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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)

下落合の板碑から鎌倉時代を想像する。

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薬王院.JPG
 落合地域に残る板碑は、新宿区内のほかの地域に比べて相対的に多い。新宿区の板碑保存を見わたすと、信濃町駅も近い南元町の一行院を中心とした一帯と、下落合の薬王院Click!を中心とした落合地域が目立つ。しかし、東京全域を見まわして比較すると、新宿区は相対的に板碑の残存率が低い。これは、江戸期から牛込地域や四谷地域の市街地化が進んでいたため、開発に不要な板碑は廃棄されるか、地震や火災などの混乱で失われるか、あるいは寺々など移転で移動されてしまったケースが多いようだ。
 現在でも、たとえば新宿区立中央図書館の移転にともない、落合地域で発掘された1基の板碑は、同図書館の移転先である大久保地域へ持ち出されてしまったのだろう。この板碑とは、下落合3丁目12番地(現・中落合3丁目)の目白文化村Click!で見つかった、暦応三年(1340年)八月日の年紀が入る室町時代の最初期のものだ。
 落合地域でもっとも古い板碑は、薬王院に収蔵されている徳治二年(1307年)十二月九日の年紀が入るもので、北条時宗の子で第10代執権に就任した北条師時の時代だ。モンゴルの元軍と朝鮮の高麗軍の連合軍が、九州へ侵攻してきたいわゆる「元寇」の悪夢や、鎌倉大地震による大混乱からようやく国内が落ち着きをとりもどしつつあったころ、下落合に拓けた村落で板碑が建立されたことになる。
 薬王院には、落合地域の各所に建立されていた板碑が、上記の鎌倉期に建立された徳治年間のものも含め、計8基が保存されている。年紀が確認できるものとしては、北関東の足利尊氏Click!が活躍する室町最初期にあたる建武五年(1338年)の板碑、足利義詮が子の足利義満に将軍職を譲った貞治六年(1367年)の板碑、足利義満が北山文化を形成する永徳元年(1381年)六月十一日の板碑、そして足利義政による東山文化が栄える宝徳四年(1452年)七月四日の板碑の5基だ。残りの3基は、より古い時代のものなのか表面が摩耗していたり、年紀の部分が欠損して時代を特定できない板碑だ。
 また、西落合1丁目の自性院Click!にはめずらしい板碑が残っている。私年号である「福徳」の入った、1490年(延徳2)の建立とみられるものだ。同板碑について、1976年(昭和51)刊行の『新宿区文化財総合調査報告書(二)』(新宿区教育委員会)から引用してみよう。
  
 最新のものは西落合自性院の福徳私年号板碑で、延徳二年(一四九〇)と推定されているものである。/<新宿区には>紀年銘の有る板碑の絶対数が少いため、造立時期の変遷をたどることができないが、全体の約半数が鎌倉末から南北朝前半にかけて集中していることは、ある程度時代の傾向を知ることができるであろう。(<>内引用者註)
  
 「福徳」は、関東地方を中心に東日本全域で使われた室町時代の私年号で、1489年(延徳元)を福徳元年とする史料と1490年(延徳2)を福徳元年とする史料が混在している。
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目白文化村1340.jpg 薬王院1367.jpg
薬王院1381.jpg 薬王院1452.jpg
 以前から記事に書いているように、井上哲学堂Click!がある和田山Click!の南側には鎌倉期の遺構が見つかり、和田山および「和田」や「大和田」の地名が残る周辺には、鎌倉幕府の和田氏Click!に関するなんらかのいわれがあったとみられ、下落合の七曲坂Click!の坂下から出土した鎌倉期の板碑とともに、同坂の頼朝伝説は後世の付会が加わっていそうなものの、どこかで関連している可能性がありそうだ。
 石橋山の戦で敗れた源頼朝は、真鶴経由で房総半島へと上陸し、江戸地域を横断して大まわりをしながら鎌倉をめざしている。その途中で、和田氏が布陣したのが和田山ではないかというリアルな推測が、地元の伝承とともに成立する。「和田義盛の館があった」あるいは「敗走した和田氏の残党が棲みついた」とする、和田山周辺に残る別の伝説が史実に照らして不自然なことは、以前の記事にも書いたとおりだ。
 だが、同じ「和田」の地名がついた和田戸(山)地域(戸山ヶ原Click!の東側)にも、「和田戸氏」の館があり源頼朝が休息したという江戸期の伝承(金子直德Click!『和佳場の小図絵』Click!)が残っているが、そもそも鎌倉幕府に「和田戸氏」という氏族や御家人は存在しないし、『吾妻鏡(東鑑)』にも登場していない。ひょっとすると奥州戦役のときに、鎌倉幕府軍が戸山ヶ原あたりで休憩したいわれでもあり、そのときに和田氏と関連するなんらかのエピソードが記憶されたものだろうか。
 いつの時代かは不明だが、落合地域の西隣りにある和田山と和田戸(山)を混同し、また時代も前後してしまって混淆が生じた誤伝ではないだろうか。ただし、「和田」という地名Click!が戸山ヶ原のエリアにまで及んでいるのは留意する必要があるだろう。戸山ヶ原を通過する鎌倉街道の先(北側)から、鎌倉支道が分岐して和田山方面へと向かうのは事実なので、鎌倉街道および鎌倉支道の開拓など、「和田」に関するなんらかのいわれが、かたちを変えて伝えられているのかもしれない。
薬王院不詳1.jpg 薬王院不詳2.jpg
薬王院不詳3.jpg 自性院1490.jpg
自性院本堂1938頃.jpg
 先述のように、下落合の七曲坂Click!の坂下、すなわち下落合(字)本村Click!の東側で発見された板碑は、薬王院に保存されている1307年(徳治2)の鎌倉期年号が刻まれたものだ。(冒頭写真の右側) 年代はかなり異なるが、七曲坂には1180年(治承4)ごろの逸話とされる源頼朝伝説が、江戸時代の寛政年間まで伝わっていたことが記録されている。金子直德『和佳場の小図絵』から、原文をそのまま引用してみよう。
  
 七曲り坂
 (源頼朝が)昔鼠山に陣を取し時、奥州勢の来らん時の心得にや此坂にて塀の数をはかりし事ありとも、いかにも覚束なき説なり後人糺給へ(カッコ内引用者註)
  
 鼠山Click!は、七曲坂Click!を北へ上った突きあたりにある地名だが、1180年(治承4)というと頼朝が伊豆で挙兵した年であり、石橋山の戦で破れ安房から江戸を大まわりして、10月に鎌倉入りした年でもある。つまり、和田山の和田氏布陣の伝承とまったく同じ時期の出来事として、七曲坂の頼朝伝説は語られていたことになる。
 七曲坂は、頼朝自身が開拓を命じたかどうかは「覚束」のない話で後世の付会臭がするが、七曲坂の構造は鎌倉で数多く造られた切り通しの工法と同じ構造をしている。鎌倉街道や鎌倉支道を含め、鎌倉幕府によるなんらかの開発譚が江戸期まで伝わり、鎌倉支道(雑司ヶ谷道Click!)と鎌倉支道(清戸道Click!)とを結ぶ切り通し坂として語られつづけてきた可能性がありそうだ。坂下で発見された鎌倉期の板碑も含め、目白崖線に通う最古クラスの坂道のひとつと考えてもまちがいないのではないか。
 そんな古い伝説や由緒が語られる七曲坂を、全的に打(ぶ)ち壊そうとする計画が、いまだ廃棄されずに進行中だ。少子高齢化や人口減にともない、クルマの台数が減少Click!しているにもかかわらず、いまだ戦後すぐのころに立案された道路をそのまま継承する補助73号線計画Click!だ。(ドライバーやクルマの減少および減少予測は、国土交通省などの最新統計データに詳しい) 西池袋からつづく同線は、上屋敷公園をつぶし目白3丁目から4丁目を斜めに突っ切る道幅が十三間道路以上の25m、下落合を縦断する道幅は20m(入口と出口は23m)で、七曲坂をすべて破壊して十三間通り(新目白通り)Click!へと貫通する計画だ。
もっとも、政権に都合がいいよう基礎データを改竄・捏造する腐敗が、同省が発表する統計データに浸透していなければの話だが……。旧・ソ連などの官僚テクノクラートが創作した、全体主義国家のデッチ上げデータをマネしてんじゃねえぞ!(失礼)
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 この時代遅れな道路計画で、目白や下落合の閑静な風情や景観はおろか、鎌倉時代に由来する切り通し坂の史蹟まで破壊されてはたまったものではない。新宿区の資料では、ちゃっかり新築した下落合図書館を避け、下落合中学校の校庭の30~40%ほどを提供し、氷川明神は本殿を削られそうな図面が引かれている。七曲坂筋の両側に建つ住宅やマンションは、ことごとく立ち退くことが前提となっている高度経済成長期を髣髴とさせるような時代錯誤の計画へ、少し気の早い気もするがいまから反対の意思表示をしておく。

◆写真上:鎌倉期から室町期まで、9基の板碑が保存された薬王院。
◆写真中上は、薬王院に保存された徳治二年(1307年)の年紀が入る板碑()と、建武五年(1338年)の年紀が刻まれた板碑()。中左は、目白文化村の第一文化村にあった暦応三年(1340年)の板碑。中右は、薬王院の貞治六年(1367年)の年紀が入る板碑。は、薬王院収蔵の永徳元年(1381年)年紀の板碑()と宝徳四年(1452年)年紀の板碑()。
◆写真中下は、2基とも薬王院が保存する年紀不詳の板碑。中左は、薬王院収蔵の年紀不詳の板碑。中右は、私年号「福徳元年」の入る自性院に保存された1490年(延徳2)の板碑。は、1938年(昭和13)に撮影された自性院の本堂。
◆写真下は、1955年(昭和33)撮影の七曲坂。は、七曲坂に設置された1690年(元禄3)の年紀入り庚申塚。は、2016年(平成28)の「新宿区都市施設等都市計画図」。

佐伯祐三『下落合風景画集』の第8版ができた。

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 2007年(平成19)6月に、初めて『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』(私家版)の初版Click!をリリースしてから、すでに15年の歳月が流れた。その間、新しい作品画像を入手したり、佐伯の時代に近い写真や資料が手に入ると、そのたびに改訂して第2版Click!第4版Click!第6版Click!……と版を重ねてきた。
 最後に改訂したのは2015年(平成27)1月の第7版で、すでに7年が経過している。そこで、この7年間に集まった佐伯祐三Click!連作「下落合風景」Click!の新たな作品や、従来はモノクロ掲載だった作品画面を撮影できたカラー写真に差しかえたり、新たな資料を加えたりして2022年版(第8版)を制作してみた。今回は、従来の正方形だったページをタテ長の長方形にして、より図録や画集らしいレイアウトしてみた。これも地元をはじめ、みなさまの温かいご支援やご協力のおかげで、そのお心づかいに深く感謝している。
 掲載した「下落合風景」はおよそ53点で、下落合が描かれていない作品が1点(『踏切』Click!)、描画場所がいまだ特定できていない作品が1点(『堂(絵馬堂)』Click!)を加えて55点だ。また、曾宮一念アトリエClick!の東隣りに住んでいた、浅川秀次邸Click!の塀を描いたとみられる『浅川ヘイ』Click!と、『セメントの坪(ヘイ)』Click!の下に描かれていたとみられる佐伯自身の「アトリエ風景」Click!はあえて含めなかったが、東京美術学校の門前に開店していた沸雲堂Click!浅尾丁策Click!が所有していた、佐伯アトリエの『便所風景』Click!(戦後は行方不明)は画面が存在しないものの、佐伯ならではの視線を感じる作品なので、旧・アトリエClick!の便所の扉写真とともに含めることにした。
 こうして、下落合における佐伯の足跡をたどってくると、「制作メモ」Click!に書かれた30数点のタイトルだけが「下落合風景」でないのは明らかだが、その制作期間もまた2年近くにおよんでいることがわかる。1926年(大正15)9月1日に行われた、佐伯アトリエにおける東京朝日新聞記者(「アサヒグラフ」担当)との会見Click!で、カメラマンが撮影した佐伯一家の背後には、すでに曾宮一念アトリエの前に口を開けた諏訪谷Click!の斜面に建つ家Click!とコンクリート塀を描いた、従来から『セメントの坪(ヘイ)』Click!と呼称している画面が確認できるので、少なくとも連作「下落合風景」は1926年(大正15)の8月以前からスタートしていたのが歴然としている。また、そのキャンバスの下に描かれていたとみられる、佐伯祐三アトリエの北に面した採光窓らしい画面を入れれば、さらに以前から下落合の風景に取り組んでいたとも想定できる。
 そして、1927年(昭和2)6月17日に1930年協会Click!の第2回展が開催される直前、1926年(大正15)の秋から『八島さんの前通り』Click!(当時は東京府の補助45号線計画道路に指定)で宅地の整地作業Click!が進んでいた納三治邸Click!が、翌年の竣工直前か竣工後に描かれたとみられる『八島さんの前通り(北から)』Click!の画面から、佐伯は1927年(昭和2)の少なくとも5~6月まで、連作「下落合風景」を描きつづけていたことになる。これまで何度か書いてきたが、同シリーズが『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』に収録した、わずか50点余どころではないことが想定できるのだ。
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 改めて、佐伯祐三の『下落合風景画集』を編集していて感じたのだが、タイトルを『下落合工事中・造成中・開発中風景画集1926~1927』とでもしたほうが、よほど適切のような気がしてくる。佐伯が「下落合風景」に選び好んで描く場所のほとんどが、当時はまさにそろいもそろって工事中・造成中・開発中の殺伐とした地点ばかりだからだ。したがって、下落合の中・西部にかけての画面が中心で、山手線の目白駅や高田馬場駅に近い住宅街として落ち着きを見せはじめていた、そして大きな屋敷や西洋館が多く建ち並んでいた下落合の東部は、ほとんどタブローにしていない。当時、下落合東部のお屋敷街を好んで描いたとみられる、下落合584番地のアトリエClick!にいた二瓶等Click!の連作「下落合風景」Click!とは、まさに対照的なモチーフ選びだ。
 また、下落合をはじめ周辺地域に建っていたレンガ造りや石造り、コンクリート造りのビルや商店、住宅を佐伯はことごとく避けて描いている。よく「下落合の風景に飽きたらず、パリの硬質な街角の風景を描きたくなり再び渡仏した」と説明されるが、また本人も再渡仏の理由のひとつとして周囲に語っていたようだが、それでは連作「下落合風景」を描いていた上記の姿勢(テーマ)とは大きく矛盾する。
 佐伯は、米子夫人Click!実家Click!がある新橋駅近くの土橋Click!へ出かけると、レンガ造りのガードClick!をモチーフに制作したりしているが、下落合ではそのような風景モチーフをほとんど選ばず、あえて工事中・造成中・開発中の、作業員が見えないだけで常に槌音が響いているようなエリアばかりに足を運んでいるのだ。むしろ、工事音が聞こえるから、それに惹かれるように描く場所を決めていった……とさえ思えてくる。佐伯本人が、周囲に語っていた再渡仏の「理由」とは別に、なんらかの明確な目的意識をもちながら、これら「下落合風景」のモチーフは選ばれているように感じる。
 パリの街角を描く佐伯祐三の視座(テーマ性)とは、明らかに異なる眼差しによる強い画因が存在していたと考えた方が、むしろ自然であり理解しやすいだろう。「滞仏が長期間におよび一度帰国したけれど、しかたがないので心ならずも地元の下落合風景に取り組んで描いていた」のでは説明がつかない、残された作品の画面と佐伯の足どりが透けて見えてくる。そこには、あえて工事中・造成中・開発中の、つまり整然としていない下落合の風景ばかり選んで描く、もうひとつ別の佐伯の視座(テーマ性)を強く感じるのだ。
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 掘りおこされた土、耕地整理が済んで草いきれが漂う雑草だらけの造成地、どこかで響く「よいとまけ」Click!の声と振動、次々と運びこまれる築垣や縁石用の大谷石、砂利や資材を運ぶトロッコの軌道、地鎮祭が終わったばかりの御幣がゆれる赤土の地面、荒玉水道Click!の水道管を埋設するため道路端に積まれた土砂の山、下水の側溝を固めるために積まれたセメントの樽、棟上げ式がすんだばかりで骨組みだけの西洋館、ペンキやクレオソートClick!が強く匂う入居者を待つばかりの新築住宅……、そんな情景が繰りひろげられている下落合の中・西部を、佐伯祐三は丹念に歩きながらモチーフをひろって描いている。
 大正末から昭和初期にかけ、東京の郊外ならどこでも観られた風景で、特に下落合の情景がめずらしかったわけではない。めずらしさの観点からいえば、目黒の洗足田園都市Click!とほぼ同時期に開発がスタートした目白文化村Click!近衛町Click!など、従来の日本の住宅街とはかなり異質な街並みの存在だが、佐伯は目白文化村のほぼ外周域を描くだけで、近衛町にいたっては近よりすらしていない。そして、山手線の駅に近づくほどに「下落合風景」の制作画面が急減する傾向は、なにを意味しているのだろう。
 素直に解釈すれば、東京郊外に展開する開発途上の光景を、下落合という自身のアトリエがある地元に代表させて(プレパラート化して)、ことに工事中・造成中・開発中の雑然として落ち着かない、ことさらキタナイ風景をわざわざ選んで足をはこび描いていったということになるが、佐伯はそこになにを感じて、どのような通底するテーマの経糸を設定し、またどのような“美”の解釈を見出していたというのだろうか。
 風でヒラヒラと手拭いが揺れる、アトリエの『便所風景』を描く佐伯祐三のことだから、凡人にはうかがい知れない彼ならではの“画家の眼”が、その感性とともに存在していたのであろうことはまちがいないのだろうが、パリでも下落合でも雑然としたキタナイ風景に惹かれ突き動かされる眼差しや美意識は、いったいなにに由来するものなのだろうか。新しい作品が見つかるたびに、そんな疑問が繰り返し湧きあがってくるのだ。
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 『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』第8版は、PDFファイルにも落としているので、ご希望があれば3.6MBほどの容量なのでメールに添付してお送りすることが可能だ。PDF画集をご希望の方は、メールでご一報いただければさっそくお送りしたいと思う。

◆写真上:拙い『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』第8版の表紙と表4。
◆写真下:それぞれ、44ページある本文ページの部分拡大。

公楽キネマや洛西館には弁士が何人いた?

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公楽キネマ跡.JPG
 大正初期に誕生した日本活動写真株式会社(略して「日活」)と、それを追いかけて国際活映株式会社(略して「国活」)、演劇界を席巻していた「松竹」、そしておもに米国映画を配給する「大正活映株式会社(略して「大活」→のち「松竹」に吸収)などが群雄割拠していた大正期、これらの映画会社からは大量の無声映画が生産されていた。
 当時の映画は、そのほとんどが芝居(歌舞伎)や新派の舞台をフィルムに写しただけのような作品が多く、出演する俳優たちも映画俳優というよりは舞台俳優がほとんどで、新しいメディアである映画独自の世界をいまだ形成できずにいた。映画の草創期は、欧米でもまったく同様に舞台劇をフィルムに写したような作品が多かったが、それでは満足できない表現者たちがあちこちで出現してくる。
 特にヨーロッパでは、演劇舞台の代用品ではない映画ならではの表現が追求され、その流れが観客のニーズともマッチしていたため、映画だからこそ表現できる独自の物語(シナリオ)の制作へと向かっていった。出演俳優たちも、舞台俳優ではなく映画会社が養成した映画俳優が次々と登場し、舞台劇をしのぐような演劇集団として成長していった。
 でも、日本では芝居人気や役者の知名度が高かったせいか、なかなか映画オリジナルの作品群が生まれず、相変わらず「芝居映画」や「新派映画」が作られつづけていた。ただし、あとから映画へ進出してきた松竹は、映画に登場する女性を歌舞伎の女形(おやま)Click!ではなく、女優を育てて起用するという手法を採用している。この手法は大成功を収め、人気女優が出演するだけで映画館は超満員となり、松竹蒲田の女優たちは映画ファンの人気をさらっていった。それを見た日活も、従来の女形(おやま)が活躍する京都撮影所の芝居路線を排し、映画専門の女優の育成に注力しはじめている。
 松竹は、さらに競合相手の日活を引き離すために小山内薫Click!を顧問に迎え、芝居や新派とは異なるモダンな新劇ふうの映画作品を生みだしていった。大活もまた、それを追いかけて「映画は初めから映画劇の形式で」を合言葉に、次々とモダンな作品を制作している。大正期も後半に入り、日本ではようやく旧演劇の表現とは縁を切って、純粋な映画のためのシナリオや表現が追求されるようになっていった。
 当時の映画はサイレント(無声)映画で、日本で初めてトーキー(発声)映画が一般に公開されるのは、1931年(昭和6)に制作された松竹蒲田の『マダムと女房』(監督・五所平之助)とされているが、松竹では実験的に小山内薫による『黎明』が、すでに1927年(昭和2)にトーキー作品として制作されていたといわれる。だが、技術的な課題から実験的作品にとどまり、劇場で公開されることはなかった。
 無声映画は、いわゆる「活動弁士(活弁)」による台詞や解説によって観られるか、あるいは今日の外国映画のように字幕付きで観賞されるのが普通だった。豪華な映画館では、弁士が何人もいて映画俳優ごとに入れ替わったり、楽団ピットが用意されてBGMを流したりしている。わたしは知らなかったのだが、映画が芝居や新派の焼き直しではなく、映画独自の物語や表現を獲得するにつれ、「活動弁士(活弁)」という職業がなくなり映画の「説明者」と名のるようになったそうだ。
 説明者というと、まるで映画解説者の淀川長治Click!のような映画評論家をイメージしてしまうが、モダンな映画は弁士ではなく説明者がスクリーン横で、ストーリーを解説したり台詞をしゃべったりするようになった。その様子を、雑司ヶ谷で育ったシナリオライターであり映画評論家の森岩雄Click!が、1978年(昭和53)に青蛙房から出版された「シリーズ大正っ子」の1冊、『大正・雑司ヶ谷』に書いているので引用してみよう。
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 日本物の場合は「旧派」(芝居=歌舞伎のこと)にしても「新派」にしても台詞、声色、鳴物入りの賑やかさで、スクリーンに舞台の幻想を再現させるために、「弁士」が何人も居て役柄を一つ一つ受け持って行くやり方と、西洋物の場合は字幕によって説明されて行くので、その翻訳を日本語で行なう「弁士」と二つの役割があった。前者の方では浅草の土屋松濤という弁士が最も有名であった。土屋松濤は自分一人で何役もこなすことの出来る弁士であったが、賑やかしのために「楽屋総出」で舞台を勤めたものであった。しかし、このやり方は日本映画が映画劇の形式に代ると共にいつの間にか消えてしまい、西洋映画の「弁士」のやり方のみが残るようになった。そして「弁士」と言わず「説明者」と名乗るようになった。東京で、浅草では生駒雷遊、山の手では徳川夢声が、説明者の両横綱と称されていた。(カッコ内引用者註)
  
 説明者には、やはり得意分野があって喜劇や文芸物、活劇・時代劇といったジャンルごとに、担当の説明者も交代していたようだ。また、噺家のように上映される映画の前半を若い説明者が前座として、後半をベテランの説明者が担当していた。人気の高い説明者はギャラもよく、競合する映画館同士で引き抜き合戦もめずらしくなかった。
 ちょっと横道へそれるが、青蛙房から出版された「シリーズ大正っ子」が、本来の江戸東京地方の町場感覚を反映していて面白い。別の地方の方々は、よく江戸東京地方に昔から住んでいる人間のことを「江戸っ子」などと表現するが、もちろん地元ではこんな漠然とした出自が不明な表現はしない。「シリーズ大正っ子」がタイトル化しているように、「下谷っ子」「築地っ子」「本郷っ子」(森岩雄は雑司ヶ谷っ子)というように、各地域の街ごとに「っ子」を付けて呼ぶ。(同シリーズではほかに根岸、日本橋、渋谷、銀座、吉原、三輪などの町っ子の話がシリーズ出版されている)
 江戸東京は、他の都市に比べるとかなり広いので、各街ごとに言語(母語)や風俗文化、生活習慣、食文化、美意識、氏神、果てはアイデンティティまでが少なからず異なっている。「神田っ子」と「銀座っ子」、「日本橋っ子」と「深川っ子」がかなりちがうように、どの街の住人にもそれなりの特色があるので一緒くたにはできないのだ。だから、「オレは江戸っ子だ」などというのは、いったいどこの地域のどのような特色や文化を受け継いだ人物なのか、まったく正体が不明ということになる。
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公楽キネマパンフ2.jpg
目白松竹館パンフ2.jpg
 さて、上落合に開業していた公楽キネマClick!や、目白バス通り(長崎バス通り)Click!の入口近くに開業していた洛西館Click!(のち目白松竹館Click!)には、どのような弁士(説明者)たちが活躍していたのだろうか。両館で発行されたパンフレットClick!には、上映映画の解説と出演俳優だけで弁士(説明者)たちの名前は掲載されていない。
 だが、無声映画を字幕だけで観るよりは、出演者たちの喜怒哀楽をややオーバー気味に表現する弁士(説明者)の声が聞こえたほうが、当時の映画ファンや大衆には受けたのだろう。欧米の映画館には弁士(説明者)は存在せず、落語家や講談師など噺芸人の下地があった日本ならではの、独自に発達した映画興行の方法論なのだろう。
 公楽キネマや洛西館(目白松竹館)では、時代劇や現代劇などジャンルを問わずに上映されていたので、そのたびに弁士(説明者)も交代していたのだろう。また、観客に人気の弁士(説明者)もいて、映画とは別に弁士ファンといったものも存在したのだろうか。さらに、今日の声優のような、たとえば坂妻(ばんつま)Click!にはあの弁士というように、それぞれ専任のアテレコのような仕事をする弁士も出現していたのかもしれない。
 大正期の古い映画表現が廃れ、新しい映画の出現について同書より引用しよう。
  
 (前略)日本映画の形も変化して行くと共に、内容も次第に移り変わり、題材もいつまでも歌舞伎劇や新派劇の焼き直しでは済まされなくなり、新しい題材と新しい俳優を大衆は要望することになった。大正十五年、日本の旧派映画の代表的俳優であった尾上松之助がこの世を去ったことは、その意味では象徴的な出来事であった。もうこの頃は大衆は尾上松之助の英雄主義的な主題は喜ばず、坂東妻三郎や大河内伝次郎のニヒリズム的な物語の映画化を歓迎するように変わって来ていた。
  
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森岩雄「大正・雑司ヶ谷」1978.jpg シリーズ大正っ子広告.jpg
五所平之助「マダムと女房」1931松竹.jpg
 映画が、芝居や新派の舞台の焼き直しから、映画独自のシナリオや表現に移行しても、弁士(説明者)はいなくならなかった。さらに、トーキー映画が出現したあとも、しばらくの間は彼らの仕事は継続していた。しかし、1935年(昭和10)をすぎるころからトーキー映画が一般的になり、シナリオや俳優の演技も無声映画時代よりははるかにリアルかつ複雑になるにつれ、弁士(説明者)はそろってお払い箱となり、映画館からは軒並み姿を消していった。

◆写真上:早稲田通りに面した、上落合521番地の公楽キネマ跡(右手)の現状。
◆写真中上は、大正末に近接する火の見櫓から月見岡八幡社Click!の宮司・守谷源次郎Click!が撮影した公楽キネマ。は、大正末の正月に撮影された目白バス通り(長崎バス通り)に面した洛西館(のち目白松竹館)。は、洛西館(目白松竹館)跡の現状。
◆写真中下は、公楽キネマのパンフレット()と目白松竹館のパンフレット()。は、公楽キネマの映画パンフレット見開き。は、目白松竹館の同見開き。
◆写真下は、弁士(説明者)を代表する生駒雷遊()と徳川夢声()。中左は、1978年(昭和43)出版の森岩雄『大正・雑司ヶ谷』(青蛙房)。中右は、「シリーズ大正っ子」の広告。は、1931年(昭和6)公開のトーキー映画『マダムと女房』(五所平之助/松竹)。

『下落合の向こう』のもっと向こうに。

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 1990年代の半ば(おそらく1995年ごろ)、わたしは笙野頼子の『タイムスリップ・コンビナート』(文藝春秋)を単行本で買って読んでいる。確か、その中に短編『下落合の向こう』が収録されていたような気がするが、記憶がさだかではない。その内容も、物語性とは対極にあるような表現と展開だったので、ほとんどすべて忘れ去っていた。さて、きょうはちょっと厄介な『下落合の向こう』について。
 札幌大学教授の山崎眞紀子は、笙野頼子について「<物語>とは世間一般の共通認識に支えられて成立しているひとつの解釈と言っていいだろう。この物語に違和感を覚え、その物語を構成している言葉に対して全身にアレルギー反応を起こしている最先端の作家が笙野頼子である」(「女性作家シリーズ第21巻」/角川書店)と書いた。いってみれば、コード進行もモードも否定した予定不調和のフリーJAZZか、現代音楽風にいえば譜面のないインプロヴィゼーション・ミュージックというところだろう。
 だが、一聴難解そうに感じるこれらの音楽だが、そういう音であり、そういうメロディ(?)ラインなのだと素直に受けとり、先入観なく耳をすませば、いや耳を素直に馴らしていけば、これまで味わったことのない音楽美や思いがけない新鮮なサウンドに出逢えるかもしれない。それは、貴重な時間をつぶして賭ける一種のギャンブルなのかもしれないし、また退屈な時間を埋めるスリリングな初体験なのかもしれない。いずれにせよ、小さな冒険であるのはまちがいないだろう。
 笙野頼子は<物語>の破壊者であり、出現・存在するだけで意味のある協和音やモードを拒否したOrnette ColemanでありCecil Taylorだと考えれば、それほどとっつきにくくはないだろうか。少なくとも日本語で書かれている文章表現を、そのまま素直に受けとって味わえば、<物語>世界とはまったく異なる解体された<非物語>世界が拓け、しかも手垢にまみれていないなんらかの美や感動が得られるかもしれない……とは、アタマで理性的に予測できる桃源郷の可能性ではあっても、そこに多少なりとも物語性が付随していてくれないと、わたしとしては楽しめそうもないので憂鬱な気分に陥ることになる。
 それはもちろん、自意識過剰なほどに内向的な個が紡ぎだす極限の、あるいは研ぎすまされた感性や認識にもとづく物語性を拒否した表現には、そうそう容易には同化・同調して受け入れることができない壁があるからだ。あまりにも極端に描かれる個の世界は、他者にしてみれば「アレルギー反応」の温床(アレルゲン)となり得るだろうし、著者の表現世界と同化・同調し感動できたという人間がいるとすれば、それはおそらく著者自身にほかならないのが、笙野頼子が描きつづけている極北の世界だろう。
 わたしは、彼女の感性的な認識世界と、それにいたる過程や道筋を100分の1ほども理解できないが、『下落合の向こう』が書かれた1990年代の下落合の情景は、きのうのことのように記憶へ鮮明に刻まれている。当時の笙野頼子は、西武新宿線のおそらくは都立家政駅の付近に住んでおり、オートロックが付いた集合住宅で“引きこもり”の生活をしていた。それがある日、電車に乗って高田馬場駅まで出かけることになり、その乗車中の情景を描いたのが『下落合の向こう』だ。ちなみに、彼女もわたしと同じく「新井薬師前」駅を、常に「新井薬師」駅Click!と呼んで平然としている。
 中年女性である「私」は、「電車を巡るシステム」全体が人々の共同幻想であり、実際は猛スピードで走らされていることに気がつく。電車の立てる音は、巨大なザリガニがハサミをふり立てて伴走し、その鎧のような殻同士がぶつかりあう音なのだというのを発見してしまうのだ。乗客は、全員が必死で電車のスピードに見あう速度で走らされている。そんな電車の車窓から眺めた様子を、1999年(平成11)に角川書店から出版された『女性作家シリーズ第21巻』所収の『下落合の向こう』より引用してみよう。
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 すると、時に電車の外見がふっと消えた後に、人肉で出来た蛇のような塊が疾走しているのが判る場合がある。マラソンの集団をもっと極端にしたようなものが踏切の向こうを、また鉄橋の上を、走っているのだ。迫力のありすぎる電車ごっこ。しかもその電車ごっこに綱はなく乗客は足のどこかから触手を出して、それをお互いに絡めあって、全員、必死で走っているのだった。つまり足の強いものは他人の体重まで背負わされており、また足の弱いものは手足をふらふらさせ道の上を傷だらけで引っ張られて行くのである。物凄い速度で動く人肉の塊。口からよだれを流し腰から排泄物を滴らせる。その上、その臭いに引かれて音を立てるザリガニが集まってくるのだ。
  
 乗客たちは電車に乗っているふりをしていたが、実は猛スピードで走らされているので、和綴じ本をめくって謡(うたい)Click!の練習をしている婦人が、「……るぅがぁすぅみぃ…ぁなぁびぃきぃにぃけぇりぃ…いぃさぁかぁたぁのぉお」と、おそらく『羽衣』の地謡をさらうのを翻訳すると、「もういやだわ ばかやろお ぜいぜい」とつぶやいている。
 やがて「新井薬師」駅で、駐車場のクルマの下からザリガニの触角を発見するのだが、乗りこんできた7人の美少女高校生たちに気をとられ見逃してしまう。彼女たちは、みんな小さな顔で整った同じ顔立ちをしており、どの鞄にもキーホルダーが下がっていたが、「私」は森永チョコの九官鳥キーホルダーはどうやって手に入れたのか気になる。
 女子高生の、ブローがゆきとどいた完全な髪が跳ねあげられたとき、髪の間に焼き魚が料理用の金串ごと刺さっているのを「私」は目撃した。女子高生たちの母親ほどの年齢だった「私」は、彼女たちは赤ん坊のころから現在まで育てられたのではなく、どこかの地下室で人工的に製造されたものだろうと推測する。そんな彼女たちを観察しているとき、女子高生のひとりが「下落合の向こう」といった。
 「猫を人間だと確信出来る生活」をしていた「私」は、世の中は最初から地獄のようなところだったので、人形になってしまえば楽だと考えていたが、現実は黴だらけの塊のようになっていた。そのとき、女子高生が「そこじゃん、そこ」といい、彼女たちのひとりが「私」の膝上にバウンドしながら座った。そこで、大人はザリガニといっしょに走らされているのに、女子高生たちは電車に乗れるのだと初めて認識する。「あ、もうすぐ」という女子高生の視線を追うと、団子屋の看板の向こうにある低層マンションの2階のベランダに、人形の首が並んでいるのが見えた。
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 ここでふっと、『下落合の向こう』を離れて現実にもどるけれどw、わたしはこのズラリと並んだ人形の首にはハッキリとした記憶がある。西武新宿線が山手線ガードClick!のカーブに近づき、スピードを落とすとともに右手のビル=東京美容専門学校(下落合1丁目2番地)のベランダに、授業で使わなくなった廃棄物なのか、あるいは紫外線消毒のための天日干しなのか、人形の首だけがズラリとならんでいた。(現在でも窓越しに並んでいる)
 そんなものを見せられた笙野頼子、いや「私」は、もう妄想に羽が生えて際限なくふくらんでいく。下落合について、彼女の妄想の一部を同書より引用してみよう。
  
 下落合は本当に下落合なのだろうか。一度も下落合で降りた事がない。中井や新井薬師をいくら通過しても恐くないのに……。/――私って下落合の向こうが気になるのよねえ。/下落合の向こう――上落合、中落合、西落合、何度も通り過ぎながら私は何も知らない。ただ中落合という言葉で魚の中落ちと血合いを想像しただけだ。血合いと中落ち――隠れていたもの、切り取られ俎から滑り出しそうな、魚の体の一部。それも俎に載る程に小さい鰹のもの。そんな中落ちと血合いに陰影と人口を提供する、中落合というあの不明瞭な名前。――頭の中では魚の真ん中にあったものがどんどん広がって町に変わる。ところがその中落合からある日いきなり、中という言葉が抉り取られる。そしてその傷口に下という言葉がずるずると擦り寄る。或いはホトトギスの子のように中を蹴落として下はそこに座り、魚を食い続ける。
  
 笙野頼子の感性は、非常に鋭い。「私は何も知らない」で、妄想の限りを尽くした表現だったのかもしれないが、期せずして彼女の妄想は過去の事実(史的物語)に照らし合わせると、実にリアルで正しいことになってしまう。
 もともとそんな地名など存在せず、役所の机上で安易に決められた「不明瞭な名前」の「中落合」は、「下という言葉がずるずると擦り寄る」どころか、1965年(昭和40)までは「下」落合そのものだったのだ。著者は「中井」駅についても言及しているが、現在の「中井」と表記される地域もまた下落合という地名だった。住民のほとんどが反対Click!する中、押しつけられたのが「中落合」と「中井」という地名だったわけだ。
 女性作家でいえば、東京へやってきたばかりの矢田津世子Click!は中落合2丁目ではなく、下落合3丁目の目白会館文化アパートClick!に住んでいたのであり、吉屋信子Click!林芙美子Click!は中井2丁目ではなく、下落合4丁目に住んでいたのだ。笙野頼子が、感覚的に「不明瞭な名前」であり気持ちが悪く感じたとすれば、無理やり地名を変えられた下落合(中落合・中井を含む)の住民たちは、もっと気持ちが悪かっただろう。
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 「私」は初めて下落合駅で降りて、「緑色の橋」(西ノ橋だろうか)をわたって「観光ホテル」(ホテル山楽だろうか)の前へ歩いていくと、背後で「バリ」っと音がして下落合駅が消えてしまった。いつの間にか、「私」は「東京にしては土の匂いの濃いそのあたり」を走っているが、そのうち身体ごとゴロゴロ転がっていく。「下落合の向こう」に入りこんだ「私」は、おカネを入れると透明な球形のカプセルが出てくる自動販売機(ガチャポンだろうか)が、実は「人喰い鶏」であり、カプセルはこれから産む卵であることを想像し、「下落合の向こう」へスリップしたまま、おそらく「下落合の向こう」のもっと向こうにある迷宮へ入りこんでしまい、唐突なエンディングを迎える。
 わたしも、常日ごろから感じているように、落合地域は底が知れない、迷宮なのだ。

◆写真上:マネキンの首がズラリと並ぶ様子は、女子高生でなくとも不気味に感じた。
◆写真中上上左は、1999年(平成11)出版の『女性作家シリーズ第21巻』(角川書店)。上右は、1994年(平成6)出版の笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』(文藝春秋)。は、笙野頼子が妄想をふくらませた新井薬師前駅の近くにある東亜学園の夏服()と笙野頼子()。は、いまでも西武新宿線沿いの東京美容専門学校の窓に並ぶマネキンの首。
◆写真中下:ザリガニの音をたてながら、電車は中井駅からやがて下落合駅へと着く。
◆写真下:下落合を出た電車は、ほどなく山手線ガードの最終カーブへと差しかかる。は、廃止された高田馬場1号踏み切りClick!脇に建つ東京美容専門学校(左手)。

資料によく登場する江戸川アパートメント。

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 拙ブログで何度か登場しているアパートに、牛込区新小川町10番地(現・新宿区新小川町6番地)に建っていた同潤会江戸川アパートメントClick!がある。大田洋子Click!が、改造社にいた黒瀬忠夫Click!と同棲をはじめたのも同アパートだったし、その黒瀬が社交ダンス教室を開いていた金山平三アトリエClick!から、金山平三Click!が知人の山内義雄が障子を貼りかえたと聞いて、さっそく下落合からビリビリ破りに出かけたのも同アパートだ。
 高田町四ッ谷(四ツ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた安部磯雄Click!が、晩年に暮らしていたのも江戸川アパートメントだった。そのほか、同アパートには正宗白鳥や見坊豪紀、鈴木東民、なだいなだ、原弘、前尾繁三郎、増村保造、雲井浪子、坪内ミキ子など多種多様な職業の人々が住んでいた。江戸川アパートメントが竣工したのは1934年(昭和9)と、同潤会アパートの中でも新しい建築だが、竣工直後の様子を当時は津久戸小学校の生徒だった、ロシア・ソ連史家の庄野新が記録している。
 1982年(昭和57)に新宿区教育委員会が発行された『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編―』収録の、庄野新『思い出の「牛込生活史」』から引用してみよう。
  ▼
 (江戸川アパートメントは)今の高級マンションのハシリかと思うが、たしか四階建ての大きく立派な建物で、ピンクの外装がひどくモダンであった。われわれ小学生を引きつけたのは、そこに備えつけられていた自動押ボタン式エレベーターで、これを自由に操作するのが実に面白く、そしてスリルさえあった。学校が終ると友だち数人と語らって、数日ここにかよいつめた。管理人などいるのかいないのか、われわれが入りこんでも一度もとがめられなかった。ところがある日、エレベーターが途中で止まってドアがあかないのである。一瞬顔が引きつって、友だちとあれこれボタンを押した。やっとドアがあいて外に出られたときは本当にホッとしたものだ。その間、時間にして数分にすぎないと思うが、正直いって生きた心地はなかった。以来、自動エレベーター熱は一挙にさめてしまった。(カッコ内引用者註)
  
 庄野少年たちがエレベーターで遊んだのは、おそらく地上4階建ての2号棟だったのだろう。ほかに、1号棟は地上6階地下1階(一部は塔状になって地上11階地下1階になっていた)という仕様だった。鉄筋コンクリート仕様の同潤会アパートは、関東大震災Click!の火災による被害が甚大だったため、不燃住宅の建設ニーズから1926年(大正15)より1934年(昭和9)まで、東京市内に14ヶ所と横浜市内に2ヶ所が建設されている。
 同潤会アパートについては、詳細な書籍や資料がふんだんにあるのでそちらを参照してほしいが、当時としては圧倒的にモダンでオシャレな集合住宅だった。生活インフラとして、電気・ガス・水道・ダストシュート・水洗便所は基本で、大規模なアパートによってはエレベーターや共同浴場、食堂、洗濯室、音楽室、サンルーム、談話室、理髪店、社交場、売店などが完備していた。江戸川アパートメントは、同潤会アパートの中でも大規模なもので、1934年(昭和9)の竣工から2001年(平成13)の解体まで、実に70年近くも使われつづけた。
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 江戸川アパートメントは、北側の1号棟と南側の2号棟に分かれており、棟の間にはかなり広い中庭が設置されていた。家族向けの広めの部屋が多かったが、1号棟の5階と6階は独身者向けで4.5~6畳サイズのワンルーム仕様が多かった。庄野新の想い出にあった自動エレベーターをはじめ、共同浴場、食堂、理髪店、社交室などを備え、中庭には子どもたちの遊具がいくつか造られて、コミュニティスペースも充実していた。江戸川Click!(1966年より上流の旧・神田上水+江戸川+下流の外濠を統一して神田川)の大曲りの近くなので、同河川の名前をとって江戸川アパートメントと名づけられている。
 面白いのは、今日のマンションとはまったく発想が逆で、上階にいくほど単身者向けの安い部屋が多く、低い階に広めで豪華な部屋が多かったことだ。つまり、しごくあたりまえだが低層階のほうが短時間でスムーズに外部との出入りができ、また関東大震災の記憶が生々しかった当時としては、火災や地震など万が一のときにすぐ避難できる安全・安心が担保されているところに大きな価値があったのだろう。大震災の経験をまったく忘れた現在、集合住宅はハシゴ車さえとどかない高層になるほどリスクが高く、大地震が多い東京の価値観が逆立ちしていると思うのは、わたしだけではないだろう。
 江戸川アパートメントは戦災からも焼け残ったが、1947年(昭和22)6月17日に山田風太郎が、同アパートに住んでいた同業の水谷準を訪ねている。この日、近くにある超満員の後楽園球場では早慶戦が開かれており、山田風太郎の日記から引用してみよう。
  
 新小川町江戸川アパートにゆく。巨大なるアパート大いに感心す。無数の窓より無数の洗濯物ブラ下がる。このアパートの住人のみにて一町会作りて猶余あるべし。ここに安部磯雄翁も住めりとか。その一棟の一三四号室の水谷準氏、部屋をたたく。廊下のつき当り、網戸に小さき鈴つき、この内側に扉あり。鈴の音ききて準氏出で、入れと言う。四畳半に絨毯敷き、ピアノ、洋服、箪笥、電蓄、ラジオ、書棚etcギッシリ並べ、窓際の空間に机、椅子三個ばかりあり。水谷氏、ピースを喫しつつラジオの早慶戦聞きあるところなりき。「妻も後楽園にゆきてお茶も出せぬ」という。
  
 山田風太郎は、早慶戦の立役者であり早大野球部の創立者だった安部磯雄Click!が、同アパートにいるのを知っていたので、早慶戦についても触れているのだろう。
 水谷準が住んでいた「一三四号室」は、1号棟の3階4号室ということだろうか。おそらく、独身者向けの部屋を借りて夫婦で住んでいたとみられるが、住宅不足が深刻だった敗戦当時、家族5人で1号棟6階の6畳サイズのワンルームに住んでいた例もあるので、当時としてはめずらしくない光景だったろう。また、表参道の青山アパートも同様だが、戦後まで残っていた同潤会アパートは人気が高く、狭い部屋で数人が共同生活する例も多かった。
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 少し前から、日本経済新聞の「私の履歴書」に、ソニーミュージックエンタープライズの社長だった丸山茂雄がエッセイを書いている。江戸川アパートメントには、祖父の早大教授で国会議員の社会主義者だった安部磯雄と、日本医科大学教授で丸山ワクチンを研究開発した父親の丸山千里とともに住んでいた。丸山茂雄は「やわらかい社会主義者」と表現しているが、安部磯雄は別のフロアに住んでおり、戦後に社会党内閣が発足したとき、片山哲首相が江戸川アパートメントまで報告にきていたのを憶えている。
 戦後の江戸川アパートメントについて、2022年7月2日に発行された日本経済新聞の丸山茂雄「私の履歴書―住人も暮らしぶりも多彩―」から引用してみよう。
  
 コンクリート建築の江戸川アパートは焼けずに無事だった。住んでいるのは世帯主が40代半ばより上という家庭がほとんどで、戦争には行っていない。200世帯以上が暮らしていたと思うが、「あの家はお父さんが戦死して大変」といった話は聞かなかった。あのころの日本では特殊な環境だったと思う。(中略) 住人たちの職業は文学者にイラストレーター、いまでいうフリーランサーと多彩。私くらいの世代だと、子供のころは近所の悪友とチャンバラ遊び、いたずらをして親に叱られて、なんていう話が定番だが、このアパートにそういう雰囲気はなかった。/やがてあちこちに団地ができ、50年代の終わりになると「団地族」という言葉がマスコミで使われるようになった。60年代版の国民生活白書にこの言葉の解説が載った。/過度な競争意識に包まれやすいのが団地族のひとつの特質だったろうか。あの家が洗濯機を買った、テレビを買った、あそこの子供がどこそこの学校に入った、うちも負けられない……と。しかし、丸山家に関して言えば、競争心とは無縁だった。
  
 おそらく、戦前からの住民も多かったのだろう、いわゆる戦後の「団地族」とは趣きが異なる人々が、江戸川アパートメントで暮らしていた。丸山家は同アパートの3階に住んでいたようだが、同エッセイを読むかぎり北側の1号棟か南側の2号棟かは不明だ。
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 飯田橋駅近くに勤務していたとき、深夜まで残業したあとは下落合までたまに徒歩で帰宅することがあったので、目白通りへ抜けるために江戸川アパートメントの前を何度か通過しているはずだが、夜更けで暗かったせいか印象が薄い。2003年には建て替えられているので、頻繁に徒歩帰宅Click!をするようになったころには、すでに存在しなかった。

◆写真上:江戸川アパートメント跡へ2003年(平成15)に建設されたアトラス江戸川アパートメント(右手)で、正面に見えているのは凸版印刷の本社ビル。
◆写真中上は、1934年(昭和9)ごろに作成された同潤会江戸川アパートメントの完成予想図。は、解体直前に撮影された江戸川アパートメント。は、1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた竣工2年後の江戸川アパートメント。
◆写真中下からへ、戦災から焼け残った1947年(昭和22)撮影の江戸川アパートメント、1979年(昭和54)の同アパート、1984年(昭和59)の同アパート。
◆写真下:2022年7月3日発行の日本経済新聞に連載された丸山茂雄「私の履歴書」。

ついにはデパートのようになった公設市場。

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 落合地域には、公設と思われる市場が大正末から昭和初期にかけて2ヶ所確認できる。ひとつは、大正末には開業していた中井駅前に近い下落合市場Click!、もうひとつが月見岡八幡社Click!(旧境内)の向かいにあった上落合市場Click!だ。ただし、上落合市場のほうは何度か移転しているように思われる。公設市場の設計仕様でいえば、いずれも第二号あるいは第三号に類する木造建築だったらしく、山手空襲Click!であえなく焼失している。
 公設市場が、第一次世界大戦後に起きた米騒動に起因しているのは以前の記事Click!でも取り上げたが、関東大震災Click!をはさみ新たな公設市場の設置が東京各地で盛んになった。特に、全滅に近い被害を受けた東京市の市営市場は、震災後に耐震防火の設計がもっとも重視され、鉄筋コンクリート仕様の燃えにくい市営市場が急増していく。公設市場の設置当初の様子を、1930年(昭和5)に興文堂書院から出版された、復興調査協会『帝都復興史』第参巻の「公設市場」から引用してみよう。
  
 (公設市場の)創立当時は其の規模も小さく設備も不完全なるを免れず、且つ其の商品も白米、雑穀、味噌、醤油、牛豚肉、鮮魚、野菜、薪炭の八種類に過ぎなかつた為め、一般市民に利用されなかつたが、漸次その設備を改善すると共に販売品を安価に供給するため当局は種々研究を重ねたる結果、一般小売商に比して優良品を比較的安価に提供し得るに至つた為め、従来小売商人の暴利に苦しめられつゝあつた一般市民の公設市場利用熱は漸次高まり震災当時に於ては創設当時よりも市場数増加せるのみならず、各市場の取扱品目は著しく増加し、市民特に中産階級以下の日常生活に欠く可らざるものとして発展しつゝあつた。(カッコ内引用者註)
  
 ところが、市街地の公設市場はいまだ木造が多く、関東大震災によって大半が焼失している。震災当時は、市街地(東京15区Click!)に設置された東京市設市場が11ヶ所、近郊の郡部に設置された東京府設市場が31ヶ所あったが、このうち市街地および近郊の15ヶ所の市場が、大震災による大火災で商品在庫も含めて全焼している。
 関東大震災の以前に企画されていた市場の設計図案によれば、鉄筋コンクリート造りの市場建築モデルである「第一号」が存在していたが、建設費に手間やコストがかかるためか、いまだ数が少なかったのだろう。実際に建てられた市場は、木造平家建ての設計図モデル「第二号」か、あるいは壁のない吹き抜けの木造建築だった設計図モデル「第三号」が多かったとみられる。落合地域に大正末から昭和初期にかけて建設された公設市場は、この「第二号」あるいは「第三号」の設計図がベースとなって建設されているのだろう。
 鉄筋コンクリート造りによる公設市場(設計図第一号)の図面を見ると、正面の間口(8間半)は広めの道路に面していることが建設の前提で、残りの壁面(3面)はほかの建設敷地に隣接していることが条件とされている。建物の構造は地上2階に地下1階で、地下は市場内に出店している店舗の商品を備蓄・保管する倉庫として活用できるようになっている。各売店からは、専用階段を利用して地下倉庫へ下りることができた。
 鉄筋コンクリートの公設市場について、売店部分の室内仕様を見てみよう。1922年(大正11)に内務省社会局から発行された、『公設市場設計図及説明』から引用しよう。
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 天井高前方ニ於テ十一尺五寸後方ニ於テ十尺トス 階段ノ外ニ必要アレハ床ニ上ゲ蓋ヲシテ商品ノ上下ニ便ス、陳列段ハ階段反上ゲ蓋ヲ考慮シテ本設計ニ依レルモ(ノ)ハ単ニ一例ヲ示スニ過ギズシテ売品ノ種類、性質ニ応ジ出店人ニ於テ任意設計スルヲ可トス、例ヘハ肉店、魚店ノ類ハ図面ノ如ク床上七尺迄ヲ硝子張、夫ヨリ上部梁迄ヲ金網張リトシテ蠅ヲ防ギ出札所ニ於ケルカ如ク切符売場及売品受渡口ヲ設クルカ如シ/売台甲板ハ幅一尺五寸高三尺三寸木製ニシテ一端ヲ出入ノ通路トス、冬期ニ於テ下部ニ暖房用放熱器ヲ装置スルコトヲ得、夜間ニ於テ甲板上部ニ自在戸ヲ立テ昼間ハ間仕切壁ニ沿ヒテ畳ミ置クヲ得シム、尚店内適宜ノ位置ニ洗浄用給水栓及運搬シ得ル金属製屑鑵ヲ備フルモノトス(カッコ内引用者註)
  
 2階の売店スペースは、市場の店舗数が増えたときのための予備室、あるいは市場の事務室として利用できるようになっている。売店の解説には上水道しか書かれていないが、各店には端に掘られた下水溝(排水溝)が設置されており、通風換気は各売店ごとに換気口を装備し、通路上部の天井両側には換気窓がうがたれて、常に外気が取りこめる設計となっていた。また、従業員や顧客用のトイレは浄化槽を備えた水洗式を採用し、「大」用の個室が4室、小便器が5個それぞれ設置されていた。
 鉄筋コンクリート造りの市場(第一号)は、1922年(大正11)の時点で建設費が坪単価280円と見積もられており、建物だけで72,240円の予算が必要だった。それに加え、商品の陳列棚や送風機、浄化装置、照明、水道(工事)などの設備や機器に別途費用が発生した。これに対して、木造による公設市場の設計図(モデル第二号)は建設費が坪単価160円で12,460円、木造吹き抜けの市場(モデル第三号)なら建設費が坪単価140円で13,500円ほどだった。第二号の木造市場より第三号の建設費が高いのは、想定されている敷地面積が第三号のほうが18.5坪ほどよけいに広いためだ。
 こうして、東京市内や東京府の郡部には次々と公設市場が開業していったが、関東大震災以降は鉄筋コンクリート造りによる建物が急増していくことになる。特に街道沿いには、内務省社会局による『公設市場設計図及説明』の設計図にまったくとらわれない、おシャレなデザインをした大型の公設市場が次々と建設されていく。
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 下落合の近隣でいえば目白駅前に開業した、まるで古城のようなデザインをしていた目白市場Click!、長崎バス通り(目白バス通り)に開業していた、戦後の名曲喫茶のような意匠の長崎市場Click!、そして公設市場というよりもむしろデパートのように大型化した、目白通り沿いの「椎名町百貨店」Click!(開設当初は「椎名町市場」だった?)と、鉄筋コンクリート造りの公設市場は年々大型化していった。
 公設市場内で扱う商品も、大正期の「白米、雑穀、味噌、醤油、牛豚肉、鮮魚、野菜、薪炭の八種類」どころではなく、デパートや今日の大型スーパーマーケットと同様に、食品から日用雑貨までありとあらゆる商品を取りそろえた販売構成になっていく。中には、目白駅前にあったオシャレな目白市場のように買い物ついでや通勤通学客を見こんだ、川村学園Click!の経営による女学生の喫茶店Click!までが出現するようになっていった。
 昭和初期の様子を、復興調査協会『帝都復興史』第参巻から引用してみよう。
  
 而して其の販売品目も創設の当初は米穀其他八種目に限定されてゐるが、発展に伴れて漸次増加され、日用品の外荒物類、麺類、罐詰等の準日用品をも販売し、更に金物類、洋品、雑貨、庶民階級向の呉服類等にも及んで広く販売されるに至つた 即ち震災後に於ける公設市場一般の販売品目は、白米、雑穀、乾物、野菜、漬物、佃煮、罐詰、鮮魚、干盬魚、牛豚其他の肉類、和洋酒、清涼飲料水、洋品雑貨、味噌、醤油、麺類、砂糖、菓子、パン類、茶、陶器、荒物、金物、傘、履物、薪炭の二十七種類に拡張され、市民の生活必需品は大部分市場に於て整へ得られるに至つた。
  
 つまり、当初は米価をはじめ、生活には欠かせない食品や燃料の急激な値上がり対策として、必要最小限の商品8種に限定して安価に販売していた公設市場が、昭和期に入るとまるでデパートかスーパーのような大型店舗へと衣がえし、必ずしも生活弱者だけではなく一般市民までターゲットに入れた、大規模な流通機関にまで発展してしまったのだ。
 これでは、周囲の店舗や商店街はたまったものではないだろう。公設市場が、いつの間にか強力な競合相手として立ちはだかったことになる。東京じゅうの商店街から、東京市や東京府へ抗議が殺到したと考えても、あながちピント外れではないだろう。
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 椎名町に設置された大型の市場が、地図上から「公設市場」の記号がいつのまにか消え、なぜ「椎名町百貨店」という私設のような名称になっているのか、なぜ1930年代には公設市場が次々と姿を消していったのか、そこに地元商店街との激しい軋轢を感じるのだ。

◆写真上:長崎町の目白通り沿いにあった、「椎名町百貨店」跡の現状。
◆写真中上上左は、1922年(大正11)発行の『公設市場設計図及説明』(内務省社会局)。上右は、1930年(昭和5)出版の復興調査協会『帝都復興史』第参巻(興文堂書院)。は、鉄筋コンクリート建築の「公設市場第一号」設計図面。
◆写真中下は、「公設市場第一号」の設計図面。は、木造の「公設市場第二号」の設計図面。は、壁がなく吹き抜けの「公設市場第三号」の設計図面。
◆写真下は、ダット乗合自動車の終点折返し場の東側に建っていた1935年(昭和10)ごろの目白駅前のオシャレな「目白市場」。は、目白通り沿いに建っていたもはや市場というよりはデパートに見える1933年(昭和8)撮影の「椎名町百貨店」。は、まるで戦後の名曲喫茶のような意匠に見える1940年(昭和15)ごろ撮影の長崎バス通りに開業していた「長崎市場」。(「目白市場」と「長崎市場」は小川薫アルバムClick!より)

曾宮一念と鶴田吾郎の「どんたくの会」教科書。

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 下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!では、アトリエ竣工Click!直後から絵画を趣味にする人たちを対象に、画塾の第1次「どんたくの会」Click!が開講していた。講師は同アトリエの曾宮一念Click!と、当時は目白通り沿いの下落合645番地の借家に住んでいた鶴田吾郎Click!だった。発案・企画したのは鶴田吾郎で、「どんたくの会」Click!の名称は曾宮一念が付けたが、生徒募集には当初10人ほどが参集している。
 「どんたくの会」は、1921年(大正10)から途中で1923年(昭和12)の関東大震災Click!をはさみ、中村彝Click!が死去する1924年(大正13)ごろまでつづいたといわれるが、曾宮一念の『半世紀の素描』(1982年)では2年半としているので、開講3年になるかならないうちに閉じてしまったのだろう。毎週の日曜日、正午から午後5時までの5時間にわたる授業で、月に4~5回ほど開講された当時の月謝は、教材や材料費は別にして5円だった。
 曾宮一念のアトリエを教室にしたが、素描の授業は鶴田吾郎が教え、油彩画の授業は曾宮一念が担当している。当時、ふたりの画家は今村繁三Click!の援助だけでは食べられず、また作品もほとんど売れないので、定収入を得るためにはじめた画塾だった。だが、関東大震災で下落合645番地の借家が傾き、家族ともども住めなくなった鶴田吾郎は、下落合436番地の夏目利政Click!に相談して下落合804番地Click!にアトリエを設計・建設してもらっている。おそらく、中村彝の死からその事後処理、そしてアトリエ建設の多忙さが重なって、鶴田吾郎は「どんたくの会」まで手がまわらなくなったのだろう。
 「どんたくの会」に通ってきた生徒は、落合地域と周辺域の住民たちがほとんどだったろうが、遠くて通えない生徒たちのため、あるいは全国の絵画を趣味にしたい人たちに向け、講義録をまとめたような洋画の「教科書」を作成している。1925年(大正14)に弘文社から出版された、鶴田吾郎・曾宮一念『油絵・水彩画・素描の描き方』がそれだ。全体構成は、「素描」と「水彩画」、「油絵」の3章に大きく分かれているが、それぞれの絵画の特徴や画道具の解説など、実技を意識したかなり具体的な編集方針を採用している。第1次「どんたくの会」の集大成として、ふたりで編集し出版したものだろう。
 少し横道へそれるが、大正時代も中期になると絵画を趣味にする美術ファンが急増し、展覧会へ作品を観賞しにいくだけでなく、自分でも水彩や油彩を問わずに描いてみようとする人々を対象に、さまざまな技術本やノウハウ本、解説本、教材などが出版されている。わたしの手もとにあるのは、1917年(大正6)に書店アルスから出版された山本鼎Click!『油絵ノ描キカタ』をはじめ、三宅克己Click!『水彩画の描き方』(アルス/1917年)、石井柏亭『我が水彩』(日本美術学院/1916年)、後藤工志『水絵の技法』(アルス/1926)など、同様の書籍が美術系の出版社から次々に刊行されていった。
 鶴田と曾宮の『油絵・水彩画・素描の描き方』では、「素描」ではデッサンの意義にはじまり、木炭画、石膏写生、素描技巧、垂鉛と測棒、明暗法と立体、明暗の強弱、線画、定着、素描と材料……とかなり実践的だ。ところどころにイラストが描かれ、道具の種類や使い方が詳しく解説されている。当時は、西洋画(特に油彩画)の材料がかなり高価で、家計に余裕のある人々が楽しむ趣味だったが、ありあわせのモノや画道具の自作など、できるだけおカネをかけないで絵を楽しむ方法も紹介している。
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 中でも読みごたえがあるのは、やはりボリュームがもっとも厚い「油絵」の章なのだが、具体的な画道具や技法のこと細かな解説や使い方のほかに、西洋の油彩画の歴史や国内における同画の歴史など、趣味としての油絵制作に直接関係のない項目まで記述している点だ。また、同章は後半にいくにしたがって、絵画制作の教科書というよりも洋画界の最新動向や、絵画をめぐるエッセイ(世間話)のような内容になっていくので、西洋画の勉強をスタートさせたい初心者向けというよりも、曾宮一念と鶴田吾郎の美術や絵画に対する考え方(思想)を紹介する読み物としての面白さが加わってくる。
 おそらく、文章表現の技術に関しては、のちにエッセイ類を数多く出版している曾宮一念Click!のほうが優れていたと思われるが、明らかに海外を放浪した経験のある鶴田吾郎が執筆したとみられる箇所も散見される。絵画展覧会を「技術と思想の競技場」と規定する、同書の「展覧会の絵」から少し引用してみよう。
  
 展覧会は芸術作品の発表場所であつて、互に芸術家の技術や思想の競技場にも見られますが、また一般公衆の前に開展するのでありますからそこに純不純の世間的価値を上下することがあつて、芸術家なるものが互に誹謗しあふ弊害も生じ一時的名声を求めんが為に純芸術家の立場を離れて様々な対世間的技巧をするといふことも伴なつてきます。また或る団体が他の意見を異にせる団体に対して、政策上に於て一も二もなく之れを一蹴し去るといふが如きこともありますが、是等は決して純正芸術家としてとるべきことではなく、要するに展覧会なるものが次第に興行化されて来た為であつて、其の興行なるものに携はる一部の計画家が斯かる態度をとることがたまたま生じるので、夫れが誇大されて美術界の不評の種ともなるのであります。
  
 おそらく、上記の文章は二科も文展/帝展も春陽会も、独立美術協会も一水会も、まったく画家の属する集団にはとらわれず、派を超えて多くの画家たちと交流をしつづけていた曾宮一念Click!が書いたものではないかとみられる。
 これが、もし鶴田吾郎が書いた文章であるならば、彼はわずか15年後にはまったく正反対の生き方(絵画制作のしかた)、すなわち軍人と見まごうような服装をしながら戦地を駆けまわり、政府による軍国思想によって統制された美術に同調し、戦争画Click!を描かない画家たちに対して「一も二もなく之れを一蹴し去るが如きこと」をしたことになり、深刻な主体性の自己撞着に陥ってしまうからだ。
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 「展覧会の絵」につづいて、同書の巻末近くには「洋画家と洋行」というエッセイが掲載されている。ちなみに、この時点で曾宮一念は洋行経験がないので、文章を書いているのは海外を放浪した鶴田吾郎ではないかと思われる。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 日本の自然は美しいが難しいといふことは洋行して帰つたものに多く出る言葉であります。自然の示すところの色彩は何れかと言へば暗く、複雑にして快明を欠き渋く且つ対色上の美しい効果を多く示してをりません、習慣となれば左程にも感じないのでありますが海外より一歩日本の土を踏むと全体に墨色の多量に含むでゐることを先ず直感します。また日本人の衣服などに於ても外国人と正反対に部分的にて美しい色を表しても全体として大きく眺めた場合、殆んど対色上の美しさや、肉体を包むところの服装の線などが決して画的興味を起させるに甚だ貧しいのであります、むしろ支那人の服装の方がはるかに線などの表れが自然であり絵画的ではないかと思はれます。/小さな例ではあるが右のやうな絵画制作の画因が万事対象より受ける感興が弱い為に、をのずと外国で勉強してゐねよりも感激が薄らぐ故に技量が劣つてくるやうに見えるのでありませう、
  
 これは、当時の洋行した画家が抱く一般的な感想なのだろう。当時の洋画家は、日本にもどってくるとみんなくすんだ色あいに見え、思うように油絵の具が載らないし、フォルムも把握しにくいように思うのだろうが、それは西洋で開発された油絵の具の色彩感から日本の風景を見るからであって、やがて帰国した画家たちはその齟齬や乖離した感覚を埋めようと、あれこれ研究し腐心することになるようだ。
 たとえば、ここ江戸東京地方の伝統的な色彩感覚Click!は周囲の風景に見あうよう、中間色(いま風にいえばパステルカラー調)に美感や美意識を見いだし数百年の時間をかけて発達Click!させたのであり、油絵の具の鮮やかで艶やかな色彩から見れば曖昧模糊として捉えどころがないような、多彩な色を灰をまぶしたハケで薄っすらと掃いたような、シブくて淡い(はかなげな)色あいをしているものが多いが、昔の人たちはそれらの色彩が「日本の自然」や「街の風景」にはよく似あい、無理なく溶けこんで美しいと考えたからだろう。江戸東京では、この美意識がいまでもガンコに受け継がれ生きつづけているが……。
 そこへ明治・大正期を通じて、西洋の風景に適合するよう開発された油絵の具を持ちこんだわけだから、違和感を感じるのはむしろ当然だったにちがいない。ましてや、パリの街角から当時の日本へもどってくれば、艶やかで鮮やかな油絵の具に見あう風景などどこにもないじゃないか……と感じても、なんら不思議ではなかっただろう。
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 わたしは不勉強なので知らないが、洋行した画家がたとえばフランスで風景を描くときに使用した絵の具の種類と、帰国してから風景を描くときに使用した絵の具の種類を詳細に比較すると、特徴的な面白い結果が得られるのではないかと想像している。すでにそのような研究をされている方がいるのかもしれないが、空や木々の緑、地面の土の色ひとつとってみても、フランスと日本では絵の具の混合がかなり異なっているのではないだろうか。

◆写真上:下落合623番地に建っていた、曾宮一念アトリエ跡(右手の駐車場)。
◆写真中上は、1925年(大正14)出版の鶴田吾郎・曾宮一念『油絵・水彩画・素描の描き方』(弘文社/)とその奥付()。は、1917年(大正6)出版の山本鼎『油絵ノ描キカタ』(アルス/)とその奥付()。は、1921年(大正10)からの第1次「どんたくの会」と1931年(昭和6)からの第2次「どんたくの会」が開かれた曾宮一念アトリエの内部。
◆写真中下:いずれも『油絵・水彩画・素描の描き方』収録の作品で鶴田吾郎『松山』()、曾宮一念『アネモネ』(1925年/)、鶴田吾郎『土を掘る人』()。
◆写真下は、庭に立つ曾宮一念と下落合のアトリエ(提供:江崎晴城様Click!)。は、1931年(昭和6)ごろに撮影された第2次「どんたくの会」の曾宮一念(右端)。

「首塚」や「馬塚」の下には古墳がある。

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 千代田区の大手町にある将門首塚古墳(柴崎古墳)Click!のほかに、関東には怪談が付随する有名な「首塚」がもうひとつある。群馬県の安中市にある、碓氷川の河岸段丘上に広がる“古墳の巣”のようなエリアで発見された、簗瀬(やなせ)八幡平の「首塚」、考古学的には「梁瀬首塚古墳」または古くから「原市町12号墳」と呼ばれる古墳時代の遺構だ。北東側には、釣り鐘型の周壕域まで含めると全長130mを超える、前方後円墳「梁瀬二子塚古墳」(旧・原市町13号墳)に隣接している。
 大手町の将門首塚Click!は、古墳時代に造営された小型の前方後円墳にちなみ、なんらかの禁忌譚Click!が語られつづけ、後世に「将門の首が飛んできて落ちたので葬った」という怪異譚が付会されたとみられるが、同古墳のあった柴崎村の敷地には730年(天平2)ごろ、すでに出雲神のオオナムチ=オオクニヌシを奉った神田明神Click!が造営されており、のちに「首塚」伝説とともに平将門Click!も主柱に祀られることになる。これに対し、梁瀬の首塚はその名のとおり室町期に埋葬されたとみられる、刀傷のある頭蓋骨が墳丘の東側斜面(玄室の外郭地中)から150体分も出土している。
 この150体分の頭蓋骨は下顎の骨がないため、以前にどこかに葬られていた遺体の頭骨だけを掘りだし、梁瀬首塚古墳(原市町12号墳)の墳丘東側へ改葬されたものとみられている。頭骨が埋められた上には、1783年(天明3)に噴火した浅間山の火山灰の混じる覆土がのっており、田畑の開墾かなにかにともない江戸時代に改葬されたのが明らかだ。
 江戸期以前の改葬(墓地の移転)では、頭骨のみを掘りだして別の場所へ埋葬するのは、特にめずらしくない習慣だった。これらの頭骨は、室町時代に生きた日本人の形質を備えており、なんらかの戦乱による犠牲者ではないかと推測されている。古墳のある場所は、甲斐の武田氏と群馬の安中氏とが激しく争った地域であり、梁瀬首塚古墳の北西側は武田信玄が築いた八幡平陣城跡とされている。
 また、墳丘の両側からは中世の板碑Click!が7基がまとめて発掘されており、そのひとつには「建武四年」(1337年)の年紀が刻まれていることから、中世から近世にかけてまで、梁瀬首塚古墳の墳丘が「特別な祭祀場所」であったことがわかる。つまり、拙ブログでは以前から書いてきている「屍家(しんや・しいや)」伝承Click!、あるいは禁忌伝承Click!が語られてきた忌み地Click!であり、そのため隣接する梁瀬二子塚古墳とともに開墾や開拓がなされず、現在まで良好な状態のまま保存が可能だったのだろう。
 2003年(平成15)に安中市教育委員会から発行された、『梁瀬二子塚古墳/梁瀬首塚古墳/市史編さん事業及び都市計画道路建設事業に伴う範囲確認調査及び埋蔵文化財発掘調査報告書』(もう少しタイトルの長さがなんとかならなかったものだろうか?)より、直径23m余の円墳・梁瀬首塚古墳についての発掘状況について引用してみよう。ちなみに、同古墳は過去に何度か発掘されており、1931年(昭和6)に近所の小学生が発見した150体分の頭蓋骨は、1952年(昭和27)の東京大学による発掘調査ですでに取り除かれている。
  
 首塚関連 首塚に関連する遺構・遺物は全く検出されなかった。したがって、首塚は古墳東側(石室の裏込めの外側)のごく限定された部分に頭骨が並べられていたのみであった可能性が高い。近現代馬墓 埋葬馬の検出された墓壙が墳丘北側トレンチで確認された。馬骨の遺存状態は良好であり、生後半年ほどの子馬であることが宮崎重雄氏の鑑定により明らかとなった。覆土には浅間A軽石が混入しており、近現代の馬が埋葬されていた場所と判断される。
  
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 梁瀬首塚古墳には、人間の遺体(古墳の被葬者)ばかりでなく、それが墳墓あるいは屍家と伝えられていた中世にも150体分もの「首」が埋葬され、さらに近現代にかけては動物(家畜)の死体までが埋葬されていた。
 この事実にピンとこられた方は、拙ブログをていねいに読まれている方だろうか。そう、落合地域にも「馬塚」Click!と呼ばれる墳墓が存在していた。従来は、江戸期に農耕馬や伝馬などの家畜が死ぬと葬られた動物墓と解釈されがちだったが、なぜその場所があえて「墳墓」として選ばれているのかという、より深いベースとなる史的テーマだ。
 落合地域の「馬塚」は、1932年(昭和7)に出版された『自性院縁起と葵陰夜話』(自性院)によれば、葛ヶ谷448~449番地(現・西落合1丁目と同2丁目の境界)あたり、いまでは新青梅街道(旧・江戸道)の下になってしまった地点に存在していた。これだけ見るなら、街道(江戸道)を往来する伝馬や荷運馬が倒れて死んだので、街道沿いに葬ったようにとらえられがちだが、「馬塚」の周辺には「丸塚」や「天神山」Click!「四ツ塚」Click!、「塚田」など古墳地名が随所に散在しているエリアだということに留意したい。
 すなわち、もともとは屍家あるいは禁忌地として伝承されてきた場所、つまり田畑に開墾もされず忌み地として放置されていたエリアに、動物の死骸も埋葬しているのではないかという想定が成り立つ。少し前に記事にした、徳川吉宗Click!が輸入したアジアゾウClick!が中野村で病死し、60樽ほどに塩漬けした死骸の肉が腐敗したため、大きな塚が数多く見られた近くの桃園地域に埋葬したのではないか……というエピソードにも直結する課題だ。梁瀬首坂古墳のケースは、まさに古墳をベースにして造られた「首塚」であり「馬塚」だったのだ。
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 大正期、月見岡八幡社Click!の宮司・守谷源次郎Click!は、鳥居龍蔵Click!の考古学チームをわざわざ落合地域に招聘して、つごう37基の古墳Click!を確認(一部は発掘調査)している。しかし、このとき調査・発掘してまわったのは上落合のほぼ全域と、下落合の東西につづく目白崖線の急斜面(バッケClick!沿い)が主体であり、下落合の丘上(地形図に採取された正円のニキビ状突起物Click!についても記事にしているが)、および葛ヶ谷(西落合)の全域はまったくの手つかずだったと思われる。
 したがって、下落合や葛ヶ谷に伝えられていた丸塚や天神山、四ツ塚、塚田などの地点は、なんの調査や確認・観察もされずに開拓(耕地整理Click!)や道路工事、住宅地造成で消滅してしまった……ということなのだろう。もし、「馬塚」のエリアが中世に入ってなんらかの墓地や改葬場所として利用されていたなら、より強烈かつ印象的な名称がつけられて、梁瀬首塚古墳のように道路計画からも外されて現存していたかもしれない。
 梁瀬首塚古墳からの出土品について、同報告書からつづけて引用してみよう。
  
 (前略) 墳丘・周溝から普通円筒埴輪・朝顔形埴輪・人物・馬・盾・靫が出土している。埴輪の大半は藤岡産埴輪で、特記すべきことは全身立像の部品が出土している。全トレンチから形象・器材形埴輪が出土している。特に石室西側の3・4トレンチから馬が出土している。6世紀後半に造られた古墳である。
  
 梁瀬首塚古墳からは、形象埴輪や土器片などが発見されたが、それ以前に改変あるいは盗掘されたのか豪華な副葬品は発掘されなかった。だが、隣接する梁瀬二子塚古墳(6世紀初頭の前方後円墳)からは、明治以降に環頭太刀をはじめとする鉄刀類Click!や甲冑類、出雲の碧玉Click!や糸魚川の翡翠Click!、水晶、琥珀、ガラス、金銅など数々の宝玉・宝飾品、土器・須恵器などの豪華で膨大な副葬品が発見され、地主の小森谷家に代々保存されてきている。南武蔵勢力と密接に同盟していたとみられる上毛野(かみつけぬ)勢力が、ヤマトに対抗するためか日本海側の北陸(越:こし)や出雲とも連携していた痕跡が見えてたいへん興味深い。
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 梁瀬首塚古墳で語られている怪談は、将門首塚古墳で語られつづけ各地に類似伝承が残る、まわりくどいタタリ譚Click!などよりも、もっと直截的であからさまだ。「甲冑を着た落ち武者たちの亡霊を見た」とか、「首のない鎧姿の武士の幽霊を見た」とか、「どの道を選んで走っても、なぜか呼ばれるように首塚の前に出てしまう」とかのありがちな怪異だ。後世に「首塚」と名づけられたがゆえ、「心霊スポット」にされてしまった古墳本来の被葬者にしてみれば、「おまえら、いい加減にしてくれろ」と地下で迷惑がっているだろう。

◆写真上:整備されすぎてしまった、大手町の将門首塚古墳(柴崎古墳)跡。
◆写真中上は、1968年(昭和43)に将門塚保存会から出版された『史蹟将門塚の記』の表紙()と裏表紙()。わが家には初版と4刷(1982年)があるので、初版は神田明神の氏子150万人の家庭へ配布され、4刷は親父が家にあるのを忘れ神田明神で新たに買い求めたものだろうか。は、柴崎古墳(将門首塚古墳)の後円部前に安置された神田明神の神輿2基で、緑の繁る墳丘が残っていることから関東大震災以前に撮影されたもの。は、明治初期に描かれた将門首塚古墳(柴崎古墳)の後円部。
◆写真中下は、鳥居龍蔵の考古学チームが撮影した関東大震災直後の将門首塚古墳(柴崎古墳)。は、整備される以前の風情があった将門首塚古墳跡。は、群馬県安中市の旧・原市町にある梁瀬首塚古墳(八幡平の首塚)。
◆写真下は、1932年(昭和7)出版の『自性院縁起と葵陰夜話』に掲載された絵図。は、梁瀬首塚古墳に隣接する6世紀初頭の梁瀬二子塚古墳。は、梁瀬首塚古墳と梁瀬二子塚古墳の位置関係で、縦横に描かれた筋は発掘調査(2003年)のトレンチ。
おまけ
 2003年(平成15)に安中市教育委員会が実施した、梁瀬首塚古墳(原市町12号墳)の発掘調査の様子。墳丘へ向けて、5本のトレンチ(調査溝)の掘られている様子がわかる。は、近代に埋葬されたとみられる出土した仔馬の全身骨格。
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下落合を描いた画家たち・長野新一。(3)

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 画家の眼は、広角から望遠まで自由自在だ。拙サイトでもっとも取り上げている、佐伯祐三Click!が描く「下落合風景」シリーズClick!の画面は、ほぼ見たとおりそのままの画角で情景をとらえているので50~55mmの標準レンズといったところだろう。
 これまでご紹介してきた長野新一の作品は、『養魚場』Click!(1924年)や『落合村』Click!(1926年)はほぼ標準レンズのような画角だが(『落合村』はやや広角気味か?)、1925年(大正14)に発表された『郊外の或る新開地』は同じ下落合の風景を描いてはいても、かなり広い画角をしている。レンズでいえば、28mmの広角レンズといったところだろうか。また、モチーフのとらえ方もややデフォルメしているようで、稲葉の水車Click!の『養魚場』のようなリアルな描き方とは、少なからず異なるような趣きだ。
 『郊外の或る新開地』が、1925年(大正14)の2月から3月まで開催の第6回帝展に出品されているとすれば、実際に制作されたのは前年の1924年(大正13)の秋から暮れにかけてかもしれない。画面を観察すると、常緑樹とは別に落葉した樹々が描かれており、そのぶん建物の多くが遠くまで見通せている。1924年(大正13)の、晩秋あたりの風景だろうか。同作は、以前にも一度ご紹介しているが通りいっぺんの解説だったので、より史的な土地勘が獲得できた現在の視点から、改めて同作を取りあげてみたい。
 『或る郊外の新開地』の画面は、陽光が画家の背後から射しており、南側から北側を向いて描かれているのが明らかだ。長野新一がイーゼルを立てている場所は、以前の規定とあまり変わらないけれど、前の記述では手前の窪地を妙正寺川北岸の道路と想定していた。だが、風景や家々の見え方からいって、この窪地は妙正寺川の流れの可能性が高い。当時は小川だった妙正寺川の南岸から、北側の目白崖線に連なる丘陵を向いて描いており、画家のすぐ左手(西側)には地元で「どんね渕」Click!と呼ばれた、妙正寺川の特徴的な流域があった。また、画家の右手(東側)には、江戸期からつづく小さな西ノ橋(比丘尼橋)Click!が妙正寺川に架かっており、さらにその向こう側には、地名の由来となった妙正寺川と旧・神田上水(1966年より神田川)が落ちあう合流点があるはずだ。
 長野新一は、一面に田圃(稲の収穫は終わっていただろう)が拡がる下落合の向田と呼ばれた字名の区域、水田を横切る畦道の傍らにイーゼルをすえていると思われる。この一帯は、やがて妙正寺川の直線整流化工事とともに、西武線の下落合駅前を形成する一画だ。画家の背後には、目白変電所Click!へとつづく東京電燈谷村線Click!高圧線鉄塔Click!が並び、さらにその向こうには堤康次郎Click!らが創立したばかりの、上落合の前田地区にあった東京護謨工場Click!の建屋が見えていただろう。
 1924~1925年(大正13~14)の時点で、左手の丘上に見えている大きな建築物は、徳川義恕邸Click!の旧邸とその建物群で、昭和期に入って建設されるより大きな新邸よりも、やや北寄りの位置に建っていた。また、この時代の「静観園」(ボタン園)Click!は建物の北側にあり、いまだ東側の斜面には移動していない。徳川邸のすぐ右側、丘下の手前に見えている大きな屋根の日本家屋は、「一年の計は春(元旦)にあり」で有名な安井息軒の孫にあたる人物が住んでいた安井小太郎邸(三計塾)Click!だ。安井邸の向こう側には、不動谷(西ノ谷)Click!諏訪谷Click!が合流する湧水池が形成された谷間があり、その北側の高台には1931年(昭和6)に国際聖母病院Click!が建設される青柳ヶ原Click!が拡がっている。
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 その右手に白っぽく描かれているのは、諏訪谷の出口へ急斜面の崩落を防ぐために築かれた、コンクリートの大規模な擁壁だとみられる。この擁壁は、徳川義恕邸の庭からバラ園Click!のある東側を向いて1926年(大正15)ごろに描かれた松下春雄Click!『徳川別邸内』Click!でも、諏訪谷の出口に高く築かれているのが確認できる。昭和期に入ると、聖母坂の開拓とともに擁壁は撤去され、改めて雛壇状の宅地開発が進むことになる。
 また、下落合にお住まいの方ならもうおわかりだと思うが、擁壁の右手にある丘には急峻な久七坂Click!が通い、その急斜面には佐伯祐三が「下落合風景」の1作として描いた、丘上から見下ろす大きな赤い屋根をもつ池田邸Click!が、樹間からチラリとのぞいている。そして、丘の切れ目の右手(東側)、画面の右端に電柱へ隠れるように描かれている建物が、現在はコンクリート造りに建て替えられてしまったが、明治初年からつづく薬王院Click!(明治初年に藤稲荷Click!の界隈から現在地へ移転)の丘上にあった旧・本堂だ。
 大きな安井邸の屋根や、その前に並ぶ建てられたばかりらしい住宅群(現在、これらの家屋敷地はすべて十三間通り=新目白通りClick!の下になっている)の手前には、葉を落とした樹々に沿って半円を描く道筋が通っている。その中央やや右側に、淡い色合いで描かれたとみられる葉が変色しているらしい大きな樹木は、旧・ホテル山楽Click!の敷地に相当し現在でも目にすることができる、黄色に変色したイチョウの大木ではないか。すなわち、1924~1925年(大正13~14)に描かれた同作は、少なくとも鎌倉時代から村落が形成されていた下落合(字)本村Click!と呼ばれる一帯だ。関東大震災Click!の影響から、このあと下落合の東部から中部にかけ住宅が爆発的に急増する直前の情景を描いている。
 長野新一が立っているのは、当時の住所でいえば下落合(字)向田2350~2356番地と上落合(字)前田289~292番地の境界あたりに拡がる田圃の畦道上、のちの上落合1丁目275番地界隈で、現在の上落合1丁目17番地の西武新宿線の線路寄りないしは線路内の地点だろう。
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 さて、長野新一は以前にも書いたように下落合1542番地の落合第三府営住宅(落合府営住宅3-11号)にアトリエをかまえていた。すぐ近くの同じ落合第三府営住宅には、帝展仲間で転居前の西ヶ原でも近所同士だった、同じ東京美術学校卒で岡田三郎助に師事した江藤純平Click!(下落合1599番地=落合府営住宅3-24号)のアトリエがあった。長野新一は江藤純平よりも4歳年上だが、おそらく仲がよかったふたりは相談して、下落合の落合府営住宅Click!に転居してきているのだろう。
 ふたりのアトリエの東側、下落合1385番地Click!の落合第二府営住宅のエリアには、帝展仲間の松下春雄Click!がアトリエをかまえていた。また昭和期に入るとほどなく、同じ西ヶ原で画家グループのひとりだった、長野新一よりも5歳年上の片多徳郎Click!が、曾宮一念アトリエClick!の斜向かいにあたる下落合734番地へ転居してくることになる。3人の出身地は大分県であり、長野新一は同県速見郡日出町、江藤新平は同県臼杵市、片多徳郎は同県国東郡高田町でみんな同郷人だった。ただし、長野新一が江藤純平のように、片多徳郎Click!とも親密に交流していたかどうかはさだかでない。
 さて、長野新一のご遺族より先日、作品画像を2点お送りいただいた。1点は、1926年(大正15)に描かれた第7回帝展出品作の『赤き蒲団と裸女』で、もう1点が1931年(昭和6)に制作された『本を読む人』(大分県立芸術館では仮題『人物』)だ。2作とも下落合のアトリエでの制作だと思われるが、このうち『本を読む人』の背景に描かれている庭先が、落合第三府営住宅にあったアトリエの庭である可能性が高い。
 庭にはユリの花が咲き乱れ、おそらく6~7月ごろの情景だろう、右端の柵の向こう側にはアジサイとみられる青色の花も咲いている。洋間の床は、なんらかの敷物か薄い板のようなもので覆われており、その表面が絵の具で汚れているように見えるので、長野新一のアトリエに遊びにきた人物をモデルに描いたものだろうか。陽光の射し方から、落合第三府営住宅の南側に面した1室なのかもしれない。
 1936年(昭和11)の空中写真を参照すると、落合府営住宅3-11号の住宅(長野新一アトリエ)は主棟(大棟)がふたつに分かれた屋根のかたちをしている。空中写真が撮影された当時、長野新一が死去してから3年が経過しており、すでに当時は酒井邸となっていた。また、同区画は二度にわたる山手空襲からも焼け残り、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真を参照すると、より鮮明に建物の様子を観察することができる。
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 『本を読む人』が制作された当時、長野新一は東京美術学校の助教授に就任していたが、おそらく健康上の理由から1932年(昭和7)に美校を辞職し、翌1933年(昭和8)に死去している。画家の仕事としては、これから本格的に脂がのる時期を目前にしての急死だった。

◆写真上:1924年(大正13)晩秋の制作とみられる、長野新一『郊外の或る新開地』。
◆写真中上は、1924年(大正13)の1/10,000地形図にみる描画ポイントと画角。は、地形がよくわかる1909年(明治42)の同所。は、大正期の撮影とみられる妙正寺川の「どんね渕」で、写生する画家のすぐ左手に見えていただろう。
◆写真中下は、『郊外の或る新開地』に描かれたモチーフの特定。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合1542番地の落合第三府営住宅(落合府営住宅3-11号)にあった長野新一アトリエ。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる元・長野新一アトリエと、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同所。
◆写真下は、1926年(大正15)に制作された長野新一『赤き蒲団と裸女』。は、1931年(昭和6)に制作された同『本を読む人』。は、長野新一アトリエ跡の現状(右手)。
★掲載している『赤き蒲団の裸女』と『本を読む人』の2作品の画像は、長野新一の孫娘にあたられる大塚邦子様からのご提供による。
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岸田劉生がベタ褒めの千家元麿。

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 1929年(昭和4)から、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)で暮らした詩人の千家元麿Click!は、同じ白樺派などからの影響を受けた歌人・土屋文明Click!とは異なり、自己の理想や思想性について現実社会の「矛盾」や「限界」にはほとんど頓着せず、どこまでも限りなく自身の世界へ引きこもる姿勢を保ちつづけた。
 そういう、“浮世離れ”した作品が本格的に評価されるのが、彼が生きた同時代ではなく戦後の危機的な(破滅的な)状況が去り、まがりなりにも平和な時代を迎えてからだったことも、彼の詩が人生や生活に“余裕”のある時代にこそ輝きを増して、読み継がれていくものだという気が強くする。千家元麿の作品は、その多くが理想を語り美を愛で愛情深い眼差しにあふれているが、昭和初期から1945年(昭和20)8月の敗戦まで、それらのテーマは軍靴に踏みにじられるか、表現することさえはばかられるような社会に陥っていた。
 落合に住んでいたころ、またはその少しあとの時代の作品に、『蒼海詩集』(文学案内社/1936年)の中に収められた「冬の日」と題する詩がある。一部を引用してみよう。
 (前略)群集の中にゐるのを嫌つて/市井を脱れて野へ来る時/孤独を見出したよろこび/野は蕭殺と変つた姿や/華やかに夏の日を憶ひ/花もなく放縦の趣きが消えて/素朴な冬となつた/閑寂に心惹かれる。
 この詩に対して、1969年(昭和44)に中央公論社から出版された、『日本の詩歌』第13巻の編集委員である伊藤信吉は、「冬の日」について次のように書いている。
  
 長らく自己の世界に安住してぬくぬくと惰眠をむさぼっていた形の詩人が、プロレタリア文学の勃興などで窮地に追いつめられて、ふるい立って荒涼とした冬景色に対し、われとわが身に鞭をあてている悲壮な姿が見える。こういう態度から新しい境地がひらけ、社会にも積極的に立ち向かうようになり、多くの意欲的な長い詩を書くことになったが、この方向では千家の特色は発揮されにくかった。彼は素朴な単純な、そして瞬時の感動に身をひたして直感的に歌い上げることに特色をもつ詩人だったからだ。
  
 千家元麿は、大正末から昭和初期にかけて、練馬や池袋、長崎、そして落合町葛ヶ谷と当時は東京近郊の田園地帯エリアを転々としているが、彼が住んだ当時の葛ヶ谷(現・西落合)の冬景色は、第二文化村Click!宮本恒平Click!が上高田の耳野卯三郎アトリエを描いた、『画兄のアトリエ』Click!に見られる雪景色のような風情だったろう。
 そもそも、千家元麿が最初の詩集『自分は見た』を出版したのは1918年(大正7)、第1次世界大戦のただ中で巷間ではスペイン風邪Click!が流行していたが、それまでの日本では経験したことのない大正デモクラシーと呼ばれた、自由で闊達な雰囲気が横溢しはじめていた時代だ。そのような時代の端緒に、千家元麿は処女詩集を発表しているのであり、やがて1928年(昭和3)の大規模な思想弾圧Click!にはじまり満州事変を経たあと、1932年(昭和7)の海軍将校による犬養毅首相暗殺による政党政治の実質的な終焉にいたる時代まで、千家元麿の主要な詩集は出版されている。
 『自分は見た』(玄文社)の出版に際し、その装丁をまかされた岸田劉生Click!は、持ち前の“感激屋”サービス精神を発揮して、序文に次のようなことを書いている。
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千家元麿「自分は見た」(玄文社)1918.jpg 千家元麿「自分は見た」内扉.jpg
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 (前略)自分は千家の最初の本の序文をかく喜びを与えてくれた本屋に感謝する。千家も喜んでくれた。自分は日本の今の詩壇からは門外漢かも知れない。しかし本当の詩には自分は門外漢ではない。自分はもう自分の確信を語るのに遠慮はしない。そして自分は千家の詩を褒めるのに躊躇はしない。自分は日本に真の詩人がいるかと聞かれた時に、自分は「いる」と答える光栄を有している。そして自分は今の日本の詩人で誰を一番尊敬しているかと云われても、自分は即座に答えることが出来る。そして今の日本で最もよき詩集はなんだと聞かれても自分はたちどころに答えることが出来る。その詩人は千家であって、その詩集はこの本である。
  
 かなりオーバートーク気味な岸田劉生Click!の文章だが、確かにそれまでの明治文学と白樺派に代表される大正期のそれとは、「私」「自分」「おれ」「ボク」と表現される一人称の主体、すなわち「近代人の自我」と呼ばれるものの深まりには隔世の感があった。千家元麿の出現は、単に白樺派の詩人としての範疇のみならず、限りなく内向的とはいえ深い自我を備えた新しい詩人群の登場の一端だったのだろう。
 千家元麿が死去したとき、武者小路実篤は追悼文で「彼はまた自然をいつも讃嘆していた。また哀れな者、貧しき者、よく働くものの味方だった。彼は或る時自分のことを楽園詩人と呼んでいたが、たしかに現代のどん底生活の内に楽園の夢を見ることが出来た稀有な男だ。僕は多くのよき友人を持つが、その内でも千家は思想的に僕に一番近かった」(1948年)と書いている。だが、彼の作品に登場する「哀れな者、貧しき者、よく働くもの」たちが抱える課題や矛盾に対して、それを解決し変革しようとする意志には向かわず、詩人の意識は自身の内側へ深くふかく沈潜していったようだ。
 同じ白樺派の仲間だった長与善郎Click!は、千家元麿について「時には野獣の如く脱線もする、が或る時には天使の涙をこぼす尊い人格。華族の子として生れながら半年以上を陋巷に過ごし貧窮の中に暮して常に天楽を改めなかった彼」と書いている。千家の「野獣の如く脱線」は、あくまでも生活上におけるハメを外したエピソードであって、その思想性から「野獣の如く脱線」することはなかった。
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 千家元麿は、1888年(明治21)に麹町区三番町で生まれている。彼の父親は、以前こちらでも東京府知事をつとめたときのエピソードとともにご紹介Click!しているが、出雲王朝Click!の末裔である千家尊福(たかとみ)だ。彼は長男として生まれたが、早くから「不良少年」化して家出事件を繰り返し、実家との関係はほぼ絶縁同然だったようだ。武者小路実篤とは、フュウザン会の岸田劉生Click!木村荘八Click!の紹介で知り合っている。
 処女詩集『自分は見た』には、生れたばかりの子どもを題材にした詩作が多い。だが、その慈しみ大事に育てた長男は戦争にとられ、あえなく戦死している。晩年の『遺稿から』収録の「小感」で、千家元麿は人生に開き直るような作品を残している。
 私が社会国家のために/何も貢献せず/安逸に自然の中を美し快感に飽腹して/空しく時間を費したとて/わるい事ではあるまい/私はこの大地を愛し/自ら畑は作らないでも見て歩いて/感激して暮らしたとて/空しい事とは思はないのだ
 確かに「わるい事ではあるまい」で、白樺派的な個人主義により自由かつ勝手だとは思うが、わたしが自分の息子を無理やり戦争にとられて喪ったりしたら、とてもその怒りから社会的・国家的に無関心でいられることなどありえないだろう。
 『日本の詩歌』第13巻の「解説」で、伊藤信吉はこう書いて結んでいる。
  
 千家元麿の人間的な愛や生活者に寄せる愛は、一転して認識の弱さ狭さに転化する。「おお」の感嘆詞は千家元麿の精神と肉体が、一種純粋な「感動体」であったことをしめすと同時に、その感動によって、認識の弱さ脆さをしばしば招来した。/感動は平凡な対象に虹の光彩を投げかけ、平凡な対象にいきいきとした生命を吹きこむ。千家元麿は感動で対象を包むことのできる詩人だったが、同時に感動によって認識を遮断した。人間性の文学、人生的・人道的詩人としての積極性と限界性がそこにあった。
  
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 落合に住んでいた1929年(昭和4)ごろ、千家元麿は九州を周遊している。全集本ブームClick!だった当時の出版界では、改造社版の現代日本文学全集『現代日本詩集』と新潮社版『現代詩人全集』、そして金星堂版『現代詩高座』に彼の作品が収録されている。

◆写真上:落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)の千家元麿邸跡。
◆写真中上は、若き日の千家元麿()と岸田劉生()。は、1918年(大正7)出版の岸田劉生装丁による詩集『自分は見た』(玄文社/復刻版)の表紙・内扉・見返し。
◆写真中下は、晩年の千家元麿()と父親の千家尊福()。は、島根県出雲市大社町の出雲大社の境内にある千家邸(現・千家国造館)。
◆写真下は、岸田劉生『劉生日記』Click!に描かれた“劉生漫画”の長与善郎()と千家元麿()。長与善郎のいい加減な描き方が、あまりといえばあんまりだ。は、戦後に出版された千家元麿の代表的な詩集で、1949年(昭和24)に出版された一燈書房版の『千家元麿詩集』()と、1951年(昭和26)に出版された岩波文庫版の『千家元麿詩集』()。

落合地域とご近所地域の怪談いろいろ。

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 この春から、古墳にまつわる怪談Click!タタリ譚Click!、仏教雑誌に掲載された不思議譚Click!などをご紹介してきたので、なんだか怪談の当たり年のような雰囲気だが、夏もまっ盛りなので、恒例の地域にまつわる怪談について書いてみたい。
 以前、大久保百人町の岡本綺堂Click!が書いた『池袋の怪』Click!をご紹介しているが、この怪談は江戸中・後期に勘定奉行や南町奉行だった根岸鎮衛『耳嚢』Click!に収録された、「池尻村の女召使ふ間敷事」が元ネタになっている。江戸で聞かれた怪談や不思議話などを集めた『耳嚢』は、あまりにも有名で関連書籍なども数多く出ているので、今回はあまり知られていない1749年(寛延2)に出版された『新著聞集』の中から、落合地域やその周辺域に関係がありそうな怪談をご紹介してみよう。
 『新著聞集』は、俳人の椋梨一雪が著した『続著聞集』がベースになったといわれ、その説話集の中から恣意的に話を抜き出して構成しなおしたのが、徳川紀州藩の神谷養勇軒だとされている。つまり、既存の説話集の中から特に面白い話を選んで再編集されたものが、寛延年間のはじめにベストセレクション『新著聞集』として出版されたという経緯のようだ。中でも、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)Click!がチョイスして『怪談』Click!に収めた「茶碗の中の顔」が、同集でもっとも知られた怪奇エピソードだろうか。
 同書は18巻あるが、1巻につき近似したテーマの話を多く集めた1篇(章)のかたちをとって出版されており、ぜんぶで18篇(章)の構成となっている。中でも怪異や怪奇、不可解、不思議な話などを収録したのが、第10巻の「奇怪篇」、第11巻の「執心篇」、第12巻の「冤魂篇」となっている。まず、第10巻「奇怪篇」に収録された、落合地域の南東側に位置する牛込地域で起きた怪談「雲に乗った死骸」からご紹介してみよう。原文そのままだと読みにくいので、2010年(平成22)に河出書房新社から出版された、現代語訳の志村有弘『江戸の都市伝説』から引用することにした。
  
 寛文七年(一六六七)閠二月六日、にわかに雹(ひょう)が降り、雷が騒がしいおりふし、江戸牛込の者が死んで高田の貉霍(むじな)の焼き場に送られた。そのとき黒雲がひとむら舞い降りて龕(棺)の上に掛かったと思うと、死骸をその中に提げ入れた。両足が雲の中からぶらぶらと下がっていたのを、諸人が見たという。
  
 今日の眼から見ると、明らかに日光雷か大山雷Click!の雷雲とともに気圧が急激に不安定化し、強力なつむじ風か竜巻が起きて棺桶を舞いあげた自然現象のように思えるが、この中で不可解なのは「高田の貉霍(むじな)の焼き場」という箇所だ。江戸期の下高田村にも、また上高田村にも火葬場はないので、これは上落合村の焼き場(現・落合斎場)Click!のことではないか。同火葬場は、上高田村と上落合村の境界にあり、地元に不案内の人物が語ったとすれば、「高田の」と表現してしまった可能性がある。
 ただし、「貉霍の焼き場」という名称は初めて聞く。当時は、近郊の丘陵地帯に展開する森林の奥にあった焼き場なので、誰彼ともなくそのように呼ばれていたものだろうか。また、以前にご紹介した怪談「雷ヶ窪」Click!と同様に、特異な自然現象にはなんらかの神意や霊意がやどっていると、江戸期に生きた人々は受けとめたのだろう。
 さて、次は落合地域の東に位置する雑司ヶ谷村に伝わった怪談だ。『新著聞集』の第11巻「執心篇」に収録された1篇だが、雑司ヶ谷村の名主の子どもたちが登場してくる。江戸前期(寛文年間)のエピソードなので、この名主とは後藤家のことだろうか。江戸後期に記録された新倉家Click!や柳下家、戸張家ではないと思われる。
 当時、雑司ヶ谷村の名主には子どもが4人おり、嫡子(長男)は出家して真言宗の学匠(教師格の僧侶)になっていた。この僧がいる寺(寺名は不明)に、ある夜、強盗が押し入って住職が殺されてしまった。寺には多くの金銀財宝が残されており、寺社奉行所の出役(代官)が住職の兄弟にあたる名主の子どもたち3人へ公平に分配したところ、次々に怪異現象が起こりはじめた。同書より、再び引用してみよう。
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 ある朝、弟の馬屋の中が火事になっており、娘がそのことを親に知らせた。驚いて見に行くと、早くも軒に燃え移り、馬屋は焼失してしまった。その次の弟の家には昼夜火の玉が飛び回った。それを必死に防いだところ、次には壁のあいだから燃え出てきた。これを消す作業が夜のうちに八、九度となり、遂に燃え上がってまた焼けてしまった。また、次の弟の家にも火の玉が飛んだので、捉えてみると熱いことはまったくなかった。
  
 江戸前期から、すでに坊主Click!の蓄財や財宝への執着がとりざたされ、怪談として伝わっているのが面白い。財産が、弟たちに分配されてしまったことが気に入らないのか、殺された坊主が火の玉となって化けて出て弟たちに嫌がらせをするという経緯は、仏教や寺院への多大な皮肉や揶揄がこめられている怪談だ。
 その後、近隣の神社仏閣に願掛けして、殺された僧の供養をねんごろにしたところ、怪異現象は収まったとされている。人々は、「あの僧は財宝にひどく執着していたので、その一念が火災を起こし」たとウワサしあった。解脱(げだつ)しているはずの坊主が、蓄財となると血眼になるのは別に時代を問わないようだ。
 次は、少なくとも延宝年間(1673~1681年)から、下落合村の北側に接して下屋敷があった上州高崎の大名・安藤但馬守(のち江戸中・後期からは対馬守を受領)の家臣にまつわる、第12巻の「冤魂篇」に記録された怪談だ。安藤但馬守の下屋敷から、江戸市街地へと出るのに神田上水をわたる橋が必要だが、下落合の田島橋(但馬橋)Click!は安藤家にちなんでつけられた橋名だといわれている。
 『新著聞集』では「安藤対馬守」として語られているが、この怪異が起きたのは江戸前期から中期にかかるころ、元禄年間(1688~1704年)の出来事と記録されているので、いまだ安藤家の受領名は但馬守時代だったのではないだろうか。以下、安藤但馬守(対馬守)の下屋敷について、1852年(嘉永5)に作成された『御府内場末往還其外沿革圖書』の「雑司ヶ谷村/下落合村/高田村之図」に記された添書きから引用してみよう。
  
 右五拾七人屋舗の地所延宝年中は南手下落合村百姓地ニて其外当初より東手え続一円安藤但馬守下屋舗(此下屋舗の内当初より東手地続は前二部に有之。右二部の内前々一部の地所は天和三亥年中上ヶ地ニ成、右残地当所并前一部の地所共天保五午年中当所同様上ヶ地ニ成)に有之候処、天保五午年五月安藤対馬守(元但馬守)右下屋舗一円御用ニ付被召上(本所押上吉川四方之進屋敷の内被召上為代地被下)感応寺境内ニ成、
  
 安藤家の下屋敷は、江戸前期の但馬守時代から中・後期の対馬守時代へとつづく1834年(天保5)まで、下落合村の北に接して建っていたが、その敷地を感応寺Click!建設のため幕府に召し上げられ、代わりに本所押上に代地をもらって転居している。つまり、この怪談が人づてに広まったのは対馬守時代になった江戸中期以降のことなのだろう。
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 同家の家臣だった横田という人物は、かなり閑職だったものか自分の仕事にあきたらず、江戸で医師の修行をして横田保菴(ほあん)と名のるようになる。常勤の家臣からは外されているので、けっこう下落合村に接するさびしい下屋敷あたりが舞台だったのではあるまいか。向上心が強かったとみられる彼は、医師の修行が終るとそのまま安藤家の藩医になったようだ。国許の高崎に妻を残したまま、江戸勤務をつづけているうちに人から勧められるまま新しい妻をめとってしまった。
 それを伝え聞いた高崎の留守宅にいる妻は、嫉妬で怒り狂って江戸へと出てきたが、横田保菴は妻に三下り半(離縁状)をつきつけて高崎へすげなく追い帰している。やがて、江戸の新妻との間には3人の子どもが生まれたが、次々と育たずに死んでしまった。前後して、高崎の元妻が死んだことを知らされると、さすがに気がとがめたのだろう、保菴は元妻の執念深い怨念やタタリを怖れ、国許に一度もどって墓参りをしようと家中(かちゅう)の者を数人連れて出かけていった。高崎郊外にある墓前に立ち、保菴がていねいに供養をしていると、さっそく怪異現象が起こりはじめた。その様子を、同書より引用してみよう。
  
 すると不思議なことに確かに固めておいた石の卒塔婆が俄かに崩れ、大地が音を立てて二つに破れると思われた瞬間、保菴の顔色が変わって、/「やれ苦しや、助けてくれよ」/などと言って激しく狂ったので、連れの人たちは、(これは妻の怨霊だ)と心得、怨霊に向かって、/「いやいや、ここで保菴を殺しては、我々の一分が立たない。まず高崎に帰ってのことにされよ」/と道理を尽くしてなだめたので、霊の心も融和した。保菴もすぐに普通の状態になった。/高崎に連れ帰るとすぐに、またあの霊が取り憑いて、保菴は日夜狂い暴れた。このことが江戸にも聞こえてきたので、親しい者が高崎まで様子を見に行くと、その霊はその人たちに向かって、/「よくも保菴に同心し、新しい妻を迎える仲立ちをしたな。お前たちも生かしてはおくまい」/とののしった。
  
 保菴に付き添ってきた家中の者や、江戸から様子を見にきた友人たちは早々に江戸へ逃げ帰ったが、保菴はほどなく1697年(元禄10)に狂い死にしたと伝えられている。
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 この怪談で面白いのは、保菴に随行した家臣たちに元妻の怨霊が説得され、素直にいうことを聞いている点だろう。墓場で保菴が死んでは、随行した家臣たちが責任を問われかねないので、「われわれがあずかり知らぬところで祟ってくれ」という頼みを、もっともなことだと聞きとどけている。してみると、元妻は単に嫉妬にたけり狂って死んだのではなく、けっこう道理のわかる厳格でクールな女性だったのではないかと思えてくる。

◆写真上:盛夏を迎えるころから、なんとなく怪談が恋しくなってくる。
◆写真中上は、1749年(寛延2)出版の編集・神谷養勇軒『新著聞集』の扉と目次。下左は、『新著聞集』第1篇の表紙。下右は、『新著聞集』の現代語訳が掲載された2010年(平成22)出版の志村有弘『江戸の都市伝説』(河出書房新社)
◆写真中下:怪談には欠かせない、道具立てやグッズいろいろ。
◆写真下は、1852年(嘉永5)の『御府内場末往還其外沿革図書』にみる安藤但馬守下屋舗(敷)とその添書き。は、安藤家下屋舗(敷)の敷地だった一画の現状。
おまけ
 三鷹での展覧会「The Creation at JANUS 2022」(ジェーナスクリエイション公募展)で、いちばん気に入ったのがこれ、ami大久保美江氏Click!の『あなただったのね』。
 わたしに取り憑いてたのは「あなただったのね」、家の中でいろいろな音をさせたりモノを動かしていたのは「あなただったのね」、喫茶店で水のグラスがふたつ出される原因も「あなただったのね」、夜道を歩いているといつもあとを尾けてきてたのは「あなただったのね」、そして寝ているときに身体の上に乗っていたのも「あなただったのね」……。
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近衛騎兵連隊の敷地を割譲させた石井機関。

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 下落合からおよそ南東へ1.8kmほどのところ、山手線をはさんだ広大な戸山ヶ原Click!の東側を見わたしていて、ひとつ不思議に思いひっかかっていたことがある。陸軍軍医学校Click!が、なぜ近衛騎兵連隊Click!の敷地まで削って、防疫研究室Click!(石井機関=731部隊の国内本部)を建設できたのか?……という不可解な疑問だ。
 日本の軍隊内では、前線で戦闘を行う将兵を擁する部隊=連隊・師団の立場や勢力が強く、その補助的な役割りをになう輜重や鉄道、諜報、医療などの部隊は、相対的に立場が弱い。軍医学校側が、近衛騎兵連隊の用地拡大のためにやむなく敷地を譲渡することはあり得ても、その逆は通常考えられないからだ。ましてや、相手は天皇を警衛する近衛師団なので、なおさら以前から不可解に感じていた。
 その疑問が解けたのは、今年(2022年)に高文研から出版された常石敬一『731部隊全史』を読んだからだ。そのキーマンは、陸軍軍医学校の軍医監であり近衛師団軍医部長を兼任していた小泉親彦だ。陸軍部内では、軍医学校の整理・縮小が検討されていたが、これに対し小泉は「軍医学校の満州移動」を提唱していた。1931年(昭和6)当時の小泉は、軍医学校教官で衛生学教室主幹だったが、翌1932年(昭和7)には上記のように軍医監と近衛師団の役職を兼任し、1933年(昭和8)には軍医学校校長に就任している。
 このトントン拍子の昇進には、そのバックにもっと上層の意向(軍務局長以上)が働いていたとみるのが自然だろう。「軍医学校の満州移動」の代わりに、小泉は満州国に関東軍防疫部(石井機関=731部隊)の設置に成功している。そして、小泉は1934年(昭和9)に軍医総監、1941年(昭和16)には厚生大臣へと昇りつめている。すなわち、満州で細菌戦の研究開発および実行を推進する石井機関=731部隊の背後には、陸軍の最上層部の思惑が反映されていたととらえるのが当然なのだろう。
 1932年(昭和7)に、近衛騎兵連隊の敷地5,000坪超を軍医学校に割譲させたのは、近衛師団の軍医部長だけの力では到底不可能なことであり、そのバックにいる強大な権力をもつ陸軍の最上層部を想定しなければ説明がつかない。このネゴシエーションには、もちろん小泉親彦だけでなく石井四郎が陰に陽に付き添い、バックアップしていたとみるのが自然だ。石井四郎の「根まわし上手」は、軍医学校でもよく知られており、中間の将官職や取次ぎをとばしていきなりトップと交渉することも稀ではなかった。
 石井四郎のプレゼンテーションは、敵から押収したと称する自ら捏造した「証拠」を見せ、上層部の危機感をあおるのが常套手段だった。戦後、GHQの尋問に答えた増田軍医大佐の供述調書では、「ソ連の密偵」が所持していたと称する「アムプレ(アンプル)」と「薬壜」を調べたところ、コレラ菌を検出したと供述しているが、その供述表現から石井の言質をまったく信用していない様子がうかがえる。つまり、敵が細菌戦をしかけてきているのだから、日本も細菌戦を準備し積極的に実行しなければならないというのが、石井四郎によるマッチポンプ式の大型予算獲得と組織拡大の手口だった。
 また、当時の陸軍には正規軍同士が戦って勝敗を決するのが軍隊の本領であり、石井四郎のような作戦は姑息で卑怯だとする見方の傾向が根強く残っていた。だからこそ、多くの組織を飛び越えた陸軍トップとの秘密交渉が必要だったのだ。
 近衛騎兵連隊に5,000坪余の土地を提供させ、石井機関の本部建物が建設される際、1932年(昭和7)7月から同年12月までの間に、施設名称が二転三転していることが『731部隊全史』で指摘されている。対外的にも、細菌戦の研究所を想起させるような名称を避けたかったのだろうが、逆に短期間における名称のたび重なる変更は、ジュネーブ条約違反の組織を強く臭わせる結果になっているように思える。すなわち「細菌研究室」→「戦疫研究室」→「戦疫研究所」→「戦疫研究施設」→「戦疫研究室」と推移し、最終的には「防疫研究室」となった。近衛騎兵連隊では、防疫研究室に敷地を提供するために、兵器庫と油脂庫などの敷地内移転を余儀なくされている。
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 石井四郎は、そのころ「東郷部隊」という秘密部隊名を使い、ハルビン南方80kmほどの背陰河で極秘の任務に就いていた。この間の詳細は、GHQによる731部隊員の供述調書ではなく、1948年(昭和23)に起きた帝銀事件Click!の取り調べに当たった、警視庁捜査一課の甲斐文助警部がまとめた詳細な捜査手記に記録されている。「東郷部隊」に参加しているスタッフは、発覚するのを怖れて全員が偽名をつかっており、石井四郎は「東郷一」と名のっていた。警視庁の捜査員たちは、石井機関の事業を緻密に記録していくことになる。
 もちろん、捜査対象は遅効性の青酸ニトリ―ル(アセトンシアンヒドリン)Click!などについてだったが、731部隊所属の元隊員たちへ片っ端から尋問していった結果、当時の「東郷部隊」=石井機関の行動が浮き彫りにされている。帝銀事件の容疑者にされてはたまらないためか、731部隊の元隊員たちは具体的な実験内容まで次々に供述している。
 石井四郎は背陰河で、すでに数々の人体実験を行っていた。付近には研究施設が建ち並び、これらの人体実験を誰が実施し誰が立ちあったのかまで、731部隊の関係者は詳しく供述している。用いられた細菌は、炭疽菌をはじめコレラ菌、赤痢菌、腸チフス菌、ペスト菌、馬鼻疽菌などだった。実験内容は、饅頭に指示どおりの病原菌を入れ、それを摂取した被験者がどうなるかを観察するもので、もちろん被験者の全員が死亡している。
 この人体実験中に、コレラ実験棟で20人前後による被験者の脱走事件が発生し、監視にあたっていた予備役看護長の2名が殺害されている。『陸軍軍医学校五十年史』(1936年)では「戦死」とされた、平岡看護長と大塚看護長のふたりだ。そのときの様子を、『731部隊全史』から栗原義雄予備看護兵の証言とともに引用してみよう。
  
 部隊の敷地は六〇〇米平方と広大でそこにいくつもの建物があり、炭疽やコレラそれにペストなどの研究課題毎に建物が割り当てられていた。各実験・研究棟には廊下をはさんで部屋が並んでおり、そのうちのいくつかには「ロツ」と呼ばれた檻がいくつも置かれ、被験者は二人一組で閉じ込められていた。ロツの広さは六畳ほどで、天井は人が立つと頭が着くかどうかという低さで、端にはトイレが付いていた。/栗原は一九三四年の戦死事件(図表番号略)を覚えており、これは被験者の脱走によるものだったという。コレラの実験棟から被験者二〇人近くが世話係の看守二人を殺害し、逃げおおせたのだった。(カッコ内引用者註)
  
 このあと、極秘の「東郷部隊」は解散して石井四郎は日本へもどり、関東軍防疫部(のち関東軍防疫給水部)の設置へ向けたプロジェクトに邁進していくことになる。「防疫給水」は名目で、実態は生物兵器と化学兵器の研究開発が事業の中心だった。そして、莫大な予算を手に入れた石井は、母校の京都帝大医学部を中心に各大学から研究者を募る“人集め”に奔走し、1936年(昭和11)8月には正式に関東軍防疫部=731部隊が発足している。
 なお、当初は満州へ出向するのを嫌がる医師が多かったが、のちには京都帝大と東京帝大、慶應大学などの各医学部から競いあうように医師たちが731部隊へ送りこまれるようになる。舞台へ着任した医師たちは、尉官・佐官レベルの将校として優遇された。
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 関東軍防疫給水部=731部隊の本部は、ハルビンの平房に置かれていたが、そこでどのような実験が行なわれていたのかは、あまたの書籍や資料が世の中に出まわっているので、そちらを参照していただきたい。ここでは、近衛騎兵連隊に敷地(現・戸山公園内の多目的運動広場とその周辺)を提供させ、防疫研究室を同部隊の国内本部にしていた石井四郎について、もう少し追いかけてみよう。
 1942年(昭和17)4月、ドーリットル隊Click!が日本本土を空襲Click!した直後、陸軍では同爆撃隊がめざした中国の飛行場を破壊するために、浙江省と江西省の拠点を攻撃する「浙贛作戦」を発動した。この作戦で、石井四郎の部隊は実証実験レベルではなく本格的な細菌戦を実施している。軍用機から水源地や貯水池に雨下(撒布)したのはコレラ菌や赤痢菌で、市街地にはペスト菌(PX)が撒布された。その結果、中国側では42人の罹患死者が出たと報告されている。だが、被害は中国側だけにとどまらなかった。
 陸軍部隊が占領したあとの惨状を、同書収録の米軍捕虜の尋問記録より引用しよう。
  
 一九四二年の浙贛作戦で細菌攻撃した地域を日本軍部隊が占領した時、非常に短時間で一〇,〇〇〇人以上が罹患した。病気は主にコレラだが、一部赤痢およびペストもあった。患者は通常後方の、だいたい杭州陸軍病院に急送されたが、コレラ患者は多くが手遅れとなり死亡した。捕虜(防疫給水部隊員)が南京の防疫給水本部で目にした統計では死者は主にコレラで一,七〇〇人を超えていた。捕虜は実際の死者数はもっと多いと考えている。それは、「不愉快な数字は低く見積もるのがいつものやり方だから」。(カッコ内引用者註)
  
 1万人以上の将兵がコレラなどに罹患し、少なくとも1,700人以上が死亡したということは、1個師団が全滅したに等しい数字だ。「中国大陸で戦死」という死亡公報のうち、いったいどれぐらいの将兵が石井機関による細菌戦の犠牲になったものだろうか。
 石井四郎は、この浙贛作戦の大失態がもとで1942年(昭和17)8月、関東軍防疫給水部を追われているが、もうひとつの更迭理由として本来の防疫給水の領域で「石井式無菌濾水機」の虚偽が明らかになったせいもあった。石井が無菌濾水機に採用したベルケフェルトⅤ型フィルターでは、菌がフィルターを通過してしまい無菌にはならなかったからだ。
 占領地の井戸や水源へ、コレラ菌や赤痢菌を撒かせて「敵が細菌戦を展開している」と扇動したり、「ソ連の密偵から奪った」アンプルや薬壜にはコレラ菌が仕組まれていたと、自ら捏造した「証拠」をもとに危機感をあおり、膨大な予算や人員を要求してくるほとんど詐欺師のような男に、陸軍部内でもさすがに「おかしい」と感じる将官か増えていく。
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 それでも、石井四郎は敗戦色が濃くなった1945年(昭和20)3月、関東軍防疫給水部へ復帰している。風船爆弾に細菌雨下(撒布)装置をつけて米国本土へ飛ばす計画(中止)や、ペスト菌(PX)の一斗缶を抱えて敵陣に突撃させる「夜桜特攻隊」計画(中止)と、731部隊員の供述によれば「やけくそ戦法、めちゃくちゃの戦法」の実現に奔走している。敗戦後、いちはやく満州から帰国した石井四郎は千葉の実家で自身の「葬式」を偽装するが、陸軍上層部とは異なり米軍のCICClick!G2Click!は稚拙なフェイクには騙されなかった。やがて、1943年(昭和18)に金沢医科大学の石川太刀雄教授が部隊から持ち帰っていた、8,000枚におよぶ人体実験のスライド標本が米軍に発見されるのは時間の問題だった。
 最後に余談だが、近衛騎兵連隊から敷地を提供された防疫研究室の西隣りには、陸軍兵務局分室Click!すなわち陸軍中野学校Click!工作室(通称:ヤマ)Click!が建設されている。その施設の存在を秘匿するために、近衛騎兵連隊の馬場との間には「防弾土塁」と称して、高い目隠し用の土手が築かれた。その土手は、現在でもそのまま見ることができる。

◆写真上:1980年代半ばまでそのまま建っていた、石井四郎の旧・軍医学校防疫研究室。
◆写真中上は、1923年(大正12)と1940年(昭和15)の1/10,000地形図にみる近衛騎兵連隊と軍医学校の敷地。中左は、1932年(昭和7)7月に陸軍大臣にあて「陸軍軍医学校細菌研究室新築工事ノ件」(のち「防疫研究室」)。中右は、1934年(昭和9)12月の「近衛騎兵連隊兵器庫其他移築工事ノ件」。下左は、2022年出版の常石敬一『731部隊全史』(高文研)。下右は、1936年(昭和11)出版の『陸軍軍医学校五十年史』の内扉。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された陸軍軍医学校の校内だが、軍陣衛生学教室の左手(西側)にある防疫研究室は画角から外されている。は、同年撮影の防疫研究室。は、防疫研究室で細菌繁殖用の寒天を製造する同研究員。
◆写真下は、1946年(昭和21)11月の増田軍医大佐による供述書をはじめ、米軍による731部隊員たちへの尋問・供述調書。は、戸山公園内の防疫研究室跡の現状。は、さまざまな記録や資料、証言などから731部隊へ競争するように医師を送りこんだ各大学医学部と軍学コンプレックスの軌跡を追跡したNHKドキュメンタリー資料(2017年)。
おまけ
 国立公文書館に保存されている、1941年(昭和)6月10日付けの陸軍軍医学校長から当時の陸相・東條英機Click!あてに提出された、731部隊の国内本部にあたる防疫研究室に関するスタッフ増員要望書。「特殊研究」などで「将校」(軍医将校のこと)が81名必要なのに対し、現状はその4分の1しか確保できていないとしている。
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ナルプ崩壊に居あわせた上落合の平林彪吾。

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 ときに、落合地域は戦前戦後を通じて街角ごとに、洋画・日本画を問わず画家や彫刻家などの美術関係者が暮らし、街全体が「美術町」ではないかと思うことがある。ここで記事にしてきたのはほとんどが洋画家だが、落合地域に住んだ美術家たちの10分の1も取りあげていないのではないかと感じている。なぜなら、「下落合風景」Click!を描いていない画家たちは、拙サイトの趣旨としては基本的に取りあげにくいからだ。
 だが、それに輪をかけて多いのが小説や詩、短歌、俳句などを創作する文学関係者だ。特に上落合は、数軒おきに文学関係者が住んでおり、特にプロレタリア文学に関していえば昭和初期にはみんな「隣り同士」だったのではないかとさえ思えてくる。いや、プロレタリア文学に限らず、戦後も落合地域には文学の香りが強く漂っている。大正期の文士たちから、岩井俊二が『Last Letter』(2020年)で描く上落合の作家・乙坂鏡史郎(福山雅治Click!)にいたるまで、取りあげ出したらキリがないのだ。w
 たとえば、下落合の北隣りにあたる長崎地域にあった各種アトリエ村Click!に住む画家たちをモデルに描いた、『自由ヶ丘パルテノン』(1949年)を書いて戦後にベストセラー作家となった堀田昇一Click!は、1960年代の半ばに自費出版していた復刊文芸誌「槐(えんじゅ)」に、こんなことを書いている。2009年(平成21)に図書新聞から出版された、松本眞『父平林彪吾とその仲間たち』から孫引きしてみよう。
  
 路地の奥のつきあたりに山田清三郎Click!の家があった。その東隣りは最勝寺というちょっとしたお寺と、その墓地になっていた。(中略) 山田の家と同じ並びに「鶏飼ひのコムミユニスト」をかいた故平林彪吾Click!がいた。また近くに「貧農組合」の作者細野孝二郎Click!がいた。さらに三・四軒はなれたところに戦旗社関係の詩人野川隆と広沢一雄がいた。そしてかくいう堀田昇一もまた平林彪吾と隣合せていた。/僕のいた家の前のだらだら坂を下りて、中井駅の方へ曲る、崖の下の家に詩人の森山啓Click!がいた。漫画家の加藤悦郎Click!がいた。いまと違って、どこか鄙びた閑散たる田園的おもかげのあった中井駅のあたりには、黒島伝治Click!らと一しょに「文芸戦線」を脱退した宗十三郎がいた。……ジグザグの道を通って作家同盟へはいって来た那珂孝平がいた。また少しはなれたところには本庄陸男がいた。また詩集「南京虫はうたう」の詩人の新井徹がいた。その近くには、上野壮夫Click!小坂たき子Click!などもいた。
  
 上落合の街角の、ごく一画さえ切り取ってもこの密度なのだ。もちろん、最勝寺Click!界隈から中井駅へ出るまでの間には、堀田昇一が触れていない付きあいのなかった、プロレタリア文学以外の文学者たちも数多く住んでいたはずだ。
 いままで、これらの文学者たちをできるだけ登場させるように記事を書いてきてはいるが、まったく触れずにきた人々も少なくない。昭和初期の数年間だけ取りあげても、上記のような密度で文学関係者が住んでいたのだから、少しタイムスパンを長めに時代を拡げてとらえてみると、とんでもない人数になるのがおわかりいただけるだろうか。わたしが死ぬまで書きつづけたとしても、個々の画家や文学者たちひとりひとりの人物像や落合地域における軌跡を、いくつかの記事に分けてアップするのはとうてい不可能なことなのだ。
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 さて、今回は文中に登場している平林彪吾(松元實)について書いてみたい。学藝書林から出版された『現代文学の発見』Click!シリーズの第6巻「黒いユーモア」(1969年)を、1970年代後半に大学生協で買って読んでいたわたしは、平林彪吾の『鶏飼ひのコムミユニスト』は早くから接していた作品だ。平林彪吾が住んでいたのは上落合(2丁目)791番地、最勝寺Click!墓地の西側にあたる一画で、上落合(2丁目)783番地の「サンチョクラブ」の置かれた加藤悦郎宅Click!には、周辺に住む小説家や詩人、画家たちが参集していた。
 平林彪吾というと、1935年(昭和10)に改造社の「文藝」に入選した『鶏飼ひのコムミユニスト』をはじめ、武田麟太郎Click!が主宰し反戦・反ファシズムを掲げて民主主義を標榜する作家たちや、弾圧されつづけた左翼作家たちに誌面を提供した、まるでのちの人民戦線の作家版のような「人民文庫」での作品群が思い浮かぶ。彼の文学仲間には下落合の矢田津世子Click!をはじめ、細野考二郎、亀井勝一郎Click!、上落合の上野壮夫Click!小坂多喜子Click!、画家の飯野農夫也Click!などがいた。だが、筆名を「平林彪吾」にする以前、彼は松元實の本名などで作家活動をしており、上落合に転居してくる前年の1929年(昭和4)には日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)Click!に加入している。
 上落合への転居は、翌1930年(昭和5)10月で、上落合791番地の同じ地番には隣家の堀田昇一や、路地奥には山田清三郎が住んでいた。上落合の借家は、堀田昇一宅と似たような造りで、その家の様子を松本眞『父平林彪吾とその仲間たち』から孫引きしてみよう。
  
 上落合時代、六畳に四畳半、三畳、殆ど同じ間取りの長屋であった。第三回プロレタリア作家同盟大会では、(堀田昇一は)父と共に執行部を糾弾、以後、同盟解散に至る混迷の四年間、志を共有した隣人として住む。常に、運動にはまともに取り組むが、いつしか組織の歪みに突き当たる。理論は正しくとも、組織は所詮、矛盾を抱えた人間の集まりであった。(カッコ内引用者註)
  ▲
 上落合時代の松元實(平林彪吾)は、日本プロレタリア作家同盟の「官僚化」した執行部をめぐる確執が激化した第3回の大会で、鹿地亘Click!や山田清三郎、川口浩Click!らが執行部から除外されたのに対し、堀田昇一や本庄陸男らとともに批判の先鋒として抗議の声をあげている。結局、小林多喜二Click!の仲裁的な提案により、新しい方針書を中野重治Click!が取りまとめることで大会は終了したが、特高Click!による激しい弾圧と執行部内の確執で、松元實(平林彪吾)はナルプの崩壊期に立ちあうことになった。
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 この間、松元實(平林彪吾)はナルプの「文学新聞」や、「プロレタリア文学」への執筆を中心に活躍するが、家庭には生活苦がついてまわり、信子夫人はついに絵画の勉強をあきらめて銀座のバーへ勤めにでている。そんな状況の中、「文藝」(改造社)の第1回懸賞小説に応募するが、彼の『南國踊り』は選外になってしまった。そして、ナルプ解散声明の直後、松元一家は上落合から下十条へと転居している。
 1930年(昭和5)10月から1934年(昭和9)6月まで、およそ4年間を上落合ですごした松元實(平林彪吾)だが、特高による弾圧激化や築地署における小林多喜二の虐殺Click!、そして家庭の生活苦などがつづき、よい思い出が少ない上落合時代だったのではないだろうか。上落合から離れた翌1935年(昭和10)、「文藝」の第2回懸賞小説に応募した『鶏飼ひのコムミユニスト』が入選し、本格的な作家活動をスタートすることになる。この間の詳細は、松本眞『父平林彪吾とその仲間たち』に詳しく、著者は実際に上落合にも足を運んでいるので、興味のある方はぜひ同書をお読みいただきたい。
 『鶏飼ひのコムミユニスト』は、ナルプの仲間だった詩人・大導寺浩一から勝手に自分をモデルにして書いたと抗議を受けたため、中野重治Click!に調停を依頼するが1年近くもゴタゴタがつづくことになった。だが、落合地域における同じようなシチュエーションはほかにもあり、『鶏飼ひのコムミユニスト』を「山羊飼ひのアナアキスト」に変換して、途中の「文学者同盟」での細かな出来事を別にすれば、ちょうど同時代に落合地域を転居していた詩人・秋山清Click!の生活に多くの面で当てはまるだろうか。
 秋山清は、下落合から葛ヶ湯(現・西落合)への転居をへて、上落合の落合火葬場Click!裏の丘(上高田の寺町)斜面にあった「乞食村」Click!に接する、功雲寺(萬晶院)の墓地裏でヤギ牧場を開業しており、「藪の入口には乞食たちが住んで」いたことになっている「小田切久次」(『鶏飼ひのコムミユニスト』の主人公)の生活環境と酷似している。「小田切久次」は、「乞食たち」と竹藪をめぐって緊張関係にあったが、アナーキスト詩人の秋山清は「乞食村」の子どもたちにヤギの乳を無償で配り、そのお礼として「裕福」な「乞食村」が設置した共同浴場を自由に利用させてもらっている。
 特高や憲兵隊の弾圧が苛烈さを増した1930年代前半、執筆だけではとても食べてはいけないので、家禽や家畜を飼って飢えをしのぐ秋山清や「小田切久次」のような人物は、落合地域に限らずほかにも大勢いただろう。上落合(1丁目)186番地に住んだ村山籌子Click!は、シェパードClick!を何頭が飼ってブリーダーのような仕事をしており、陸軍への寄付用として売りつけたのだろう、下落合(4丁目)2108番地の吉屋信子Click!に押し売りしてイヤな顔Click!をされている。大正末から昭和初期にかけては、ニワトリClick!ハトClick!、ウサギ、イヌなどを投資目的で飼育する事業が大ブームになっていたころだ。
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 平林彪吾は新聞や雑誌への執筆も増え、作家活動がようやく軌道にのってきた矢先に急死する。1939年(昭和14)3月末、武田麟太郎と浅草で飲み歩いている際、ドブに転倒して大腿部にケガをした。手当てをしなかったのが災いし、1ヶ月後の同年4月28日に敗血症で死亡している。作家としては本格的な活動がこれからという時期、まだ37歳の若さだった。

◆写真上:上落合(2丁目)791番地の、平林彪吾一家が住んでいたあたりの現状。妙正寺川へと下る北向きの河岸段丘斜面で、この坂道を下りて右へいくと、ほどなく落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)をへて中井駅に着く。
◆写真中上上左は、1969年(昭和44)出版の『現代文学の発見』第6巻「黒いユーモア」(学藝書林)。上右は、1985年(昭和60)出版の平林彪吾『鶏飼ひのコムミユニスト』(三信図書)。中左は、1940年(昭和15)出版の平林彪吾『月のある庭』(改造社)。中右は、平林彪吾。は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる上落合791番地界隈。
◆写真中下は、1928年(昭和3)に撮影された最勝寺の山門。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合791番地界隈。は、1940年(昭和15)ごろ斜めフカンの空中写真にみる同界隈で、すでに新たな住宅が建ち並んでいるのがわかる。
◆写真下上左は、1936年(昭和11)に発行された武田麟太郎主宰のファシズムに抗した「人民文庫」6月号(人民社)。平林彪吾をはじめ高見順Click!矢田津世子Click!円地文子Click!秋田雨雀Click!大谷藤子Click!上野壮夫Click!小坂多喜子Click!らが執筆している。やがて、特高の検閲により次々と発禁処分になっていくが、ちょうど現在の中国やロシアにおける作家やジャーナリストなど反戦・民主主義勢力を結集したような(半地下)文芸誌だった。上右は、2009年(平成21)に出版された松元眞『父平林彪吾とその仲間たち』(図書新聞)。は、平林彪吾(松元實)とまだ幼い『父平林彪吾ととの仲間たち』の著者・松元眞。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる上落合2丁目791番地界隈。

銀座から目白文化村へ1円じゃ帰れない。

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 下落合1470番地に住んだ龍膽寺雄Click!については、入居していた「目白会館」Click!をめぐってこれまで何度か記事Click!にしてきた。都新聞の記者が取材して書いた、1931年(昭和6)8月18日発刊の矢田津世子Click!に関する同紙の記事Click!で、ようやく彼が目白文化村Click!に住んでいた事実を突きとめ規定することができた。
 だが、第三文化村に建っていた目白会館・文化アパートと、龍膽寺雄が『人生遊戯派』Click!で述懐する「目白会館」とは、建物の意匠や内部が一致しないことにも触れた。当時の龍膽寺雄は、東京に建ちはじめていたモダンなアパートを転々としているので、約50年後に書かれた同書では暮らした各アパートの記憶(エピソードよりも、特に建物の構造や意匠について)が、ゴッチャになっている可能性を否定できない。
 龍膽寺雄がちょうど目白会館に住んでいたころ、目白文化村のネームが登場する作品がある。1930年(昭和5)に春陽堂から出版された、12人の作家によるオムニバス作品集『モダン・トウキョウ・ロンド(モダン東京円舞曲)/新興芸術派十二人』収録の『甃路(ペエヴメント)スナップ』だ。かなりキザっぽいタイトルで、内容もそれにあわせたように「きゃぼ(生野暮)」Click!ったらしいが、当時はそれがモダンでカッコよかったのだろう。
 執筆者は龍膽寺雄のほか、堀辰雄Click!阿部知二Click!井伏鱒二Click!川端康成Click!吉行エイスケClick!中河與一Click!らで、東京各地の街々に展開していた風情や風俗を描く、ルポルタージュとも体験小説ともつかないような作品がほとんどだ。龍膽寺雄は、『甃路(ペエヴメント)スナップ』の中で「銀座」や「丸ノ内」、「新宿」、「浅草」などの情景を活写しているが、街中で見かける風景の切片を並べたような、特に物語性や筋立ての大きな展開があるわけではないコラージュ風の作品だ。
 夜11時ごろの銀座通り、バーやカフェから出てきた酔客が円タクをひろう場面に、目白文化村が登場している。1989年(平成元)に平凡社から出版された『モダン都市文学Ⅰ/モダン東京案内』収録の、『甃路(ペエヴメント)スナップ』より引用してみよう。
  
 円タクの一聯が甃路(ペエヴメント)の両側を流れて、運転台の窓々から掏摸の様に光る眼が、行人を物色するんです。まさにこれ近代都市神経の尖端!/『目、目白の文化村? さア、……二、二円は戴かなくちゃ。え?……しかし郊外は帰りがありませんから。……じゃ、一円五十銭じゃ? 一円? 御冗談でしょう。とても。……』/『どちら? 目白の文化村?……よろしゅうござんす。一円で参りましょう!』/ゴム輪の車はゴムの様に伸縮自在。/と、――/凄じいサイレンに警鐘を乱打して、ものものしい真ッ赤な消防自動車が、砂塵を撒きたてて寝静まった街路を疾駆するんです。
  
 龍膽寺雄は、1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)の6月まで第三文化村の目白会館で暮らしていたので、書かれている銀座での情景は、おそらく自身の体験によるものだろう。当時は東京35区制Click!の以前なので、目白文化村のある下落合は東京府豊多摩郡落合町Click!の大字のままだった。円タクの運転手が、東京市内ではなく郊外へ走るのをためらっているのは、帰り道に乗客をひろえる可能性がほとんどないからだ。
 銀座4丁目の交差点から、下落合の第三文化村までは直線距離で8.6kmほどある。戦後は、ショートカットできる道路がいろいろ整備されたとはいえ、それでも千代田城Click!を北あるいは南へ大きく迂回しなければ、落合方面へは抜けられない。ましてや、大正期が終ったばかりの当時は、クルマが容易に走れる大道路あるいは街道筋の数は限られており、直線では8.6kmでもおそらく倍以上の距離を走らなければたどり着かなかっただろう。
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 そして、道路が完全に舗装されているのは東京の市街地と呼べるエリアだけで、一歩郊外へ出れば未舗装で凸凹だらけの道を、スピードを落として注意深くゆっくり走らなければならなかった。ましてや、数日以内に雨が降ったりしていたら、いまだ未舗装の道路はあちこちがぬかっており、へたをすると車輪をぬかるみにとられ、街灯もまばらな路上でひと晩じゅう立往生してしまうことも稀ではなかった。
 今日のタクシーなら、銀座から下落合までは新宿をはさんでいるし、帰りがけには銀座よりも繁華な新宿を流せるので、願ってもない上客ということになり“乗車拒否”をする理由は見つからないが、昭和初期の円タクのドライバーが躊躇するのは、悪い道路事情に加え夜になると人がほとんど歩いていないので客がひろえず、帰路の時間がムダになるからだった。
 龍膽寺雄は銀座通りを外れてカフェ街へと向かい、いきつけの店内をうかがう。
  
 試みに扉の隙に耳を押付けて、中の気配を覗ってみたまえ。女給さんたちの忍び笑いがムズ痒く背すじを匍い廻るから。/が、ちょいとお待ち下さい。/あの聴き覚えのある声は?/冗談じゃない。モダン東京円舞曲のわが楽士の面々。吉行エイスケ、久野豊彦、それに楢崎勤君等の諸氏。――/『やア。……』/扉を開けると、色電燈の仄暗い衝立の蔭に、頬紅の鮮やかな女給さんたちと膝組み交わして、卓子を囲んだモダン派作家の一群。いずれも名だたる街の猟奇者の面々です。/『さア、どうぞ。……』/秀麗なおもてに仄々と桃色の酔いをのせて、吉行君が長椅子(デイヴアン)へ席を招じるんです。(中略) 『それよか、僕がもっと面白い街の猟奇談をきかせてやるよ。小便臭い女の子との逢引話なんぞ、面白くも糞もないじゃないか。そんなことは楢崎や龍膽寺に委せて、それよりは僕の話を聴きたまえ。円タク・ガアル、ステッキ・ガアル、お好み次第だよ。と云って、何も僕の実験談てわけじゃないがね。』/さア、大変な話になッちまったが、この居心地のいい長椅子は読者諸君にお譲りして、私はともあれ、睡った深夜の街々をもうひと廻り。
  
 なるほど、穏和な矢田津世子Click!がほんとうにめずらしく激怒したのは、吉行エイスケClick!らがこのような雰囲気を身にまといながら、周囲へ発散していたのもひとつの要因だと納得できるが、1935年(昭和10)以降は武田麟太郎Click!の文芸誌「人民文庫」Click!へ執筆するような彼女に対して、「商売女」に接するような態度をとったからなのかもしれない。それとも、ひっかけた女や買った女、カフェの女給、流行のファッション、ダンス、クルマ、オーデコロンなどの話しかしない男たちに嫌悪感をもよおしたものだろうか。龍膽寺雄が救われるとすれば、他の作家たちのように自身のことを「ボク」「僕」Click!などと書かず、ちゃんとオトナの一人称で「私」と書いている点だろうか。w
 文章の中で、「円タク・ガアル」と「ステッキ・ガアル」が登場しているが、円タクガールは今日ではさほどめずらしくない若い女性ドライバーのこと、あるいは助手席にフラッパー(女の子)の助手を乗せて走るタクシーのことで、夜間に多い男性客をあてこんだタクシー会社の集客用SPの一環だった。また、ステッキガールは時間を決めておカネを払うと、買い物や散歩、食事、お酒などに付きあってくれるフラッパーのことで、現代風にいえば「レンタル彼女」といった商売だ。ほかに、銀座には「ハンドバッグボーイ」というのもいたらしいが、これはステッキガールの男子版なのだろう。
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 ほぼ同時代の銀座について、二科の東郷青児は1933年(昭和8)にこんなことを書いている。同書に収録の、「東京新風景」から引用してみよう。
  
 私らの銀座頃は水曜日木曜日あたりの午前九時から昼ごろ美事(ママ:見事)だった。山の手の美しい女が、雑踏をさけてひそかに銀ブラする姿が多く、女学生にしても今ほど安手の洋服ではない。(ママ:、)和服姿であでやかなフラッパー振りを発揮していた。その頃はよく、真昼の明るい喫茶店の隅で、生れて始(ママ:初)めて買った口紅を、あやし気な手つきで唇に塗ったりする少女が大分あったようだ。(中略) 今ではどんな人間でもレディーメードのアメリカンスタイルを体につけることが出来る便利な世の中になったのだろう。大衆化した銀座、――銀座が新宿になるのも近い将来だろう。(カッコ内引用者註)
  
 東郷青児が「私らの銀座頃」と書くのは、関東大震災Click!の前、大正の前半期ごろのことだ。彼がこの文章を書いてから90年近い歳月が流れたが、銀座は「新宿になる」ことはなかった。確かに「大衆化」はしたけれど、独特な街のアイデンティティは保たれつづけている。また、東郷青児が目にしていたころのように、銀座の柳並木Click!や外濠、水路などを元どおりにしようという動きさえ、地元の企業や商店街、住民たちの間では起きている。
 また、新宿Click!は成立基盤が郊外の遊興地であり場末の繁華街だったにもかかわらず、これまた彼の予想に反して商業地としての新宿にとどまらず、いまや企業の集合地となり東京のビジネス中心地へと衣がえしようとしている。だが、丸の内や有楽町ほどオツにすましてはおらず、気軽に出かけられる大衆的な側面は失われていない。
 かつて、都市地理学者の服部銈二郎は、銀座の街のことを「都民にとおざかり、国民に近づく銀座」と書いたが、確かに東京では浅草とともに地域の住民ではなく、地方や海外からの観光客をよく集める繁華街として21世紀を迎えている。
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 今世紀に入り、閑静な住宅街だった西大久保や百人町が、韓流ブームで騒々しい街になったのは、ちょうど1970年代の前半ごろ、静寂な住宅街がなぜかファッションの街から出発してとんでもないことになってしまった乃手の原宿や表参道、六本木と同様で“お気の毒”なことなのかもしれないけれど、銀座にしろ大久保にしろ、それを「大衆化」ととらえるか「国際化」ととらえるかは別にして、利害がからむ商店街と昔から住む地元住民との間には、深くて超えることができそうもない“溝”が、大きな口をあけているのだろう。

◆写真上:1934年(昭和9)に竣工した、旧・銀座アパートメントの現役エレベーター。
◆写真中上は、ここに登場する作家たちのような人々が打ち上げ花火を持ちこんで天井を焦がしたといわれるビアホール「銀座ライオン」。は、旧・銀座アパートメントの上階内部。下左は、1930年(昭和5)に出版された『モダン・トウキョウ・ロンド(モダン東京円舞曲)―新興芸術派十二人―』(春陽堂)。下右は、1989年(平成元)に出版された「モダン都市文学」シリーズの『Ⅰ巻/モダン東京案内』(平凡社)。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された4丁目から5丁目あたりの銀座通り。は、昭和初期に街を闊歩するモガ(モダンガール)。いまこの格好で街を歩いても、それほど違和感を感じないようなファッションセンスだが、惜しむらくは現代の170cm前後の銀ブラフラッパーに比べて、タッパがあと20cmほど足りない点だろうか。
◆写真下は、1936年(昭和11)に竣工した九段の野々宮アパートメントClick!。同アパートメントが、従来のモダンアパートと決定的に異なるのは、住民共同の浴場ではなく各部屋に浴室が完備していた点だ。は、同アパートメントの1階ロビー。は、同アパートメントの室内。当時は大流行していた、バウハウス風デザインのテーブルやイスが目を惹く。

曾宮一念の「工場風景」をめぐって。

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 1925年(大正14)に弘文社から出版された、第1次「どんたくの会」Click!での授業をベースにしたとみられる、鶴田吾郎・曾宮一念の共著『油絵・水彩画・素描の描き方』Click!のグラビアには、曾宮一念が工場を描いた『風景』が収録されている。
 このころの曾宮一念Click!は、春ごろからはじまる頭痛や不眠に苦しみ、夏を通じて症状が収まらず、秋になるとそれが回復するという不調のサイクルを毎年繰り返していた。その症状が、緑内障の前兆であることが判明するのは後年になってからのことだ。したがって、遠出の写生は控えたものか下落合の風景をモチーフにした作品が多い。
 同書が出版された1925年(大正14)9月には、アトリエの前に口を開けた諏訪谷Click!と付近の農民が利用する野菜の“洗い場”Click!を描いた『冬日』Click!を、第12回二科展に出品して樗牛賞Click!を受賞している。受賞とほぼ同時に、旧制・静岡高等学校に美術講師として赴任するが、すぐに体調不良で下落合にもどっている。
 鶴田吾郎Click!との共著『油絵・水彩画・素描の描き方』が出版されたのは、1925年(大正14)11月なので、おそらく曾宮の『風景』は静岡への赴任前に下落合で描かれた作品だと想定することができる。だが、この作品が下落合のどこの工場を描いたものか、いまひとつ解明できない。描かれた建屋は、工場にも見えるが酒や醤油、味噌などの醸造所のようにも見えるし、また一般企業でも焼却炉があるところは煙突があっただろう。当時は燃ゴミ・不燃ゴミを問わず、定期的な回収事業がめずらしかった時代だ。
 当時、落合地域の旧・神田上水の両岸や妙正寺川沿いは工場誘致が行なわれていたが、いまだそれほど多くの工場は進出していなかったはずだ。きれいな水を必要とする染物工場や製薬工場、製氷工場、衛生品工場、製紙工場、印刷工場などがポツポツと建っていただろうが、当時の工場の外観や様子まではほとんどわからない。また、敷地に煙突が描かれているからといって、たとえば1/10,000地形図の煙突記号をあてにしても、採取漏れがかなりありそうなので正確にはつかめないと思われる。
 では、曾宮一念が水彩で描いた『風景』の画面を見ていこう。空は雲が多く曇りがちだが、陽光は正面のほんの少し右寄りから射している、すなわち逆光で描かれているように見え、右手が南寄りだとすると画家は東、または東南を向いて工場の建屋を描いていることになる。また、陽光が午後のやや橙色を帯びた光だとすれば、冬季あるいは早春の時期に南西の方角を見て描けば、こんな感じになるだろうか。
 周囲には、下落合の目白崖線や上落合の段丘が見えないことから、旧・神田上水の沿岸か妙正寺川沿いの田畑が拡がる平地Click!だと仮定したいが、妙正寺川沿いには1925年(大正14)現在、これほどの規模の工場はいまだなかったと思われるので、旧・神田上水沿いが“怪しい”ということになる。なお、目白崖線の丘上も平地だが、大正期には工場が進出していない。強いて挙げるなら、家内制手工業のような目白通りの福室醤油醸造所Click!小野田製油所Click!ぐらいだろう。だが、目白通り沿いにはすでに家々が建てこんでおり、このような風情の場所は1925年(大正14)現在には存在していない。
 工場のコンクリートとみられる塀の前は、元・田畑で耕地整理が終った原っぱのように見え、画面を左右に横切っているのは畦道か用水の跡のようにも感じられる。工場の敷地界隈を見ると、塀の中の煙突の向こう側には南北に向いているとみられる建屋が重なって見え、敷地の両端には、切り妻が東西に向いているとみられる平家建ての作業場か、倉庫のような建築物が描かれている。
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 実は、建物まで採取された1/10,000地形図を参照すると、ほぼ建物どおりの配置が確認できる工場を、たった1ヶ所だが発見することができる。蛇行した神田川沿いに建設された、下落合71番地の池田化学工業株式会社Click!だが、それを東側から西側を向いて見るとこのような配置になるのだ。しかし、画面の工場は池田化学工業ではない。なぜなら、『風景』と同時期の1925年(大正14)に撮影された池田化学工業の写真が残っており、同工場はすべての建屋が2階建てだからだ。
 1903年(明治36)から1927年(昭和2)まで、24年間も町長(1924年以前は村長)をつとめた川村辰三郎Click!は、別荘や住宅以外の「排煙をともなう工場の進出と、墓地が付属する寺院の新たな転入はいっさい認めない」と公言Click!しているので、特に河岸段丘の丘上や斜面の住宅地には、このような風景は存在しなかったと思われる。やはり、旧・神田上水沿岸の風景だろうか。落合地域の河川沿いに、煙突があり排煙をともなう大小の工場が急増していくのは、川村町長が辞めたあと1928年(昭和3)以降のことだ。
 それでも、山手線・目白駅Click!には貨物駅Click!が併設されていたため、大正期から排煙のあまり出ない各種工場が進出していたが、昭和期になると下落合はもちろん上落合の前田地区Click!にも、各種工場がビッシリと建ち並んでいく。1932年(昭和7)現在の進出企業や工場の様子を、同年に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 旧神田川(ママ:神田上水)沿岸一帯は水質良好なる関係上晒染、製氷、衛生材料等、概して利水の工場多く設立せられて、工業地帯を形成す、商業は未だ振はず、日用食料の小売業者多きをS占む、昭和六年末町内に於ける会社の数は三十三社にして、其種別は株式会社十七、合資会社十四、合名会社二である。工場法を適用せらるゝ工場数は三十三を算し、其産額は経済界不況の影響により不振の状態にありと雖も、加工賃を含めば金五百三十余万円を挙げ、従業人員千二百名を置けり。
  
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 『落合町誌』の工場リストによれば、1925年(大正14)以前に設立された下落合の工場を挙げてみると、下落合971番地の極東商事(1917年)、同45番地の山本螺旋(1916年)、同895番地の発工舎(1912年)、同71番地の池田化学工業(1916年)、同69番地の三越染工場(1917年)、同77番地の東製紙工場(1918年)、同8番地の正久刃物製造(1923年)、同948番地の平石商店東京工場(1925年)、同909番地のアポロ鉄工所(1913年)、同35番地の指田製綿工場(1924年)、同67番地の市村紡績(1918年)、同986番地の豊菱製氷(1923年)、同921番地の城北製氷(1924年)、同923番地の青柳染工場(1921年)、同1529番地の小野田製油所(1877年)、同10番地の甲斐産商店(大黒葡萄酒)工場(1886年)、そして同20番地の石倉商店工場(1911年)の、合計17工場だ。
 また、上落合地域で1925年(大正14)以前から操業していた工場は、上落合119番地の東京護謨(ゴム)工場(1920年)、同85番地の二葉印刷所(1924年)、同305番地のローヤル莫大小(メリヤス)製造所(1923年)、同41番地の栗本護謨工業所(1925年)、同8番地の若松研究園電線所(1921年)、同39番地の青木電鍍工場(1913年)、そして同2番地の山手製氷(1922年)の合計7工場が数えられる。
 上掲の工場には、明らかに煙突がなかったとみられる施設もあるが、当時は工場から出た廃物を処理するための焼却場を設置しただけで、背の低い煙突が建てられることもありうるので、これらの工場リストから製造プロセスに燃焼や排煙をともなわない事業場だからといって、それらを除外することはできないだろう。
 また、一般企業の事業施設においても、書類などを燃やす焼却炉が設置される可能性もあるので、引用した『落合町誌』に書かれている企業33社の中にも、敷地内に焼却炉の煙突を設置した事業所があったかもしれない。ただし、一般の企業であれば、『風景』のように原っぱの中にポツンと建てられることは少なく、もっと便利な立地で開業することが通常なので、画面の建物はやはり旧・神田上水沿いで操業していた工場の建屋群だろうか。
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 1925年(大正14)とその少し前の曾宮一念は、体調不良により遠くへ写生に出かけることも少なく、自身のアトリエ近辺を描いていた時期と重なる。上記の工場リストの中に、描かれた『風景』のモチーフがありそうに思うのだが、工場はその性格上、次々に建屋が改築・増築されたり生産設備の変更から建物が大幅にリニューアルされるので、昭和期に撮影された空中写真をいくら眺めても不明のままだ。あるいは、大正期に発行されたパンフレットや広告のどこかに、この風景に見あう工場建屋の写真が掲載されているのかもしれない。

◆写真上:1925年(大正14)ごろ、落合地域の工場を描いたとみられる曾宮一念『風景』。
◆写真中上は、同『風景』の煙突部分の拡大。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる旧・神田上水沿いの工場群。
◆写真中下は、1924年(大正13)の1/10,000地形図にみる下落合東部の工場群。は、1925年(大正14)に撮影された池田化学工業の工場建屋。は、1925年(大正14)作成の「大日本職業別明細図」にみる落合地域と周辺の製綿工場。
◆写真下は、同年の「大日本職業別明細図」にみる落合地域と周辺の染物工場。は、1912年(大正元)に高田村高田480番地の旧・神田上水沿いに建設された日本印刷インキ製造工場。は、1912年(大正元)ごろに制作された野田半三『神田上水』Click!。日本印刷インキ製造工場はカーブする旧・神田上水の左手、画面左に描かれた建物の向こう側にある。

平林彪吾と五木寛之の「売血」小説。

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 いまの若い子は、「売血」などという商売があったことを知らないだろう。輸血用の血液製造が、1974年(昭和49)に売血由来から献血由来に切り替わってからは下火になったが、その後も自身の血を売っては金銭を得る売血は献血とともに存続し、「有償採漿」すなわち売血が法的に全面禁止されたのは1990年(平成2)になってからだ。
 そんな売血をテーマにした、あるいは売血が登場する小説が、戦前戦後を問わずに書かれている。戦前の代表的な作品は、1936年(昭和11)に「文藝」12月号に掲載された平林彪吾Click!の『輸血協会』だろう。妻と子どもを抱え、生活苦にあえいでいる上落合の作家「津曲三次」は、当時できたばかりの「日本輸血協会」へ、ついに血を売りにいく決心をする。生活費さえ稼げない夫を見かねた、それほど身体の丈夫でない妻が、銀座のカフェで女給として働きはじめたのも津曲三次を苦しめた。
 その様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された平林彪吾『鶏飼ひのコムミユニスト』に収録の、『輸血協会』から引用してみよう。
  
 東中野駅から当時彼が住んでいた上落合の家まで、いくつかの「やきとん」の屋台店やおでん屋があった。津曲三次はそれらの前を通るたびに、このような人情の地を払った世の中では、自棄酒でも飲んで飲んで飲み呆け、咽喉仏も胃の腑もただれるばかり酔いつぶれたいと思うものの、ふと財布はその願いをかなえるにふさわしからぬと気づくとき、物を忘れることさえ金で左右されるのかと、妖気の如く人の社会にのさばり返っている金を呪い、心わびしく外套の襟を立て、急いで通りすぎるのであった
  
 本作に登場している「日本輸血協会」とは、輸血用血液の不足を解消するために、1936年(昭和11)に民間で設立された日本輸血普及会のことだろう。
 こうして、主人公の津曲三次は少しでも生活費の足しにしようと、「日本輸血協会」に血を売りにいくわけだが、1936年(昭和11)における売血の対価は100瓦(グラム)=100ccで10円、400ccほども採れば40円にはなったようだ。これを、今日の貨幣価値に換算すると、100ccで約10,000円ほど、400ccも採れば約40,000円ほどにもなった。また、当時の規則・規定では採血の上限が1,500ccまでと決められていたので、かなり無理をすれば1回の売血で150円=約150,000円ほどが稼げたわけだ。
 日本輸血協会へ出かけると、ワッセルマン反応など簡単な血液検査(ちなみに主人公の津曲三次はA型)とともに会員登録をうながされ、会員規定の書かれた「規則書」をわたされた。協会への入会金は5円で、病院への紹介手数料が2円、会員の規約貯金が1円、採血した病院から代金をもらって協会まで帰る円タク代(1円)も会員もちということで、初回に200ccを売血したとしても得た20円は、たちまち11円ほどになってしまう勘定だった。
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 会員規約には、会費のことや売血の心がまえのほか、公的機関ではなく民間企業のせいか血液型占いまでが掲載されていた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 派遣通知ヲ受ケタル場合は(ママ)一刻ヲ競ウ重病患者ノ救命ナルヲ以テ、派遣時刻ハ必ズ厳守スルコト、給血ニ際シ自己以外ノ者ヲ送ルハ法律上ノ罪悪ナルノミナラズ、タメニ患者ノ死ヲ招来スル重大ナル過失行為ナルコトヲ忘ルベカラズ。(中略) (A型血液の長所は)一、融和的デ円滑温順デアル。二、同情心ニ富ミ犠牲的ナルコト。三、事ヲナスニ慎重細心デアル。四、譲歩的デ人ト争ワヌ。/(短所は)一、感情ノタメニ自己ヲマゲ易イ。二、ツマラヌコトニ心配スル。三、優柔不断デ決断力ニ乏シ。四、貸シタルモノノ催促ニモ遠慮スル。(カッコ内引用者註)
  
 ……などと書かれており、津曲三次は「およそのところ当っている」と感じる。
 結局、初回の売血はすぐに連絡がきて20円-9円=11円が手に入ったものの、その後、1~2回ほどの連絡で協会からはなんの音沙汰もなくなり、彼は青白く不健康な顔色を化粧でごまかして協会まで出かけようとする。そこへ、協会は新人会員を増やせば増やすだけ入会金5円をタダどりできるから、既存の会員へは連絡を寄こさないようになり、血を吸う商人のインチキ商売に対して争議を起こすことに決めたので団結して参加せよという、古参会員たちの檄文が配達されてくる……というようなストーリー展開だ。
 『輸血協会』が発表された当時、高見順Click!は「悲惨をそのまゝ伝へたのでは未だ芸術とは言難いかもしれない。すると、そのまゝ伝へることさへしないこの小説は芸術からまた更に遠い所にある訳だろうか」と書き、本多顯彰も「現代純文学の作家たちは余りに貧乏」であり、生まれる創作は「貧乏な物語ばかり」だと批判した。彼らの批評は、平林彪吾が私生活をそのまま文章化した「私小説」だという前提で書かれているが、平林彪吾は売血の現場取材に二度ほど出かけただけで、当時の生活はそれほど困窮してはいなかったので「私小説」ではないと、のちに息子の松元眞が書いている。
 戦後、この売血商売をもう一度大きくクローズアップした作品は、1971~1972年(昭和46~47)にかけて書きつづけられ、講談社から出版された五木寛之『青春の門<自立篇>』だろうか。貧乏学生で主人公の伊吹信介は、生活費や学費を稼ぐために葛飾区立石にあった日本製薬の売血所(ニチヤク血液銀行)へ出かけてゆく。これは、五木寛之が学生時代に経験した実体験がもとになっているようだ。
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 故郷の福岡に残した、父親や弟妹の生活を気にしながら、日々の食費にも事欠いていた当時(1955年ごろ)の様子について、2008年(平成20)に角川書店から出版された五木寛之『わが人生の歌がたり―昭和の青春―』から引用してみよう。
  
 早稲田大学時代、私は血を売って命をつないでいました。そう言うと、今の人たちは、悲惨のどん底にいたように考えるのですが、血を売るのはそんなにびっくりするほどのことではなかったのです。平和になったとはいえ、日本人の生活はまだまだ貧しく、名前の通った私立大学でも、アルバイトをしながら通うのが当たり前という時代でした。/同世代の小沢昭一さんやフランキー堺さんもアルバイト学生で苦労した、という話を聞いたことがあります。(中略) 石原慎太郎さんは、昭和七年九月三十日生まれで、私と生年月日が同じなんです。この作品(『太陽の季節』)を読んだときに、本当に不思議な感じがしました。食うや食わずで、血を売ってその日をしのぐ私たちのような学生がいる一方で、湘南辺りでヨットに興じ、外車を飛ばして青春を謳歌する大学生もいる、世の中は不公平なものだと痛切に思いました。(カッコ内引用者註)
  
 ちなみに、1964年(昭和39)の400ccあたりの売血価格は1,200円、現在の貨幣価値に換算すると約34,000円ほどになる。また、現在の献血のみによる日本赤十字の血漿製剤の価格は400ccあたり17,234円とのことなので、人件費や加工費、保管費、輸送費などのコストを考慮すると、最初から大赤字なのが現状のようだ。
 五木寛之が売血していた戦後の時代は、戦前の平林彪吾が『輸血銀行』で書いた当時の「血漿」技術とは、まったく異なっていた。戦時中の1942年(昭和17)の秋、日本で捕虜になって抑留されている連合軍兵士のために、国際赤十字を通じてとどけられたのは輸血用の「乾燥血漿(フリーズドライ血漿)」だった。粉末状の乾燥血漿は、凍結乾燥されているために長期保存が可能で、かなり遠距離を輸送してもダメになることが少なく、生理食塩水で溶かせばすぐに患者へ使える状態になった。
 欧米の技術力の高さに、おそらく日本の医学者たちはいまさらながら舌をまいたのだろうが、当時の首相兼陸相の東條英機Click!は、休校を強制された救世軍士官学校の校舎を、欧米並みの乾燥血漿製造プラントに改造することを命令し、翌1943年(昭和18)から生産を開始している。これが、日本の軍産学コンプレックスによる「血液銀行」のはじまりであり、戦後の売血業界の出発点ともなる事業だった。
 関西では、1950年(昭和25)にその名も文字どおり日本ブラッドバンク(のちミドリ十字)が設立され、主要な株主には満州でペスト菌による人体実験を繰り返していた野口圭一(軍医少佐)や、炭疽菌で同様の実験をしていた大田澄(軍医大佐)、8,000枚の人体実験スライドを持ち帰った金沢医大の石川太刀雄(技師)など、731部隊Click!の主要な将校や技師たちが名を連ねていたのは、1980年代の初めに薬害エイズ問題でミドリ十字に関する詳細が報道されたから、ご記憶の方も多いのではないだろうか。
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 わたしは売血の経験はないけれど、献血の経験は何度かある。400ccを採血されてもフラフラにはならなかったが、冬などは風邪を引きやすくなったのを憶えている。きっと、採血によって体温が一時的に低下し、そのせいで免疫の防衛機能が脆弱になったからだろう。

◆写真上:1960年代に街の電柱に貼られていた、アルバイト給血者の募集広告。
◆写真中上は、1950年代とみられる港区芝海岸通りにあった日本製薬の「ニチヤク血液銀行」媒体広告。は、都内のあちこちで見かける献血検診車。
◆写真中下は、『輸血協会』が収録された1985年(昭和60)出版の平林彪吾『鶏飼ひのコムミユニスト』(三信図書/)と平林彪吾()。は、映画『警視庁物語・自供』(1964年/東映)の売血所を捜査する刑事たちのシーン。は、2008年(平成20)出版の五木寛之『わが人生の歌がたり―昭和の青春―』(角川書店/)と五木寛之()。
◆写真下は、1975年(昭和50)の空中写真にみる葛飾区立石にあった日本製薬の「ニチヤク血液銀行」。は、緊急輸血には欠かせない新鮮凍結血漿パック。(Wikipediaより)

開発中の「渋澤農園分譲地」を歩く佐伯祐三。

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 佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作、目白通り(当時は葛ヶ谷街道と呼ばれることが多かった)を描いた1926年(大正15)ごろのカラー画面をようやく観ることができた。以前にも一度、朝日新聞社版の『佐伯祐三全画集』(1979年)に収録されたモノクロ画像Click!でご紹介していたが、カラー画像によって新たに判明した風景の様子を踏まえ、改めて描画ポイントを検証してみたい。
 本作品のカラー画像は、某オークションに出品されたカタログに掲載されていたものだが、モノクロ画像ではうかがい知れなかった詳細な情報を得ることができる。また、本作品に描かれた画面の風景は、該当しそうなタイトルが「制作メモ」Click!には見あたらず、変色(紅葉)あるいは落葉しはじめた並木の様子を考慮すれば、1926年(大正15)10月以降に制作された可能性の高いことがわかる。
 そして、モノクロ画面では幅広い道路(目白通り=葛ヶ谷街道)右手の緩斜面が、雑草や低木が繁る草原か空き地のように見えていたが、カラー画像を確認すると下が草とりのゆきとどいた地面で、樹木が一定の間隔をあけて植えられており、しかも枝葉には剪定の手入れがなされているように見える。すなわち、右手の一帯は開発されたばかりの造成地や新興住宅地に多い、新築住宅の庭木を生産・供給する植木農園Click!だったのではないだろうか。そうなると、話がちょっとちがってくる。なお、右手の緩斜面は葛ヶ谷へと落ち込む斜面を修正し、目白通りを水平に保つために盛られた人工的な斜面(法面)だろう。
 以前のモノクロ画面で試みた描画ポイントの特定では、目白通り沿いに空き地や草原が多く残る落合第三府営住宅Click!の一画を、通りから眺めた風景だと想定していたのだが、その位置には植木農園のような施設は存在していない。カラー画像を改めて細かく観察すると以前の描画位置の特定から、さらに目白通りを200mほど西へ進んだポイントから東を向いて描いた画面ではないかと思われる。なぜなら、目白通りの右手(南側)には大正前期から植木農園とみられる「渋澤農園」が開業しており、佐伯がこの作品を描いた当時は東側から徐々に農園をつぶし、「渋澤農園分譲地」として販売中だったからだ。
 この作品が描かれる3年前、1923年(大正12)の1/10,000地形図を参照すると、渋澤農園は目白通り沿いの南側に拡がる大きな農園だったことがわかる。地番でいうと、下落合1551~1559番地から葛ヶ谷(現・西落合)にまたがる広い一帯だ。農園の東寄りには、農園主の渋澤邸と思われる大きな建物が採取されている。ところが、翌年に発行された「出前地図」Click!(下落合及長崎一部案内図/西部版Click!)では、一部の敷地が販売されはじめていたものか、地域一帯が「渋澤農園分譲地」という名称で記録され、農園の東寄りにあった渋澤邸とみられる大きな建物は解体されたのか見あたらない。
 同図によれば、渋澤農園の東端がすでに宅地造成を終えており、目白通り沿いの東端には2軒の建物が採取されている。また、渋澤農園の南側や西側に接して、住宅が建てられはじめている様子が見てとれる。ただし、「出前地図」の表記は要注意で、その地域にある程度の土地勘がある人々(住民たち)を対象に制作された地図であるせいか、道路や土地の形状は大きく変形されていい加減であり、また家々や施設の表記には場合によって100m以上の誤差が生じている点にも留意する必要があるだろう。「出前地図」は街並みや地形、土地の形状や距離などの正確さよりも、地元の住民が目的の住宅ないしは商店を探しだす利便性を優先した地図だからだ。
 事実、1925年(大正14)の「出前地図」と、同年の1/10,000地形図(修正図)とを比較すると、渋澤邸はいまだ解体されずに残っており、また渋澤農園の東西や南側も「出前地図」に描かれたようには、それほど住宅は建てこんでいないのがわかる。「出前地図」(下落合及長崎一部案内図/西部版)に採取された渋澤農園分譲地は、同地図の右上隅に描かれており、少し離れた南側や西側に建ちはじめた住宅を、大胆に距離をちぢめて採取している可能性を否定できない。また、北側(「出前地図」では下)の長崎村側(1927年より長崎町)には商店街があるように描かれているが、1929年(昭和4)現在の1/10,000地形図でさえ、住宅らしい家がポツンと1軒採取されているだけだ。おそらく、東側(同地図では左側)に並んでいた長崎村側の商店をひろっているうちに、スペースが足りずに少しずつ西側(同地図では右側)へとずれ、押してきてしまったのではないか。
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 昭和初期の1/10,000地形図を参照すると、渋澤農園分譲地にはようやく家々が建ちはじめ、周囲にも住宅が増えているが、1929年(昭和4)現在でもまだまだ空き地が目立つような風景だった。このあたり一帯が家々で埋まるのは、1935年(昭和10)をすぎてからだが、1940年(昭和15)から1945年(昭和20)の敗戦時にかけ、再び空き地が増えていく。それは、放射7号線(現・十三間通りClick!=新目白通り)計画が具体化し、葛ヶ谷(西落合)と長崎町の境界線に沿うように、道路工事が進捗してきたからだ。
 さて、画面に描かれたモチーフを具体的に観ていこう。1926年(大正15)現在、道幅が三間を大きく超える街道なみの道路は、以前にも書いたように下落合には目白通りしか存在していない。通り沿いには、トチノキ(マロニエ近種)のような街路樹が植えられ、モノクロ画像ではわからなかった紅葉や、落葉が進んでいるのがわかる。道路の右手(南側)は、ゆるやかな斜面を形成していて、そこには住宅の庭木用と思われる低木が一定の間隔ごとに植えられており、見るからに当時の落合地域には多かった植木農園だ。目白通りから、同農園の関係者ではない人々が勝手に入りこまないよう、道路沿いに柵が設置されているのも、ここが単なる空き地ではなく植木農園だった名残りを示している。
 渋澤農園では、新築住宅には不可欠な庭木用の樹木ばかりでなく、庭園に造られる花壇のために草花の種や苗を生産・供給する種苗(しゅびょう)農園も事業化していたのかもしれない。なぜなら、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図を参照すると、渋澤邸とその周辺には樹木の記号が描かれているが、葛ヶ谷にまたがる西側一帯はやはり周囲を柵に囲まれた草地表現になっている。そこには、さまざまな草花の種や苗が植えられ、育てられていたと考えても不自然ではないからだ。
 樹木の向こうに見えている赤い屋根の西洋館は、すでに農園主の渋澤邸ではない。分譲された敷地へ、新たに建設されたばかりの邸宅だ。すでに、1925年(大正14)の「出前地図」に渋澤邸が採取されていないのに加え、佐伯が描いた邸のかたちが、1/10,000地形図に採取された大きなL字型の渋澤邸と形状が一致しないからだ。佐伯が描いた邸は、凸字のような形状をしており、また樹木農園や種苗農園の関連建物とは思えない、屋根上に尖がりフィニアルを載せたように見えるモダンなデザインをしている。また、同邸の向こう側にも、赤い屋根の住宅が1軒見えている。
 さらに、パースのきいた目白通りの奥(東側)を見ると、樹木にさえぎられて見通しは悪いが、道路沿いに平家の建物が並んでいそうな気配がある。このあたりが、「出前地図」に採取された「溝口印刷所」や「加藤邸」だろうか。また、目白通りの左手には下水用の側溝Click!が設置されており、庭木を剪定した長崎村側の住宅が建っていそうだ。1929年(昭和4)の1/10,000地形図では、この位置には住宅が1軒しか採取されていないが、下水をわたる小さな石橋が見えるので、その邸の門へと通じる架け橋なのかもしれない。
赤屋根西洋館.jpg
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空中写真19450402.jpg
 描かれているのは、先述のように下落合1551~1559番地(のち下落合4丁目1551~1559番地)の一帯で、目白通りの左手は長崎村4142番地(のち椎名町6丁目4142番地)だ。そして、佐伯がイーゼルをすえているのは葛ヶ谷57番地(のち西落合1丁目105番地)と長崎村4142番地の境界あたり、目白通りの北側ということになる。現在の場所でいえば、佐伯祐三は目白通りと十三間通り(新目白通り)、そして新青梅街道がまじわる交差点の真ん中、やや北寄りの位置でほぼ真東を向いて制作していることになる。
 さて、画面に描かれた赤い屋根のモダンな西洋館は、写真などで特定が可能だろうか。下落合1559番地の一画に建てられたとみられる同邸は、1938年(昭和13)作成の「火保図」によれば、同地番の「奥田」邸(1926年現在は助産婦の奥田ノブが住んでいた)に相当する。1936年(昭和11)の空中写真では粒子が粗くてよくわからないが、1945年(昭和20)4月2日に撮影された第1次山手空襲Click!(4月13日)の直前、より鮮明な米軍偵察機F13Click!が撮影した空中写真には、渋澤農園跡の分譲地に奥田邸とみられる住宅がとらえられている。凸字のようなかたちと、佐伯が描いた邸のかたちとがよく一致している。だが、同年4月13日夜半あるいは5月25日夜半の空襲のどちらかは不明だが、幹線道路沿いにバラまかれた焼夷弾によって同邸は焼失しているようだ。戦後1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、まったくちがう形状の住宅が新たに建設されている。
 佐伯祐三が、『下落合風景(葛ヶ谷街道)』(仮)を描いたころ、渋澤農園分譲地は東側から徐々に宅地造成が進んでいる真っ最中だったろう。奥田邸の西側(画面の手前)には、いまだ植木農園の風情が残り、東側に拡がる縁石が設置されたばかりの造成地には新しい道路が拓かれ、建てられたばかりの電柱群Click!が南へ向かってのびている。
 そして、1930年協会Click!画家たちClick!に興味のある方は、もうお気づきだろうか? 奥田邸のさらに奥(南東側)に見えている、赤い屋根を載せた家屋の右手(南側)あたり、地番でいうと下落合1560番地には1926年(大正15)の秋現在、前田寛治Click!がアトリエをかまえていたはずだ。佐伯祐三は、下落合の西北端にあたる前田寛治のアトリエClick!に立ち寄ったあと、あちこちが造成中で工事中の渋澤農園分譲地を眺めながら、画道具を抱えて歩いてきた。いまだ空き地の多い赤土がむき出しの造成地には、ポツンポツンと住宅が建設されはじめている。佐伯は目白通りを北へわたると、建てられたばかりの赤い屋根を載せた奥田邸をモチーフに入れて、さっそくパースをきかした画面の構図を決めにかかる。下落合661番地の佐伯アトリエClick!から、直線距離で900mほど西へ離れた下落合の風景だ。
奥田邸1938.jpg
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 ひとつ気になるのは、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、前年作成の「出前地図」(1925年)の表現とはかなり異なり、渋澤農園分譲地の目白通り(葛ヶ谷街道)に面したちょうど真ん中あたり、奥田邸のすぐ北側に「溝口印刷所」が描かれている点だ。また、「出前地図」には採取されている「加藤」邸が、「下落合事情明細図」では造成を終えた宅地(空き地)表現になっている。「下落合事情明細図」もフリーハンドの地図なので、実際の位置関係や距離感が曖昧で錯誤が多いのは「出前地図」と同様なのだが……。

◆写真上:1926年(大正15)秋に描かれた佐伯祐三『下落合風景(葛ヶ谷街道)』(仮)で、前田寛治のアトリエから直線距離で約100mしか離れていない。
◆写真中上は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる渋澤農園。は、宅地分譲がはじまった1925年(大正14)作成の「出前地図」。南北が逆の同地図だが、いまだ渋澤農園の周囲は家々が稠密ではないので、かなりデフォルメされているとみられる。は、1929年(昭和4)の1/10,000地形図にみる描画ポイントと画角。
◆写真中下は、下落合1559番地の奥田邸と比定できる西洋館の拡大。は、1936年(昭和11)と1945年(昭和20)4月2日の空中写真にみる同邸。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる奥田邸とその周辺。は、奥田邸のあったあたりの現状(左手)。は、佐伯祐三の描画ポイントから画角風景の現状。現在は、3本の幹線道路の交差点北寄りの位置にあたり、当時の面影はまったくなく佐伯祐三の描画位置に立てば数秒でクルマにはねられるだろう。さっそく同作のカラー画像と描画ポイントを『下落合風景画集』Click!に反映したが、この6月1日に第8版を出したばかりなのに、すでに第9版ということになるのだろうか?w

劉生日記にみる体調と地震の気になる関係。

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 かなり以前、岸田劉生Click!日記Click!をベースに、関東大震災Click!の予兆とみられる現象が起きていたかどうかの記事Click!を書いた。相模トラフのプレートがズレたとみられる同大震災だが、1923年(大正12)9月1日に起きた本震の前に、その前兆と思われる地震が記録されていないかどうかを、劉生日記の記述に求めたものだった。
 あんのじょう、同年1月14日に鵠沼の松本別荘13号から東京へ出かけた劉生は、銀座で大きな揺れに遭遇している。この日は、春陽会の例会と改造社の編集者との打ち合わせがあり、木村荘八Click!と銀ブラしていて「ひどい地震」に遭遇していた。また、6月3日にも「今朝方か又地震ありよく地震あり」と記録されているので、このころには日記にはあえて書かないものの、頻繁に地震が発生していた様子がわかる。
 一般的なプレートテクトニクス理論にしたがえば、おそらくプレートが反作用で少しずつズレはじめたために起きる「予震」現象なのだろう。以前の記事では、このような大地震の前ぶれである前兆地震について日記からひろってみたが、今回はまったく別の切り口から関東大震災の「予兆現象」を探ってみたい。それは、人間の体調と地震に関する医学あるいは物理学分野のテーマだが、その前に岸田劉生の鵠沼時代における1923年(大正12)という年の出来事について、簡単にまとめておきたい。
 同年は、岸田劉生が自身のアトリエを建設しようと、東京の荻窪と目黒の宅地を物色していた時期と重なる。結核を疑われて海辺で療養していた劉生だが、6年以上の鵠沼生活ですっかり体調が恢復したため、東京へもどる計画を立てている。そして、4月28日には「やはり目黒にしておこうと思ふ」と、目黒でのアトリエ建設に決定していた。5月14日には、建設予定地を下見するために目黒駅で待ち合わせをし、蓁(しげる)夫人と土地の紹介者とみられる「沢田さん」(鵠沼の沢田竹治郎?)、設計士の「ダザイさん」とともに現地を見学したあと、その場でアトリエの設計を「ダザイさん」に依頼している。
 アトリエ建設の資金が必要だったのか、同年の劉生は広告の仕事も引き受けている。中央商会が発売していた「第一クレイヨン」広告Click!のコピーを書いたり、子どもたちが描いた絵の審査会に出席したりと、制作ばかりではない忙しい日々を送っていた。以前、こちらでもご紹介したが、2月25日に黒田清輝Click!と高田早苗から手紙をもらい、神宮外苑に建設予定の聖徳記念絵画館に納める作品の依頼かと思い、ウキウキして上野精養軒へ出かけたが、会場にいた山本鼎Click!から早稲田大学の大隈記念講堂建設Click!のための寄付依頼集会Click!だと聞かされ、プンプン怒って鵠沼へ帰ってきたのも同年3月3日だ。
 目黒でのアトリエ建設計画もあったのだろうが、同年の劉生はほとんど毎日のように東京へと出かけている。鵠沼のアトリエへ俥(じんりき)を呼び、藤沢駅まで走らせることが多かったようで、江ノ電の利用は鎌倉へ出かけるとき以外にはほとんど書かれていない。また、藤沢駅前からめずらしいタクシーで帰ることもあったようだ。東京での用事は、画会の相談や骨董店まわりもあったが、草土社以来の友人たちを訪問することが多かった。当時は、落合地域のすぐ北側に住んでいた長崎の河野通勢Click!や、下落合の南隣りの上戸塚に住んでいた椿貞雄Click!を訪ねるため、よく目白駅や高田馬場駅で下車している。
 1923年(大正12)という年は天候が不順つづきだったようで、1月25日には鵠沼に大雪が降っている。東京や横浜が「雪」でも、相模湾沿いの街々は気温が高めなため「雨」が多いのはいまも昔も変わらないが、同日に大磯Click!へ出かけた劉生は「大磯は又ひどく雪がふつてゐた」とことさら驚いている。江戸期からつづく銀座凮月堂の息子が、大磯に建てた住宅(別荘か?)を見学しに出かけたらしい。相模湾沿いの海街Click!で雪が降るのは、わたしが子どものころも含めてめずらしいのだ。ちなみに、東京中央気象台の記録によれば、東京は1月22・23日が「雨」、1月24・25日が「雪」と記録されているが、劉生日記では1月22日が「晴」、23日が「雨」、24日が「曇小雨」、そして25日が「大雪」と記されている。
鵠沼日記1948建設社.jpg 鵠沼日記中扉.jpg
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 また、同年7月6日には夏にもかかわらず冷たい北風が吹きつけて、劉生は「寒い」と記録している。どうやら、1923年(大正12)は年間を通じて異常気象だったようだ。そんな中、4月25日の劉生日記には「この頃の気候はわるい」と書いたあと、「新聞に、人面の小牛が生れて『今年は雨多く天然痘がはやる』と予言して死んだとか出てゐた」と記録している。大きな災害が起きる前に現れるといわれる、いわゆる「件(くだん)」伝説のたぐいを記したものだが、劉生は迷信だとほとんど信じていない。
 さて、関東大震災を前にして、岸田劉生とその家族たちの体調はどうだったのだろうか? なぜ人間の身体と大地震がつながるのかというと、大きな地震が起きる直前には頭痛や吐き気、めまい、発熱など体調不良を訴えて医療機関を訪れる患者が、昔もいまも急増することが報告されているからだ。通常は「風邪」か「偏頭痛」として見すごされてしまう現象だが、「頭痛と地震」という医学分野や物理学分野のテーマさえ存在し、「プレートの強い圧力で大気中の陽イオンが急増し、セロトニンという脳内物質の低下が原因で起きるからではないか?」とか、「大地震の前に流れる、微弱な電流や磁力に人体が感応しているのではないか?」などなど、かなり以前から仮説が立てられ疑われているからだ。
 岸田劉生は1923年(大正12)早々から「風邪」を引き、以降、震災が起きる9月まで頻繁に頭痛で悩まされることになる。たとえば、こんな具合だ。1979年(昭和54)に岩波書店から出版された、『岸田劉生全集/第8巻/日記』の代表的な記述から引用してみよう。
  
 四月三日(火) 雨後曇/今日は雨、写生はそれで駄目。眼がさめた時、頭痛があつたが起きてミグレニンなどのんだらなほつてしまふ。少し風邪気なのだ。(後略)
  
 こんな記述が随所に見られ、劉生はミグレニンClick!を常用していたようだ。また、岸田麗子Click!の体調も、早春から発熱を繰り返して思わしくない。さらに、同居していた劉生の妹である岸田照子も、関東大震災の直前(8月26日)に「風邪」をひいて体調を崩しているが、蓁夫人は元気で特に不調の記述は見られない。換言すれば、岸田家の血を引く人々に、頭痛や発熱などの体調不良が頻繁に表れていることになる。地震と身体の不調には、大気中の異変を感じる遺伝的な体質のちがいでもあるのだろうか。
 関東大震災が起きる半月前、8月16日には健康を気にする劉生が近所の沢田竹治郎宅を訪れ、主人が実演する自彊術Click!を見学している。ちなみに、岩波書店版『岸田劉生全集』でも岸田麗子『父 岸田劉生』(中央公論社)でも、自彊術を「自強術」と誤記している。そして、岸田一家の体調がなんとなく思わしくない中で、9月1日午前11時58分を迎えることになる。このとき、岸田麗子は「夏休みの宿題の勉強をおわって」、近所の友だちの家に遊びにいこうと自宅を出た直後だったと、『父 岸田劉生』(1979年)で回想している。
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 大地震の直後、劉生が真っ先に「つなみの不安」を感じたのは、祖父母や親の世代から1855年(安政2)の江戸安政大地震で江戸湾(東京湾)に来襲した津波について聞いていたからだろう。同地震は、活断層に起因する江戸直下型地震と想定されているが、湾内の海底で活断層が大きくズレたか、あるいは大規模な海底崩落(海底地すべり)が起きたかで、江戸湾岸一帯に津波が短時間で押し寄せている。また、津波は江戸の主要河川をさかのぼり、かなりの内陸部Click!にまで被害が及んでいたと伝承されている。
 劉生が家族を連れ、境川を越えたすぐ東側にある近めな丘陵地ではなく、アトリエからかなり距離のある北側の藤沢駅方面の石上(当初は東海道線の北側にある遊行寺の丘陵地帯が目的地だった)まで避難した際、境川には近寄らなかったのも江戸安政大地震の教訓を誰かから聞いて、劉生あるいは蓁夫人が知っていた可能性が高い。
 岸田一家は、石上の農家兼米店を経営していた親切な鈴木家に呼びこまれ、ここで震災が落ち着くまで避難生活を送ることになる。自宅の松本別荘13号は、和館だった母家はその後の余震で潰れたが、アトリエのある2階建ての洋館部分は倒壊をまぬがれている。そして、一家であと片づけをしている最中に、片瀬の写真館の主人が通りかかったため、倒壊した母家を背景に記念撮影をしてもらっている。同書より、9月7日の日記を引用してみよう。
  
 夕方鵠沼の町の方へ歩いてみた。兵隊が来てゐて米みそしよう油等売つてゐた。〇朝の中片瀬の写真屋が通つて購買組合を聞いたのでそれと分り、こわれた宅の前と二宮さんの仮居の前と、写真二枚づゝ写してもらつた。
  
 岸田劉生は、家族を連れてよく写真館に通っている。たいていは故郷の銀座7丁目にある子どものころから通いなれた、佐伯米子Click!の実家である池田象牙店Click!の向かい、土橋をはさんだ東詰めにある馴染みの江木写真館Click!だった。
 1923年(大正12)の劉生日記には、写真屋(写真館)が3店舗ほど登場している。1店めは、春陽会の図録ないしは絵はがき用の写真撮影のために、鵠沼のアトリエに通ってきていた東京の清和堂専属のカメラマンだ。2店めが、鵠沼の近所に開店していた神田写真館(戦後のカンダスタジオだろうか?)で、ときどき家族写真を撮らせていたようだ。なお、神田写真館は関東大震災のとき藤沢市街地の惨状を撮影しているのでも有名だ。そして3店めが、9月7日の日記に登場している片瀬写真館だ。
 片瀬写真館Click!については、同年の劉生日記にはもう1ヶ所登場している。東京へ出かけた同年7月8日の日記には、「新橋を十時三十八分の汽車で帰つたが汽車の中で酔つた奴が同車の片瀬の写真屋に怒つて少し乱暴などして気の毒であつた。不快な奴也。」と書きとめている。どうやら、酔っ払いにからまれている片瀬写真館の主人を見かけたらしい。したがって、少なくとも7月以前から片瀬写真館の創業者・熊谷治純のことを劉生は見知っていたようで、だからこそ倒壊した母家の前を通りかかった彼に撮影を依頼したのだろう。
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 片瀬写真館は1913年(大正2)の創業で、現在も片瀬の洲鼻通りで営業をつづけているが、創業者の熊谷治純が独立美術協会Click!熊谷登久平Click!の姻戚であり、岩手から東京へとやってきた熊谷登久平が同写真館を訪ねていることを、熊谷明子様よりうかがっている。

◆写真上:鵠沼の神田写真館が撮影した、関東大震災により倒壊した藤沢駅。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に建設社から出版された『鵠沼日記』<大正九年>の表紙()と中扉()。中左は、1979年(昭和54)に岩波書店から出版された『岸田劉生全集/第8巻/日記』。中右は、最晩年の岸田劉生。は、1923年(大正12)の春に制作された岸田劉生『竹籠含春』。数ヶ月にわたり劉生は「椿」をモチーフに制作しているが、同時期には鵠沼に椿貞雄が訪れたり劉生が上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)のアトリエへ遊びに寄ったりしているので、日記では「椿」の文字が氾濫していて面白い。
◆写真中下は、関東大震災の直前1923年(大正12)8月に鵠沼で撮影された岸田劉生と岸田麗子。は、岸田一家が目にしていた大正期の鵠沼の商店街風景。は、1923年(大正12)9月7日に片瀬写真館の熊谷治純が撮影した被災直後の岸田一家。
◆写真下は、関東大震災で倒壊した境川に架かる西浜橋。は、津波で全滅した海岸沿いの住宅街。は、地震による津波と隆起で壊滅した片瀬海岸通り。
おまけ
 岸田劉生一家の、松本別荘13号から石上までの想定避難コース。1946年(昭和21)の空中写真だが、劉生日記には「田の中に腹迄つかつて、逃れくる。」(9月1日)とあり、おぶられた小林さん(書生)の「股まで泥田につかりながら」避難したと岸田麗子『父 岸田劉生』にあるように、当時の石上周辺は家が少なく田圃だらけだったと思われる。また、同年撮影の空中写真にみる岸田邸の松本別荘13号跡地には、やはり同じような雰囲気の戦災をまぬがれた家屋が見えているので、昭和初期にも貸し別荘として建て直されていたのかもしれない。
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短編のうまさを感じる文化村の池谷信三郎。

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 目白文化村の第二文化村Click!に住んだ作家に、ドイツ留学の学生同士であり一高Click!の先輩だった村山知義Click!と親密な関係だった池谷信三郎がいる。ふたりは、一高時代から知りあっていたとみられるが、お互いの留学先がベルリン大学だったのでより親しくなったのだろう。池谷新三郎は、東京帝大を休学してベルリンにいったがのちに帝大を退学し、村山知義は東京帝大を中退してからベルリンへと向かっている。
 1923年(大正12)の関東大震災で、池谷の実家が被害を受けたためにベルリンから帰国したあと、ヨーロッパの新進芸術運動から影響を受けた戯曲や小説を次々と発表するようになる。特に1925年(大正14)には、ベルリンでの滞在経験をテーマにした『望郷』が、時事新報社の募集した懸賞小説に入選している。また、同年に村山知義たちと結成した演劇集団「心座」に参画し、戯曲『三月三十二日』を築地小劇場で上演した。翌1926年(大正15)には、戯曲の代表作ともいえる『おらんだ人形』を発表している。
 なお、時事新報社に連載された『望郷』の挿画は村山知義Click!が担当したが、あまりにも絵が斬新すぎて読者の不興をかい、連載の途中で降板させられている。だが、その後に出される池谷信三郎の『望郷』(時事新報社/1925年)や『橋・おらんだ人形』(改造社/1927年)などの著作は、村山知義による装丁で出版された。
 戯曲『おらんだ人形』は、当時のモダンなアパートメントClick!ですごす青年たちの、「恋愛の機微」を描いた1幕ものの会話劇なのだが、アメ車の「パツカアド」や女が会話するとき口にする小粒の「チヨコレイト」、卓上でナイトがすべるチェス盤、ボールによるテーブルマジック、会話に登場する銀座の喫茶店資生堂Click!など演出の道具立てはモダンで、当時としては斬新でカッコよかったのかもしれないが、これらの道具立てや書割(おそらくモダンな)を差し引いて舞台を眺めたら、伝統的でありがちな男女の「惚れた腫れた」劇をクールな感覚の会話で再現しただけ……のようにも思える。
 『おらんだ人形』の前年、1926年(大正15)にはベルリンを舞台にした主人公が外国人の小説『街に笑ふ』を逗子の海辺で執筆し、また翌1927年(昭和2)には同じくベルリンの外国人(おそらくドイツ人)を主人公にした小説『橋』を鎌倉で執筆している。特に後者の『橋』は、池谷信三郎が創作した代表的な短編といわれているが、『街に笑ふ』も含めて今日的な目から見ると、あまり出来がいいとも思えず内容が面白くない。主人公に外国人をすえて、異国の幻想的な街の風景を背景にしながら、不思議でつかみどころのないな味わいのする小説に仕上げているので、当時としては新鮮でめずらしく評判になった作品なのかもしれないが、現代からみると印象が散漫で読後の印象が希薄だ。
 たとえば滞日経験が数年のドイツ人作家が、日本人を主人公にして東京の街中をさまよわせたとしても、おそらくリアルで的確、深くて面白い物語が創造できるとは思えないのと同様に、どこかウソ臭さが鼻についてしまうのだ。ちょうど、昔日の米国やイタリア映画に登場する「日本人」たちのように、いったいどこの国に育ちどのようなアイデンティティを備えた人間なのか、“国籍不明”感が濃厚に漂うのにも似ているだろうか。
 少し横道にそれるが、観光客の外国人(特に欧米人が多いだろうか)が感謝して礼をいうとき、なぜか両手を合わせて拝む仕草をすることがある。東南アジア諸国などの宗教的な生活習慣とは異なり、日本では両手を合わせて人物を拝む慣習はおしなべて死者(ホトケ)に対してであり、「オレは仏教徒Click!でもないし、まだ死んじゃいねえぞ。無礼なことするな!」と、誰も彼らを注意をしないのだろうか?
 社会観や生活観がまったく異なる、外国人を主人公にすえるのであれば、おそらくはその国や街、地域に根づいて文化や風俗、習慣と密に同化しなければ、いくら幻想的な場面を多用したとしても、リアルな情景の創造や心理の描写はむずかしいのではないだろうか。
望郷1925.jpg 橋・おらんだ人形1927.jpg
遥かなる風1931新潮社.jpg 池谷信三郎1.jpg
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 これは別に外国と日本に限らず、国内の地方・地域においても同様だろう。以前の記事Click!にも書いたけれど、いくら自身の出自とは異なる地方・地域で長期間暮らしたとしても、その地方・地域の根にあるアイデンティティに同化していなければ(あるいは同化をどこかで拒否していれば)、当の地方・地域の住民から見ればトンチンカンClick!なことをいったり書いたりしているのに気がつかない。
 一所懸命に図書館や資料室に通って勉強しても、そこに記録されているのは粗いザルの目にひっかかったほんのわずかばかりな史的事実のみで、多くの文化や風俗、習慣、出来事は地方・地域ごとの家庭など生活の中で日々伝承され後世に残されていく。それに気づかず、すべてわかったような顔をして“お勉強発表会”のようなことをしても、その現場・地場の住民にしてみれば「??」となるのは当然のことではないだろうか。出来事は図書室や資料室で起きているのではなく、地方・地域のその現場で起きていることなのだというのは、拙サイトへ記事を書いていて痛感しつづけているテーマのひとつだ。
 池谷信三郎の小説には、むしろ故郷の東京を舞台にした作品に、今日的な目から見ても光る作品が多い。たとえば、エンディングが唐突で安易な尻きれトンボ感が強く、少し長くなっても登場人物たちの言動をていねいにすくいとり熟成させたほうがいいのではないかと思うのだが、下落合時代に書かれた中編の『花はくれなゐ』は、けっこう飽きずに最後まで読ませる作品だ。また、同年の短編『縁』や『郵便』も、途中から先が読めるような流れで最後はやはり安易な予定調和へと落としこんではいるが、物語のテンポや展開がH.モーパッサンやO.ヘンリーを彷彿とさせるような味わいを見せている。
 池谷信三郎は、村山知義Click!の「心座」が解散したあと、舟橋聖一Click!らとともに「蝙蝠座」へ参画するが、そのわずか3年後の1933年(昭和8)に結核が悪化し、若干33歳で死去している。残された彼の作品を読むかぎり、戯曲よりも小説のほうが面白く(ただし外国人が主人公の小説=ベルリンものは除く)、その後も活躍していたら短編の名手になっていそうな「未完の器」的な作家ではないだろうか。残念ながら、現代では池谷信三郎の作品に触れられる機会は非常に少なく、昭和初期に刊行された古書を手に入れるか、オムニバス全集の中にちらほら収録された代表作といわれる作品を参照するしかなさそうだ。
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 池谷信三郎は下落合1639番地、すなわち目白文化村の第二文化村(いまの感覚だと第一文化村か?)に、1927年(昭和2)9月から1929年(昭和4)まで住んでいる。下落合1639番地は広くない区画で、大きめな屋敷が2棟並んで建っていた。第一文化村から第二文化村へと、南西方面に抜ける広めの三間道路(センター通り)に面しており、同地番の角から西側の細い道をまがると、地元の住民たちが「オバケ道」と呼んでいた細い路地が、落合第四府営住宅Click!の境界に沿ってカーブをしながらつづいている。
 第二文化村が売りだされた当初、1923年(大正12)にこの敷地は早々に売れたとみられ、1925年(大正14)に作成された「目白文化村分譲地地割図」では、吉田義継邸(北側)と吉村佐平邸(南側)になっている。ただし、実際に住宅を建設していたか建設予定地のままだったかどうかは不明で、いまだ土地の購入者名を記載しただけだったのかもしれない。
 1926年(大正15)になると、「下落合事情明細図」によれば北側の吉田邸の敷地は空き地ないしは空き家だが、南側の吉村邸の敷地は石田義雄邸になっている。ちょうどこの時期に、池谷信三郎は郊外に家を探していたとみられ、下落合1639番地の北側の空き地に家を建てたか、あるいは空き家を借りるかして入居している可能性が高い。
 ちなみに、池谷信三郎が1929年(昭和4)に目白文化村から転居してしまうと、そのあとは「火保図」(1938年現在)によれば佐藤邸(北側)および松田邸(南側)に住民が変わっている。目白文化村は、長く住みつづける住民がいる一方で、大家が屋敷を賃貸ししていたところなどは住民名がコロコロと変わるため追いかけるのがむずかしい。また、池谷信三郎が目白文化村にいた時期は、金融恐慌から大恐慌へと世界経済が大混乱していた時代と重なるので、住民の移動や入れ替わりが激しかったのだろう。「東京都全住宅案内帳」(1960年現在)によれば、戦後は竹内邸(北側)と杉本邸(南側)に変わっていた。
 なお、池谷信三郎が目白文化村に住んでいた1929年(昭和4)、おりからの円本ブームClick!から平凡社がシリーズで出版していた「新進傑作小説全集」の第2巻が、『池谷信三郎集』として世にでている。ちなみに、第1巻は『犬養健集』で第3巻が『佐々木茂索集』、第4巻が『横光利一集』、第5巻が以前にもご紹介した『片岡鉄兵集』Click!だった。
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 昭和に入ると、池谷信三郎は文芸誌へ作品を次々と発表していき、中河與一Click!や石浜金作、菅忠雄、川端康成Click!などと懇意になる。だが宿痾の結核は、おそらく自身が満足する作品を残す時間を与えてはくれなかった。なお、文藝春秋Click!菊池寛Click!は、1936年(昭和11)より早逝した彼を記念して、文芸誌「文学界」に池谷信三郎賞を設置している。

◆写真上:下落合1639番地にあった、第二文化村の池谷信三郎邸跡(道路左手)。
◆写真中上は、1925年(大正14)出版の池谷信三郎『望郷』(新潮社/)と、1927年(昭和2)出版の同『橋・おらんだ人形』(改造社/)。ともに、村山知義の装丁・挿画による。は、1931年(昭和6)出版の同『遥かなる風』(新潮社/)と、著者の池谷信三郎()。は、1927年(昭和2)上演の心座『スカートをはいたネロ』の舞台。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に平凡社から出版された「新進傑作小説全集」シリーズの『池谷信三郎集』()と著者のサイン()。中左は、1925年(大正14)作成の「目白文化村分譲地地割図」にみる下落合1639番地。中右は、ちょうど池谷信三郎が住んでいた1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる同番地。は、西洋館とみられる住宅の形状がよくわかる1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同地番。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合1639番地界隈。は、『池谷信三郎集』(平凡社)収録の著者プロフィール。は、死去する少し前に文学仲間と撮影した記念写真で、左から池谷信三郎、中河與一、石浜金作、川端康成、菅忠雄。

明治の近衛旧邸と昭和の近衛新邸との間に。

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 下落合に建っていた近衛邸の推移としては、まず近衛篤麿Click!が1895年(明治28)に学習院の院長へ就任するのとほぼ同時期に、下落合417番地の広大な敷地へ自邸(近衛旧邸Click!)を建てて住んでいる。次いで1904年(明治37)に近衛篤麿が死去すると、跡を継いだ12歳の近衛文麿Click!が同邸に家族とともに住み(京都帝大の学生時代を除く)、1922年(大正11)に学習院の学友だった三宅勘一Click!が常務取締役をつとめる東京土地住宅Click!へ依頼して、近衛旧邸の広大な敷地で近衛町Click!の開発を推進している。
 つづいて、近衛文麿は1924年(大正13)の暮れに、麹町へ250坪ほどの新たな邸を建設して転居するが、数年でイヤになり下落合へともどってくる。近衛文麿の次男である近衛通隆様Click!(藤田孝様Click!による)の証言によれば、市街地の麹町では交通の便がよすぎて日々訪問客が絶えず、家族全員が応接に疲れてウンザリしてしまったとのことだ。こうして、麹町へ転居してからほどなく下落合436番地へ改めて新邸建設を計画し、1929年(昭和4)11月に竣工(近衛新邸Click!)すると同時に、再び下落合へともどってきている。
 だが、上記の転居の推移には、わずかながら“すき間”があることにお気づきだろう。1922年(大正11)に、近衛町の開発がスタートすると同時に近衛篤麿が建てた大きな近衛旧邸は解体されている。そして、1924年(大正13)に麹町の新居へ移るまでの2年間余、近衛一家は下落合のどこに住んでいたのかというテーマだ。そしてもうひとつ、近衛文麿が転居した麹町時代の期間でも、下落合には近衛邸がなくなることなく継続して存在している。おそらく、篤麿の後妻である貞子夫人をはじめ、文麿の姉・武子や秀麿Click!、直麿、忠麿ら兄弟たちが暮らしつづけていたものだろう。
 たとえば、1925年(大正14)に作成された「豊多摩郡落合町」の地図では、目白中学校Click!の南側に広い「近衛邸」の敷地が採取されている。また、目白中学校Click!練馬Click!へと移転したあと、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、目白中学校の跡地を含めた区画全体が「近衛邸」として記載されている。
 さらに、近衛新邸が竣工する直前の1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」では、北の目白通りから目白中学校跡地を南へ下る道筋と、東側の近衛町通りから西へと入る道筋とが描かれた「近衛邸」が採取されている。地番でいうと下落合432~456番地にまたがる広い敷地だが、これは同年11月に下落合436番地に竣工する近衛新邸ではなく、それ以前の近衛邸が建っていた敷地および地番を採取しているものだ。
 そして、1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、下落合1丁目436番地(現・下落合3丁目)の近衛新邸が採取されているが、1929年(昭和4)の「落合町全図」よりもかなり東寄りの敷地であり、ちょうど舟橋了助邸Click!夏目利政アトリエClick!の北側一帯にあたる。ネームも「近衛別邸」として記録されており、これは前年の1937年(昭和12)に文麿が荻窪の「荻外荘」Click!を手に入れて住むようになっていたからだが、当初は下落合が本邸であり、より郊外の荻外荘は別邸(別荘)だったはずだ。ひょっとすると、交通の便がよくなった昭和初期には、麹町時代と同様に下落合への訪問客が急増したため、荻窪に引っこんですごす時間が急激に増え、ほどなく荻外荘が“本邸”になってしまったのかもしれない。
 さて、近衛篤麿が1895年(明治28)ごろに建設した近衛旧邸(和館)と、近衛文麿が1929年(昭和4)に麹町邸から避難するように建てた近衛新邸(西洋館)とは、地図類に邸の形状が具体的に描かれ、また写真類も撮影されて残っている。特に近衛新邸は、昭和期に入って清水組(現・清水建設)により建設されているので、邸の外観や内観、平面図などの図面類もよく保存されている。だが、近衛旧邸が解体された直後から近衛新邸が竣工するまでの期間、年代的にいえば1922年(大正11)から1929年(昭和4)までの約7年間、目白中学校とその跡地の南側にあった“過渡的”な近衛邸の様子が、これまでまったくわからなかった。
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 ところが、わたしの手もとにある地図類では唯一、1922年(大正11)9月に都市計画東京地方委員会によって測量・作成された1/3,000地形図をベースにしているとみられるが、その補修版を戦後になって出版した日本地形社の地図の1枚に、目白中学校の南側に建っていた広い近衛邸の建物群が採取されているのに気がついた。従来は、近衛文麿が建てた近衛新邸だと思いこみ見すごしていたのだが、よくよく観察すると下落合432~456番地にまたがる敷地に、母家を中心とした建物群が採取されている。
 都市計画東京地方委員会による1/3,000地形図は、その後1926年(大正15)9月をはじめ何度か補修をされているが、戦後になると先述の日本地形社が補修を引き継いでいるようだ。近衛旧邸の解体から近衛新邸の建設までの期間、わずか7年ほどしか存在しなかった幻の近衛邸だが、採取されていたのは戦後の1947年(昭和22)に日本地形社が補修した1/3,000地形図だった。ただし、1926年(大正15)時点での1/3,000地形図には、下落合432~456番地はすでに斜線表現(住宅街)で描かれているのに、なぜか1947年(昭和22)の同図では、大正中期から同地番にあった近衛邸が“復活”している。
 さらに、同地形図は不可思議な特徴を備えており、1929年(昭和4)に近衛新邸が竣工するとともに、邸は解体され敷地も分譲されてしまったはずの、上記の“過渡的”な近衛邸がそのままなのをはじめ、1925年(大正14)には中野広町へ転居してしまったはずの相馬邸Click!(大正中期の姿)が克明に描かれていたり、近衛町Click!がいまだ開発直後(1922年)のように描かれていて、住宅がほとんど採取されていないなどおかしな点がたくさんある。
 では、1922年(大正11)現在の家々や施設はそのままに、鉄道や道路の表現だけ最新のものに変えているだけかと思いきや、目白通りはいまだ拡幅前の状態だし、下落合の北側に接した戸田康保邸Click!が1934年(昭和9)に転居してくる徳川義親邸Click!になっていたりする。神田川は、直線整流化工事(1935年前後に実施)が行われる以前の蛇行したままの姿で、1927年(昭和2)に開業する西武電鉄Click!は描きこまれている。
 そうかと思えば、下落合の北側に拡がる街は目白町ではなく、大正期の雑司ヶ谷旭出や長崎村、西巣鴨町のままであり、敗戦直前に廃止された武蔵野鉄道Click!上屋敷駅Click!がそのまま描かれている。目白福音教会Click!の周囲は草原や空き地だらけでほとんどの住宅が未採取だが、東邦電力による林泉園住宅Click!は細かく描かれれており、1932年(昭和7)に開校した落合第四小学校Click!も採取されている。
 要するに、大正の中期から後期と昭和の最初期、昭和10年代から戦時中、そして一部は敗戦後の情報までが混在し、メチャクチャな表現になっているのが1947年(昭和22)に補修された(?)1/3,000地形図ということになる。換言すれば、大正後期から昭和の最初期にかけ、いずれかの時点で記録された約7年間しか存在しなかった“過渡的”な近衛邸をそのまま残して、戦後に“先祖返り”表現になってしまっているのが同地形図の特異性なのだろう。
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 さて、当の近衛邸の様子を仔細に観察してみよう。まず、下落合432~456番地の敷地には北側と西側、そして南側には塀がめぐらせてあったようで、正門は目白通りから南へと下る突きあたりに設置されている。ただし、目白中学校が練馬へ移転する以前は、近衛邸の北側は同中学校のキャンパスになっており、このような道路や正門は存在しなかったはずだ。したがって、同地図の表現は移転後の1926年(大正15)から、近衛新邸が竣工する1929年(昭和4)までの姿をとらえたものだろう。それまでの正門は、近衛町通りに面した東側に設置されていたとみられ、実際に東側にも旧・正門らしき門が描かれている。
 敷地内には、大きな母家の建物が採取されているが、目白通りをはさんだ徳川義親邸の母家とそれほど変わらないサイズだが、御留山Click!に建っていた相馬邸の母家に比べると半分ほどの規模だろうか。西洋館か和館かは不明だが、広大な近衛旧邸の家族や家令たちのことを考慮すると、2階建ての西洋館ないしは和洋折衷館だったのではないだろうか。母家の東側、正門のすぐ右手には大きな蔵があり、母家の南東側には家令たちの住居だろうか、東西に細長い建物が建っている。また、母家の西北側にも小さな(といっても通常の住宅1軒分ぐらいはある)物置きのような建造物が確認できる。
 近衛邸の西南北側が塀で囲まれているのに対し、東側に連続する塀が存在しないのは、当初は東側にも塀が設置されていたものの、近衛文麿一家が麹町から再び下落合へともどる近衛新邸の建設計画が具体化しており、その工事計画が進捗していたために取り払われていた……とも解釈できる。すなわち、描かれている約7年間しか存在しなかった近衛邸は、1929年(昭和4)11月の近衛新邸が竣工する直前、1928年(昭和3)ごろの姿ではないかと想定することができそうだ。わたしの手もとにある地図を観察する限り、この幻の近衛邸の具体的な姿をとらえた地図は、日本地形社の1/3,000地形図(1947年補修版)のみとなっている。
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 固定観念とは怖しいもので、戦後1947年(昭和22)補修の1/3,000地形図には「空襲で焼けたはずの近衛新邸が、削除・修正されないまま残っている」と思いこんで疑わなかった。何気なく地図類をひっくりかえして眺めていたら、松本清張の『Dの複合』の主人公のように「あれっ?」と気がつき、描かれている近衛邸が明らかに近衛新邸の形状とは異なるのを発見したしだいだ。こういう思いこみがないかどうか、先入観によりフィルタリングされた観察をしていないかどうか、さまざまな資料を改めて見直してみる必要がありそうだ。

◆写真上:1929年(昭和4)11月に竣工した、下落合436番地の近衛新邸の正門跡。この門は、約7年間しか存在しなかった“過渡的”な近衛邸の門跡でもある。
◆写真中上は、下落合417番地の近衛旧邸で撮影された近衛篤麿の家族。左から近衛直麿、近衛貞子(近衛篤麿夫人)、武子、文麿、秀麿、忠麿(手前)。は、1929年(昭和4)に竣工した下落合436番地の近衛新邸。は、1934年(昭和9)に近衛新邸の応接間で撮影された近衛家の娘たち。左から右へ近衛温子、近衛昭子Click!、近衛秀麿。
◆写真中下からへ、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる近衛旧邸、1925年(大正14)の「豊多摩郡落合町」にみる約7年間しか存在しなかった近衛邸、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる目白中学校移転後の同邸表現、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる同邸、そして1938年(昭和13)の「火保図」にみる近衛新邸。
◆写真下:いずれも1922年(大正11)測図1947年(昭和22)補修の、1/3,000地形図(日本地形社)の記載表現。からへ、約7年間しかなかった近衛邸とその建物群の拡大、ほぼ開発当初と変わらない姿のままの近衛町、1925年(大正14)に転居したはずの御留山の相馬孟胤邸、そして下落合に接して建つ徳川義親邸。いちばんは、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合436~437番地の近衛新邸と下落合432~456番地の“過渡的”な近衛邸跡。