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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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葛ヶ谷村(西落合)の「四ツ塚」。

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四ツ塚跡1.jpg
 行政区画の境界近くにある地名や史蹟が、それぞれの側から異なった名称で呼ばれていることがままある。たとえば、向こうに見える小高い丘は、隣り村から見れば「向山」だが、その丘の周辺に住んでいる地元の村人にすれば「丸山」だったりする。地元の呼称のまま調べていると、周辺地域の呼称とは齟齬が生じて少なからず混乱するのを、わたしも何度か経験している。
 たとえば、江戸期には下落合村よりも裕福だったとみられる上落合村から見れば、妙正寺川は村の北側を流れる「北川」Click!であり、その向こう側の土地は「北川向」Click!(明治以降は字名化される)と呼称されていた。ところが、下落合村側からみれば村の南側を流れる妙正寺川は「北川」とは呼びにくく、当時の下落合村絵図には「井草流」と書きこまれている。また、下落合村の丘下にある土地はやはり「北川向」とは呼びにくく、村人は通称として「中井村」Click!と呼称していたものだろうか。
 そんな事例のひとつに、史蹟である古墳を表現する名称として、江古田村(中野区)側の伝承では「四ツ塚」と呼ばれていた古墳が、地元の葛ヶ谷村(現・西落合/新宿区)では「馬塚」Click!と呼ばれていたケースがある。葛ヶ谷御霊社の北側、現在の新青梅街道の直近に位置していた塚だ。江古田側の記録では、4つの塚(古墳)が街道沿いへ規則的に並んでいたため「四ツ塚」と呼ばれていたとされているが、1932年(昭和7)に自性院Click!が発行した大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)による葛ヶ谷村側の伝承記録では、特に塚の数までは言及されていない。
 また、葛ヶ谷村では「四ツ」で4つ足動物の「馬」を連想し、時代をへるにしたがい「馬塚」と称されるようになった可能性もある。事実、馬が死ぬと死骸を「四ツ塚」で葬っていたのかもしれない。「四ツ塚」の南南東700mほどのところに位置する、葛ヶ谷村と下落合村の境界近くにある「丸塚」では、近世になって実際に農耕馬が葬られていた事例があるのだ。
 いずれの塚も、発掘調査がなされないまま耕地整理による整地や、新青梅街道の敷設などで破壊されてしまったが、人骨や武具、馬の骨などが出土したという伝承が残されている。また、これらの遺物がいつの時代のものかは特定できないが、中野区教育委員会では室町期の戦乱によるものと想定している。1984年(昭和59)に出版された『なかのものがたり』(中野区教育委員会)から、当該部分を引用してみよう。
  
 道灌と豊島一族が戦った江古田ヶ原・沼袋の地とは、江古田から沼袋に至る旧江戸道沿いである現在の哲学堂公園や江古田一丁目、松が丘二丁目あたりから丸山二丁目、野方六丁目にかけてであるといわれています。この辺一帯にはかつて、経塚、金塚、四つ塚などがあり、人や馬の骨、武具などが出土したことがありましたが、いずれも学術的な発掘調査はされず、今では住宅地や道路となってしまいました。
  
 だが、中野区内の「塚」はその多くが足利一族(義教vs持氏)の対立や、その後の豊島氏と太田氏による戦闘によって築造されたものと推定されているが、地名や地形などを細かく観察Click!すると落合地域と同様に、より古い時代の遺跡が混在しているのではないだろうか?……というのが、わたしがそもそも抱いた課題意識だ。
四ツ塚(大正後期).jpg
四ツ塚跡1936.jpg
 また、古墳のある地域は、地元では禁忌エリア(屍家=しいや伝説Click!)または正反対の長者伝説Click!として語り継がれ、中世以降はことさら墓域Click!寺社の境内Click!に転用されている例も少なくない。したがって、「塚の記録が残っている→中世に戦闘があった→その死者を葬った塚だろう」では、あまりに短絡しすぎているように感じるのだ。本来は、実際に発掘調査を行なうのが筋だろうが、宅地化が急速に進んだ地域では中野区教育委員会が書いているように、短期間で住宅地や道路の開発で破壊されその余裕がなかった。各塚の写真や、形状を記録した絵図などが残されていないのが残念だ。
 なぜ、落合地域(葛ヶ谷村)に築造されていた「四ツ塚」の記録が、中野区側の資料によく残っているのだろうか。これは想像だが、葛ヶ谷村(現・西落合)は南に位置する下落合村よりも、妙正寺川や千川上水(落合分水Click!)の水利などの関係から、江古田村との交流や連携のほうが盛んだったのではないだろうか。だから、現在は中野区と新宿区で行政区画が分かれてしまったが、中野区側に葛ヶ谷村に関する情報が色濃く残っている……、そんな気が強くするのだ。
 さらに、「四ツ塚」のほぼ真北にあたる600mほどのところに、「金井塚」と名づけられた古墳が存在していたことも伝えられている。やはり、室町期の豊島氏と結びつけられた遺構として語られているが、こちらは江戸期の「庚申」信仰と結びつけられていた。「庚申」が、古墳期から奉られてきたとみられるタタラ集団が奉じた「荒神」の転化Click!ではないかという歴史的なテーマは、かなりメジャーになっているのでご存じの方も多いだろう。しかも、塚名そのものが「金井塚」なのだ。
 さて、もうひとつの資料を参照してみよう。実相院の過去帳をたどり、沼袋地域を中心に中野区の歴史を鳥瞰した矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から、葛ヶ谷村の「四ツ塚」と江古田村の「金井塚」を引用してみよう。
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 四つ塚 今の新青梅街道と新井薬師駅方面から給水塔の東側を通って千川通り方面に抜ける、土地では「鎌倉街道」と呼ばれる道路の交差した所にあった。北西角の堀野商店のある所から兜や刀のくさったものが出土したという。
 金井塚 四つ塚の西北方約五百メートル(ママ)の所(江原一-一一)にあった。この場所には江戸時代に庚申塔が立てられた。この地にあった塚は土地の区画整理の時に壊され、この庚申塔は現在石の観音像をまつる江古田の原の観音堂(江原三-一二)と呼ばれる地の境内に移されている。
  
 「四ツ塚」のあった道を、中野区教育委員会は「江戸道」としているが、和田山Click!(井上哲学堂Click!)に和田氏Click!の館があったという伝承が語れ継がれてきた地元では、「鎌倉街道」と位置づけられていたのがわかる。塚のふくらみを避けるように、塚と塚との間へ古くからの道路が敷設されているのも興味深い。
 「四ツ塚」からは、「兜や刀のくさったもの」が出土したとされているが、古墳期の武人ももちろん直刀や兜(冑)を装備していたので、いつの時代のものかは不明だ。あるいは、「兜や刀のくさったもの」が塚の表面近くから出土したとすれば、中野教育委員会が推定するように江古田が原の戦いで戦死した豊島氏や太田氏の死者を、「屍家伝説」などが残るより古い塚へ合葬していたかもしれず、地中には玄室や羨道などさらに古い時代の遺構が眠っていたかもしれない。
 ひとつ、気になる絵画がある。片多徳郎Click!が下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエで暮らしていた時代、1931年(昭和6)に制作された『若葉片丘』Click!という作品だ。画面の左手には斜面が描かれているが、その上部に取ってつけたような人工的に見える築土がとらえられている。付近を散歩して風景画Click!を描いていた片多徳郎は、いまだ耕地整理のままで住宅が存在しなかった葛ヶ谷地域(現・西落合)へ出かけていやしないだろうか?
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金井塚周辺.JPG
片多徳郎「若葉片丘」1931.jpg
 画面の人工的に見えるふくらみが、周辺の地形からして「四ツ塚」だとは思えないが、起伏が多い葛ヶ谷地域で他の場所を描いた際、画面に期せずして取り入れてしまった塚のひとつである可能性がある。ふくらみの上に大きく繁る老木を見ても、この不自然な地形の盛り上がりに、なんらかの故事や謂れが付随していたと考えても不自然ではない。

◆写真上:葛ヶ谷村(現・西落合3丁目)にあった「四ツ塚」跡の十字路を、カーブする旧・鎌倉道(江戸道)の西側から眺めたところ。
◆写真中上は、大正期の1/10,000地形図に描きこまれた「四ツ塚」と「金井塚」。(『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』より) は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「四ツ塚」跡。西北と南東の角に、塚跡とみられる痕跡が残っているようだ。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の火保図にみる「四ツ塚」跡。西北側の敷地境界線に、丸みを帯びた「四ツ塚」のひとつらしい痕跡が残っている。は、1941年(昭和16)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「四ツ塚」跡とその周辺。
◆写真下は、交差点から西を眺めた「四ツ塚」跡。右手の北西側の塚が、戦前まで痕跡をとどめていたようだ。は、「金井塚」近くの住宅街。は、画面左手に盛り土らしい人工的な「塚」状の地形が描かれた、1931年(昭和6)制作の片多徳郎『若葉片丘』。

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