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日本画界には歴代、「四天王」と呼ばれる画家たちがいる。江戸の末期、木挽町狩野派の10代・勝川院雅信(まさのぶ)の弟子たちだった狩野芳崖(ほうがい)、橋本雅邦(がほう)、木村立嶽(りつがく)、狩野勝玉(しょうぎょく)は「狩野派最後の四天王」と呼ばれたし、橋本雅邦や狩野芳崖の弟子たちだった下村観山(かんざん:芳崖弟子)、横山大観(たいかん)、菱田春草(しゅんそう)、西郷孤月(こげつ)は「雅邦四天王」、あるいは「朦朧体四天王」などと呼ばれている。
そして、雅邦四天王とほぼ同時代を歩んだ狩野芳崖の弟子たち、岡不崩(ふほう)Click!、岡倉秋水(しゅうすい)Click!、本多天城(てんじょう)、高屋肖哲(しょうてつ)の4人は芳崖四天王と呼ばれた。その四天王のうち、岡不崩とともに本多天城もまた下落合にアトリエをかまえていたことが判明した。情報をお寄せくださったのは、岡不崩のご子孫にあたるMOTさんだ。以下、コメント欄から引用してみよう。
▼
父より本多天城宅について改めて聞きました。落合道人様ご指摘の通り一ノ坂の途中にあって,坂を上がった突き当りのひとつ前の十字路を右に曲がった場所にあったと申してました。岡不崩の遣いで出向くと褒美に1銭の駄賃がもらえて,それで大福6個が買えたらしいです。十字路の左側には駄菓子屋?があって駄賃を使ったとか。岡不崩アトリエの裏は空き地になっていて中井通りを回らずに一ノ坂に抜けることができたそうです。
▲
さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、蘭塔坂(二ノ坂)Click!沿いの下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)にある岡不崩(岡吉壽)アトリエ(やはり表札が達筆で読めなかったのか姓が「岡吉」と誤記されている)のすぐ北側、急な一ノ坂を上りきってしばらく歩くと、上の道(坂上通り)Click!に突きあたる2本手前の路地を、右に折れた角から2軒目に本多天城アトリエを見つけることができる。当時の住所でいうと、下落合4丁目1995番地だ。
この敷地は、まったく同じ住所である川口軌外アトリエClick!の3軒南隣りであり、下落合4丁目1986番地にあった阿部展也アトリエClick!の2軒北隣りという位置関係になる。また、本多天城アトリエの西隣りには、「熊倉」という苗字が採取されているが、これがMOTさんの書かれている「熊倉否雨」の住まいであり、同じく日本画家のアトリエだろうか? 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、残念ながら岡不崩とともに、本多天城や熊倉否雨の名前は記録されていない。
MOTさんのお父様、つまり岡不崩のご子息の証言によれば、岡不崩アトリエ裏の空き地を通ってそのまま一ノ坂に抜け、坂を上りきった上の道(坂上通り)へ出る手前の十字路を右へ曲がると、本多天城アトリエ(2軒目)があった……という道順は、「火保図」ともピタリと一致し、しかも1936年(昭和11)に撮影された空中写真では、1銭のお駄賃が楽しみな“おつかい散歩道”を完全に再現することができる。おそらく、大福を売っていた店は下落合4丁目1990番地、すなわち十字路の北西角に店開きしていたタバコ店(店名は不明)のことで、目白文化村Click!近くの商店がみなそうだったように、タバコといっしょに副業で菓子も販売している店舗だったのだろう。
岡不崩が、狩野芳崖のもとに入門したのは1884年(明治17)ごろといわれ、芳崖の弟子では最古参といわれている。本多天城は、翌1885年(明治18)に芳崖のもとへ30回以上も通って、ようやく入門を許されている。それは、芳崖が「己れの画風は飯が喰えぬから夫れでもよろしきや?」(高屋肖哲の回想)というように、弟子をとることにかなり消極的だったせいだろう。天城は最初、近澤勝美について洋画を学んでいたが、芳崖の作品に魅了されて転向したらしい。不崩と天城とは同年ごろ知り合ったとみられるが、弟弟子の天城は不崩の2歳年上だった。だが、狩野芳崖は1988年(明治21)に死去してしまうため、実際に彼らが師弟だった時間はわずか4~5年にすぎない。
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狩野芳崖の指導法は独特だったらしく、実際に日本画の技術面を教えていたのは狩野友信であり、芳崖はおもに画論や作品に対する批評を弟子たちに聞かせていた。当時、狩野芳崖は小石川植物園にあった図画取調掛(所)に勤務しており、弟子たちはそこへ当然のように出かけていっては絵を習っていた。当時の様子を、2017年(平成29)に求龍堂から出版された『狩野芳崖と四天王-近代日本画、もうひとつの水脈』所収の、椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』で引用されている岡不崩『鑑画会の活動』から孫引きしてみよう。
▼
芳崖・友信翁二翁が毎日出勤して画をかいている。我々も毎日弁当を持って出かける。然し余等ハ掛員でもなんでも無い。それならば何んで行くのかそこが面白いのだ。我々の頭脳にハ茲は役所であると云ふ考えが浮かばない。芳崖先生の画塾か鑑画会の事務所としか思へなかった。取調所の小使や植物園の人達は、余等を取調所の生徒だと思っていた。毎日出かけて行って鑑画会へ出品する画をかいている。古画の模写をやる、下画が出来ると芳崖先生の批評を受ける、(狩野)勝玉や(山名)貫義がやってくる、(狩野)探美や(木村)立嶽なども遊びにくる。どを(ママ)しても画塾である。(カッコ内引用者註)
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小石川植物園に置かれた図画取調掛(所)の実態は、狩野派の画家たちが集って新しい日本画を研究し模索した画塾だったのだろう。ときに写生旅行も行われ、芳崖が死去する前年、1887年(明治20)4月には芳崖とともに狩野友信、岡倉秋水、岡不崩、本多天城が連れだって妙義山に出かけている。
狩野芳崖は、臨本や粉本の類を嫌っていたようで、図画取調掛(所)の実情は画塾だったにしても、とても日本画の塾とは思えない自由な学びや表現が許されていたようだ。
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同書の椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』より、再び引用してみよう。
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(前略) 芳崖は放任主義であるが、決して弟子のことを顧みなかったわけではない。不崩によれば出来上がった画を芳崖に持っていくと、紙に塵が混じっていれば小刀で削り取って、色なり墨なりで繕ってくれたという。そんな芳崖に対して不崩は「其親切と熱心なのには敬服の次第である」と述べている。また芳崖が下画を直す際には「その図の心持ちを取って、それを完全ならしめるやうに」したという。自身の型を押し付けるのではなく、芳崖の教育方針はあくまで自主性を重んじたものであった。
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芳崖の死の翌年、1889年(明治22)に図画取調掛(所)や鑑画会を母体にした東京美術学校(初代校長:岡倉覚三=天心)が設立されると、芳崖四天王の4人は天心の勧めもあって同校の第1期生として入学している。だが、翌1890年(明治23)に天心の引き抜きで、岡不崩は東京高等師範学校の美術講師に、岡倉秋水は女子高等師範学校の美術講師に就任するために同校をわずか2年で中退している。本多天城は、高屋肖哲とともに卒業しているが、やはりのちに教職を経験している。
さて、本多天城が下落合へアトリエをかまえたのは、いつごろのことだろう? 岡不崩は大正末、すでに下落合へアトリエを建てて転居してきており、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には採取されているが、本多天城アトリエの敷地はいまだ草原のままだ。1930年(昭和5)の1/10,000地形図を参照しても、相変わらず空き地表現のままなので、天城アトリエの建設は1931年(昭和6)以降のように思える。同年、岡不崩と高屋肖哲は東京美術学校創立時のエピソードを語る座談会に出席しており、それを読んで懐かしくなった天城が、不崩のもとへ連絡を入れた可能性もありそうだ。
また、本多天城は岡不崩から日本画と西洋画を問わず、画家たちのアトリエが集中している下落合の様子を聞いていたのかもしれない。さらに、もう一歩踏みこんで推測すれば、大正末に計画されていた東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画も、岡不崩あるいは日本画がベースであるアビラ村の発起人のひとりである夏目利政Click!あたりから、事前にウワサ話として聞きおよんでいたのかもしれない。
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わたしの母方の祖父Click!は、売れない書家で日本画家だったが、苗字は代々「狩野」だった。おそらく明治維新とともに大江戸(おえど)とその周辺域から失職して四散した、江戸狩野派の末流だと思われるのだが、早くから横浜に住んでいる。きっと、明治以降に失業した数多くの幕府や諸藩の御用絵師たちと同様に、欧米へ輸出用の書画や器物用の絵柄を描きつづけていた、狩野一派のなれの果てではないかと想像している。
◆写真上:下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)にあった、本多天城のアトリエ跡。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる本多天城と岡不崩のアトリエ。中は、MOTさんのお父様がおつかいに出かけた「大福楽しみお遣いコース」。下は、本草学会を結成し多彩な植物の鉢が置かれていた岡不崩のアトリエ庭。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる岡不崩アトリエ。いまだ本多天城アトリエは建設されておらず、十字路も敷設されていない。中は、坂東武者の騎馬戦を描いたと思われる岡不崩『一騎討』(制作年不詳/部分) 時代は鎌倉期の想定だろうか、太刀と長巻による太刀打ちの刹那を描いている。下は、1921年(大正10)制作の植物や蝶の描写が精細かつ正確な岡不崩『群蝶図』(部分)。
◆写真下:上は、岡不崩(左)と本多天城(右)。中は、制作年不詳の本多天城『水草』(部分)。下は、やはり制作年不詳の本多天城『水墨山水』(部分)。画面の背景に描かれた樹木や草原、山々の描写には、明らかに雅邦四天王による朦朧体からの影響が色濃い。
★おまけ
MOTさんのお父様が、本多天城アトリエへお遣いに出かけ、途中で立ち寄っていた十字路角地の商店。1938年(昭和13)の「火保図」では「タバコ」店と記載されているが、おそらく菓子類も置いて売っていたのだろう。写真は、タバコ店のあった跡の現状。
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Clik here to view.![タバコ屋跡.JPG]()
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日本画界には歴代、「四天王」と呼ばれる画家たちがいる。江戸の末期、木挽町狩野派の10代・勝川院雅信(まさのぶ)の弟子たちだった狩野芳崖(ほうがい)、橋本雅邦(がほう)、木村立嶽(りつがく)、狩野勝玉(しょうぎょく)は「狩野派最後の四天王」と呼ばれたし、橋本雅邦や狩野芳崖の弟子たちだった下村観山(かんざん:芳崖弟子)、横山大観(たいかん)、菱田春草(しゅんそう)、西郷孤月(こげつ)は「雅邦四天王」、あるいは「朦朧体四天王」などと呼ばれている。
そして、雅邦四天王とほぼ同時代を歩んだ狩野芳崖の弟子たち、岡不崩(ふほう)Click!、岡倉秋水(しゅうすい)Click!、本多天城(てんじょう)、高屋肖哲(しょうてつ)の4人は芳崖四天王と呼ばれた。その四天王のうち、岡不崩とともに本多天城もまた下落合にアトリエをかまえていたことが判明した。情報をお寄せくださったのは、岡不崩のご子孫にあたるMOTさんだ。以下、コメント欄から引用してみよう。
▼
父より本多天城宅について改めて聞きました。落合道人様ご指摘の通り一ノ坂の途中にあって,坂を上がった突き当りのひとつ前の十字路を右に曲がった場所にあったと申してました。岡不崩の遣いで出向くと褒美に1銭の駄賃がもらえて,それで大福6個が買えたらしいです。十字路の左側には駄菓子屋?があって駄賃を使ったとか。岡不崩アトリエの裏は空き地になっていて中井通りを回らずに一ノ坂に抜けることができたそうです。
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さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、蘭塔坂(二ノ坂)Click!沿いの下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)にある岡不崩(岡吉壽)アトリエ(やはり表札が達筆で読めなかったのか姓が「岡吉」と誤記されている)のすぐ北側、急な一ノ坂を上りきってしばらく歩くと、上の道(坂上通り)Click!に突きあたる2本手前の路地を、右に折れた角から2軒目に本多天城アトリエを見つけることができる。当時の住所でいうと、下落合4丁目1995番地だ。
この敷地は、まったく同じ住所である川口軌外アトリエClick!の3軒南隣りであり、下落合4丁目1986番地にあった阿部展也アトリエClick!の2軒北隣りという位置関係になる。また、本多天城アトリエの西隣りには、「熊倉」という苗字が採取されているが、これがMOTさんの書かれている「熊倉否雨」の住まいであり、同じく日本画家のアトリエだろうか? 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、残念ながら岡不崩とともに、本多天城や熊倉否雨の名前は記録されていない。
MOTさんのお父様、つまり岡不崩のご子息の証言によれば、岡不崩アトリエ裏の空き地を通ってそのまま一ノ坂に抜け、坂を上りきった上の道(坂上通り)へ出る手前の十字路を右へ曲がると、本多天城アトリエ(2軒目)があった……という道順は、「火保図」ともピタリと一致し、しかも1936年(昭和11)に撮影された空中写真では、1銭のお駄賃が楽しみな“おつかい散歩道”を完全に再現することができる。おそらく、大福を売っていた店は下落合4丁目1990番地、すなわち十字路の北西角に店開きしていたタバコ店(店名は不明)のことで、目白文化村Click!近くの商店がみなそうだったように、タバコといっしょに副業で菓子も販売している店舗だったのだろう。
岡不崩が、狩野芳崖のもとに入門したのは1884年(明治17)ごろといわれ、芳崖の弟子では最古参といわれている。本多天城は、翌1885年(明治18)に芳崖のもとへ30回以上も通って、ようやく入門を許されている。それは、芳崖が「己れの画風は飯が喰えぬから夫れでもよろしきや?」(高屋肖哲の回想)というように、弟子をとることにかなり消極的だったせいだろう。天城は最初、近澤勝美について洋画を学んでいたが、芳崖の作品に魅了されて転向したらしい。不崩と天城とは同年ごろ知り合ったとみられるが、弟弟子の天城は不崩の2歳年上だった。だが、狩野芳崖は1988年(明治21)に死去してしまうため、実際に彼らが師弟だった時間はわずか4~5年にすぎない。
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芳崖・友信翁二翁が毎日出勤して画をかいている。我々も毎日弁当を持って出かける。然し余等ハ掛員でもなんでも無い。それならば何んで行くのかそこが面白いのだ。我々の頭脳にハ茲は役所であると云ふ考えが浮かばない。芳崖先生の画塾か鑑画会の事務所としか思へなかった。取調所の小使や植物園の人達は、余等を取調所の生徒だと思っていた。毎日出かけて行って鑑画会へ出品する画をかいている。古画の模写をやる、下画が出来ると芳崖先生の批評を受ける、(狩野)勝玉や(山名)貫義がやってくる、(狩野)探美や(木村)立嶽なども遊びにくる。どを(ママ)しても画塾である。(カッコ内引用者註)
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小石川植物園に置かれた図画取調掛(所)の実態は、狩野派の画家たちが集って新しい日本画を研究し模索した画塾だったのだろう。ときに写生旅行も行われ、芳崖が死去する前年、1887年(明治20)4月には芳崖とともに狩野友信、岡倉秋水、岡不崩、本多天城が連れだって妙義山に出かけている。
狩野芳崖は、臨本や粉本の類を嫌っていたようで、図画取調掛(所)の実情は画塾だったにしても、とても日本画の塾とは思えない自由な学びや表現が許されていたようだ。
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同書の椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』より、再び引用してみよう。
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(前略) 芳崖は放任主義であるが、決して弟子のことを顧みなかったわけではない。不崩によれば出来上がった画を芳崖に持っていくと、紙に塵が混じっていれば小刀で削り取って、色なり墨なりで繕ってくれたという。そんな芳崖に対して不崩は「其親切と熱心なのには敬服の次第である」と述べている。また芳崖が下画を直す際には「その図の心持ちを取って、それを完全ならしめるやうに」したという。自身の型を押し付けるのではなく、芳崖の教育方針はあくまで自主性を重んじたものであった。
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芳崖の死の翌年、1889年(明治22)に図画取調掛(所)や鑑画会を母体にした東京美術学校(初代校長:岡倉覚三=天心)が設立されると、芳崖四天王の4人は天心の勧めもあって同校の第1期生として入学している。だが、翌1890年(明治23)に天心の引き抜きで、岡不崩は東京高等師範学校の美術講師に、岡倉秋水は女子高等師範学校の美術講師に就任するために同校をわずか2年で中退している。本多天城は、高屋肖哲とともに卒業しているが、やはりのちに教職を経験している。
さて、本多天城が下落合へアトリエをかまえたのは、いつごろのことだろう? 岡不崩は大正末、すでに下落合へアトリエを建てて転居してきており、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には採取されているが、本多天城アトリエの敷地はいまだ草原のままだ。1930年(昭和5)の1/10,000地形図を参照しても、相変わらず空き地表現のままなので、天城アトリエの建設は1931年(昭和6)以降のように思える。同年、岡不崩と高屋肖哲は東京美術学校創立時のエピソードを語る座談会に出席しており、それを読んで懐かしくなった天城が、不崩のもとへ連絡を入れた可能性もありそうだ。
また、本多天城は岡不崩から日本画と西洋画を問わず、画家たちのアトリエが集中している下落合の様子を聞いていたのかもしれない。さらに、もう一歩踏みこんで推測すれば、大正末に計画されていた東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画も、岡不崩あるいは日本画がベースであるアビラ村の発起人のひとりである夏目利政Click!あたりから、事前にウワサ話として聞きおよんでいたのかもしれない。
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わたしの母方の祖父Click!は、売れない書家で日本画家だったが、苗字は代々「狩野」だった。おそらく明治維新とともに大江戸(おえど)とその周辺域から失職して四散した、江戸狩野派の末流だと思われるのだが、早くから横浜に住んでいる。きっと、明治以降に失業した数多くの幕府や諸藩の御用絵師たちと同様に、欧米へ輸出用の書画や器物用の絵柄を描きつづけていた、狩野一派のなれの果てではないかと想像している。
◆写真上:下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)にあった、本多天城のアトリエ跡。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる本多天城と岡不崩のアトリエ。中は、MOTさんのお父様がおつかいに出かけた「大福楽しみお遣いコース」。下は、本草学会を結成し多彩な植物の鉢が置かれていた岡不崩のアトリエ庭。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる岡不崩アトリエ。いまだ本多天城アトリエは建設されておらず、十字路も敷設されていない。中は、坂東武者の騎馬戦を描いたと思われる岡不崩『一騎討』(制作年不詳/部分) 時代は鎌倉期の想定だろうか、太刀と長巻による太刀打ちの刹那を描いている。下は、1921年(大正10)制作の植物や蝶の描写が精細かつ正確な岡不崩『群蝶図』(部分)。
◆写真下:上は、岡不崩(左)と本多天城(右)。中は、制作年不詳の本多天城『水草』(部分)。下は、やはり制作年不詳の本多天城『水墨山水』(部分)。画面の背景に描かれた樹木や草原、山々の描写には、明らかに雅邦四天王による朦朧体からの影響が色濃い。
★おまけ
MOTさんのお父様が、本多天城アトリエへお遣いに出かけ、途中で立ち寄っていた十字路角地の商店。1938年(昭和13)の「火保図」では「タバコ」店と記載されているが、おそらく菓子類も置いて売っていたのだろう。写真は、タバコ店のあった跡の現状。
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