高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の全商店Click!・全事業所Click!の調査を実施し、「貧乏線調査」Click!と「衛生環境調査」Click!を集計して『我が住む町』Click!のレポートにまとめた自由学園の女学生たちは、1924~25年(大正13~14)の4月から3月まで、どのような学生生活を送っていたのだろうか。その前年に起きた、関東大震災Click!に関するエピソードについては改めて記事にするとして、きょうは社会調査が行われた1924年度の学園内の様子をご紹介したい。
まず、4月には第4回入学式が行われ、新たに本科33名、予科17名、高等科20名が入学している。予科というのは、自由学園の本科卒業ではなく、通常の女学校(4年間)を出た女子たちが、同学園の高等科へ進学するための教養課程のようなクラスだった。それほど、自由学園の高等科は講義内容のレベルが高く、一般の女学校を卒業しただけでは講義内容についていけないため、1922年(大正11)より高等科の準備クラスである予科が設置されていた。また、高等科卒業生のために、大学の専門課程のような研究科も1923年(大正12)より設けられている。
当時の女学校の多くは、家政科を中心に「よりよい結婚」と「よき妻」になるための技能習得が目的でカリキュラムが組まれ、相応の教師たちが配置されていた。目白の日本女子大学でさえ、長沼智恵子Click!がそうだったように、家政学があるために親が「大学」と名のつく学校へ入学を許したケースも多い。ところが、自由学園のカリキュラムはまったく異なっており、女性が社会に進出して「職業婦人」になり、自主独立の人生を送ることを前提とするカリキュラムが組まれていた。
もし結婚するとしても、それは人生のひとつのエピソードにすぎず、あくまでも自身が主体的に生きていくための知識と教養、そして技術を身につけるのが目標だった。したがって、高等科の講師陣には大学教授もめずらしくなく、彼らは大学での講義とさほど変わらない授業内容で彼女たちを教えていた。同年4月、ちょうどこの年はドイツの哲学者イマヌエル・カントの生誕200年にあたるため、高等科では寄宿舎でカント200年記念祭を行い、女学生たちは哲学論文の発表会を行っている。
4月末の本科生全員による春の遠足は、池袋駅から東部東上線で志木駅まで足をのばし、野火止用水で有名な平林寺まで出かけている。帰りは南側を走る武蔵野鉄道の東久留米駅まで歩き、そこから自由学園が近い池袋駅へと帰着している。従来の遠足が、目白通りから新青梅街道を歩いて井上哲学堂Click!を訪問していた「近足」だったのに比べると、この年はかなりの遠出となった。
5月に入ると、関東女子軟式庭球大会が開かれ、自由学園は本科1、2年の試合で優勝している。大正末はテニスブームだったので、女学生たちは休み時間になるとテニスコートに走っては熱心に練習をしていた。夕方になると、当時のデビスカップ出場選手だった原田武一、熊谷一弥、安部民雄の3選手が、彼女たちにテニスを教えに来園していた。本科は軟式テニスだったが、高等科は硬式テニスを練習している。
6月になると、米国ウェルスレー大学(Wellesley College)の英文科主任教授だったハート教授が来校して講演している。また、同月には北京大学と広東大学から50名を超える学生たちが自由学園を訪問し、それぞれ中国語や英語、日本語によるスピーチ交換会が開かれた。7月10日には、本科と高等科の4ヶ月遅れにあたる卒業式が開催されている。前年の2学期は、関東大震災による被災者の支援活動でほとんど授業ができなかったので、1学期分の授業が1924年(大正13)の7月までずれこんでいたためだ。
夏休みを迎えると、この年から「夏休み報告書」の作成という宿題が出されるようになった。夏休み中の生活の様子や家族旅行、活動、健康、2学期からの学習についてなど、レポートのテーマはかなり自由で幅が広かったようだ。9月11日に2学期の始業式が開かれた直後から、夏休み報告会が開かれてめいめいのレポートが発表されている。その報告を聞いた羽仁もと子は、1950年(昭和25)に婦人之友社から出版された著作集の『教育三十年』の中で、次のような感想を書いている。
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真実な夏休み報告を通して伝わってくる、自由学園に対する世間の眼が、大概は冷たかった。一人一人の家庭においても、同情と反感を相半ばするといってよかった。しかしこの悪評の中にも、私たちの反省させられること、さまざまの意味で深き参考となるものもあった。
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大正末、女学生へ高度な教育をほどこし、主体性を身につけさせて自立した「職業婦人」を輩出しようとするような学校が、「世間」から好評で迎えられるはずはなかった。女は経済的に男に頼り、「家」を継ぐ子どもを生んで育てる一生があたりまえで常識だった時代に、教育分野の保守勢力からの攻撃も数多くあったのだろう。また、従来にはない斬新で革新的なことをはじめることで必ず起きる、旧態勢力からの反発や反動も大きかったとみられる。それでも、大正デモクラシーの社会的な思想を反映してか、娘を自由学園へ通わせる家庭は少なくなかった。
2学期がはじまると同時に、海老茶に白文字で「JIYU」マークがデザインされた七宝焼きのバッジが、学園生全員に配られた。10月に入ると、秋の遠足が催され本科1、2年生は筑波山へ日帰り、本科の高学年と高等科は日光へ2泊3日の旅行に出かけている。また、11月には第2回絵画展覧会が校舎で開かれ、美術教師の木村荘八Click!らが展示作品を選ぶだけで、やることがなく手をこまねいて見ていた様子は、すでに記事に書いたとおりだ。そして、放課後のスポーツの練習など“部活”で帰宅が遅くなる女学生が急増し、家庭からも苦情がたびたび寄せられたため、初めて下校時間が設定されている。
この秋、羽仁夫妻の自邸を近くの畑地に移築し、もとの敷地を自由学園寄宿舎に建て替える工事がスタートしている。この工事で運動場がやや広くなり、テニスコートが1面と新たにバスケットボールのコートも新設された。ほぼ同時に、自由学園の学科や教育方針、学園生活などを解説した案内パンフレット(28ページ)を制作し、入学希望者をはじめ各方面に配布している。
1925年(大正14)の3学期を迎えると、父母の会から寄贈された自転車6台に加え、新たに学園で6台の自転車を購入し、にわかに自転車ブームが起きている。放課後に練習する女子たちが増え、またしても下校時間が遅くなっただろう。そして、次年度の秋の運動会から、自転車行進がプログラムに加わることになった。校舎内では、食堂の中央に書棚を設置し、学園図書館の前身となる図書コーナーが新たに設けられ、図書の貸し出しや返却を管理する図書委員が決められた。
そして、新学期の開始と同時に、高等科では高田町四ツ家344番地(現・高田1丁目)に住む早大教授の安部磯雄Click!に依頼して、本格的な社会調査の勉強と下準備をはじめているとみられる。高等科2年生を中心に、各戸や商店、企業などに向けた調査趣旨や各種質問票がつくられ、高田町の全戸を対象に配布・調査を実施している。その調査結果はレポート『我が住む町』としてまとめられ、同年5月に自由学園から出版(非売品)され、同時に地元の自治体である高田町町役場へと提出されている。
そのときの様子を、1985年(昭和60)に婦人之友社から出版された、自由学園女子部卒業生会・編『自由学園の歴史1 雑司ヶ谷時代』から引用してみよう。
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安部磯雄先生のご指導で、高田町戸数八〇〇〇の区域に挑戦、高等科二年は一月の末から貧窮調査に当たり、地域全体の衛生設備、職業別の調査には全校生徒が参加した。二月二十六、七の両日、全校を縦に六班に分け、本科一、二年生も一軒一軒歩いてまわった。この調査は後に一〇〇頁のパンフレットにまとめられた。
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また、高田町調査を終えた高等科2年生は、卒業を間近にひかえ羽仁もと子とともに関西や九州方面への卒業旅行に出発している。
同年の3月21日は、日本で初めてラジオ放送が開始された日で、自由学園の理科(鉱物学)教師だった和田八重造は、さっそく鉱石ラジオを学園内に持ちこんで設置している。夜になると、放送予定の音楽を楽しみに聴きに集まってきた女学生たちは、「本日は晴天なり、只今マイクの試験中」の声しか聞こえてこなかったため、少なからずガッカリしたようだ。
◆写真上:高田町1148番地に建設された、羽仁吉一・もと子邸跡の自由学園寮。ほどなく学園寮は田無町南沢に移転し、婦人之友社の社屋が建設されている。
◆写真中上:上は、カフェテラスのような自由学園寮の食堂。中は、夕暮れの婦人之友社。下は、1925年(大正14)3月に行われた高等科2年の卒業旅行。羽仁もと子を囲んでいる女学生たちが、社会調査『我が住む町』を実施したメンバーClick!だ。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)撮影の大谷石の石畳を掃除する本科の女学生たち。中は、1926年(大正15)に撮影された学生委員会(自治組織)の委員長を選ぶ総選挙コラージュ。下は、1928年(昭和3)に完成した自由学園消費組合の建物。
◆写真下:上は、1921年(大正10)撮影の山本鼎Click!による美術授業で、大正中期とは思えない少女たちの装いに注目したい。中上は、1926年(大正15)発行の第4回自由学園美術展記念絵はがき『静物』(作者不詳)。中下は、1931年(昭和6)撮影の近衛秀麿Click!+新響Click!+自由学園女声合唱団Click!による記念写真。このときの演奏は、ベートーヴェンNo.9とマーラーNo.3だった。下は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる高田町(大字)雑司ヶ谷(字)西谷戸大門原1148~1149番地の自由学園と婦人之友社。