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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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手布と弥勒と僧都(酒と女と坊主)。

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国芳「御ぞんじ山くじらかばやき」1831.jpg
 うなぎの蒲焼きが記録されたのは、武州狭山で江戸の最初期に書かれた『料理物語』が初出だとされている。でも、どのような料理法がうなぎの蒲焼きとされていたかは、いまひとつハッキリしない。あと追いの付会で多種多様な説があるけれど、同書には挿画がなかったため、まさにこれだと規定できる事実としての証拠が存在しないのだ。ただし、「江戸前」Click!のうなぎは古く室町期の城下町から有名だったとみられ、今日の蒲焼きと同一の姿をしていた可能性が高い。
 蒲焼きが、現在のものとまったく変わらない姿として確認できるのは、1600年代末の元禄年間に出版された好色本『好色産毛』だとされる。江戸の街中で、うなぎの蒲焼きを商っていた店としては、元禄年間に創業された「大和屋」がいちばん古いことになっている。大和屋は下谷の佛店(ほとけだな)、すなわち現在の東上野(JR上野駅付近)にあった街だ。ただし、うなぎの本場は日本橋から深川にかけてなので、記録された見世は大和屋がもっとも早いとみられるが、それよりも古い蒲焼き屋はすでにどちらかの地域で店開きしていたのかもしれない。
 この下谷佛店の近くには、1700年代の半ばごろから岡場所(私娼窟)が形成されていた。つまり、川柳の「かばやきを食って隣へもぐりこみ」や、「かばやきとばかりですまぬ所なり」に象徴的な、岡場所へ通う前に男が精をつける料理として、うなぎの蒲焼きが注目されていたようだ。この岡場所は、江戸の街では通称「ケコロ」Click!と呼ばれており、うなぎの蒲焼きと同様に濃口醤油ベースの甘辛だれをつけ、串に刺した鶏肉を焼いて精をつけるやき鳥Click!も、この街で生まれたことはすでに記している。
 ケコロの常連客は、大江戸(おえど)の一般市民というよりも、上野山Click!で暮らしていた僧侶が主体だった。当時の上野山には寛永寺Click!ばかりでなく、同寺の別院を含め大小無数の寺々が建立されており、ケコロの岡場所に直近で面していた寺院には、たとえば普門院、常照院、顕性院、明静院、修善院、正法院、一乗院、吉祥院、宝勝院、高岩寺、大久寺、龍泉院、現龍院、寿昌院、養玉院、仙龍寺、蓮華寺などなど数えあげたらキリがない。これらの寺々の住職はもちろん、上野や谷中に展開する多くの寺院の僧職たちが、こぞってケコロに通ってきていただろう。
 江戸期でもっとも古い蒲焼きの図版は、1700年代初頭の享保年間に近藤清春が描いた『江戸名所百人一首』で、深川八幡社の参道にある小見世で蒲焼きを焼いている様子が描かれている。「めいぶつ大かばやき」の行燈が見えるので、おそらく下谷の佛店以前から深川の蒲焼きは名物化していたのではないだろうか。ちなみに、当時の蒲焼きはそのまま精をつけるために食べるか、酒の肴として賞味するのが主流で、「うなぎめし」Click!(うな重やうな丼)の登場は江戸の街で芝居が盛んになったり、料理屋が増えたりするもう少しあとの時代になってからだ。
 もちろん上野山の生臭坊主たちは、破戒をする際には「蒲焼きを食ってからケコロへ女を買ってしけこんでくる」などとはいわず、ひそかに隠語を駆使して岡場所へ出かけていっただろう。ちなみに、うなぎの隠語は「手布(てふ)/山芋」、娼婦は「菩薩」などと呼ばれていた。ほかに、黒潮・親潮にのってやってきた大江戸の魚市場にあがる、活きのいい魚介類は「亡者」あるいは「水梭花(すいさか/すいしゅんか)」などと称して食べている。魚介類でいえば、たとえばアユは「刺刀(さすが)」Click!、タイは「首座」、タコは「惣身」あるいは「天蓋」、カツオは「独鈷(どっこ)」など、ほぼすべての魚介類には隠語が用いられていた。
 「亡者」を食らうなら、酒は「弥勒」または「般若湯」、茶を飲むなら「脇」、餅を食うなら「雲門」、やき鳥(鶏肉)を食うなら「鑽籬菜(さんりさい)」などと称している。ケコロへ繰りだすのに、蒲焼き屋の「手布」ではなく、やき鳥屋で「鑽籬菜」を肴に「弥勒」をひっかけていった坊主たちも少なくないだろう。おそらく、すき焼き屋で鴨肉Click!を、ももんじ屋Click!でアオジシ(カモシカ)やイノシシ、シシ(シカ)の鍋を食っていた坊主もいたにちがいないが、この記事は仏教の隠語がテーマではないのでこれぐらいに。
近藤清春「江戸百人一首」深川八幡参道蒲焼き.jpg
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 こういう、堕落・腐敗しきった破戒僧や生臭坊主たちを見ていた江戸市民は、織田信長の比叡山を見る眼差しと同様に強い反感を抱き、冷ややかに眺めていたのはまちがいないだろう。それは、ちまたに残された数多くの狂歌や川柳でも、うかがい知ることができる。これは現代でもつづいており、京都ではめずらしくないことが、東京では冷ややかで怪訝な顔で見られることでも明らかだ。
 夜になると、祇園や先斗町など芸妓やホステスのいる盛り場へ僧衣のまま繰りだす坊主たちが、東京で同じことをして周囲を凍りつかせたエピソードが紹介されている。2015年(平成27)出版の井上章一『京都ぎらい』Click!(岩波書店)から引用してみよう。
  
 「夜あそびは、きらいやないですよ。東京でも、よう飲みにいきます。このあいだ、銀座のクラブに、坊さんのかっこしたまま入ったんですわ。そしたら、ホステスもほかの客も、びっくりしたような目で、こっちをながめよる。それで、自分がうっかりしてたことに、気がついた。しもた、ここは京都とちがうんや、東京やったんや、てね」/あとでもふれるが、京都の僧侶が夜あそびででかけるのは、伝統的な花街にかぎらない。ホステスクラブへおもむくこともある。そして、肩や腕もあらわなドレスのお姐さんに、袈裟姿のままじゃれついたりもしてきた。僧服の僧侶たちが、京都のクラブでは、それだけ自然にうけいれられている。そのいでたちで、おどろかれることはない。/しかし、さすがに他の街、たとえば東京あたりでは、僧服姿が異様にうつる。ありえない衣裳として、とらえられる。そして、夜の京都になれすぎた僧侶は、時に京都以外のそんな常識を、失念してしまう。他の街でも、京都流の袈裟姿をあらためず、店の気配をこわばらせることが、おこりうる。
  
 ホステスや客たちの「おどろかれる」「気配をこわばらせる」だけで済んで、この坊主はむしろ幸運だったろう。外来宗教の僧たちが、戦争末期に見せた醜態をよく知る客=(城)下町人Click!が何人かいたら、すぐさま外へ叩きだされたかもしれない。
 それは、別に肉や魚を進んで食し、街の女を買い、芸妓やホステスとたわむれ、平然と酒を飲む破戒僧や生臭坊主の姿に、江戸期からの反感がそのままストレートにつづいていたからではない。1944~1945年(昭和19~20)の戦争末期、東京でもリアルに空襲Click!が予測される状況になったとき、下町にあった寺々では「本山に帰る」あるいは「修行をしてくる」と称し、墓地も本尊のある堂宇も檀家もいっさいがっさい放りだして、出身地へ家族を連れて疎開していった(逃げていった)坊主たちが少なからずいたからだ。
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 ふだんから「生死」について語り、「死後の世界」や「生者の悟り」をもっともらしく説教師づらして説く坊主が、いざ自身が生死の淵に立たされたら、仏(ほとけ)に仕える身でありながら死者が眠る墓地や本尊(仏)さえ守ろうともせず、「大江戸(おえど)の恥はかきすて」とばかりサッサと逃げだしていく姿を見せられた“檀家”や周囲の東京市民たちは、怒りを通りこして呆れかえった。
 親父は「敵前逃亡」と称していたけれど、東京にあるあまたの社(やしろ)やキリスト教系の教会では、神職や宣教師(神父や牧師)たちが社殿や教会を「死守」(文字どおり空襲で犠牲になった人たちも少なくない)したのとは、まことに対照的な情景だったのだ。キリスト教系の施設では、「敵国人」Click!と規定されて弾圧され、抑留されたとしても、あえて「信者のそばに」と日本にそのまま残った欧米人も少なくない。それに比べ、同じ外来宗教でも仏教はなんてザマだ……と、親の世代でなくともわたしでさえそう思う。
 人の「生死」について日常的に語り、関連する儀式をつかさどり、その思想を広めようと“したり顔”で説教する坊主が、いざ自身の生命が脅かされたときに見せた宗教者らしからぬ臆面もない醜態は、強い怒りとともに地元の人々(とその子孫)の記憶に残ったわけだ。わたしの家では、親の世代から寺にある先祖代々の墓地を用いず、新たに無宗教墓を手に入れて利用しているが、同じ思いの東京人は少なからず存在しているはずだ。そのような歴史をもつ街で、僧衣のままの坊主が不用意に繁華街のクラブやキャバレーへ繰りだしたりなどしたら、ホステスや客たちが「気配をこわばらせる」ぐらいでは済まなくなりそうなのは、外来者にもおよそ想像がつくだろう。
 1990年代に米国公文書館で公開された資料Click!では、京都が東山の一部のみしか空襲の被害を受けていないのは、「米軍が歴史ある文化都市に配慮したから」などではなく、原爆の投下予定地に新潟や広島、小倉、長崎と並び、京都を含めて街並みを「温存」していたことが明らかになったが、「新型爆弾」の次の目標地が京都だというようなウワサが事前に街中へ流れたとしたら(東京では1944年の暮れから大規模な空襲が予測されていた)、そこにある寺々の坊主たちはどうしただろうか? すべてがそうではないにせよ、「本山へ帰る」「修行をしてくる」と称して、墓地も本尊のある堂宇も檀家も放りだして、逃げていく連中も少なからずいたにちがいない。そして、判明した親族の遺体が目の前にあるにもかかわらず、弔いや葬儀が出せない遺族が大量に生まれていただろう。
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 もっとも、京都に「本山」がある寺院の場合はどうしただろう? 「諸国の寺々へ修行してきますぅ」とか「托鉢せなならん」、「霊山にこもっておのれを磨かなあかん」とか、それでも教義からなんとかいい加減な理由をひねりだして、京都の街から逃げだしたのではないだろうか。「せやけど、なんで修業に家族も連れてかはんの?」と檀家の誰かから訊ねたら、「……」のまま夜逃げ同然に翌朝には姿を消していたかもしれない。

◆写真上:1831年(天保2)に描かれた、国芳『御ぞんじ山くじらかばやき』(部分)。獣肉を食わせるももんじ屋の隣りに、うなぎの蒲焼き屋が見世をひろげている。
◆写真中上は、享保年間に描かれた近藤清春『江戸名所百人一首』の挿画。富岡八幡社の参道に蒲焼き屋が店開きし、「名物大蒲焼き」として売っている。は、深川「かね松」のうな重。は、上野山にある葵紋入りの堂宇のひとつ。
◆写真中下は、国芳のうちわ絵『江戸前大蒲焼き』(制作年不詳/部分)。は、本所「川勇蒲焼」のうな重。は、不忍池の冬枯れ弁天堂。
◆写真下は、1843~1847年(天保・弘化年間)に制作された国芳『貞操千代の鑑』で、うなぎを食べるのではなく母子の放生会Click!の様子を描いたものだ。は、池之端「伊豆栄」のうな丼。は、上野(寛永寺)の五重塔。この構図の写真を撮影したかったので、上野動物園の入園券を買うハメになった。(爆!) ところで、池之端「伊豆栄」の蒲焼きはなんとかならないものだろうか。「前川」Click!同様に大勢の観光客相手に料理が甘くなったのか、大正期に暖簾分けした高田馬場の伊豆栄よりも泥臭くてマズい。

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