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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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近衛邸敷地に接した萬鳥園種禽場。(上)

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萬鳥園種禽場.jpg
 東京同文書院Click!(のち目白中学校Click!併設)の東隣り、下落合523~524番地には多種多様なニワトリClick!を販売する萬鳥園種禽場Click!が開業していた。事業所が同地にあったのは、明治末から大正前期にかけてのころだ。かなり大規模な種禽場で、関東一円ばかりでなく、養鶏Click!に必要な関連商品や資材Click!、刊行物などから、顧客は全国に及んでいたと思われる。もちろん、落合村をはじめ、高田村、長崎村、野方村などで養鶏業を営む農家は、萬鳥園種禽場からニワトリを購入していたのだろう。
 目白通りに面した下落合523~524番地は、もともと近衛篤麿邸Click!の敷地の一部だったとみられるが、近衛篤麿Click!が死去した明治末に萬鳥園が土地を買収している。買収したのは、萬鳥園園主の華蔵界能智(けぞうかいよしとも)という僧侶のような名前の人物で、のちに洋犬などペットの飼育でも名前を知られることになる。萬鳥園種禽場の時代から、すでに洋犬のブリーダー事業もはじめており、土地が広い東京郊外の屋敷街への販路を見こしての、先行投資のような事業展開だったのかもしれない。
 下落合の土地を買収しているのは、ひょっとするともともと近衛家の知り合いか、故・近衛篤麿の友人知人だったのかもしれない。華蔵界能智は、明治末に発行した「萬鳥園種禽場営業案内」パンフレットで、次のように書き記している。
  
 小園の幸福
 当種禽場は何十万坪何万羽の鶏を飼養せざると雖も現住の処は地所家屋共小園の所有なるを以て一ヶ月に付一坪何十銭の地代を払ふの要もなく何十円の家賃を取られる心配もあらざるが故各種共廉価に販売致し得るの幸福あり
  
 商品の価格には、地代や家賃の固定費が上乗せされていないので、相対的に安く販売できる……と、下落合の土地が所有地であることをアピールしている。
 明治後期になると、欧米からの品種改良されたニワトリの輸入が盛んになり、その中心的な位置にいたのが岩崎家Click!(三菱)だったのは以前の記事にも書いた。そのせいか、明治末から大正期にかけて養鶏ブームが起こり、農家の副業として貴重な現金収入源となっていった。萬鳥園種禽場では、多彩な洋種のニワトリを飼育しており、東京の家禽品評会では毎年、1等賞~3等賞あるいは優等賞などを独占している。入賞したニワトリには、高価だが当時の人気品種だったアンダルシヤンをはじめ、黒色ミノルカ、白毛冠黒色ポーランド、バフコーチン、黒色ジヤバア(ジャワ)、ビーコンプリモースロック(プリマスロック)、ラフレッシュ、ラ・アレッシュ、白色レグホーン(レグホン)、淡色ブラマ、黒色オーピントン、横斑プリモースロック(プリマスロック)などがいた。
 「拾五羽の養鶏は優に田畑一反部の収益よりも大なり」、あるいは「拾五羽の養鶏は十坪を要せず農作物の如き天災少なし 労力は二分の一を要せず」を事業のキャッチフレーズに、華蔵界能智は明治末から大正初期にかけ、順調に業績を伸ばしていったようだ。明治末には、萬鳥園で繁殖させたニワトリの種卵や親鶏、ヒナなどが、すでに全国各地へ広く出荷されはじめている。萬鳥園の営業案内パンフレットに掲載されている、文語調で読みにくい華蔵界能智の論説「養鶏の利益」から引用してみよう。
萬鳥園1910.jpg
萬鳥園地図.jpg
萬鳥園種禽場跡2.JPG
  
 今や我養禽業は非常の発展を為し昨年度の如き一億三千余万円の輸出を為すに至れりと云ふ誠に喜ぶべきなり 然れ共此重大なる生産業は如何にして発達したるか又何物の手に因りて作られたるか是れ実に農友諸君の副業的努力に外ならず斯業に従事せる者は昼夜の別なく供同相一致して熱心に従事したるが為に外ならざるなり 如何に養禽業が有利なりと雖も若し蠶兒を桑樹に放任し置きて自然に多額の繭を作らする事の不可能事たる事は三才の童兒も能く是れを知らん 然るに養鶏に対しては此方法を以て大なる利益を望まんと欲するは何ぞや 是れ一つは他業に比し斯業の容易なるにも因るならんが誠に笑ふべきなり 例へ造林にもせよ苗木を植付しゝまゝ放任し置きて重分の良材を得る事能はざるべし 况して動物に於ておや 然るに此方法を以て多額の利益を得ざりし者は数羽の鶏を飼養すれば利益よりは害多しと 又或某村の如きは一家三羽以上の鶏を飼養するなかれと 何ぞ無欲の甚しき石地蔵と大差あらざるなり
  
 1年間で1億3千万円余(現代換算で約4,940億円余)も売り上げたらかなりの大企業だが、これは華蔵界能智のオーバートークではないだろうか。2019年度の三井住友建設や京王電鉄でさえ、約4,500億円の売り上げにすぎない。「我家禽業」は、イコール萬鳥園種禽場だけのことではなく、「我の属する家禽業界」というレトリックではなかろうか。ちなみに、筆者は「輸出」という言葉を好んでつかっているが、これは海外へ「輸出」することではなく国内へ「出荷」することだ。
 当時、養鶏はいまだ新しいビジネスだったせいか、さまざまなクレームも多かったようだ。そのようなクレームの出所を調べてみると、ニワトリを飼っただけで面倒をみず、放置しつづけていればヘタな養蚕家や放置林のようになってしまうのはあたりまえだ……と反論している。ただし、農家の副業に養鶏はあまり手がかからず、ラクに収益を上げられるというような、萬鳥園種禽場側の販促表現にもかなり問題がありそうだ。
 大正期、もっとも養鶏業が盛んだったのは千葉県で、東京市や横浜市へ向けて出荷する鶏卵の額が、1年間に180万円以上になっており、同県の主要な生産物に挙げられている。つづいて宮城県の県外出荷が年間20万円、次いで静岡県という出荷量の順位だった。現在では、生産量の全国1位は茨城県(18万8千トン)、2位が千葉県(18万4千トン)、3位が鹿児島県(16万9千トン)となっている。
銀灰色ドーキング.jpg
萬鳥園種禽場営業案内.jpg 萬鳥園種禽場営業案内表3.jpg
  
 (前略)未だ支那卵の輸入せらるゝもの年々数十万円を下らざるなり 近来農商務省に於いてもやうやく斯業の大利有る事に心付官営的農場をも作りて大に斯業を奨励するに至れり 以て如何に養鶏を軽々に付し難きかを知るにたるべし/過去の大戦の為に蒙りたる財界の傷未だ癒へざるの時我等国民たる者苟(いやしく)も開発すべきの事業有らば共に共に奮励し実力に於て世界の第一等国たらしめん事に勉めざるべからず 前述の如く十五羽の養鶏に一反部に使ふ労力の三分の一或は二分の一を使い見よ其得る処必ず以上の計算よりは数等大なる事を確必信す勉めよや諸士
  
 なんだか、大上段にふりかぶった大言壮語の見本のような文体だが、「世界の第一等国」になるために養鶏がそれほど重要だったかどうかは知らないけれど、ちょっと眉にツバをつけたくなるような文章だ。ちなみに、「過去の大戦」とは明治末か大正初期に書かれた文章なので、1905年(明治38)に勃発した日露戦争のことだ、
 さて、萬鳥園種禽場がいつどこへ移転したのか、あるいは事業を閉じてしまったのかはハッキリしないが、1918年(大正7)の陸地測量部Click!による1/10,000地形図を参照すると、目白通り沿いには家々(おそらく商店など)が稠密に建ちはじめているが、その裏手にはやや空き地表現が見られる。ひょっとすると、萬鳥園種禽場は事業を縮小し、通り沿いの土地を手放して営業をつづけていたのかもしれない。
鶏舎.jpg
黒色オーピントン.jpg
横斑プリモースロック.jpg
 萬鳥園敷地の南側には、貸家とみられる家々が数軒建ちはじめているが、翌々年の暮れあたりからその中の1軒、下落合523番地の貸家を借りて自邸+アトリエが完成するまで仮住まいしていたのが、曾宮一念Click!へのハガキの地番を「623番地」と「523番地」とで、見憶えのある地番の曖昧な記憶Click!に迷っている佐伯祐三Click!ではなかったか……というのが、わたしの以前からの課題意識なのだ。それは、1926年(大正15)の「下落合明細図」で、下落合523番地に「佐伯」は収録されているが、下落合661番地に「佐伯」が記録されていないという、注目すべき齟齬にも直結するテーマなのだ。
                                <つづく>

◆写真上:「萬鳥園種禽場」のパンフレットに掲載された、下落合523~524番地の敷地に建ち並ぶ近代的な鶏舎。左手奥に見えるハーフティンバーの西洋館と暖炉の煙突が、華蔵界能智が敷地内に建設した自邸の可能性が高い。
◆写真中上は、1910年(明治43)の1/10,000地形図に採録された萬鳥園。は、同パンフレットに掲載された来園地図。は、萬鳥園種禽場跡の現状。
◆写真中下は、輸入された肉食用種の銀灰色ドーキング。は、萬鳥園パンフレット()と表3に掲載された土地も建物も自前の「小園の幸福」()。
◆写真下は、現在の一般的な鶏舎。は、卵肉両用種の黒色オーピントン。は、同様に卵肉両用種の横斑プリモースロック(プリマスロック)。

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