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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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「肥ったうえにも肥えて」ドッシリの壺井栄。

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上落合郵便局周辺.JPG
 短期間で転居を繰り返す、昭和初期の小坂多喜子Click!上野壮夫Click!の生活はめまぐるしい。小坂多喜子は、寄宿させてもらっていた上落合469番地の神近市子邸Click!を出ると、ほんの2ヶ月ほど神近邸の近くに借りた自分の下宿に住み、上野と結婚してからは妙正寺川の北側にあたる葛ヶ谷御霊下(のち下落合5丁目)の836番地ないしは857番地で暮らし、ほどなく上落合郵便局のある大きなケヤキClick!が目印の、上落合665~667番地界隈に引っ越している。
 ふたりが左翼運動をしていたから転居が頻繁だった……というよりも、当時の作家や画家たちがしょっちゅう居どころを変えるのは、別にめずらしいことではなかった。それは、“気分転換”と語られることが多いが、より安い家賃の家に移ったり、周囲の環境(騒音や商店街の遠さ)が気に入らないため、生涯借家の暮らしがあたりまえの当時としては、引っ越しが気軽に考えられていたからだ。
 だが、小坂・上野夫妻が上落合郵便局近くの家から1931年(昭和6)3月に転居した、池袋駅も近い豊島師範学校Click!裏の長屋は、明らかに地下へ潜った共産党のアジトのひとつだった。ここで、上野壮夫は地下活動を支援していて逮捕され、小坂多喜子は夫が拘留中に長男を出産することになった。夫婦で子どもを育てるのが無理なので、この長男はのちに岡山の親もとにあずけられている。
 このアジトは、豊島師範学校裏に拡がる広い草原の向こう側にあり、多喜子の次女である堀江朋子『風の詩人-父上野壮夫とその時代-』(朝日書林/1997年)によれば、安普請の「家並の前の細い道の一番奥の道を左に折れた所に四軒長屋があった」と書かれている。1936年(昭和11)の空中写真で、その表現を参照しながら道をたどると、はたして立教大学のすぐ手前に、4軒とも同じ規格の長屋を見つけることができる。「そのとっつきの家が二人の住いであった」(同書)の場所は、西巣鴨町(大字)池袋(字)中原1262~1263番地(現・西池袋3丁目)あたりに建っていた長屋だろう。
 さて、この池袋のアジトから阿佐ヶ谷へ転居し、小林多喜二の虐殺事件Click!のあと再び夫妻は上落合(2丁目)829番地の“なめくじ横丁”Click!にもどってくるのだが、夫が検挙されて不在中に池袋のアジトで長男を出産し、乳飲み子を抱えて途方に暮れていた小坂多喜子は、阿佐ヶ谷へ転居する直前、上落合503番地の壺井栄Click!のもとへ相談に訪れている。そのときの様子を、1986年(昭和61)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 私の記憶にある壺井栄さんの最初の家は、上落合のたしか鹿地亘氏の近くにあった家である。当時の上落合はプロレタリア作家の巣で、村山知義氏や中野重治氏、神近市子氏などそれぞれ近くに住んでいた。/あまり手入れのしていない高い樹木が道路のある南側を取りかこんでいる、薄暗いような家の客間兼居間とおぼしき部屋に、私は最初の男の子を抱いて放心したように座っていた。その家は、そのころ、そのへんによく見かけたありふれた間取りの平家で、南側の真中に玄関があり、その両側に部屋があった。/私はその時打ちのめされて、虚脱したように放心していて、その八畳間の縁近くに座っていた時の、絶望的な気持だけがいまだに強く残っている。夫は当時非合法運動をしていて、私は最初の子供を、夫が四谷署に一ヵ月あまり検挙されていた留守中のアジトで、三日三晩苦しんだあげく産み、産後の肥立ちも悪く、経済的な生活の見通しもないような時だった。私はそういう状態のなかで壺井さんの家に、行き場のない気持で、ふらふらっと訪ねたのだ。
  
四軒長屋1936.jpg
鹿地亘460.JPG
中野重治・原泉481.JPG
 登場している鹿地亘Click!の家は上落合460番地、つまり全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部が置かれていた家だ。彼は、のちに下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)に住み、GHQによる「鹿地事件」のあとは上落合1丁目36番地に転居している。
 周辺には、文章に書かれている上落合503番地の壺井栄Click!壺井繁治Click!の家をはじめ、上落合186番地の村山知義Click!村山籌子Click!のアトリエ、上落合481番地に家があった中野重治Click!原泉Click!、上落合469番地または少しあとに476番地の神近市子Click!などが住んでいた。今回の記事とはまったく関係ないが、ちょうど同時期に上落合242番地から同427番地には「国民文学」の歌人・半田良平が住んでおり、半田は1945年(昭和20)に上落合427番地の家で没している。
 上落合503番地の壺井栄は、当時は4~5歳だった養子の真澄を育てるのに夢中で、訪ねてきた小坂多喜子にはおもに子育てのアドバイスをしていたようだ。壺井夫妻が上落合549番地に転居してからも、小坂多喜子は頼りになりそうなドッシリとかまえる壺井栄を訪ねている。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 二度目に訪れた家は、上落合の郵便局の裏の、高いけやきの木のある細い坂道を上ったところの路地の二階家だった。これはまた倒れそうな、スリラー小説にでも出てきそうな二階家で、この家に住んでおられた時の栄さんは生涯のうちでも、いちばん苦労をなさった時期かもしれない。繁治さんは、検挙されて留守がちのようだったし、台風のとき、古い畳をつっかい棒に一晩中ささえていたという話をきかされたのも、この家だった。毛糸のあみ物に熱心で、手先の器用な栄さんは、こまかい模様あみなどもみるみるうちにあまれて、それがまた、あみ目が揃っていて、きれいで美しく、専門家はだしだった。それが当時の生活の支えにもなっていたようだった。そのころ、落合の小学校の校庭が見おろせるところに一人で住居をかまえていた中条百合子さん(中略)の家でも、栄さんに時々会った。中条さんのグリーンの大きなカーディガンを熱心にあんで居られた。
  
 壺井栄が上落合549番地に住んでいた時期で、壺井繁治が豊多摩刑務所Click!に収監中のころに訪ねたものだろう。書かれている中條百合子は、すでに結婚して宮本百合子Click!になっていたが、夫が獄中にいたため上落合740番地の借家で女中とともに暮らしていた。小坂多喜子は「落合の小学校」としているが、宮本百合子がチーチーパッパがうるさくて執筆できないと癇癪を起こしノイローゼ気味になった、中井駅前の落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校)のことだ。
 当時もいまも、女縁Click!(女性のネットワーク)はすごい。小坂多喜子は、落合地域とその周辺域に住む多くの女性作家とは顔見知りで交流があり、彼女たちは頻繁に訪ね合っては、詳細な近況や暮らしの情報を交わしている。次のエピソードも、そのような環境で小坂多喜子が垣間見た壺井栄の姿だ。引きつづき、同書より引用してみよう。
上落合斜めフカン1941.jpg
壺井栄戸塚4丁目592番地洋装店.jpg
壺井栄・壺井繁治503.JPG
  
 「大根の葉」を発表された当時、私には二人目の娘が産れて、そのお産の手伝いに田舎からきていた女の子を佐多さんの家の女中さんに世話してはくれまいかと言って、佐多さんと連れ立って上落合の私の家に訪ねてこられた時の栄さんは和服姿だった。若い頃の栄さんは、後年の渋い和服姿から想像できないほどだいたんな、モダンな感覚の洋服を着ておられた。当時私たちは東中野駅まえの線路沿いの、前に柵の見える洋装店で洋服を注文していたが(たしかサカエ洋裁店といい、バレリーナの谷桃子の両親があるじだった)、ある時、その店で真黒の、当時流行したメルトンという生地のオーヴァーを栄さんが作られた。真黒の表地に真赤な裏地をつけたオーヴァーで、当時としては非常にだいたんな取合せで、私はそのオーヴァーを着た栄さんが、真赤な裏地をけ立てるようにして差入れに行かれていた姿を今もはっきりとおぼえている。
  
 さすが、オシャレには眼がきく小坂多喜子の文章だが、若いころの壺井栄もファッションにはうるさかったようで、彼女たちは馴染みの洋裁店を東中野駅の近くにもっていた様子がわかる。ちなみに、中央線沿いのサカエ洋裁店だけれど、各時代の「大日本職業別明細図」Click!を参照してみたが見あたらなかった。「佐多さん」とは、もちろん下落合の南に接した戸塚町上戸塚593番地、のち淀橋区戸塚4丁目593番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子)Click!のことだ。
 ある日、小坂多喜子は壺井繁治から「(妻が)便所の掃除をしない」とグチをこぼされた。それは「一種嘆息のような調子で、思いあまって、困惑されて、吐き出されたような言葉」(同書)だったが、主婦の仕事をこなしながら作家活動をするなど、そんな「なまやさしい気持では何事もなし得ない」と壺井栄を擁護している。今日なら、人妻にグチッてるヒマがあったら「自分で掃除すればいいだけの話じゃん」で終わりだが、「新しい女」をめざした小坂多喜子でさえ、便所掃除は主婦の仕事という前提で、「便所の掃除を投げうった栄さんの勇気」が立派だと書いている。
壺井栄.jpg 小坂多喜子1935頃.jpg
壺井栄・壺井繁治549.JPG
壺井栄(晩年).jpg
 小坂多喜子は、「当時も肥っておられたが」と書きだしているが、壺井栄がドッシリと大仏さんのようになっていく様子を、上落合から東中野、そして鷺宮まで見つづけていた。戦後の晩年に、壺井栄はぜんそくによく効くドイツの新薬を試していたようで、その副作用からか「肥ったうえにも肥えて」と表現している。彼女は、あのドッシリとした体躯で「あなた、大丈夫よ。心配するだけ損よ」と、不安な気持ちを落ち着かせてもらいたくて、心を癒やしてもらいたくて、壺井栄を訪ねつづけていたのかもしれない。

◆写真上:小坂多喜子・上野壮夫が新婚家庭を営んだ、上落合郵便局周辺の街並み。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる池袋中原1262~1263番地の四軒長屋。は、鹿地亘が住んでいた上落合460番地の全日本無産者芸術連盟(ナップ)跡。は、中野重治・原泉夫妻が暮らした上落合481番地の邸跡。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された上落合東部の写真へ、文中に登場するプロレタリア作家・画家たちの住居をポインティングしたもの。は、1941年(昭和16)春に早稲田通りの戸塚4丁目592番地の洋品店前を藤川栄子Click!と散歩する壺井栄。は、上落合503番地にあった壺井栄・壺井繁治の旧居跡。
◆写真下は、ネコにも頼られそうな壺井栄()と小坂多喜子()。は、上落合549番地にあった壺井夫妻の旧居跡。(路地奥左手) 壺井繁治が「便所掃除をしない」と、小坂多喜子にこぼしたのはこの家だ。は、ドッシリとした壺井栄のプロフィール。

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