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中村彝Click!の結核を治療するため、福田久道Click!が連れてきた修験者のような男は、天狗のような下駄をはき、異様な風体でアトリエClick!を訪れた。正座をする彝の前で、曾宮一念Click!によれば「ギャアー!」とか「ギョッ!」という奇声を発して、体内の結核菌を「殺す」施術をしている。福田が紹介したこの行者が、いったいどこからやってきたのかがきょうのテーマだ。
実は、大正期の落合地域では木曽の御嶽信仰を思わせる、このような行者の姿はめずらしくない。彝アトリエにおける行者や、巫女の邪気祓いについては以前にも記事Click!にしている。少しでも病状がよくなって制作をつづけたい彝の、ワラにもすがる思いが感じられる逸話なのだが、結核が不治の病とされた当時としては、それほどめずらしくない光景だ。その様子を、今度は1989年(昭和63)出版の鈴木秀枝・著(曾宮一念・跋)『中村彝』(木耳社)から引用してみよう。
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下落合に移ってまもない頃、福田久道の紹介で気合術の施療師がしばらく彝の家を訪れた。豪傑的な風貌をもったその男は、合掌して座る彝の前で「ヤァーッ」というかけ声をかけ身体を細かく震わせた。/また一時、「巣鴨の神様」と称せられた「至誠殿」を頼った。老女の巫女が落合にまで出張し、端座した彝の前に御神体と称するガラス玉を置き、なにやら大声で呪文を唱えた。そしてそれに倣って彝は恭々しくその霊玉に拝礼をくり返した。後年その「至誠殿」は警察の手が入り、その御神体の霊玉は東大地質学教室の鑑定の結果、ラムネの玉が地中に埋まって変色したものと判り、教祖は獄者に繋がれた。/さらにある時は守宮(やもり)のように壁に貼付くことができる術者が来たり、成蹊実務学校長中村春二の紹介で、その夫人が悪阻で苦しんだ時、効果があった悪阻専門の医者が小石川から来たりした。
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成蹊学園の校長・中村春二でさえ、透視術に凝っていた大正時代だ。中村彝が、「ひょっとしたら」とさまざまな民間施術にのめりこんだとしても、誰も笑えないだろう。
さて、このような重篤な病気や様子のおかしい人物が現れ、西洋医学がまったく無力だと判明した場合、この地域の村々では盛んに江戸期からつづく加持祈祷が行なわれている。まず、患者が出た付近の寺社から、僧侶や宮司が出張してきて読経や魔祓いが行なわれる。精神的なものであれば、当時の人たちはこれだけでずいぶん落ち着いたようなのだが、それでもダメだとわかると、より「霊験あらたか」な専門家の登場となる。
精神的に不安定になった人物、たとえば鬱病やノイローゼ、被害妄想などの患者が出ると、当時は真っ先に“狐憑き”が疑われた。人間にとり憑いたキツネを追い払う、いわゆる“狐落とし”が専門の家系が、この地域にもいくつか存在している。“狐落とし”の専門家が出張して、加持祈祷を行なう場合が多いが、この地域ではやや事情が異なる。“狐憑き”が出ると、床の間に掛けておくだけでキツネが嫌がって逃げだす、“狐落とし”の軸画が伝わる家があった。軸画が伝わっていた、“狐落とし”が専門の家の証言を、1987年(昭和62)に発行された『中野の文化財No.11/口承文芸調査報告書・中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会)から引用してみよう。
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うちの狐落としの掛け軸を持って、狐憑きの家ぃ行くと、「わー、こわいものが来たぁー」と言って、飛び出してくる。狐憑きが。それほど威力のあった、ありがたいお掛け軸が・・・。/私はね、えー、その、落とすところは、自分では見ません。おばあさんが、それは話して、そういうお掛け軸なんだよって。だから、狐が憑いたらば、金子さんのところの、お掛け軸を借りてくると治るよというようなことを言われて、狐落としの掛け軸であったということは伝わってるんです。/それで、大正十五年に使いました、いよいよ。これは、私の代で使った。私が中野の氷川神社に、大正十四年から勤めていたときに、十五年の年にですね、実は、世田谷の方で、狐憑きができちゃったんです。/で、その狐が言ったんだそうです。中野の氷川神社へ行けばねぇ、落ちるって言ったんだって。ええ。中野の氷川神社へ行けば、狐が落ちるって言ったんだそうです。(後略)
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そこで、この人物は家に伝わる掛け軸を、中野氷川社の宮司に持たせ、世田谷の“狐憑き”の家までとどけるのだが、それで狐はパニックになって逃げだし「病気」はあっさりと平癒したらしい。ちなみに、この掛け軸に描かれた絵柄がどのようなものだったのかは不明だ。
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このような、ある筋の専門家でも手に負えない「重病」患者ということになると、最後の切り札として登場するのが、当時は最強の「エクソシスト」だった、彝アトリエにも出入りしたらしい御嶽信仰の修験者だった。この周辺域で、もっとも強力な施術を行なう修験者は、御嶽講(木曽系)が発達した石神井村(現・練馬区)におり、下石神井の御嶽社がその信仰の中心だったようだ。仏教とも神道ともとれる、独特な山岳宗教をベースにしている御嶽大神への信仰は、江戸後期に郊外の農村地帯へと浸透している。行者は、まさに天狗のようないでたちで闊歩し、医者でも神主でも坊主でも治らない不治の病人のもとへ呼ばれてやってきた。でも、こんな突飛ないでたちでやってくる行者を見ただけで、あるいはその奇妙な叫び声(気合い)を聞いただけで、精神的なものならビックリして“正気”にもどってしまいそうなのだが・・・。
その悪霊退散の祈祷は、おそらく病人を寝かせるか正座させるかして、九字切りをくり返し気合いを入れる所作だったのではないかと想定している。この場合の九字切りとは、密教の僧がくり出す真言ではなく、陰陽道をベースとした神道の「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(じん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)」だったろう。九字を唱える場合、最初の「臨」と最後の「前」に力をこめ、気合いとともに祓う動作を反復する祈祷術だ。彝アトリエへやってきた行者も、同様の祈祷をしていたものと思われる。再び、中野区の資料から引用してみよう。
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狐がおなかん中入ってね、狐祓いしたなんていう話は聞いてます。/生米食べてしょうがないってね、袂の中へ米を入れてね、生米をバリバリバリバリ食べるんですって、娘が。(中略) この辺では、お御嶽さんの行者ってのがいましてね、土地の人がほとんどそれやって、石神井の御嶽さんていう、木曽の御嶽さんの分社でやってたんですけどね。
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ちなみに、練馬地域における民俗宗教の展開では、1987年(昭和62)に出版された『練馬区小史―練馬区独立四〇周年記念―』によれば、地域の代参講として代表的な富士講や大山講のほかにふたつの講、すなわち御嶽講(木曽)と御嶽講(青梅)が記録されている。下石神井の御嶽社は、練馬というよりは杉並に近い位置にあり、現在の最寄駅は西武新宿線の上井草駅だ。
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1919年(大正8)の夏、中村彝が平磯へ静養に出かけ、下落合の彝アトリエの留守番をしていた福田久道は、近所でこの行者のことを耳にはさんで興味をもったのではないだろうか。そして、自身が石神井村の御嶽社へ出かけたか、あるいは人を介して紹介してもらったのかは不明だが、天狗のような格好をした御嶽の行者を、中村彝のもとへ連れてきているのではなかろうか。
◆写真上:下石神井にある御嶽社の境内には、まるで天狗のような行者の石像が建立されている。彝アトリエにやってきた行者も、このようないでたちをしていたのだろう。
◆写真中上:福田久道の招きで、御嶽の山岳行者らしい格好をした人物が訪れ、気合いとともに加持祈祷を行なった中村彝アトリエ(左)と、岡崎キイが暮らした三畳間和室(右)。
◆写真中下:保栄堂の英泉『木曾街道/薮原/鳥居峠硯清水』で、鳥居峠で一服して風景を楽しむ旅人を描いたもの。右手に見えるのが、江戸期に山岳信仰が盛んだった木曽御嶽山。
◆写真下:下石神井御嶽社の様子で、あちこちに御嶽講や御嶽大神の石碑が並ぶ。