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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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洞穴にひそむ落武者たちの伝説。

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古塚跡.JPG
 先年、旧・野方地域の沼袋から江古田の界隈をめぐり、古墳の痕跡をたどって散策した様子を記事Click!に書いたことがある。具体的には、中野沼袋氷川社からから北へ本村Click!(もとむら/ほんむら)、丸山の地域を経由して、江古田(えごた)氷川社へと抜けていくコースだった。その際、各エリアには「〇〇塚」と名づけられてきた、古塚が点在することもご紹介している。
 以前にご紹介した古塚は、中野区歴史民俗資料館の北側にある「経塚」と、江古田氷川社の西側にある「古塚」(稲荷塚/狐塚)のみだったが、野方地域を見まわすとそれどころではなく、数多くの「〇〇塚」が存在していたのが判明した。少し挙げてみると、江原屋敷森緑地の近くにあった「金井塚」、和田山Click!の近くにあった「四ツ塚」、沼袋氷川社の南に近接していた「古塚」、丸山地域の西側に点在していた「金塚」「蛇塚」「大塚」などだ。この中で、落合地域(西落合)にかかる「四ツ塚」と西落合に近接していた「金井塚」が興味を惹く。
 これらの古塚は、実際に発掘が行われたのか、それとも調査されずに破壊されたのかは不明だが、地元では室町期の足利氏Click!同士の対立や豊島氏Click!太田氏Click!がらみの戦闘で出た、戦死者を埋葬したものという伝承があるようだ。つまり、中世に由来する墳墓(合葬墓)ということになる。ところが、このような伝承の塚を実際に発掘調査してみると、はるかに古い古墳時代の遺構が出土する例が少なくない。また、確かに新しく埋葬された痕跡もあるが、その下からより上代の古墳が発見される例も多い。つまり、そこがもともと死者を弔う“屍家”=古墳Click!の地域伝承が当初からあり、のちの時代に重ねて死者を埋葬してしまった(ときに後世の付会をかぶせてしまった)事例だ。
 下落合でいえば、中世まで存在したと思われる下落合摺鉢山古墳(仮)Click!の北東部の急斜面へ、新たに下落合横穴古墳群Click!を築造してしまうようなケースだろうか。また、前方後円墳Click!柴崎古墳(将門首塚古墳)Click!へ、後世になって平安期のエピソードを付会するのも同じようなケースだ。古墳の羨道や玄室が発見されると、江戸期にはさっそくキツネの住居Click!にされ、稲荷社Click!が建立されたり多彩なエピソードが付会されるのも同様だろう。都内各地に残る「狐塚古墳」Click!は、江戸期のもっともらしい付会を疑い、科学的な発掘調査ののちに命名された象徴的な古墳名だ。
 沼袋から江古田地域にかけても、中世に落武者が「穴」あるいは「洞穴」を掘って住んだり、樹木の根元を掘ると「神仏」が出現したりする伝承が残されている。これらの「洞穴」は、もともと存在していた穴を拡張して造成された可能性があるように思われるのだ。それは、「洞穴」があちこちで見つかった高田八幡社Click!が、通称で「穴八幡」Click!と呼ばれるようになり、その洞穴から「神仏」が出土したり、あるいは洞穴を工作して神仏を奉っていたのにも近似している。
 時代は室町期、沼袋地域の東にある新井地域に伝わる物語として、将軍・足利義教と関東管領・足利持氏が対立して合戦になったころ(永享の乱/1438年)のエピソードだ。持氏の家臣・矢田義泉が、負け戦で多摩郡善祥寺(禅定院とみられている)まで落ちのびて、住職の善祥法師に助けられる。この伝承は、1943年(昭和18)に出版された『中野区史・上巻』(中野区)にも収録されているが、以下「洞穴」に関する伝承を地元寺である実相院が出版した、矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から引用しよう。
経塚跡.JPG
丸山下沼袋1947.jpg
丸山下沼袋.JPG
  
 善祥法師は義泉をよく保護し、ついに義泉等に勧めて、向の山は往還の道路無く、北に川あり、南に山々続き隠れ住むには究竟の地所なりとして、此所に善祥が差図して、山麓に横穴を掘り、其処に義泉とその一党がすむこととなった。この横穴は表口九尺餘、高さ丈餘、深さ三丈餘であった。なほこの山は古の関所の跡なので関根山と呼ばれた。時に応永五年二月であった。/ついで応永八年仲春、藤作山の麓に、表口九尺餘、高さ一丈三尺餘、深さ四丈餘の横穴を掘り、左右衛門義藤が引篭り、同十年三月には、庄司山の麓に、表口九尺餘、高さ一丈三尺餘、深さ四丈餘の横穴を掘り、但馬が住まった。
  
 この「向の山」とは、どのような丘陵だったのだろうか? ご存じのように野方地域一帯は起伏のある丘陵地帯で、現代の感覚で遠くから「山」と視認できるような場所はほとんどない。(当時、大きな墳丘が残存していれば「山」に見えたかもしれない) また、「向の山」は「関所の跡」と書かれているが、道筋のないところに関所跡があるのも不自然だ。「関根山」とは、なんらかの「関」(仕切りの構造物)が基盤として築かれていた「山」のことであり、古墳の遺構を想起させる。「関所跡」は、後世に導きだされた山名からの付会ではないだろうか。
 このような事蹟から、地域にある古塚は当時の戦における死者を合葬したものという、後世の“解釈”が付加されるのは容易に想像がつく。この伝承に付随して、樹木の根元の地中から光り輝く仏像(薬師如来)が出現して安置されるという逸話も語られている。この逸話は近くの梅照院(新井薬師)の縁起でも語られているが、高田八幡(穴八幡)のいわれとなった阿弥陀仏の出現とよく似ている。
 そして、この洞穴の規模が、すなわち「深さ三丈餘」=約10mや「深さ四丈餘」=約12mと、50~100mクラスの小・中型前方後円墳にみられる、玄室とそこにいたるまでの羨道の長さ(奥ゆき)に匹敵しそうなのだ。すなわち、「山」の斜面にもともと掘られていた狭い羨道の入口を表口九尺餘=約2.7mに拡張し、羨道を拡げながら掘り進み(「高さ丈餘」「一丈三尺餘」=3~3.9m)、最後に大きな石組みで構築された広い玄室空間へと貫通させたのではないか?……という想定が成り立つ。
 ただし、これらの洞穴は現存していないので、現代の科学的な発掘調査ができないのがもどかしいが、周囲の地名や散在する古塚などの環境を前提に考えると、あながち非常に突飛な想定ではないように思える。
野方地域古塚.jpg
丸山野方2丁目地形図(大正末).jpg
丸山野方2丁目1936.jpg
 もうひとつ、野方の字名「丸山」(下沼袋の「丸山」とは別)を囲むように、興味深い小字「三谷」が収録されている。以下、同書より再び引用してみよう。
  
 今の野方二丁目の辺りが三谷と呼ばれていたことはご年輩の実相院の檀家の方々はほぼご存知のことと思います。所がその中央部、旧家である秋元さんの家がかたまってある辺りが丸山と云われていたということはほとんどご存知ないと思います。私がそのことに最初に気がついたのは今から三十年ほど前に今の矢島達夫さんのお父さんの銀蔵さんに同家の家系の調査を依頼された時であります。/三谷は実相院過去帳では江戸時代はだいたい三谷と記されることが多いのですが、山谷と書かれている場合も少なからずあります。
  
 陸軍参謀本部が作成した明治末の地形図では、丸山のすぐ東隣りに三谷の字名が記載されているが、このエリアの地形に3つの谷間が切れこんでいるわけではない。等高線を観察すると、正円状に盛りあがった字名「丸山」の丘を三方(北東南)から囲むように、谷状の窪地があるから「三谷」と名づけられたと思われる。
 もちろん、この地図は明治末のものなので、墳丘(丸山)全体は江戸期以前から開墾のためとうに削られていると思われるが、それでも墳丘の盛りあがった痕跡と、その後円部とみられる三方の窪地にちなんだ「三谷」という小字が、当時まで廃れずに記憶されていたということなのだろう。
 このケースと非常によく似た地形を、以前に南青山地域の事例Click!としてこちらでもご紹介している。野方と「丸山」と同様に、後円部の正円とみられる丘が湧水源をともなう三方の谷間に囲まれ、前方部が崩されて整地され横断道路などが敷設されたとみられるケースだ。野方の「丸山」は、いまだ周囲を歩いていないので未確認だが、近々現地を調べてみたいと思っている。ちなみに、南青山の場合は広大な青山墓地Click!に隣接していたため開発が遅れ、大規模な整地が行なわれたとはいえ、現在まで当初の面影(起伏とその形状)をよく残している。
丸山野方2丁目1941.jpg
青山古墳1947.jpg
矢島英雄「実相院と-」1998.jpg 禅定院大イチョウ.JPG
 旧・野方町の沼袋界隈から江古田、あるいは新井などにかけ、さまざまな史跡や地形、事蹟、伝承・伝説の糸をたぐっていくと、落合地域よりもかなり色濃い、古墳時代の遺構をしのばせる痕跡が見えてくる。それらがよく語り継がれ保存されているのは、単に大正期から昭和初期にかけての市街化が遅れたタイムラグのせいだろうか? それとも、より鮮明で確かな記憶が人々の間で、忘れられずに語り継がれてきたからだろうか。

◆写真上:江古田氷川社の西側にある、「稲荷塚/狐塚」の“双子”とみられる古墳跡。
◆写真中上は、すでに痕跡もない「経塚」跡。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下沼袋の「丸山」周辺。は、同「丸山」跡に造成された公園。
◆写真中下は、野方地域に展開する古塚群。(『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』より) は、大正末の1/10,000地形図にみる野方の「丸山」と「三谷」の字名。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所の正円形の痕跡。
◆写真下は、1941年(昭和16)の空中写真に斜めフカンでとらえられた「丸山」。明らかに前方後円墳を想起させるフォルムをしており、後円部の直径は200mをゆうに超え、「三谷」=周壕(濠)とみられるエリアも入れると300mを超えている。詳細は、改めて記事に書いてみたい。は、野方の「丸山」「三谷」と近似した南青山の事例。下左は、1998年(平成10)に出版された矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)。下右は、落武者伝説に関連するとみられる禅定院の境内にある大イチョウ。

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