Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

救世観音の呪いではなさそうな天心邸の怪。

$
0
0
筑土八幡社.JPG
 岡倉覚三(天心)Click!は、1883年(明治16)から1885年(明治18)の3年間に、4回も転居を繰り返しているようだ。まず、日本橋蠣殻町にあった実家から根岸の御行の松Click!に近い鄙びた寮風(江戸期の別荘風)の家へ、半年ほどで巣鴨庚申塚Click!に近い音無川の新築の家へ、次にやはり1年足らずで牛込区の筑土町に建っていた江戸期の大屋敷へ、つづいてほんの数ヶ月で同じ牛込区を流れる江戸川(現・神田川)の舩河原橋Click!も近い新小川町へと、まことにせわしない生活を送っていた。
 岡倉天心の“引っ越し魔”は有名だったらしく、家族はもちろん友人・知人たちは別に驚かなかったらしい。彼は、引っ越しを気分転換のように考えていたようだが、それに付き合わされる家族や書生、女中たちはたまったものではなかっただろう。しかも、このときの岡倉天心は、E.フェノロサとともに関西の美術品調査への出張を繰り返していた時期と重なり、本人がほとんど家にいないような状態だった。にもかかわらず、出張から帰ってくると引っ越しをしているような生活だった。
 ちょうど1884年(明治17)、まるでミイラのように布でグルグル巻きにされ、法隆寺の夢殿に封印されていた救世観音Click!を、僧たちが止めるのも聞かず開扉して布を取り去り、強引に“取調”を行なっている。聖徳太子伝説とともに、「呪い」や「祟り」で名高い救世観音だが、そのときの様子を『天心全集』(美術院版)から引用してみよう。
  
 余明治十七年頃フェノロスサ、及加納鉄斎と共に、寺僧に面して其開扉を請ふ。寺僧の曰く之を開かば必ず雷鳴あるべし。明治初年、神仏混淆の論喧しかりし時、一度之を開きしが、忽ちにして一天搔き曇り、雷鳴轟きたれば衆大に怖れ、事半ばにして罷めり。前例此くの如く顕著なりと、容易に聴き容れざりしが、雷の事は我等之を引受く可しとて堂扉を開き始めしかば、寺僧皆怖れて遁去る。開けば則ち千年の鬱気紛々鼻を撲ち殆ど堪ゆ可からす、蛛糸を掃ひて漸く見れは前に東山時代と覚しき几案あり。之を除けば直に尊像に触るを得べし、像高さ七八尺計。布片経切等を以て幾重となく包まる。人気に驚きてや蛇鼠不意に現はれ、見る者をして愕然たらしむ。頓かて近より其布を去れば白紙あり、先に初年開扉の際雷鳴に驚きて中止したるはこのあたりなるべし。白紙の影に端厳の御像を仰がる。実に一生の最快事なり。
  
 このサイトでは、なぜか救世観音の「救世ちゃん焼き」Click!でかなりのアクセス数を記録しているが、このときに夢殿から出現し、その後も法隆寺の秘仏あつかいが長いことつづいた同像は、大正期に入ると顔面の石膏型までとられ、下落合の霞坂秋艸堂Click!に住んでいた会津八一Click!までがマスクを所有するまでになっていた。
 さて、岡倉天心が夢殿を開扉し救世観音の調査を行なった翌年、すなわち1885年(明治18)の初夏に転居してきたのが、牛込区(現・新宿区の一部)の筑土町(現・津久戸町界隈)に建っていた元・旗本屋敷のひとつだった。このころの天心は、政府の官階も進んで文部属となり、正式の判任官となっていたころだ。給料も上がり“一等下級俸”と決められたので、生活はかなり楽になっていただろう。
 岡倉天心は、短期間で引っ越しを頻繁に繰り返すので、転居を予定している家の由来や謂れなどを落ち着いて調べたり、その物件や地域について隣り近所を調査してまわるような手間のかかることはせず、空き家の話を聞きつけると一度ザッと下見しただけで、すぐに引っ越し先を決めていたようなふしが見える。しょっちゅう転居を繰り返していると、当時の表現でいえば「凶宅」あるいは「凶屋敷」、現代風にいえば「事故物件」を引き当ててしまうのは、小山内薫Click!も岡倉天心も同様のようだ。
岡倉天心.jpg 岡倉元子.jpg
岡倉一雄「父岡倉天心」岩波現代文庫.jpg 救世観音.jpg
 当時、岡倉家には岡倉天心に元子夫人、子ども(長女のみで岡倉一雄は祖父母の家にいた)、画学生の岡倉秋水(天心の甥)、本多天城、山本松谿などの書生たち、女中や俥夫などが住んでいた。下宿していた書生たちは、いずれも狩野芳崖の弟子たちで、のちに四天王と呼ばれるようになる画学生たちが含まれていた。
 ちょっと余談だが、本多天城は下落合(現・中落合/中井含む)にアトリエをかまえていたのを、岡不崩Click!のご子孫であるMOTさんよりうかがった。不崩と天城ともに、芳崖四天王の日本画家たちだ。岡不崩は下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)の二ノ坂上だが、本多天城は一ノ坂沿いの下落合4丁目1995番地にアトリエがあった。これら日本画家たちが下落合の中部から西部にかけてに集合したのも、1922年(大正11)から東京土地住宅により計画されていた「アビラ村(芸術村)」Click!と関連があるのだろうか? 一ノ坂上の本多天城アトリエについて、それはまた、次の物語……。
 さて、筑土町の屋敷での凶事は、引っ越しの当日に起きた長女の大怪我からはじまった。長女は、玄関の式台から靴脱ぎの石の上に転落し、石の角で左頬をえぐる大怪我をしている。裂傷はかなり深く、その傷跡は生涯消えなかったようだ。つづいて、屋敷の中2階の8畳間に住んでいた画学生たちがおびえはじめた。その様子を、2013年(平成25)に岩波書店から出版された、岡倉一雄『父 岡倉天心』から引用してみよう。
  
 六月に入って、五月雨そぼ降る陰鬱の日がつづいたある日の真昼時、素絢を展べて画事に精進の筆を走らせていた二人が、二人ながら急に悪寒を感じて、滅入るような心地となり、あたかも鬼気に襲われたように、うちつれてドヤドヤと階段を転び落ちてきた。そして、茶の間に下りてくると異口同音に、/「どう考えても不思議だ。われわれは何か超自然のものから呪いをかけられているようだ。」/と、元子はじめ家人の前で訴えるのであった。/元子はあまり二人の態度が真面目なので、くだんの中二階をくまなく捜索してみると、白紙に包んだ一丁の古剃刀が、天井の上に封じこめられたのを発見した。稀有なものとみてとった彼女は、中年の下女を隣家につかわして、年配の者にたずねさせると、彼らはひとしく驚異の面持ちで、/「そんなものが残っていましたかねえ……」/と首を傾けるのであった。
  
 ここで、「すわ、夫が無理やりこじ開けちゃった救世ちゃんの祟りだわ!」とならないところに、元子夫人の剛胆さがあるのだろう。おびえる画学生たちを尻目に、中二階の捜索をして天井裏に封印された剃刀を発見している。その封印を、いともたやすく解いてしまう元子夫人もまた、夫と同じように迷信を信じない文明開化の女子だったようだ。
筑土町.JPG
礫川牛込小日向絵図1852.jpg
筑土八幡社拝殿.JPG
 天井裏に封印されていた古剃刀は、ここに住んでいた旗本の愛妾が明治維新による世の中の急激な転変をはかなんで、自害した際に使ったものだということが判明した。この旗本屋敷に限らず、江戸東京の古い屋敷の天井裏には、多種多様なモノが封印されたり隠匿されている例が多い。たとえば、死者の毛髪や形見、位牌、刀剣、書簡類、書画骨董などだが、その家で死んだ人間にかかわる遺品は、死者の魂がいつまでも身近に宿ることを祈願したものか、あるいは一種の「魔除け」「護符」の意味がこめられているのか、個々の屋敷によってさまざまな理由や事情があったのだろう。
 つづけて、岡倉一雄『父 岡倉天心』より引用してみよう。
  
 くだんの剃刀は、維新のさい、先住の旗本の愛妾が、急激に変りはてた世を恨み、時代を呪って、自殺をとげたさい、使用した凶器であると、のみならず台所にある内井戸は、その妾が剃刀の一剔で死にきれず、身を投げたところだと、因縁が明らかになった。元子は気丈な女性であったものの、こういう因縁を聞いてみると、晏然そこに落着いているに耐えられなくなってきた。そして、京阪地方の宝物取調べの旅から戻ってきた天心にありようを告げると、彼は、/「そうか、そんな因縁づきの家だったか、では、さっそく他を捜すがよかろう。」/と、わけもなく移転に同意したので、急に船河原橋に近い、江戸川に畔する新小川町に仮越して、この筑土の凶宅とは縁を切ってしまった。
  
 日々の飲料水に使われる、台所の内井戸に身を投げて死んだと聞かされては、いくら胆が太い元子夫人でもさすがに気味が悪くなったのだろう。舩河原橋に近い新小川町は、筑土町の屋敷とはわずか300~400m前後の距離しか離れていないが、千代田城の外濠も近い静かなたたずまいで、桜並木の神田川(当時は江戸川Click!)沿いの街並みが、岡倉家の人々は気に入っていたのかもしれない。天心は散歩に出ると、よく江戸川の大曲(おおまがり)付近の釣り人たちを眺めてすごしていたという。
筑土町1887.jpg
新小川町.JPG
 徳川幕府が倒れると、山手Click!に屋敷や長屋のあった旗本や御家人たちの多くは無理やり追いだされ、空き屋敷だらけになってしまった時期がある。そこで語り継がれてきた、薩長政府に対する恨み怪談のひとつが、筑土町でも伝承されていたものだろう。

◆写真上:旧・筑土町の中核に位置する、筑土八幡社Click!の階段(きざはし)。左手には将門伝承が残る筑土明神社があったが、1954年(昭和29)に九段へ移転している。
◆写真中上:上は、岡倉天心()と元子夫人()。は、2013年(平成25)出版の岡倉一雄『父 岡倉天心』(岩波書店/)と法隆寺の救世観音()。
◆写真中下は、筑土八幡社の門前町にあった近代住宅だが道路建設ですでに解体された。は、1852年(嘉永5)に出版された尾張屋清七版の切絵図「礫川牛込小日向絵図」にみる筑土町界隈。は、長い階段を上ると正面にある筑土八幡社の拝殿。
◆写真下は、1887年(明治20)の1/5,000地形図にみる筑土町界隈。このどこかに、岡倉家の「凶宅」が描かれているはずだ。は、新小川町にみる古い建物の一画。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

Trending Articles