落合地域に住んでいた作家の中で、同じ町内にもかかわらず仲が悪かった人たちは少なくない。たとえば、表面上はともかく矢田津世子Click!は、繰り返される林芙美子Click!の子どもじみた稚拙なイヤガラセに辟易していたし、吉屋信子Click!は押し売り同然で買わされたシェパードClick!の仔犬を抱きながら、アルバイトでブリーダーをしていた村山籌子Click!を毛嫌いしていたふしが見られる。また、吉屋信子は足尾鉱毒事件Click!で父親を苦しめつづけた、古河鉱業のブレーン・舟橋了助Click!の息子である舟橋聖一Click!には、やはり多少のわだかまりをもっていたようだ。
だが、憎悪をむき出しにして常に激しく対立した作家は、尾崎一雄Click!と片岡鉄兵Click!のふたり以外にはあまり思い浮かばない。ふたりの対立は、芸術派とプロレタリア派の文学表現をめぐる路線のちがいにとどまらず、もはや感情的で「こいつ、とにかく虫が好かねえんだよな!」のレベルにまでなってしまったようだ。おそらく、双方の言動ばかりでなく、性格からして反りが合わない人間同士だったのだろう。
尾崎一雄は、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の“なめくじ横丁”Click!に、次に下落合5丁目2069番地(現・中井1丁目)の“もぐら横丁”Click!に住んでいたとき、プロレタリア作家たちとも交流があったので同派の作家たちを毛嫌いしていたわけではなく、片岡鉄兵がとにかく大キライだったのだ。この尾崎一雄の感覚は、わたしもなんとなくわかるような気がする。片岡が書く作品には、どこか“上から目線”の独特なキザったらしい嫌味さと、ことさら都会人を気どる野暮ったい臭みのようなものを感じる。作品ばかりでなく、その性格は現実の生活や言動にも表れていたのではないだろうか。
このふたりが対照的で面白いのは、早稲田大学を卒業した尾崎一雄が貧乏のどん底にあえぎながら、上落合や下落合の長屋を転々として芸術派の作品を執筆していたのに対し、片岡鉄兵は慶應大学に進みながら中退して結婚し、下落合4丁目1712番地の目白文化村Click!は第二文化村に建っていた、大きな西洋館の片岡元彌邸Click!に住みながら、プロレタリア文学作品を次々と生みだしていたことだ。誰もが「ふつう逆じゃね?」……と思いそうだが、本人たちも表現位置や実生活が“正反対”だと認識していて、よけいにいまいましく感じていたのかもしれない。
小坂多喜子Click!は、神戸のパルモア英学院を一時的に休学していた1927年(昭和2)、汽船会社でタイピストのアルバイトをしていたが、そのとき故郷が同じ地域の片岡鉄兵と知り合っている。当時の様子を、1986年(昭和61)に出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』(三信図書)から引用してみよう。
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ややしわがれた、なでるような低いやさしい声音、葉巻をこげつくような錯覚を起させる手付で人差指と中指の間に挟み、口にひたと密着させて、細い首をかしげ、眼を細めておいしそうに吸った。だがそういう動作につきまとう何処となく優雅な洗練されたものごしが田舎者の私を魅きつけた。それは私の見知らぬ都会の文化人の匂いだった。/私と片岡鉄兵のかかわりあいは作家と文学少女のありふれた関係といえばいえるが、何よりも郷里が同じだということに強い紐帯感を覚えたことだった。/(中略) 元町の、やや三宮よりの山ノ手に入った小路にあるフランス料理店に私は連れてゆかれた。それは彼が新聞記者時代からのなじみの店らしく、舌びらめのムニエルなどの私が初めて口にするフルコースを、彼は気ぜわしく私の目の前で平げた。私はといえば妙に気おくれがして食欲がなかった。/(中略) 「東京はね、それは非常に多面的なくらしかたのできるところでね、きらくなことこのうえなしですよ、三十円もあれば十分一ヵ月くらせますよ」といった。暗に私に上京をうながしているようにもとれる言葉だった。
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なるほど、片岡鉄兵はこうやって若い女の子を誘っていたのだな……というのが透けて見えるアプローチだが、まさかその少女にあとで暴露されることになるとは思ってもみなかったろう。そして、小坂多喜子Click!は神近市子Click!を頼って家出し上落合で生活をスタートさせるが、目白文化村の片岡鉄兵のもとへ借金しに出かけ、わずか3円ほどしか貸してくれないのに嫌な顔をされている。
“なめくじ横丁”で隣り同士になり、小坂多喜子が私淑するほど親しくなった尾崎一雄だが、彼女は片岡鉄兵についても悪感情をまったく抱いてはいない。それは、小坂多喜子の文章の端々に感じるし、岡山県鏡野町に片岡鉄兵の文学碑が建立されたとき、ことさら喜んで出かけているのをみても明らかだ。だからこそ、小坂多喜子はふたりをクールに観察できたのではないかと思う。
先にケンカを売ったのは、片岡鉄兵のほうだった。1928年(昭和3)2月ごろ、尾崎一雄が書いた短編に対し、「これはチエホフと志賀直哉の合ノ子で、まづくはない。しかしかういふブル文学をうまく書いたとて先は知れてゐる」という主旨の批判を雑誌でした。これに対して、尾崎がにわか「左傾」の作家にいわれたくない、大きなお世話だと反論したところ、片岡は『二人の馬鹿者』と尾崎を「バカ」呼ばわりした。現代から見ると、他愛ない子どものケンカのように見えるが、当時は芸術派とプロレタリア派との関係は、街で出あえば殴り合いになりそうなほど険悪だった。
片岡鉄兵は、さらにつづけて尾崎を挑発している。同書によれば、「自分は真理によつて左傾したのである、尾崎なんぞはもつと本を読んで勉強せよ、このことを同志橋本英吉に話したら、そんな奴は殴つてしまへ、と彼は言つた」と、まるで橋本英吉が岸田劉生Click!のようなことを口走ったことになってしまい、尾崎一雄はもともと片岡が新感覚派の作家だったことを踏まえ、「新感覚派で銀座をチヤラチヤラやつてゐるより、人民大衆のために働く方が余程いいに決つてゐる。それならそれで立派にやり通しなさい」と、皮肉たっぷりに応酬した。
1934年(昭和9)10月ごろ、尾崎一雄と片岡鉄兵は下落合4丁目1909番地(現・中落合1丁目)の中井駅近くにあった辻山義光Click!の医院で、期せずして顔をあわせることになる。尾崎は、広津和郎の腰巾着→新感覚派の流行作家→プロレタリア文学作家→流行風俗作家と変わり身の速い片岡を軽蔑していたせいか、ほとんど相手にしなかったようだ。小坂多喜子は、辻山医院を何度か訪問しているが、当時の様子を同書より引用してみよう。なお、文中の「春子さん」は劇作家の辻山春子Click!であり、寺斉橋際の喫茶店「ワゴン」のママは萩原稲子Click!のことで、このサイトではお馴染みの顔ぶれだ。
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辻山医院は西武線中井駅の側にあって、当時近辺にたむろしていた文士たちの殆どが辻山医院の患者として、またそのサロンの客人として出入していた。夫人の春子さんは劇作家だった。その裏に当時詩人の萩原朔太郎と別れたばかりの、グラマーでモダンな夫人が、そのピチピチした肉体を黒っぽい服に、はち切れんばかりにまとって、あまりハンサムでもない、くたびれたような若い男と二人でやっていた「ワゴン」という喫茶店があった。文字通り、天幕ばりの、四、五人はいるといっぱいになる小さな喫茶店だった。/檀一雄や林芙美子などが出入していた。そこへゆけば文壇の誰かと顔が合うという工合(ママ)だった。私たちもときどきそこへ顔を出した。
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片岡鉄兵は、暴言をあびせた尾崎一雄に対し、ずっとうしろめたい気持ちがつづいていたのだろう。長男が生まれる直前で、出産費用さえ工面できず困窮にあえいでいた尾崎のもとへ、ある日、片岡がふいに訪ねてきて、自分は多忙なので大阪朝日新聞社の原稿を申しわけないが引き受けてくれないかと、エッセイの仕事をまわしてくれた。辻山医院で尾崎一家の窮乏ぶりを知ったのだろう、それがかなりの額の原稿料をもらえる仕事で、尾崎は無事に松枝夫人の出産準備を整えることができた。
小坂多喜子は、神戸にいた文学少女時代の想い出と重ねあわせて、「片岡鉄兵にはそういう親切なところもあったのである」と書いているが、彼の誠実で素直な性格を好もしく思っていたひとりに、同じプロレタリア作家だった中野重治Click!がいる。1968年(昭和43)に朝日新聞社から出版された、中野重治『折り折りの人』から引用してみよう。
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片岡には作品にもいくらか軽いところがあり、生活全体にもそれがあったかも知れない。ただ私の直接した限りでは、彼は気軽で、親切で、すなおだった。彼を「風のなかの羽根」あつかいにした人は少なくなかったが、その人たちが風のなかの重石のようだったか私は疑っている。
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わたしも彼の作品を読むかぎり、「チヤラチヤラやつてゐる」(尾崎)キザっぽさや嫌味、ことさら「東京人」を気どる野暮ったさを感じるのだが、おそらく直接会ったりすると親切で“いい人”なのに驚くたぐいの人物だったのではないかと想像している。
◆写真上:“もぐら横丁”のあった、西側の線路から眺める中井駅のプラットホーム。
◆写真中上:上は、上落合2丁目829番地の“なめくじ横丁”跡。中は、下落合5丁目2069番地の“もぐら横丁”跡。下は、1952年(昭和27)出版の尾崎一雄『もぐら横丁』(池田書店/左)と、1929年(昭和4)出版の片岡鉄兵『片岡鐡兵集』(平凡社/右)。
◆写真中下:上は、尾崎一雄(左)と片岡鉄兵(右)。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる片岡鉄兵邸。下は、同年の尾崎一雄邸と中井駅の位置関係。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる喫茶店ワゴンと辻山医院。中は、萩原稲子(左)と辻山春子(右)。下は、下落合4丁目1909番地の辻山医院跡(奥のビル)。