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織田一麿Click!は、椿山(目白山)Click!や久世山など江戸川橋周辺が好きだったものか、明治末から大正期にかけて見られた東京近郊の「武蔵野風景」Click!として、盛んに描きとめている。この記事では、当時は東京市電の終点でもあった江戸川橋に近い、大正期の目白坂Click!下や大洗堰Click!など江戸川Click!(1966年より神田川で呼称統一)流域の風景をご紹介したい。なお織田一磨は、大正期になって江戸川周辺の「武蔵野」感は失われつつあるとしている。
まず、1916年(大正5)に制作された『小石川関口の雪景』から観ていこう。この情景は、左手に舟着き場のある江戸川が描かれ、川沿いに建ち並んだ家々を描いている。雪景色なので、斜面の樹々も隠れる白一色の風景だったせいか背景はほとんど描かれていない。神田上水と江戸川の分岐近くに設置された大洗堰(現在の大滝橋あたり)の少し下流だが、同作について書いた織田一磨『武蔵野の記録』(洸林堂書房/1944年)所収のキャプションを引用してみよう。
▼
小石川関口の大瀧下流の風景だ。こゝには水車の精米工場があつて、大瀧の水を利用してゐたが、現在はどうしたか知らない。(中略) この図も東京風景の材料である。然しこれは選外としたもので、素描としては面白いが版画に直しても、版画としては面白くないと考へたのだ。甚だ尤もに考へで、これは正に版画には向かない。/版画の下図は精密に写生したものは向かないので、荒く心覚位のものが最もよいのだ。
▲
大洗堰のすぐ下流にあった精米工場の水車は、明治末に伊藤晴雨が『関口水車』として描いている。左手の川面に描かれている舟着き場が、江戸川に拓かれた水運の終点だ。ここから上流は大八車による陸運が主体で、外濠の神田川をさかのぼってきた物資は飯田橋の揚場町で降ろされ、より小さな舟で江戸川のここ終点まで運ばれている。さらに上流へは、江戸期からつづく大洗堰があって舟では通行できなかった。また、江戸川の青物市場に集められた落合や上高田、練馬などの近郊野菜類は、ここから舟に載せられて神田などの市場へと運ばれた。
織田一磨は、おそらく家々が川筋ぎりぎりまで建っていた江戸川の右岸、つまり南側の川沿いの小道から下流を向いて描いたものだろう。
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つづいて、1917年(大正6)に描かれた織田一麿の『目白坂下』を見てみよう。この目白坂Click!は、今日のバスが通う新・目白坂ではなく、江戸川橋から椿山(目白山)の山頂へと斜めに上る、目白不動Click!が建立されていた旧・目白坂のことだ。同作のキャプションから、さっそく引用してみよう。
▼
これも絶好の記録画である。小石川の目白坂下には江戸時代さながらの倉作りの民家があつた。それに深い下水の溝渠が在つた。この溝は地下に埋められてゐるが、この溝のある風景は江戸時代の俤である。/東京風景版画集にも目白坂下は一枚加へてあるが、図はこの図とは反対の方面で、江戸川亭といふものが無く溝は地上に露出させてあつた昔の東京は、これが為に随所に小河岸的風景を現出して、街に趣味が多かつた。
▲
織田一麿は「下水の溝渠」と書いているが、この流れは弦巻川(金川)Click!が江戸川(現・神田川)へと注ぐ一筋のことで下水ではない。現在は暗渠化され、目白坂下のその上を首都高の5号池袋線が走っている。
画面は、江戸川への合流地点も近い弦巻川の一筋沿いに通う小道から南を向いて、目白坂へと上る位置に架けられた小橋を描いている。橋を右手(西側)へ渡れば、椿山へと上る急坂がつづき、坂の途中からは目白不動がある新長谷寺の伽藍や樹林が望めただろう。もちろん、大正初期のころは坂道が舗装されておらず、雨が降ると坂の上り下りはたいへんだったにちがいない。
つづいて、1917年(大正6)にスケッチされた織田一磨『江戸川石切橋附近』を見てみよう。江戸川の護岸工事がスタートする直前に描かれたもので、この工事により江戸川沿いのサクラ並木やヤナギが、すべて伐採されることになる。江戸期からつづいていた、舟に乗ってサクラを愛でる「江戸川の花見」は消滅するが、その後、江戸川橋から上流の旧・神田上水沿いにサクラ並木がが植えられ、現在は江戸川橋から駒塚橋、面影橋などをへて、下落合も近い高戸橋までが花見の名所となっている。
同作に関する織田一磨のキャプションを、引用してみよう、
▼
江戸川の護岸工事が始まるといふので、其前に廃滅の誌趣とでもいふのか、荒廃、爛熟の境地を写生に遺したいと思つて、可成精密な素描を作つた。/崩潰しやうとする石垣に、雑草が茂り合つた趣き、民家の柳が水面にたれ下つた調子、すべて旧文化の崩れやうとする姿に似て、最も心に感じ易い美観。これを写生するのが目的でこの素描は出来る限りの骨を折つたものだ。(中略) 記録といふ目的が相当に豊富だつたために、素描のもつ自由、奔放といふ点が失はれてゐる。芸術としては、牛込見附の方に素晴らしい味覚がある。/記録としては此図なぞ絶好のもので、それ以上にはなれないし、それなら写真でもいゝといふことになつてしまふ。
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画面は、石切橋を下流から描いたもので、昼すぎの強い陽光が右手(南側)から射している。当時の石切橋は、江戸川橋から数えて下流へ3つめの橋だったが、現在は華水橋ができたために4つめの橋となっている。
大正前期の江戸川沿いには、江戸友禅Click!や江戸小紋Click!の染め工房が集中しており、川向こうには洗い張りの干し場がいくつか見えている。これらの工房は、江戸川の護岸工事がスタートすると立ち退きを迫られ、さらに上流の早稲田や落合地域へと移転してくることになる。現在の石切橋界隈はコンクリートで覆われ、大曲(おおまがり)をへて舩河原橋のある外濠の出口までは、両岸をオフィスビルや高速道路に覆われているが、織田一磨が同作を写生した当時は、江戸有数だったサクラの名所の名残りや風情が、いまだに色濃く残っていたのだろう。
最後のスケッチは、その石切橋を上流から眺めた画面だ。上記の『江戸川石切橋附近』とは逆に、上流から下流を向いて描かれている。1917年(大正6)に描かれた『江戸川河岸』というタイトルで、おそらく前作と同時期のスケッチだろう。ここにも、左手(北岸)に洗い張りの干し場が描かれ、いままさに作業をはじめようとする職人がかがみこんで、大きな樽から染め布をとり出そうとしている様子が見える。
同作について、織田一磨のキャプションを再び引いてみよう。
▼
江戸川に香る廃滅する誌趣を写さんと志したものだ。川の左岸にあるのは洗ひ張りやさんの仕事場で、伸子に張られた呉服物が何枚か干してある。/石垣の端には柳が枝をたれて、河の水は今よりも清く、量も多く流れてゐる。すべて眺め尽きることのない河岸風景の一枚である。当時は護岸工事も出来てゐないし、橋梁もまだ旧態を存してゐた。/この下流へ行けば大曲までは桜の並木があつて、春は燈火をつけ、土手には青草が茂つてゐて、摘草もできたものだ。現在は桜は枯死し土手はコンクリートに代つて、殺風景ととふか、近代化といふか、とにかく破壊した風景を観せられる。都会の人は、よくも貴重な、自己周辺の美を惜し気もなく放棄するものだと思はせる。
▲
石切橋から約650mほどで、大曲と呼ばれる江戸川の大きな屈曲部分にさしかかり、そのまま江戸川(現・神田川)の流れは一気に千代田城Click!の外濠へと流入することになる。
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織田一磨は、明治期に写生した「武蔵野」らしい風景が展開する江戸川橋周辺を、大正期に再び訪れてスケッチを繰り返しているわけだが、作品が掲載された『武蔵野の記録』は1944年(昭和19)に出版されている。敗戦も間近なこの時期、神田川沿いには防火帯36号江戸川線Click!による建物疎開Click!が実施され、画趣も風情もなにもない、赤土がむき出しの惨憺たる風景になり果てていただろう。同書の紙質もまた、1冊の本にもかかわらず粗末で多種多様な用紙が使われており、物資不足がきわめて深刻な時代だった。
<了>
◆写真上:旧・神田上水沿いのサクラ並木で、対岸に見えているのは関口芭蕉庵Click!。
◆写真中上:上から下へ、1916年(大正5)に描かれた織田一磨『小石川関口の雪景』、小石川の関口付近の現状、明治末に伊藤晴雨が精米工場の大水車を描いた『関口水車』、1935年(昭和10)に撮影された神田上水と江戸川の分岐点に江戸期から設置されつづけた大洗堰、大洗堰があった新しい大滝橋あたりの現状。
◆写真中下:上から下へ、1917年(大正6)制作の織田一磨『目白坂下』、手前に弦巻川の一筋が流れていた目白坂下の現状、同年制作の織田一磨『江戸川石切橋附近』、古河橋から石切橋を眺めた現状で正面左岸に見える凸版印刷本社ビルの先が大曲。
◆写真下:上から下へ、1917年(大正6)制作の織田一磨『江戸川河岸』、1935年(昭和10)に撮影された江戸川橋、江戸川橋から下流の華水橋を眺めた現状、1918年(大正7)の1/10,000地形図に描画場所を記入したもの。
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織田一麿Click!は、椿山(目白山)Click!や久世山など江戸川橋周辺が好きだったものか、明治末から大正期にかけて見られた東京近郊の「武蔵野風景」Click!として、盛んに描きとめている。この記事では、当時は東京市電の終点でもあった江戸川橋に近い、大正期の目白坂Click!下や大洗堰Click!など江戸川Click!(1966年より神田川で呼称統一)流域の風景をご紹介したい。なお織田一磨は、大正期になって江戸川周辺の「武蔵野」感は失われつつあるとしている。
まず、1916年(大正5)に制作された『小石川関口の雪景』から観ていこう。この情景は、左手に舟着き場のある江戸川が描かれ、川沿いに建ち並んだ家々を描いている。雪景色なので、斜面の樹々も隠れる白一色の風景だったせいか背景はほとんど描かれていない。神田上水と江戸川の分岐近くに設置された大洗堰(現在の大滝橋あたり)の少し下流だが、同作について書いた織田一磨『武蔵野の記録』(洸林堂書房/1944年)所収のキャプションを引用してみよう。
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小石川関口の大瀧下流の風景だ。こゝには水車の精米工場があつて、大瀧の水を利用してゐたが、現在はどうしたか知らない。(中略) この図も東京風景の材料である。然しこれは選外としたもので、素描としては面白いが版画に直しても、版画としては面白くないと考へたのだ。甚だ尤もに考へで、これは正に版画には向かない。/版画の下図は精密に写生したものは向かないので、荒く心覚位のものが最もよいのだ。
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大洗堰のすぐ下流にあった精米工場の水車は、明治末に伊藤晴雨が『関口水車』として描いている。左手の川面に描かれている舟着き場が、江戸川に拓かれた水運の終点だ。ここから上流は大八車による陸運が主体で、外濠の神田川をさかのぼってきた物資は飯田橋の揚場町で降ろされ、より小さな舟で江戸川のここ終点まで運ばれている。さらに上流へは、江戸期からつづく大洗堰があって舟では通行できなかった。また、江戸川の青物市場に集められた落合や上高田、練馬などの近郊野菜類は、ここから舟に載せられて神田などの市場へと運ばれた。
織田一磨は、おそらく家々が川筋ぎりぎりまで建っていた江戸川の右岸、つまり南側の川沿いの小道から下流を向いて描いたものだろう。
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つづいて、1917年(大正6)に描かれた織田一麿の『目白坂下』を見てみよう。この目白坂Click!は、今日のバスが通う新・目白坂ではなく、江戸川橋から椿山(目白山)の山頂へと斜めに上る、目白不動Click!が建立されていた旧・目白坂のことだ。同作のキャプションから、さっそく引用してみよう。
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これも絶好の記録画である。小石川の目白坂下には江戸時代さながらの倉作りの民家があつた。それに深い下水の溝渠が在つた。この溝は地下に埋められてゐるが、この溝のある風景は江戸時代の俤である。/東京風景版画集にも目白坂下は一枚加へてあるが、図はこの図とは反対の方面で、江戸川亭といふものが無く溝は地上に露出させてあつた昔の東京は、これが為に随所に小河岸的風景を現出して、街に趣味が多かつた。
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織田一麿は「下水の溝渠」と書いているが、この流れは弦巻川(金川)Click!が江戸川(現・神田川)へと注ぐ一筋のことで下水ではない。現在は暗渠化され、目白坂下のその上を首都高の5号池袋線が走っている。
画面は、江戸川への合流地点も近い弦巻川の一筋沿いに通う小道から南を向いて、目白坂へと上る位置に架けられた小橋を描いている。橋を右手(西側)へ渡れば、椿山へと上る急坂がつづき、坂の途中からは目白不動がある新長谷寺の伽藍や樹林が望めただろう。もちろん、大正初期のころは坂道が舗装されておらず、雨が降ると坂の上り下りはたいへんだったにちがいない。
つづいて、1917年(大正6)にスケッチされた織田一磨『江戸川石切橋附近』を見てみよう。江戸川の護岸工事がスタートする直前に描かれたもので、この工事により江戸川沿いのサクラ並木やヤナギが、すべて伐採されることになる。江戸期からつづいていた、舟に乗ってサクラを愛でる「江戸川の花見」は消滅するが、その後、江戸川橋から上流の旧・神田上水沿いにサクラ並木がが植えられ、現在は江戸川橋から駒塚橋、面影橋などをへて、下落合も近い高戸橋までが花見の名所となっている。
同作に関する織田一磨のキャプションを、引用してみよう、
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江戸川の護岸工事が始まるといふので、其前に廃滅の誌趣とでもいふのか、荒廃、爛熟の境地を写生に遺したいと思つて、可成精密な素描を作つた。/崩潰しやうとする石垣に、雑草が茂り合つた趣き、民家の柳が水面にたれ下つた調子、すべて旧文化の崩れやうとする姿に似て、最も心に感じ易い美観。これを写生するのが目的でこの素描は出来る限りの骨を折つたものだ。(中略) 記録といふ目的が相当に豊富だつたために、素描のもつ自由、奔放といふ点が失はれてゐる。芸術としては、牛込見附の方に素晴らしい味覚がある。/記録としては此図なぞ絶好のもので、それ以上にはなれないし、それなら写真でもいゝといふことになつてしまふ。
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大正前期の江戸川沿いには、江戸友禅Click!や江戸小紋Click!の染め工房が集中しており、川向こうには洗い張りの干し場がいくつか見えている。これらの工房は、江戸川の護岸工事がスタートすると立ち退きを迫られ、さらに上流の早稲田や落合地域へと移転してくることになる。現在の石切橋界隈はコンクリートで覆われ、大曲(おおまがり)をへて舩河原橋のある外濠の出口までは、両岸をオフィスビルや高速道路に覆われているが、織田一磨が同作を写生した当時は、江戸有数だったサクラの名所の名残りや風情が、いまだに色濃く残っていたのだろう。
最後のスケッチは、その石切橋を上流から眺めた画面だ。上記の『江戸川石切橋附近』とは逆に、上流から下流を向いて描かれている。1917年(大正6)に描かれた『江戸川河岸』というタイトルで、おそらく前作と同時期のスケッチだろう。ここにも、左手(北岸)に洗い張りの干し場が描かれ、いままさに作業をはじめようとする職人がかがみこんで、大きな樽から染め布をとり出そうとしている様子が見える。
同作について、織田一磨のキャプションを再び引いてみよう。
▼
江戸川に香る廃滅する誌趣を写さんと志したものだ。川の左岸にあるのは洗ひ張りやさんの仕事場で、伸子に張られた呉服物が何枚か干してある。/石垣の端には柳が枝をたれて、河の水は今よりも清く、量も多く流れてゐる。すべて眺め尽きることのない河岸風景の一枚である。当時は護岸工事も出来てゐないし、橋梁もまだ旧態を存してゐた。/この下流へ行けば大曲までは桜の並木があつて、春は燈火をつけ、土手には青草が茂つてゐて、摘草もできたものだ。現在は桜は枯死し土手はコンクリートに代つて、殺風景ととふか、近代化といふか、とにかく破壊した風景を観せられる。都会の人は、よくも貴重な、自己周辺の美を惜し気もなく放棄するものだと思はせる。
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石切橋から約650mほどで、大曲と呼ばれる江戸川の大きな屈曲部分にさしかかり、そのまま江戸川(現・神田川)の流れは一気に千代田城Click!の外濠へと流入することになる。
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織田一磨は、明治期に写生した「武蔵野」らしい風景が展開する江戸川橋周辺を、大正期に再び訪れてスケッチを繰り返しているわけだが、作品が掲載された『武蔵野の記録』は1944年(昭和19)に出版されている。敗戦も間近なこの時期、神田川沿いには防火帯36号江戸川線Click!による建物疎開Click!が実施され、画趣も風情もなにもない、赤土がむき出しの惨憺たる風景になり果てていただろう。同書の紙質もまた、1冊の本にもかかわらず粗末で多種多様な用紙が使われており、物資不足がきわめて深刻な時代だった。
<了>
◆写真上:旧・神田上水沿いのサクラ並木で、対岸に見えているのは関口芭蕉庵Click!。
◆写真中上:上から下へ、1916年(大正5)に描かれた織田一磨『小石川関口の雪景』、小石川の関口付近の現状、明治末に伊藤晴雨が精米工場の大水車を描いた『関口水車』、1935年(昭和10)に撮影された神田上水と江戸川の分岐点に江戸期から設置されつづけた大洗堰、大洗堰があった新しい大滝橋あたりの現状。
◆写真中下:上から下へ、1917年(大正6)制作の織田一磨『目白坂下』、手前に弦巻川の一筋が流れていた目白坂下の現状、同年制作の織田一磨『江戸川石切橋附近』、古河橋から石切橋を眺めた現状で正面左岸に見える凸版印刷本社ビルの先が大曲。
◆写真下:上から下へ、1917年(大正6)制作の織田一磨『江戸川河岸』、1935年(昭和10)に撮影された江戸川橋、江戸川橋から下流の華水橋を眺めた現状、1918年(大正7)の1/10,000地形図に描画場所を記入したもの。