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千代田区には、区立の「千代田小学校」という名称の小学校がある。1993年(平成5)に千桜小学校と神田小学校、それに永田町小学校の一部が合併して創立されたごく“新しい”小学校だ。でも、これってすごくまぎらわしいネーミングだ。
千代田小学校といえば、日本橋地域にお住まいの方なら、1876年(明治9)8月に幕府の馬調教所および馬場があった日本橋区馬喰町3丁目19番地に創立され、生徒数の増加から1910年(明治43)3月、薬研堀Click!(または元柳橋入堀Click!)の埋立地である日本橋区矢ノ倉町15番地(現・東日本橋1丁目)に移転した、おそらく戦前の東京ではもっとも露出度が高くて有名だった、東京市立の千代田小学校をイメージされる方が圧倒的に多いだろう。わが家では、維新直後は子どもが学齢期を迎えると浅草御門(浅草見附)Click!近くの校舎へ、明治末以降になると薬研堀の千代田小学校の校舎へと通っていただろう。
同校は、関東大震災Click!の教訓からコンクリート造りの、独特なデザインをした復興校舎の代表的な建築としても著名であり、記念絵ハガキも数多く制作されている。同校は戦災をくぐり抜け、1945年(昭和20)に統廃合されるまで70年間もつづいた小学校だ。戦後、同校の復興校舎は久松中学校へ、そして1974年(昭和49)に日本橋中学校Click!へと衣がえして現在にいたっている。子どものころ、このオシャレな元・小学校には何度か連れられていき、「ここが千代田小学校、東京大空襲からも焼け残ったんだ。中は丸焼けだったけどな」と親父から説明を受けていた。1960年代にこのあたりを歩くと、いまだ近くの床屋などから「カクちゃん!」(親父の愛称)と叫びながら、幼なじみがハサミを手に飛びだしてきていたような時代だ。つまり、東京市立千代田小学校は親父の母校だった。
当時のわたしは、「日本橋にあるのに、なんで千代田小学校なの?」と訊ねたところ、明治時代から歴代天皇が小学校を参観するとき、馬喰町時代から必ず日本橋のこの小学校に来校したので、千代田城Click!がある柴崎村千代田の地名(太田道灌Click!の時代)にちなんで名づけられたと教えられた。ちょうど、中元・歳暮の時期になると、NHKニュースが定番のように日本橋三越Click!へ取材するような感覚だ。これは、近所のワルガキ仲間だった1年先輩の親父いわく「田沼くん」Click!の証言とも一致する。1999年(平成11)に小学館から出版された「田沼くん」こと、三木のり平『のり平のパーッといきましょう』から引用してみよう。
▼
僕が通った小学校は、千代田小学校。僕の入る前の年か、その前の年から千代田小学校っていうようになったって聞いたね。天皇陛下が来られたっていうんで、それを記念して千代田小学校という名前になったらしい。千代田城の千代田をいただいたんだね。だから校章も菊のご紋章だよ。すごいだろ。すごかないか、べつに。(中略) この小学校は、うちから歩いて三分くらいのところにあった。駆けていけば1分半。だから、昼飯を食べに、うちに来た子が多かった。
▲
三木のり平の記憶は、おそらくどっかでこんがらがっていて、「千代田小学校」という名称は馬喰町時代から、つまり1876年(明治9)の当初から「第一大学区第一中学区十一番小学千代田学校」、つまり明治天皇が来校してからこの名称がついていた。つづいて、1908年(明治41)4月から「千代田小学校」に改称されている。田沼少年に説明した大人が、大きな勘ちがいをしていたのかもしれない。彼が通っていたころ、千代田小学校(小学千代田学校時代を含む)という名称は、すでに60年近い歳月を経ていた。
「田沼くん」こと三木のり平の実家は、浜町側で待合をやっていたので、美味しい料理がいつも潤沢に用意されていた。だから、小学校の昼休みにうまいもんClick!を食べに「田沼くんちにいこうぜ」と、友だちがたくさん押し寄せたのかもしれない。食いしん坊のうちの親父も、ひょっとすると出かけているだろうか。「田沼くんち」から千代田小学校まで徒歩3分だったようだが、旧・米沢町側にあったうちの実家から同校までは、ミツワ石鹸本社ビルClick!をまわって100m前後だから、おそらく徒歩1分だったろう。
三木のり平は、浜町で起きた「明治一代女」こと花井青梅事件(箱屋事件)Click!のことも、親や仲居・女中たちから教えられたのか詳しく知っている。
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たとえば、1978年(昭和53)に閉校して筑波大学に改編された国立の旧・東京教育大学だが、それからしばらくして東京都が新たに、「東京教育大学」という名称を「復活」させ、“新学校”をどこかに設立したら、旧・東京教育大の卒業生や筑波大の関係者たちは「え、なにそれ。どういうこと?」となるにちがいない。旧・東京教育大の出身者には、そのキャンパスや地域で延々と培われた歴史とアイデンティティがあり、筑波大でもその地域性とともにおそらく同様だろう。
千代田小学校は戦後、行政の教育合理化施策から隣りの神田の小学校との統廃合で名前が消え(「千桜小学校」となった)、しばらくたってはいたけれど、千代田区がその統廃合を根拠に新しい、というか先祖返りの「千代田小学校」を同区内に新設したら、創立以来、学区が異なる日本橋側にあった本来の千代田小学校の卒業生たちは、「ちょっと、そりゃないぜ!」となるだろう。中には、過去の伝統や育まれた校風、70年にわたる独自の教育文化まで、校名とともに日本橋側から神田側へなんとなくそっくり“横どり”されたように感じて、腹を立てる卒業生がいても不思議ではない。
確かに「千代田」の地名は千代田区にあるが、旧・日本橋区にあった学校の地域的な特徴や歴史的な経緯を無視して、史的にすでに定着している固有名詞を再び使いまわすのは(当事者たちは「復活」させたという意識なのかもしれないが)、明らかに混乱をまねくだろう。本来の千代田小学校の卒業生は、神田っ子だと誤解されかねないし、両方の時代にまたがって事情を知る人は、「千代田小学校って、それ日本橋と神田のどっちの話?」と、いちいち確認をとらなければならない。
現在、千代田区立の千代田小学校に在籍している生徒、あるいは卒業生たちが聞いたら気分を害するかもしれないけれど、子ども時代の重要なアイデンティティが育まれた、卒業生たちはもちろん東京ではこだわりの深い地域に密着した学校名を(旧・東京教育大のたとえを連想されたい)、気やすく別の自治体が別の地域で使いまわす配慮のなさに、ぜひ留意していただければと思う。
この校名を、もし千代田区教育委員会が1993年(平成5)に決定しているとすれば、その地域性や歴史を尊重しない姿勢が疑われてもしかたがない状況だ。どこか何百年、ときには千年以上つづいてきた地名を、まったく地元の歴史を知らない人間がいじりまわすClick!のにも似て、こういう歴史や地域性に慎重さや配慮のない姿勢がとても気になる。
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さて、千代田小学校が薬研堀Click!の埋め立て地に移転する前後、日本橋馬喰町から日本橋矢ノ倉町(現・東日本橋1丁目)への経緯を記録した文章を見つけたのでご紹介したい。当時の日本橋界隈は、子どもの就学数が急増しており、校舎を改築しても増築しても間に合わない状況が生じていた。ちょうど、大正末から昭和初期の落合地域と似たような課題が、その30~40年ほど前に日本橋地域で起きている。
1916年(大正5)に日本橋区役所から出版された、『日本橋区史』から引用してみよう。
▼
ついで(明治)二十三年九月十九日(千代田小学校の)校舎増築成り落成式を行ふ。増築校舎は二階建二十四坪(中略) 三十一年十二月四日、本校大部の改築工事成り落成式を行ふ。改築に係る校舎は二階建百二十九坪にして、附属家及諸費を合せ費額金八千四百七十六円余、(中略) 本校は従前改築屡々なりしが、就学児童の増加に由りて教場の狭隘を感じたるも、而も敷地に限りありて増築するに由なく、加ふるに門前は電車通なるを以て児童の往復に危険少なからざるを患ひ、好適地を得て移転をなさんと企画せしに、曾々市区改正設計に由れる元柳橋入堀埋築地に設けらるべき公園は、旧両国広小路に移されたれば、其の跡地、即ち矢ノ倉町十五番地四百八坪二合三勺、及び接続地十六.十七番地合五十五坪一合七勺を金二万二千六百十八円三十銭を以て払下げ、元柳河岸市有地二百三十二坪五合六勺を借用(中略) ついで四十二年七月工事に着手し、校舎総二階建二百十四坪七合五勺付属家其他を合せて(中略) 四十三年三月竣工せしを以て、同三十日落成式を挙ぐ、即ち現在の校舎なり。(カッコ内引用者註)
▲
「現在の校舎なり」と書いている、総2階建ての木造校舎は関東大震災の延焼で全焼し、わずか13年間しか使用できなかった。同書には、当時の千代田小学校校舎の平面図(1910年現在)が掲載されているが、震災後に建設されるコンクリート製の復興校舎とは、比べものにならないほど小規模で狭い。震災後に建設され、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!からも焼け残った校舎は、アールのきいた独特なデザインの屋上に展望台を備えた、総3階建ての鉄筋コンクリート製のビルディングだった。
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復興校舎の展望台から、両国の花火大会Click!を見るのは“特等席”だった。「夏祭りなんか大変だよ。小学校が御神酒所になって、町内の神輿Click!がみんな学校に集まる。花火大会もあるだろう。そうなると校庭が花火見物のための座席になっちゃうんだから。そう、夏といえば川開き。え、隅田川? そうだよ。でも、隅田川っていうのは浅草から先をいった。浅草までは大川っていう」と、三木のり平は千代田小学校を懐かしそうに回想している。
◆写真上:千代田小学校の展望台(屋上)から、大橋(両国橋)や大川(隅田川)をはさんで本所側を眺めた写真2葉。対岸の丸いドームは本所国技館Click!で左手奥が本所公会堂Click!だが、両国橋は関東大震災で被害を受けた姿のままで、校舎の左手にミツワ石鹸の本社ビルが未建設なので、1930年(昭和5)以前の昭和初期に撮影されたものと思われる。
◆写真中上:上は、東に張りだした校舎のウィングをとらえた写真。右手に見える小学校前の商店街では、江戸期からの伝統的な「鴨すき焼き」を食わせる「鳥安」Click!が営業しているはずだ。中上は、大川の川面から見た竣工直後の千代田小学校全景。中下は、京橋図書館に保存されている千代田小学校のファサードで左奥が大川にあたる。下は、復興校舎が竣工したあと参観に訪れた昭和天皇の人着記念写真。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる千代田小学校界隈。すでに両国橋が現在の橋に架け替えられ、そのたもとには「一銭蒸気(ポンポン蒸気)」の船着場が見えている。中は、空襲で焦土と化した東日本橋エリアと千代田小学校。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる東京大空襲Click!からも焼け残った千代田小学校の校舎。
◆写真下:上は、1910年(明治43)に薬研堀(矢ノ倉町)へ移転した当時の校舎平面図。中上は、大川から眺めた千代田小学校の跡地に建つ改修工事中の日本橋中学校で、右手のカゴメビルがミツワ石鹸本社ビル跡。中下は、千代田小学校の夏休み臨海学校で撮影された記念写真で、前列右からふたりめが「田沼くん」こと三木のり平。下は、親父が5年生の1936年(昭和11)に同じ場所で撮影された記念写真。三木のり平『のり平のパーッといきましょう』(小学館)のキャプションでは「場所不明」と書かれているが、千代田小学校の上級生徒たちが毎年臨海学校で訪れていたのは千葉県勝浦の興津海水浴場で、田沼家のアルバムと親父のアルバムでは小学校時代の記念写真がかなりの割合で重複しそうだ。
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千代田区には、区立の「千代田小学校」という名称の小学校がある。1993年(平成5)に千桜小学校と神田小学校、それに永田町小学校の一部が合併して創立されたごく“新しい”小学校だ。でも、これってすごくまぎらわしいネーミングだ。
千代田小学校といえば、日本橋地域にお住まいの方なら、1876年(明治9)8月に幕府の馬調教所および馬場があった日本橋区馬喰町3丁目19番地に創立され、生徒数の増加から1910年(明治43)3月、薬研堀Click!(または元柳橋入堀Click!)の埋立地である日本橋区矢ノ倉町15番地(現・東日本橋1丁目)に移転した、おそらく戦前の東京ではもっとも露出度が高くて有名だった、東京市立の千代田小学校をイメージされる方が圧倒的に多いだろう。わが家では、維新直後は子どもが学齢期を迎えると浅草御門(浅草見附)Click!近くの校舎へ、明治末以降になると薬研堀の千代田小学校の校舎へと通っていただろう。
同校は、関東大震災Click!の教訓からコンクリート造りの、独特なデザインをした復興校舎の代表的な建築としても著名であり、記念絵ハガキも数多く制作されている。同校は戦災をくぐり抜け、1945年(昭和20)に統廃合されるまで70年間もつづいた小学校だ。戦後、同校の復興校舎は久松中学校へ、そして1974年(昭和49)に日本橋中学校Click!へと衣がえして現在にいたっている。子どものころ、このオシャレな元・小学校には何度か連れられていき、「ここが千代田小学校、東京大空襲からも焼け残ったんだ。中は丸焼けだったけどな」と親父から説明を受けていた。1960年代にこのあたりを歩くと、いまだ近くの床屋などから「カクちゃん!」(親父の愛称)と叫びながら、幼なじみがハサミを手に飛びだしてきていたような時代だ。つまり、東京市立千代田小学校は親父の母校だった。
当時のわたしは、「日本橋にあるのに、なんで千代田小学校なの?」と訊ねたところ、明治時代から歴代天皇が小学校を参観するとき、馬喰町時代から必ず日本橋のこの小学校に来校したので、千代田城Click!がある柴崎村千代田の地名(太田道灌Click!の時代)にちなんで名づけられたと教えられた。ちょうど、中元・歳暮の時期になると、NHKニュースが定番のように日本橋三越Click!へ取材するような感覚だ。これは、近所のワルガキ仲間だった1年先輩の親父いわく「田沼くん」Click!の証言とも一致する。1999年(平成11)に小学館から出版された「田沼くん」こと、三木のり平『のり平のパーッといきましょう』から引用してみよう。
▼
僕が通った小学校は、千代田小学校。僕の入る前の年か、その前の年から千代田小学校っていうようになったって聞いたね。天皇陛下が来られたっていうんで、それを記念して千代田小学校という名前になったらしい。千代田城の千代田をいただいたんだね。だから校章も菊のご紋章だよ。すごいだろ。すごかないか、べつに。(中略) この小学校は、うちから歩いて三分くらいのところにあった。駆けていけば1分半。だから、昼飯を食べに、うちに来た子が多かった。
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三木のり平の記憶は、おそらくどっかでこんがらがっていて、「千代田小学校」という名称は馬喰町時代から、つまり1876年(明治9)の当初から「第一大学区第一中学区十一番小学千代田学校」、つまり明治天皇が来校してからこの名称がついていた。つづいて、1908年(明治41)4月から「千代田小学校」に改称されている。田沼少年に説明した大人が、大きな勘ちがいをしていたのかもしれない。彼が通っていたころ、千代田小学校(小学千代田学校時代を含む)という名称は、すでに60年近い歳月を経ていた。
「田沼くん」こと三木のり平の実家は、浜町側で待合をやっていたので、美味しい料理がいつも潤沢に用意されていた。だから、小学校の昼休みにうまいもんClick!を食べに「田沼くんちにいこうぜ」と、友だちがたくさん押し寄せたのかもしれない。食いしん坊のうちの親父も、ひょっとすると出かけているだろうか。「田沼くんち」から千代田小学校まで徒歩3分だったようだが、旧・米沢町側にあったうちの実家から同校までは、ミツワ石鹸本社ビルClick!をまわって100m前後だから、おそらく徒歩1分だったろう。
三木のり平は、浜町で起きた「明治一代女」こと花井青梅事件(箱屋事件)Click!のことも、親や仲居・女中たちから教えられたのか詳しく知っている。
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たとえば、1978年(昭和53)に閉校して筑波大学に改編された国立の旧・東京教育大学だが、それからしばらくして東京都が新たに、「東京教育大学」という名称を「復活」させ、“新学校”をどこかに設立したら、旧・東京教育大の卒業生や筑波大の関係者たちは「え、なにそれ。どういうこと?」となるにちがいない。旧・東京教育大の出身者には、そのキャンパスや地域で延々と培われた歴史とアイデンティティがあり、筑波大でもその地域性とともにおそらく同様だろう。
千代田小学校は戦後、行政の教育合理化施策から隣りの神田の小学校との統廃合で名前が消え(「千桜小学校」となった)、しばらくたってはいたけれど、千代田区がその統廃合を根拠に新しい、というか先祖返りの「千代田小学校」を同区内に新設したら、創立以来、学区が異なる日本橋側にあった本来の千代田小学校の卒業生たちは、「ちょっと、そりゃないぜ!」となるだろう。中には、過去の伝統や育まれた校風、70年にわたる独自の教育文化まで、校名とともに日本橋側から神田側へなんとなくそっくり“横どり”されたように感じて、腹を立てる卒業生がいても不思議ではない。
確かに「千代田」の地名は千代田区にあるが、旧・日本橋区にあった学校の地域的な特徴や歴史的な経緯を無視して、史的にすでに定着している固有名詞を再び使いまわすのは(当事者たちは「復活」させたという意識なのかもしれないが)、明らかに混乱をまねくだろう。本来の千代田小学校の卒業生は、神田っ子だと誤解されかねないし、両方の時代にまたがって事情を知る人は、「千代田小学校って、それ日本橋と神田のどっちの話?」と、いちいち確認をとらなければならない。
現在、千代田区立の千代田小学校に在籍している生徒、あるいは卒業生たちが聞いたら気分を害するかもしれないけれど、子ども時代の重要なアイデンティティが育まれた、卒業生たちはもちろん東京ではこだわりの深い地域に密着した学校名を(旧・東京教育大のたとえを連想されたい)、気やすく別の自治体が別の地域で使いまわす配慮のなさに、ぜひ留意していただければと思う。
この校名を、もし千代田区教育委員会が1993年(平成5)に決定しているとすれば、その地域性や歴史を尊重しない姿勢が疑われてもしかたがない状況だ。どこか何百年、ときには千年以上つづいてきた地名を、まったく地元の歴史を知らない人間がいじりまわすClick!のにも似て、こういう歴史や地域性に慎重さや配慮のない姿勢がとても気になる。
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さて、千代田小学校が薬研堀Click!の埋め立て地に移転する前後、日本橋馬喰町から日本橋矢ノ倉町(現・東日本橋1丁目)への経緯を記録した文章を見つけたのでご紹介したい。当時の日本橋界隈は、子どもの就学数が急増しており、校舎を改築しても増築しても間に合わない状況が生じていた。ちょうど、大正末から昭和初期の落合地域と似たような課題が、その30~40年ほど前に日本橋地域で起きている。
1916年(大正5)に日本橋区役所から出版された、『日本橋区史』から引用してみよう。
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ついで(明治)二十三年九月十九日(千代田小学校の)校舎増築成り落成式を行ふ。増築校舎は二階建二十四坪(中略) 三十一年十二月四日、本校大部の改築工事成り落成式を行ふ。改築に係る校舎は二階建百二十九坪にして、附属家及諸費を合せ費額金八千四百七十六円余、(中略) 本校は従前改築屡々なりしが、就学児童の増加に由りて教場の狭隘を感じたるも、而も敷地に限りありて増築するに由なく、加ふるに門前は電車通なるを以て児童の往復に危険少なからざるを患ひ、好適地を得て移転をなさんと企画せしに、曾々市区改正設計に由れる元柳橋入堀埋築地に設けらるべき公園は、旧両国広小路に移されたれば、其の跡地、即ち矢ノ倉町十五番地四百八坪二合三勺、及び接続地十六.十七番地合五十五坪一合七勺を金二万二千六百十八円三十銭を以て払下げ、元柳河岸市有地二百三十二坪五合六勺を借用(中略) ついで四十二年七月工事に着手し、校舎総二階建二百十四坪七合五勺付属家其他を合せて(中略) 四十三年三月竣工せしを以て、同三十日落成式を挙ぐ、即ち現在の校舎なり。(カッコ内引用者註)
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「現在の校舎なり」と書いている、総2階建ての木造校舎は関東大震災の延焼で全焼し、わずか13年間しか使用できなかった。同書には、当時の千代田小学校校舎の平面図(1910年現在)が掲載されているが、震災後に建設されるコンクリート製の復興校舎とは、比べものにならないほど小規模で狭い。震災後に建設され、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!からも焼け残った校舎は、アールのきいた独特なデザインの屋上に展望台を備えた、総3階建ての鉄筋コンクリート製のビルディングだった。
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◆写真上:千代田小学校の展望台(屋上)から、大橋(両国橋)や大川(隅田川)をはさんで本所側を眺めた写真2葉。対岸の丸いドームは本所国技館Click!で左手奥が本所公会堂Click!だが、両国橋は関東大震災で被害を受けた姿のままで、校舎の左手にミツワ石鹸の本社ビルが未建設なので、1930年(昭和5)以前の昭和初期に撮影されたものと思われる。
◆写真中上:上は、東に張りだした校舎のウィングをとらえた写真。右手に見える小学校前の商店街では、江戸期からの伝統的な「鴨すき焼き」を食わせる「鳥安」Click!が営業しているはずだ。中上は、大川の川面から見た竣工直後の千代田小学校全景。中下は、京橋図書館に保存されている千代田小学校のファサードで左奥が大川にあたる。下は、復興校舎が竣工したあと参観に訪れた昭和天皇の人着記念写真。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる千代田小学校界隈。すでに両国橋が現在の橋に架け替えられ、そのたもとには「一銭蒸気(ポンポン蒸気)」の船着場が見えている。中は、空襲で焦土と化した東日本橋エリアと千代田小学校。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる東京大空襲Click!からも焼け残った千代田小学校の校舎。
◆写真下:上は、1910年(明治43)に薬研堀(矢ノ倉町)へ移転した当時の校舎平面図。中上は、大川から眺めた千代田小学校の跡地に建つ改修工事中の日本橋中学校で、右手のカゴメビルがミツワ石鹸本社ビル跡。中下は、千代田小学校の夏休み臨海学校で撮影された記念写真で、前列右からふたりめが「田沼くん」こと三木のり平。下は、親父が5年生の1936年(昭和11)に同じ場所で撮影された記念写真。三木のり平『のり平のパーッといきましょう』(小学館)のキャプションでは「場所不明」と書かれているが、千代田小学校の上級生徒たちが毎年臨海学校で訪れていたのは千葉県勝浦の興津海水浴場で、田沼家のアルバムと親父のアルバムでは小学校時代の記念写真がかなりの割合で重複しそうだ。