにせよ、跡地の大規模な「副都心開発」計画で、とうに破壊されているのはまちがいなさそうだ。

◆写真上:機関室の煙突がそびえていた、淀橋浄水工場が建っていたあたりの現状。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に陸軍によって撮影された淀橋浄水場。は、沈澄池と濾池の偽装(カムフラージュ)工事。1944年(昭和19)に工事は実施されたが、大編隊のB29による絨毯爆撃にはほとんど意味がなかった。
◆写真中下は、爆風に備え滅菌室の周囲に積まれた土嚢。は、機関室に付属する130尺(39m)コンクリート煙突の解体工事。は、1944年(昭和19)撮影の偽装工事が完了したあとの淀橋浄水場。ご覧のように、いくら網や葦簀で池の水面を遮蔽しても、上空から見れば浄水場の形状は明らかでカムフラージュの効果はほとんどなかった。
◆写真下は、1944年(昭和19)に撮影された新宿駅西口から淀橋浄水場にかけての一帯。新宿駅南口から浄水場にかけ、防火帯35号線(淀橋浄水場線)の建物疎開Click!がはじまっている。は、1945年(昭和20)5月25日夜半にB29から撮影された空襲下の新宿駅(下)と淀橋浄水場(上)。は、1971年(昭和46)に撮影された淀橋浄水場跡地で、濾池跡の東端には京王プラザホテルが建設中だ。

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