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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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片多徳郎の下落合時代1929~1933年。

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片多徳郎「秋果図」1929.jpg
 下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエで暮らしていた片多徳郎Click!は、アルコール依存症が悪化していたとはいえ、多彩な作品群を描いている。片多が駒込妙義坂下町から、下落合へ転居してきたのは1929年(昭和4)のことだ。それから自殺する前年、1933年(昭和8)までの4年間を下落合ですごし、北隣りの長崎東町1丁目1377番地(旧・長崎町1377番地)へ転居してまもなく、翌1934年(昭和9)4月に名古屋にある寺の境内で自裁している。
 下落合時代の作品を概観すると、従来と同様に風景画や肖像画、静物画と幅広いモチーフをタブローに仕上げており、特に制作意欲の衰えは感じられない。むしろ、多彩な表現に挑戦しつづけている様子がうかがわれ、画面からは積極的な意志さえ感じとれるほどだ。中には、明らかに注文で描いた『木下博士像』(1929年)のような、いわゆる“売り絵”の作品も見られるが、裏返せば美術界では相変わらず注文が舞いこむほどの人気画家だった様子がうかがえる。
 片多徳郎Click!アトリエの前から、道をそのまま西へ50mほど進んだ斜向かい、下落合623番地には曾宮一念アトリエClick!が建っていた。帝展鑑査員であり、第一美術協会の創立会員である片多徳郎と、二科の曾宮一念Click!とでは画会も表現も、活動シーンもかなり異なっていたが、ふたりは気があったらしく気軽に親しく交流している。1938年(昭和13)に座右宝刊行会から出版された曾宮一念『いはの群れ』Click!から、転居してきた片多徳郎について書きとめた文章があるので、引用してみよう。
  
 片多氏は私の入学の翌年美術学校を卒業されたからその頃はたゞ顔を見かけたといふに過ぎない、蒼白い小柄な飾気の無い学生であつた。(中略) 或る雑誌に「酔中自像」といふひどく恐ろしい顔をしたのが載つてゐたことがある。それが私をコワガラせてゐたものらしい。片多氏も小心者といふ点ではこの私にも劣らぬことを後に知つた。その頃片多氏は赤十字病院から退院後で柚子や百合根の小品をかきはじめてゐた、私もその年病後久しぶりで花の画をかきはじめてゐたのを片多氏は見に来てくれ、そしてほめてくれた。
  
 曾宮一念は、1930年(昭和5)に散歩の途中で「片多徳郎」の表札を見つけ、怖るおそる訪ねている。前年の帝展に出品された、片多の『秋果図』が気になっていたので思いきって訪問したものだ。このときから、ふたりの交流がはじまっている。
 先日、pinkichさんからお贈りいただいた片多徳郎の稀少な画集、1935年(昭和10)に古今堂から出版された岡田三郎助/大隅為三・編『片多徳郎傑作画集』には、下落合時代の4年間に描かれたと想定できる作品画像が20点ほど掲載されている。曾宮が惹かれた『秋果図』(1929年)はカラー版で収録されており、下落合へ転居早々に描かれたとみられるカキとザクロの果実がモチーフとなっている。
 同画集の中で目を惹くのは、下落合の名産だった「落合柿」Click!をはじめ、いまでも落合地域で老木をよく見かけるザクロやユズなど果実類、郊外野菜など洗い場Click!で現れる蔬菜類Click!をモチーフにした静物画、当時の「東京拾二題」Click!などの名所に挙げられ西坂・徳川邸Click!静観園Click!でも有名だったボタンの花Click!を描いた画面、そして、やはり付近の武蔵野の風情を写しとったとみられる風景画だろうか。片多徳郎は『秋果図』がよほど気に入っていたものか、同じくザクロとその枝をモチーフにした『秋果一枝』(1932年)も、下落合時代に仕上げている。
片多徳郎「ゆづと柿」1929.jpg
落合柿干し柿づくり.JPG
片多徳郎「牡丹」1930.jpg
 当時の片多徳郎の様子を、曾宮一念の同書より引用してみよう。
  
 「秋果図」の前三四年は見てゐないが此の静物画は地味円熟の技巧の下に今迄よりも一層内面的な気持の盛上げをするやうになつた第一の作品ではあるまいか、片多氏の画はゑのぐを何回も重ね、潤ひのある層が画面の特徴である。此の「秋果図」では幾回かの甚だ計画的に薄く塗られて寸分のすきも無く金と朱と紅と焼土の線とが画面を緊張させてゐた。氏自身も会心の作であつたらしい。/元気でゐたかと思ふと又入院してゐる、実は病院内での適宜な束縛が却つて制作を生んでゐたさうである。一時は全く酒を絶つてゐたが又いつか飲み出してゐた、「あまり飲むなよ」といへばさびしい顔をして弱音をはかれるには更に何も言へなかつた。
  
 片多徳郎は、曾宮が訪ねるとたいがい酒を飲みながら制作していたようで、このあたりは1936年(昭和11)に片多徳郎が住んでいたアトリエの向かい、下落合2丁目604番地(現・下落合4丁目)に転居してくる帝展の牧野虎雄Click!とそっくりだ。牧野虎雄もまた、曾宮が訪ねるとしじゅう酒を飲みながらキャンバスに向かっていた。
 『片多徳郎傑作画集』には、下落合時代に描いたとみられる風景画に1929年(昭和4)制作の『秋林半晴』と、1931年(昭和6)制作の『若葉片丘』が掲載されている。いずれも武蔵野の丘陵や、そこに繁る樹木を描いたものだが、昭和初期の下落合でこのような風景モチーフを見つけるには、下落合の西部、あるいは葛ヶ谷(現・西落合)の方面まで歩かなければ発見できなかったろう。下落合Click!の東部(現・下落合)や中部(現・中落合)には、すでに多くの住宅が建ち並んでおり、これらの作品画面に描かれたような、住宅が1軒も見えない樹木や草原が拡がる風景は、当時の地図類からもまた空中写真からも、落合地域の西部にかろうじて残されていた風景だからだ。
片多徳郎傑作画集1935.jpg 片多徳郎「醉中自画像」1928.jpg
片多徳郎「秋林半晴」1929.jpg
片多徳郎「若葉片丘」1931.jpg
 下落合時代の作品には、さまざまな表現や技巧を試みた痕跡が見られる。いわゆる帝展派が描きそうな、アカデミックでかっちりとまとまった無難な静物画(売り絵か?)から、まるで1930年協会Click!のフォーヴィスムに影響された画家たちのような荒々しく暴れるタッチの画面まで、多彩な表現の試行錯誤が繰り返されていたとみられる。
 1933年(昭和8)の初夏、下落合から北隣りの長崎東町へと転居してまもなく、片多徳郎は下落合の曾宮一念をわざわざ訪ね、アトリエへ遊びにくるよう誘っている。そのときの様子を、曾宮一念の同書から再び引用してみよう。
  
 この年の初夏長崎町に画室を借り中出三也氏をモデルとして五十号位をかいてゐた時垣根ごしに良いご機嫌で誘つてくれたので一しよに見に行つた。私の見た時は半成とのことであつたが私には立派に完成して見えた、明るい銀灰色の地に中出氏の顔が赤く體(セビロ服)が鼠と赭と黒の線で恰も針金をコンガラカシた如く交錯してゐた、いつもの肖像や旧作婦女舞踊図を考へて此の中出氏像を見たら驚く程の変り方であつた、(中略) 此の古典派の先輩は暫く写実的完成にのみ没頭していたが此の頃になつてより、本質的な絵画の欲望が強く起きそれにフオウブの理解に歩を入れて来たものと思はれる。/然し此の秋は期待にそむいて此の画は出品されなかつた。帝展といふものの氏の立場が躊躇させてしまつたかと思はれるがもしあれを発表しても決して年寄の冷水とは世間は言はずに十分よき成長として迎へたらうと信ずる。
  
 ここに書かれている中出三也Click!をモデルにした肖像画とは、北九州市立美術館に収蔵されている『N(中出氏)の肖像』(1934年)のことだ。中出三也は、このサイトでも甲斐仁代Click!の連れ合いとしてたびたび登場しているが、この時期は上高田422番地のアトリエClick!にふたりで暮らしていたはずだ。同じような筆運びは、下落合時代の裸婦を描いた『無衣仰臥』(1930年)でも垣間見られる。下落合で試みた、多種多様な表現への挑戦が長崎東町へ転居してから実ったかたちだが、同作が展覧会へ出品されることはなかった。
片多徳郎「秋果一枝」1932.jpg
片多徳郎「白牡丹」1933.jpg
片多徳郎「無衣仰臥」1930.jpg
片多徳郎「N氏像」1934.jpg
 『N(中出氏)の肖像』について、曾宮一念は1933年(昭和8)の初夏に観たときが、もっとも「頂点」の表現であり、翌年まで手を入れたのちの画面は耀きや面影が失われてしまったようだと書いている。そして、「かくの如き純粋派的希望と説明的完成との二方面は長い間氏の芸術的煩悶であつたらしい」と結んでいる。曾宮には修正したあとの画面が、「説明的」で旧来の絵画的な「完成」をめざしすぎたものと映っていたようだ。

◆写真上:下落合で見なれた巣実を描く、1929年(昭和4)制作の片多徳郎『秋果図』。
◆写真中上は、1929年(昭和4)制作の片多徳郎『ゆづと柿』。は、いまでもつづく「落合柿」の干し柿づくり。は、1930年(昭和5)制作の同『牡丹』。
◆写真中下上左は、1935年(昭和10)に古今堂から出版された『片多徳郎傑作画集』の表紙。上右は、曾宮一念が怖がった1928年(昭和3)に描かれた片多徳郎『酔中自画像』。は、下落合時代の1929年(昭和4)に制作された風景画で同『秋林半晴』。は、同じく下落合時代の1931年(昭和6)に制作された同『若葉片丘』。
◆写真下は、1932年(昭和7)制作の片多徳郎『秋果一枝』。中上は、1933年(昭和8)に描かれた同『白牡丹』。中下は、1930年(昭和5)に制作された同『無衣仰臥』。両作は既存の画面に比べ、質的にかなり異なる表現をしている。は、画集に収録されていない1933~34年(昭和8~9)にかけて長崎東町のアトリエで制作された同『N(中出氏)の肖像』。まるで、別の画家が描いたような画面表現になっている。

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