1935年(昭和10)の「文藝通信」3月号に、矢田津世子Click!の『女流作家の文壇人印象記』が掲載されている。この時期、彼女は改正道路(山手通り)の工事Click!で坂道がほぼ全的に消滅した緑深い矢田坂Click!沿いの、下落合4丁目1986番地(現・中井2丁目)に住んでいた。このあと、山手通り(環六)の工事に敷地が引っかかってしまい、すぐ南西隣りの下落合4丁目1982番地(一ノ坂Click!沿い)へ自邸を移転している。
『女流作家の文壇人印象記』で取りあげられている小説家13人のうち、5人までが落合地域またはその周辺域に住んでいた人物たちだ。まず、数年前まで上落合460番地に住んでいた武田麟太郎Click!が登場している。上落合1丁目460番地は、脚本家の久板栄二郎や小説家の江口渙も住み、一時期は全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部が置かれていた場所なので、上落合の文士たちの間ではよく知られた住宅だったのだろう。
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初めてお目にかかりましてからかなりになりますのに武田氏はちつともおかはりにならない。その時も頭髪が乱れてゐましたが今も乱れてゐます。お歯もやはり欠けたままですし、莨の脂で黄色く染まつた指さきも同じです。そのおかはりにならない中に、たつたひとつ、武田氏の眉間に刻まれた一本の縦皺ですが、これが深くなり、お顔の威厳といふやうなものが強まつた感じがいたします。
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「眉間に刻まれた一本の縦皺」が、特高Click!による逮捕や発禁処分、いやがらせなどの弾圧によるものであることを、矢田津世子は知悉していた。彼女自身も共産党へカンパしたという容疑で、1933年(昭和8)7月に戸塚警察署Click!の特高に逮捕されたばかりだ。「おすこやかなれ、と只管念ずるのみです」と文章を結んでいるが、矢田自身も特高による逮捕で身体をこわして以降、1944年(昭和19)に死去するまで本来の健康を取りもどすことができなかった。
つづいて、下落合4丁目2108番地の吉屋信子Click!が登場している。吉屋信子も、グレーのスーツを着て颯爽と遊びにきた、矢田津世子の姿を鮮烈に記録している。
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「花物語」時代からの吉屋さんの愛読者である私にはいまだに「先生」の感じがとれないのですが、お会ひすれば不思議に「先生」がいつのまにか「お友だち」になつてしまひます。婦人のかたの中でも吉屋さん程の頭のいいかたも稀れではないかと思ひます。殊に、そのテーブルスピーチの機智は吉屋さんならでは、と思はれる頭のよさ、只々尊敬申上げて居ります。
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矢田津世子から見れば、吉屋信子は自身の性格にはないものを、すべて備えた同性のように見えたのではないだろうか。機転がきいておしゃべりな吉屋信子Click!が陽性だとすれば、秋田出身で口数が少なく、ひかえめで朴訥とした性格の矢田津世子は陰性だろうか。だからこそ、このふたりは妙に気が合ったのかもしれない。
つづいて、当時は上落合2丁目740番地(現・上落合3丁目)に住んでいた、結婚したばかりの宮本百合子Click!(中條百合子Click!)について書いている。矢田津世子の『女流作家の文壇人印象記』(1935年3月)が発表された2ヶ月後、宮本百合子は淀橋警察署の特高に逮捕され、翌1936年(昭和11)3月まで拘留されることになる。
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たしか四年前のことだつたと思ひますが、その頃中條さんは目白にお住ひになつてゐられました。ジヤケツにスカアトの無造作な服装で、中條さんは女中さんの持つてこられた紅茶に御自分でレモンを切つて入れて下すつたのを憶えてゐます。その白い肉づきのよいお手の動きが実に綺麗であつた。中條さんは細いお声で話された。優しく頬笑まれ、その頬笑みの中からじつとこちらを御覧になるのですが、お眼の光りには或るひたむきなものがあつた。純心、誠実。一本気――の溶けあつたひたむきなもの。
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中條百合子が4年前に住んでいたのは、武蔵野鉄道Click!の上屋敷駅Click!と山手線の目白駅Click!の中間あたり、高田町雑司ヶ谷旭出3570番地(1932年より豊島区目白町3丁目3570番地)の家だった。彼女は上落合で逮捕されたあと、翌年に釈放されてから再び目白町の同じ家Click!を借りてもどっている。
下北沢から下落合の矢田家へ、しょっちゅう遊びにきていた大谷藤子についても書いている。矢田津世子が自宅で特高に逮捕されたときも、大谷藤子がいっしょだった。矢田は、大谷藤子と中條百合子はよく似ていると書いている。
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誠実の点でもこのひとは確かです。頭のよさの点でもこのひとは確かです。愛情の点でも、努力の点でも大谷さんは確かなひとです。永くおつきあひしてゐる私にはそれがよく分ります。涙ぐましく分ります。このひとには女性らしい神経のこせこせしたところがなく、その点が中條さんと一致し、女性には稀な大きな人物だと存じあげます。/ただ、このひとのてれた時に舌を出すくせは、どうにかしてやめさせる方法はないでせうかしら。
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大谷藤子と矢田津世子は、第三文化村Click!の目白会館Click!時代からの親しくて長いつきあいなので、気のおけない文章で締めくくっている。
さて、当時は五ノ坂の中腹にあたる下落合4丁目2133番地(現・中井2丁目)の自称“お化け屋敷”西洋館Click!に住んでいた、林芙美子Click!についても矢田津世子は書きとめている。共通の知り合いの通夜へ、喪服で出席するという連絡を文学仲間で取りあったあと、矢田津世子にだけは「普段着でいく」と連絡して通夜の会場で赤っ恥をかかせたり、「読んでみて感想を」と矢田が預けた短編小説を押し入れに隠して“行方不明”にしたり、矢田津世子のもとを取材しに訪れた新聞や雑誌の記者に、あとからさんざん嫌がらせをしたりと、ほとんど小中学生レベルのイジメのようなことを繰り返していた林芙美子は、矢田に対するコンプレックスの“お化け”のように見える。
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日向ぼつこをしながら心おきなく語りあへるかた。林さんにはお優しいお母様がいらつしやる。御親切な御主人がいらつしやる。林さんがお留守の時でも私はお母様や御主人とたのしくお話が出来ますし、また、私が留守の場合には林さんが私の老母とさしむかひで「一杯やる」間柄の親しさがずつと続いて居ります。
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矢田のほうが一枚上手の「大人」を感じさせる文章だが、それでも林には含むところがあったのか、手塚緑敏Click!をはじめ周囲の人々の話題を中心にすえている。
矢田津世子は下落合に自邸があったため、林芙美子はミグレニンの中毒で鳥取に帰省した尾崎翠Click!のように、「狂死した」とマスコミにふれまわって「殺す」ことはできなかったが、林芙美子が矢田津世子の醜聞をデッチあげて新聞社や出版社に流していたのは、“ウラ取り”をしていた当時の記者仲間でさえ有名だった。戦後、両人が死去したあとの文芸記者による座談会などでは、よくこのイジメClick!が話題になっている。
このほか、淀橋区矢来46番地の中村武羅夫をはじめ、当時の交流があった菊池寛Click!や中村正常、千葉亀雄、佐々木茂索、川端康成Click!、岡田禎子などについても書いているが、落合地域に住んでいた作家たちのみで紙数が尽きたので、これぐらいに……。
◆写真上:1935年(昭和10)ごろ、下落合4丁目1986番地の自邸書斎の矢田津世子。
◆写真中上:上は、改正道路(山手通り)でほとんどが消滅した矢田坂を上る矢田津世子。下は、一ノ坂に面した下落合4丁目1982番地の矢田邸跡。
◆写真中下:上は、上落合1丁目460番地に住んだ武田麟太郎(左)と、下落合4丁目2108番地にいた吉屋信子(右)。下は、上落合2丁目740番地にいた宮本百合子(左)と、落合地域の南東側である牛込区矢来町46番地に住んだ中村武羅夫(右)。
◆写真下:上は、矢田津世子とは頻繁に往来した大谷藤子(右)。下は、改正道路(山手通り)の深い掘削で崖上になってしまった一ノ坂沿いの矢田邸跡。