1970年代のTVから流れてくるドラマには、ひとつのブームというか傾向があったように思う。明るいドラマや、希望に向かって走るようなストーリーももちろんあったが、恋愛関係や家族・親族関係がにっちもさっちもいかなくなるほど、これでもかと思うほどドロドロでグチャグチャな状況になり、ついには破滅するか「別れ」「旅立ち」のあと虚無の世界へと入りこむか、ヘタをすると主人公が自死してしまうような筋立ての作品だ。きっと、こういうメロドラマや愛憎劇の人気が高く、視聴率が稼げてた時代でもあったのだろう。ちょうど、現代では韓流ドラマに一定の視聴者がついているように……。
このような作品の一例として以前、木下恵介Click!の『冬の雲』Click!について触れた記事をアップしたけれど、そこでも書いたように「だから、大のオトナが雁首そろえて、いったいなにがどうしたってんだよう?」……と感じてしまう、繊細な神経を持ちあわせていないわたしは、このような感覚の物語とは生来、とことん相性が悪くて無縁なのだろう。よほど好きな俳優が出演してでもいない限り、まずはTVを消すかTVの前を離れていた。それでも、当時は続々とこのテの作品(メロドロ・ドラマ)が撮られていたようなので、視聴率はかなり高くスポンサーも喜んで出資していたのではないかと思うのだ。
わたしの印象では、このようなドラマの原作は渡辺淳一(この作家の作品は、おそらくこれまで2冊とは読んでいないと思う)あたりで、細川俊之あるいは芦田伸介などによるとっても思わせぶりな、だけどまったく意味不明なナレーションが入ったりする、たとえばこんな作品Click!だろうか。こういう画面が映しだされると、わたしは「そろそろ勉強してきま~す!」とかいって、さっさと自分の部屋に引きあげ、好きなラジオ放送を聴きながら絵を描いて遊んでいたような気がする。親たちもきっとホッとして、子どもに見せるにはちょっと早すぎると思われるこういう作品を、おそらく安心して楽しんでいた(またはチャンネルを変えたのかな?) のではないだろうか。
なんだろう……、ウジウジといつまでも引きずっている苦悩や葛藤など自身の内面生活を、登場人物の台詞や行動でさりげない表現として提示するならともかく、それをドラマのメインテーマにすえて延々と、または遅々として、ナレーションに依存した内向的で動きのない無意味なシーンを繰り返すような映画やドラマは、わたしとしてはともかくカンベンしてほしい作品なのだ。
観ていて退屈きわまりないし、しかもたいがいウジウジしている主人公には、イラ立たしさを通りこして腹が立ってくる。「あんたが主体的に選択して招来した結果的課題であり状況なのだから、早く自分できちんと認識して考え、グチッてないで新たな意思決定をするなり選択するなりして、なんとか解決しろよ。大のオトナがなにやってんだ、周囲に甘えてんじゃねえぞ」……とかなんとか、映画やドラマの作り手にはまことに申しわけないが、身もフタもないようなことをいいたくなるのだ。
「苦しい」「哀しい」「わびしい」「寂しい」的な苦悩感情を、思いっきり表にだして“自己主張”する人間、自身が抱える悩みあるいは不満のグチや、人の悪口をどこかで吐きださないと気が済まない人間、相手が嫌な気分になって落ちこもうが、グチを聞かされる側の精神衛生が悪くなろうが、他者の気持ちに思いやりや配慮もせず、周囲を巻きこみながら自分だけ「吐き出してスッキリ」すればいいと考えているような人間は、オトナの矜持をもたない子ども同然の典型的な「自己中心主義」の人物にちがいない。
汝ら断食せるとき、偽善者の如く悲しき面持ちをすな (「マタイ伝」6章より)。
そんな人間たちが、映画やドラマの中で跋扈して、自ら招来した結果に苦悩するのを延々と見せられたら、嫌悪感とともにウンザリするのはあたりまえだろう。
やや横道にそれるけれど、上記に引用した『野わけ』(1975年/よみうりテレビ)というドラマは、もちろんわたしは観ていないが、細川俊之のナレーションが面白いので、ちょっと気晴らしに遊んでみたい。同ドラマの冒頭から、少し引用してみよう。
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野わけ(野分・野わき)とは/野の草を吹き分ける風/秋に吹く疾風(はやて)……
野わけの風は/それはたとえば/女の涙のかわき……
野の果てに消える/女の生命(いのち)である
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細川俊之の甘い声音で、なんとなくムズムズしてくるが、いくら“女の詩情”を詠った文章だとしても、これでは日本語がおかしくて意味が通らないだろう。
1行目の「野わけ」の規定は、「広辞苑」でも参照したような解釈なので辞書的な引用記述にすぎないが、2行目の「野わけの風」=「女の涙のかわき」と規定するレトリックは、いったいなんだろう? 疾風(野わけ)の風という、「頭が頭痛」「馬から落馬」と同様の重言も気になるが、「風」=「女のドライアイ」wないしは「風」=「女の涙も枯れはてた深い悲しみ(?)」という規定は、どう考えても「たとえば」で持ちだす比喩にしては、あまりにもほど遠いし、感覚としてもつながらないし馴染まない。
ましてや、「野わけ」が「野の果てに消える/女の生命である」にいたっては、仮に野をかき分ける「風」を内向的で悩み多き「女」自身の喩えと解釈しても、そんな女性がいさぎよく疾風のように去り、吹きぬけて消えてゆく、まるで月光仮面のようなダイナミックですばやい動きや生き方ができるかどうかは、はなはだ疑問だ。むしろ、いき詰まり遅々として思い悩んでいるからこそ、成立するドラマなのではなかったか。つまり、「野わけ」とヒロインの「女」とは、同一の文脈上で語られるべきものではなく、むしろ“二項対立”の言葉なのでは?……と、これまた身もフタもないことを感じてしまい、大きなお世話ながら心配になってしまう『野わけ』のプロローグなのだ。
さて、話はまったく変わり、またまた下落合が登場している最近のドラマClick!を見つけたのでご紹介したい。2016年(平成28)にWOWOWで制作された、『双葉荘の友人』(監督・平松恵美子/脚本・川崎クニハル)だ。同作の一部のシーンでロケーションが行われているのは、下落合の急斜面に通う久七坂Click!の界隈で、舞台の設定は横浜市中区の丘陵地帯、「梶原台4-9」(架空の地名・地番)ということになっている。
“事故物件”のテラスハウス「双葉荘」に引っ越してきた若夫婦が主人公だが、そこで以前に住んでいた貧乏な画家夫妻の幽霊に遭遇してしまうというストーリーだ。これだけだと、「ほんとにあった怖い話」系のありがちな心霊ドラマのようだが、本作は恐怖が目的ではなく幽霊たちが紡ぎだす過去の情景を通じて、かつて「双葉荘」で起きた事件の真相を徐々にあぶりだしていく……というミステリー仕立ての展開となっている。
やがて、加害者の家に保存されていた画家のタブローが発見され、ほぼ同時に主人公の実家にも同じ画家の作品が遺されていることに気づき……と、こんがらがったミステリーの糸が徐々に解きほぐされていくという展開だ。どこか、英国のR.ウェストールが描くゴースト小説を連想させる、日本ではめずらしい香りの物語となっている。
久七坂が登場するのは、「双葉荘」の大家宅が坂道を上った丘上にある日本家屋という設定で、不動産屋に案内された若夫婦が訪ねていくというシチュエーションだ。120分ほどの長さの作品だが、地上波のいわゆる「2時間サスペンスドラマ」とはまったく異質で、俳優たちの演技もなかなかリアルでうまく、映画にしてもいいようなかなり質の高い、出来のいい仕上がりとなっている。下落合がロケ地のひとつに選ばれているのは、どこかで美術Click!や画家Click!つながりが意識されたからだろうか? それとも、元・個人邸の「ユアーズ」Click!と坂道というロケーションが、作品にマッチしたからだろうか。
凝っていて面白いのは、住所表示の青いプレート「新宿区下落合四丁目3」や、電柱の歯科医看板に付属している緑色の「下落合4-3」の上に、「中区梶原台四丁目9」や「梶原台4-9」のシールをうまくかぶせて貼りつけていることだ。そして、西新宿の都庁をはじめとする高層ビル群が見えないよう(横浜市中区の設定なので)、うまく画角を調整して坂下に建っていた青い屋根の日本家屋(現在は建て替え中)と、西武新宿線・下落合駅前のマンション「下落合パークファミリア」を入れて撮影している。
ただひとつ残念なのは、加害者宅と主人公宅に「偶然」遺されていた死んだ画家の作品が、お世辞にもうまいとはいえないタブロー(の小道具)の画面だったことだ。どう見ても、プロの手によるものではなく、素人(あるいは画家の卵)が描いたとしか思えないような技量の出来だった。きっと、BSドラマということで予算枠が厳しかったのか、小道具にまで潤沢な経費をかける余裕がなかったのだろう。
久七坂筋は、なぜか「怪談」系ドラマのロケーションに好まれるのか、2013年(平成25)に放映された「ほんとにあった怖い話」(フジテレビ)の『影の暗示』でも、ビジネススーツ姿の深田恭子が、黒い不吉な影を追いかけて走りまわる舞台としても登場している。
◆写真上:青い屋根の邸が解体される以前の、坂上から見下ろした久七坂。
◆写真中上:1975年(昭和50)に放映された、『野わけ』(フジテレビ)のタイトルバック。
◆写真中下:2016年(平成28)に制作された『双葉荘の友人』(WOWOW)の久七坂シーンとその現状で、中腹の青い屋根の大きな邸はすでに建て替え工事中だ。
◆写真下:上左は、DVD『双葉荘の友人』(TCエンタテインメント)パッケージでキャッチフレーズは「同じ景色を眺めていた、誰かがいた」。上右は、生涯読みそうもない1974年(昭和49)の女性誌「non-no」に連載された渡辺淳一『野わけ』(集英社)。下は、下落合でも屈指の急坂である久七坂を駆けあがる深田恭子で、聖母坂から久七坂筋への駆けあがりも含めかなりきつい仕事だったろう。2013年(平成25)放映の『影の暗示』(フジテレビ)より。