前回Click!につづき、1955年(昭和30)出版の『新宿区史』(新宿区役所)に収録された、今回は上落合の風景写真について撮影場所を特定してみよう。上落合は、二度にわたる山手空襲Click!により、ほぼ全域が焦土と化した街なので、戦後の新たな区画整理や道路敷設などにより、街並みがめまぐるしく変化している。
まず、遊具が設置され子どもたちが大勢遊んでいる、冒頭写真の児童公園から見ていこう。この撮影場所の特定は、かなり容易だった。この公園はすでに廃止されて久しいが、上落合2丁目787番地にある最勝寺の境内南側に設置されていた児童公園だ。公園の背後には、最勝寺の墓苑に並ぶ墓石がとらえられている。カメラマンは、クルマの往来がそれほど頻繁でない、開通してから4~5年が経過した改正道路(山手通り)Click!から西を向いて撮影している。
当時、画面の右枠外には、公園に隣接するように戸塚警察署の上落合派出所があり、その向こう側には最勝寺の大きな本堂の屋根が見えていたはずだ。また、公園の手前路上には、太い丸太が何本も置かれているが、これから新たに設置・架設される電柱用の資材だろう。墓地の中には、現存するコンクリートの納骨堂もとらえられている。ブランコの脇に、赤ん坊を背負った母親の姿が見えるが、敗戦から10年がたち、子どもたちがのびのびと遊ぶ姿を眺めながら、平和な時代を噛みしめている姿なのかもしれない。
つづいて2枚目の写真は、まるで空襲後の焼け跡か廃墟のようなガレキだらけのエリアを写したものだが、これは特に説明の必要もないだろう。上落合の神田川沿い、前田地区Click!に展開していた工場街や住宅街の一帯を東京都が丸ごと買収し、看板にもあるとおり「落合下水処理場」(現・落合水再生センターClick!)の建設工事に着手したのを記録した写真だ。敷地内には、いまだ団地や民家の建物が残っているのが見えるが、1964年(昭和39)の運転開始までにすべてが解体され、下水処理施設(水再生施設)Click!と公園や野球場、テニスコートなどが建設されている。
同施設は、地元の新宿区はもちろん中野区、渋谷区、世田谷区の全域をはじめ、杉並区、豊島区、練馬区の一部エリアを含め、東京23区の西北部に位置する人口が多い街の、ほぼ全域の下水処理を担当するために建設されたものだ。落合水再生センターで浄化処理される水質Click!は年々向上しつづけ、神田川Click!に多種多様な生物がもどったのは何度か記事Click!にも書いている。同センターで浄化された水は、地元の神田川ばかりでなく、渋谷川や古川、目黒川の事実上の“源流”(いわば給水源)となっている。したがって、この3つの河川も神田川につづき、水質が徐々に改善されているのではないだろうか。
さて、「落合下水処理場建設用地」の写真にもどろう。カメラマンは、前田地区に建っていた旧・小松製薬工場の正門前から東を向いて撮影しているが、この正門前の道路はすべて下水処理場や公園の下になってしまい、現在は撮影ポイントに立つことができない。これは、次にご紹介する上落合の写真にも関わってくるテーマだが、下落合の聖母坂Click!を下り、下落合駅西側の踏み切り(下落合1号踏切)をわたって小滝橋Click!まで通う、戦前から関東バスClick!の路線が走っていたこの道は、道路西側の住宅街ともども東京都に買収され、下水処理場の建設がスタートすると同時に、バス通りはさらに西側へ南北に敷設しなおされることになった。
すなわち、この写真を撮影したカメラマンは、現在の落合中央公園に設置されているドッグラン広場の西端あたりから、東側のテニスコートや処理施設のほうを向いて撮影していることになる。写真にとらえられた、戦前にはちょうど明星小学校Click!があった位置に建っている団地は、小松製薬の社宅か都営アパートかは不明だが、戦後の住宅難だった時期に建てられた集合住宅だったのかもしれない。
『新宿区史』(1955年)に収録された3枚目の写真は、上落合1丁目の住宅街を撮影した写真とのキャプションがあるが、この場所の特定にかなり手間どってしまった。結果からいえば、写真に写る路地の奥の半分は、下水処理場と新たなバス通りの下になってしまい現存していない。撮影場所の特定でキメ手になったのは、陽射しの様子から右手が南であり、カメラマンは西から東を向いて撮影している点と、路地が奥までまっすぐに貫通しておらず、途中で鍵型にクラックしている形状の道筋がポイントだった。
路地の突きあたり、T字状になった横の道が戦前からの旧バス通りであり、奥に見える住宅や商店とみられる建物は、2年後に撮影された1957年(昭和32)の空中写真を見ると、ほぼすべてが解体されている。そして、1963年(昭和38)撮影の空中写真では、西寄りに改めて敷設された新たなバス通りが開通しているので、一帯の解体工事は1960年(昭和35)前後に終了しているのだろう。
空中写真には、この路地の北側にふたつの大きな屋根がとらえられているが、1957年(昭和32)の時点ではいまだ建設中のアパート「静風荘」の屋根だ。翌1958年(昭和33)6月に竣工する静風荘の2棟(1号棟/2号棟)だが、いまでも当時の建物をそのまま目にすることができる。わたしが親から独立し、学生時代に借りていた築30年の古いアパートに似て懐かしいが、現在でも周辺の学生たちが部屋を借りているのだろうか。最近、外壁をグレーにリフォームして築62年には見えなくなった。
『新宿区史』(1955年)には、ほかにも当時の街並みを撮影した写真が数多く掲載されている。ちょうど1960年代の高度経済成長期に入る直前、新宿エリアで見られた街や風景をとらえた写真類だが、また気になる画面を見つけたら改めて記事を書いてみたい。
◆写真上:1955年(昭和30)の『新宿区史』に掲載された、上落合の最勝寺境内にあった児童公園。公園の背後には墓地が見えており、本堂は画面の右手枠外にある。
◆写真中上:上は、1957年(昭和32)の空中写真にみる最勝寺の児童公園と撮影ポイント。山手通りは、まだクルマの往来がかなり少ない。中は、1963年(昭和38)に撮影された同公園で、最勝寺前の山手通りには横断歩道が設置されている。下は、山手通りの横断歩道から見た最勝寺の現状で、児童公園は画面左手の枠外にあった。
◆写真中下:上は、1955年(昭和30)の『新宿区史』に掲載された整地作業が行われている落合下水処理場建設用地。中は、1957年(昭和32)の空中写真にみる小松製薬工場跡の撮影ポイント。下は、落合水再生センターの現状。
◆写真下:上は、同じく『新宿区史』に掲載された上落合1丁目の路地。中は、1957年(昭和32)の空中写真にみる撮影ポイントで路地奥の住宅街が解体されている。下は、1963年(昭和38)の空中写真で新たなバス通りが敷設されているのがわかる。